キラキラ
「ウチに来てよ。カナコの好きな林檎のブレッド焼いたから」
リエはいつもと変わらないけれどアタシには危険な予感がしていた。しかし断る理由も無い。
「いいよ、バイトが二時半に終わるから、その後行くね」
リエとの関係は親友というより幼馴染みという言葉が合うと思う。なにしろ保育園から二十年来の友達なのだ。
いつからかアタシにとってリエは憧れの存在だった。その密かな想いを心の奥に閉じ込めリエを追いかけるように過ごしてきた。
リエはいつもアタシの少しだけ先をいく。誕生日は二ヶ月早く、初潮は半年早く、彼氏ができたのは一年早く、初体験も一年早い。
そしてリエは美人だ。
白くてすべすべした肌、サラサラした長い髪、大きな瞳と長い睫毛、つややかな唇。
ずっと触れてみたいと思っていた。女同士といえど、それらに触れることは滅多に無い。
ごくたまに手を繋げば心臓がドキドキする。足が宙に浮いたようになる。
幼い頃にこんなことは無かったはずだ。この想いは何なのだろう。
「なんだかね、つまらなくなっちゃってサヨナラしちゃった」
リエの何人目かの彼の話を聞きながら林檎のブレッドを食べた。砂糖を控えすぎて物足りないでしょう、と食べかけのブレッドにシナモンシュガーを振り掛ける。
「何が足りなかったの?」
「お砂糖」
「じゃなくて、サヨナラした彼」
「んー、それも同じ。甘くてキラキラしたもの」
ふうん、と答えながらリエと手を繋いだ時の感覚を思い出した。あの感覚をリエが男に感じていないことに安堵する。
リエの住むマンションの小さなリビングの小さなソファーで二人並んで座っている。何も起きない無いこの状況に、何かを起したいアタシの中の何かがうずうずしている。
「中学生とかさ、高校生くらいの頃って、なんでもキラキラしてたよね」
「キラキラ?」
「楽しかったんだ、毎日。カナコは楽しくなかったの?」
「楽しかったよ」
「そっか。よかった。今もキラキラしてる?」
「どうかな。キラキラって何なのか忘れちゃったかも」
林檎のブレッドを食べ終えると「もう一杯コーヒー淹れるね」とリエはソファーを離れた。
アタシはリエに触れるタイミングを失ったが、どこかでそれを安堵した。
決して食べてはいけない禁断の果実。
あれは林檎だったかな。
旧約聖書のアダムとイブはそれを食べてどうなったんだっけ。
「ねえカナコ。アタシのこと触りたいでしょう、触ってもいいよ」
ドキリとした。
戻ってきたリエはコーヒーを一口啜り、右隣りすわるとアタシの左手を掴んで自分の頬に触れさせた。そのすべすべして柔らかくて暖かい感触にゾクゾクした。その手を唇まですべらせリエはアタシの人差し指を咥えた。
「キラキラしようよ」
舌が指を絡める。ゾクゾクしたものが指先から心臓にまで達すると、鼓動の速さと心音はMAXになった。その瞬間、自分でも信じられない言葉と行動が飛び出した。
「止めてよ、気持ち悪い!」
リエを振り払ってソファーを立った。
「ご、ごめん」
泣き出しそうなリエを見ても心は痛まなかった。キラキラしたものなど見えない。何も言わずそのままマンションを出た。
リエの行動にぞっとした。
アタシの指を咥えたリエの眼は生々しかった。愛とか恋とかキラキラとか、そういうものからかけ離れた全く違うものだ。アタシの憧れのリエではない。
禁断の実を食べるとはこういうことだ。
現実を思い知り、ギャップに苦しむ。ずっと近くにいたリエはずっと遠くになった。そういう予感はしていた。気がついていたんだ、こうなることを。
それから約一年間、リエとの連絡は途絶えた。
喧嘩すらしたことの無かった二十年来の友情はいとも簡単に壊れた。
店に林檎がたくさん出回る季節になるとあのブレッドが食べたくなる。けれど焼いてくれる人がいないので、不器用ながら自分で幾度か挑戦した。なんとか焼きあがるものの、甘すぎたり林檎がベタベタになったりで上手くいかない。
