きゃんでぃ
会社を出ると、早春だというのに雪がちらつきだしていた。
――寒くてお腹が減ってると、余計に涙が出るんやで。
ポケットを探る。ガサゴソと幾つかの『飴ちゃん』が返事をする。無造作に掴んだそれをろくに見もせずに包みを破って口の中へ放り込む。包みを見て何味か確認したところで、涙と鼻水が邪魔して甘さ以外の味なんてわからない。
口の中でじんわり溶け出す糖分がまどろっこしく、余計に涙を誘いそうなのでガリガリと噛み砕く。噛み砕いたそれは尖って頬の内側に突き刺さるが、それも次第に溶けて甘い味とともに丸くなる。
口の中でその存在が消えてなくなる前に次の『飴ちゃん』を放り込む。先程とにわかに違う酸味や甘さがまどろっこしく口の中に広がる
噛み砕き、飲み込む。
それを何度か繰り返して、ポケットの中から取り出せるのは包み紙だけになった。
――ゴミは道に捨てたらあかんで。ポケットにしまっとき。
東京の街にはゴミ箱がやたら少ない。捨てたいものはたくさんあるのに、捨てる場所の無い街。
涙を拭き、洟をかんだティッシュと共に包み紙をポケットの奥に押し込んだ。
風邪が悪化したと嘘をついて早退した会社。同僚達は仮病と知っていても何も言わなかった。
婚約が破談になった自分への同情が更に辛さを倍増させる。
――辛い時は飴ちゃんや。飴ちゃんに助けてもらお。飴ちゃんで笑顔になりや。
お母ちゃんは嘘つきや。
今まで一度だって『飴ちゃん』はアタシを助けてはくれなかった。
父が亡くなって母子家庭になり、大阪から東京へ引っ越してからは友達も少なく、普通より少し寂しさが多かった思い出の傍には、どれにも『飴ちゃん』がある。
痛かった予防接種。
ビリになった運動会。
一人でお母ちゃんの帰りを待つ夜。
身長がお母ちゃんと並んでも『飴ちゃん』は変わらず傍にあった。
失恋に終わった初恋。
失敗した大学受験。
大きくミスった仕事。
天涯孤独になったお母ちゃんの死んだ日。
どれも『飴ちゃん』は助けてくれなかった。
結婚寸前に淳也に婚約破棄された今日。
やはり『飴ちゃん』は笑顔にしてくれない。
出来るわけがない。
――東京は『飴ちゃん』言わんて。『きゃんでぃ』やて。ちいちゃい子に言われてしもたわ。それなら「きゃんでぃおばちゃん」て呼んでもらわな、なあ。
ケラケラと笑う母。派手な端布で縫った「飴ちゃん袋」
母の姿を見つけると、近所の子供たちはすぐに集まってきた。
――みんな一つずつ、仲良くな。
この飽食の時代に母の飴ちゃんは、幼い子供達に何を味合わせていたのだろう。
子供たちの笑顔。
そこにはアタシが味わったことのないものがあったのだろうか。
携帯が鳴った。知らない番号だ。
バックの中で何度か甲高い着信音を響かせ、切れた。しばらくするとまた甲高い着信音を響かせ、切れた。
今、電話に出る気など全く起きない。
どこか遠くのほうで救急車のサイレンが聞こえた。目蓋の裏側に母の最期の日が浮かぶ。
「口の中から飴玉が出てきましたが、喉に詰まらせたようではありませんでした。死因は心筋梗塞です。万が一の時の為にニトログリセリンを処方されていたようですが、発作時には持ち合わせていなかったのでしょう」
ご愁傷様でした、と静かに告げると医師は霊安室を出て行った。
ニトログリセリンは母の財布にいつも入っていたはずだ。なんで口から出てきたのは薬でなくて飴ちゃんなの。どうして薬を飲まなかったの。
けれど病院のひんやりとした一室で、白い布の下の母の顔は少しも苦しそうではなかった。
飴ちゃんで天国に行けるならアタシもそうしたいよ、お母ちゃん。
淳也との結婚が無くなってしまったよ。
アタシはまた一人ぼっちや。
携帯は三度目の着信を響かせた。今度も出ることなく、切れた。
涙はぽたぽたと落ちて、肩と背中を震わせた。人に見られないように俯いて、駅までの短い道のりに足を早めた。
涙は止まりそうにない。少しずつ増えていく雪に涙が隠れればいいのに。
「携帯、出てくださいよ。美加さん」
顔を上げ振り向くと、今一番会いたくない女がそこに立っていた。
淳也の子供を腹に宿している早苗は雪がちらつく中、会社の制服のまま上着も羽織らず走ってきたように白い息を切らしていた。「追いかけながら何度もかけました」と、片手には開いたままの携帯電話が握られていた。
アタシは何も言わず向き直り、再び歩き出した。婚約者を寝取り、妊娠までした女と何を話せと言うのか。
「待って。さっき淳也君から式場をキャンセルしたって聞いて」
震えた。涙のせいではない。
「あなたのせいでしょう」
震えるほど怒りが込み上げているのに涙声の自分が情けない。
「そうですね、でも」
早苗の声も震えていた。
「私、淳也君と結婚しませんよ」
「淳也の子供、妊娠したんでしょう?どうする気よ」
「淳也君の子供ではありません。篠原主任の子供です」
なによ、それ。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「淳也君の子供を妊娠しちゃたって母子手帳を見せたら、信じちゃって」
拳で人を殴ったのは生まれて初めてだ。勢い余って前へ倒れた。地面に手をついて初めて雪がうっすら積もり始めていることに気がついた。
早苗は殴られたというより突き飛ばされたように後ろへ転んだ。
「ごめんなさい」
早苗は子を宿している自分の腹を気遣うこともせず、すぐに起き上がり、地面に突っ伏したままの私を起そうとした。
「触らないでよ」
早苗を振り払い、自分で立ち上がって彼女を睨み返すと、小さく震えている早苗の目には涙があった。
「ごめんなさい。さっき淳也君にも本当のことを話したの、だから」
「だから何よ。それで何も無かったことになるの?」
「ならない。でも聞いてください。淳也君も私も、不安だったの。『飴ちゃん』が欲しかっただけなんです。それだけは分かってください。
淳也君、不安な時は『飴ちゃん』だって言ってた。美加はいつもそうしてるって。でも、本当は飴ちゃんなんかなくてもアイツは強いんだって」
淳也、アタシは強くなんかないよ。だからいつも『飴ちゃん』を持っていたのよ。
「男の人にもマリッジブルーってあるのね。淳也君は美加さんのことを本当に幸せにできるのか心配だったみたい。
私も篠原主任の子供を妊娠したってわかって、動揺してしまっていて。篠原主任、奥様と別居しているけど離婚はしていないし、堕ろしてくれって言われそうで。誰かに頼りたかった。誰でも良かったわけではないけれど、淳也君なら優しい言葉をかけてくれそうだったから」
「だから淳也を騙したの?最低」
「ホント、最低ですね」
早苗の声は更に震えた。
「淳也くん、黙って『飴ちゃん』くれるんです。さっき本当のことを話した時も。美加さんのこと、好きなんですね。当たり前ですよね、わかってます」
誰だって、何かに頼りたい。
守られたい。
慰められたい。
励まされたい。
甘えたい。
寂しくて、心細くて、泣きそうな時。
目の前に居る誰かは『飴ちゃん』に見えるのだろうか。
それは優しい甘さをもたらし、心を楽にしてくれるのだろうか。
でもそれが溶けてなくなった時、気が付くんじゃない?
ああ、やっぱり自分は一人なんだって。
誰も助けてなんてくれない。
『飴ちゃん』なんて――。
――飴ちゃんで笑顔になりや。
お母ちゃん。
――笑顔になったらまた頑張れる、大丈夫や。
お母ちゃん。
――たまには酸っぱいのもええよ。そのあとの甘いもんは美味いで。
お母ちゃん――。
いつしか涙は激しくなり、堪えきれずに声を上げて泣いた。
「美加さん、はい、飴ちゃん」
早苗が差し出した手の上には飴ちゃんがのっていた。イチゴミルク。
「東京は『飴ちゃん』言わん。『きゃんでぃ』や」
早苗から差し出されたイチゴミルクを受け取り、口に入れた。
「そうですね」と言い、早苗もイチゴミルクを口に入れた。
やはり口の中でじんわり溶け出す糖分がまどろっこしく、余計に涙を誘いそうなのでガリガリと噛み砕いた。イチゴミルクの甘さと酸っぱさの両方が口の中に一気に広がった。
「早苗さん、会社に戻って。寒さはお腹の子供に悪いわ」
早苗は小さく頷いた。
「式場…」
会社へ戻りかけた早苗は振り返って言った。
「キャンセルのキャンセル、してくださいね」
春の雪はさきほどより強く降り、街を白く覆い始めた。
噛み砕いたイチゴミルクはもう口の中に残っていない。
淳也に電話をかけた。淳也は電話に出ることなく留守電に切り替わった。
メッセージを入れた。
「淳也、引き出物なんだけど、『きゃんでぃ』に変えてくれる?」
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