リエの焼いた林檎のブレッドはどんな風だったっけ。
そのブレッドの味を思い出す度、あの指に絡められた舌の感触と眼の生々しさを思い出し身震いする。
林檎のブレッドだけではない。アタシの過去の思い出のほぼ全てに幼馴染みであるリエは登場するのだ。リエが言っていたようにそこはいつもキラキラしている。けれどそのキラキラは以前とは違い、切ない光を放つ。何かを思い出す度、その切なさが胸を締め付ける。
メールをするか迷い、打っては削除を繰り返した。もう二度と連絡は取らないだろうと思っていた。仲直りは出来ないかもしれない。しかしこのままでは何とも後味が悪い。
なんて言ったらいい?あの時はごめんなさい、とか。いや、どうして謝る。受け入れられるわけではないのに。
自問自答を繰り返して一年が経った頃、バイトから帰ると家の前にリエが立っていた。
「お、おかえり。林檎のブレッド焼いてきたの」
リエの無理矢理作った笑顔は引き攣り、脚は震えていた。
ブレッドの入った紙袋をアタシに手渡すと「じ、じゃあね」と帰ろうとした。
「上がっていきなよ。コーヒー淹れるから」
アタシの焼いたものとは格段に違い、ふんわりと綺麗な形に盛り上がったブレッドはナイフを入れると林檎の甘酸っぱい香りが広がった。
コーヒーのカップを持ったままリエは俯いて動かなかった。
「コーヒー、冷めちゃうよ」
声を掛けると、リエの膝の上にポタポタと涙が落ちた。
「ごめんなさい。ずっと謝ろうって思ってたんだけど、怖くて謝れなくて」
もういいよ、と返事をしたがずっと溜めていたものが吹き出すようにリエは泣き止まなかった。
「変なことしてごめんなさい。アタシ、カナコのこと好きで、大好きで。男の子と付き合ってもカナコと遊ぶ時みたいに楽しくないの。アタシ、百合とかレズビアンとかそういうんじゃないけど、カナコのこと大好きで傍にいて欲しくて、昔みたいにずっとキラキラしていたくて」
返事はしなかった。切なくて出来なかった。
多分、リエの心の内はアタシと同じだったのだろう。どちらが先に行動したか、それだけの違いだ。いつもアタシの少し先を行くリエがいつも通り先に行動に出ただけ。アタシが先にリエの指を舐めていたなら、リエがアタシを拒んだのだろう。
リエもアタシもそのまま何も喋らずブレッドを食べてコーヒーを飲んだ。
ずっと食べたかったこの味を身体に取り込むと、今まで心に突き刺さっていた何かが抜け落ちた。そして同時に今まで感じた事の無い恥ずかしさや痛みや愛おしさが押し寄せてきた。
あの日、リエか私のどちらかが行動を起さなければ幼馴染みのまま、子供のまま、何も知らずに過ごしていったのだろう。けれどリエの言う「キラキラ」は成長と共に段々と輝きを失い、平穏で平坦な日常に埋もれていくのだ。
平らなものに光は少ない。傷つき、壊れる小さくデリケートな破片は沢山の光を乱反射させキラキラと輝く。
アタシ達は何かを壊さなければ、輝くことは出来ないのだ。
リエはソファーで泣き疲れて眠っていた。
リエの白くて華奢な手をそっと握った。ピクリと指先が動き、リエは眼を覚ました。
楽園を追い出されたアダムとイブは傷つきながらも寄り添えたのだ。禁断の果実は本当の幸せの姿を教えたに違いない。
「あの時と同じことをするよ」
リエの人差し指を咥え、舌を絡めた。指は震えていたがリエは振り払わなかった。細い肩を抱き寄せるとブレッドを焼く時に付いたのだろう甘酸っぱい林檎の香りがした。
眼を静かに閉じ、ゆっくり開くと柔らかく艶やかな唇の向こうにキラキラした光が見えた。
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