マリーゴールド

夏至を過ぎたばかりの夜は午後七時を過ぎても日が沈まない。

けれど、今日は太陽を覆い隠した雲のせいで空は薄暗い。


マコは出掛ける前にヴァイオリンをケースに入れ、更にそれを完全防水のカバーに入れた。

リュック型のカバーを背負い、空の分厚い雨雲に「一粒も降らせないで」と念じながら歩く。

背負っているのはママからもらったヴァイオリンだ。お下がりではあるけれどマコの持っているヴァイオリンの中で一番良い音を奏でてくれる。

湿度に弱いヴァイオリンを雨に濡らすわけにはいかない。




清佐和城址公園の中央では丘の上の城を隠すように覆う木々が青々と茂り、むっとする青葉の香りを生温くじっとりした風に放ちながら、ザワザワと揺れている。


「蒸し暑いね。雨が降らないといいけれど」

マコの少し前を歩いていたアキは、公園の中心にある大きな姫の岩の前で心配そうに振り返った。マコは背中のヴァイオリンを気にしながら頷いた。


「ねえ、マコ。うちのおばあちゃんの昔話、覚えてる?」

「ここの城の殿様の側室に男の子が生まれて、子供が授からない正室に殺されてしまうから女の子として育てたって話でしょ」

「そう。今日が命日だったのね」

その実は男だったと言い伝えられている姫の墓がこの「姫の岩」だ。二人はしめ縄が掛けられた二メートルほどの高さの大きな岩の前で手を合わせた。


 風に動く雲間に漏れ出た弱い夕日に照らされた岩は、びっしりと生えた岩苔で鈍い光を反射している。

マコが華奢な身体に纏う白いワンピースが、時折強く吹く風をはらんで膨らむ。

まだ明けそうにない梅雨の湿気を含んだ重く生温い風は、同じツインテールに結ったマコとアキの髪にまとわりついた。

Tシャツとジーンズ姿のアキは、ここへ来る前に整えたマコの髪が気になっていた。




マコは幼い時からいつも「アキと同じ髪型にしたい」と言う。だから今日もアキはマコにしてほしい髪型を自分にしておいた。

天気予報では雨の確立が高く蒸し暑い今日。予報通り昼を過ぎた頃から雲が次第に暑くなってくる。

ヴァイオリンの演奏に邪魔にならず、涼しく、尚且つ聴きに集まる人々に有卦の良さを考えれば、左右に分けた髪を高い位置で結わいたツインテールがベストだろうと考えた。

「私と同じでいい?」と訊くといつも通りマコはにっこり頷いた。


店のチェアに座らせたマコの栗色の柔らかい髪を持ち上げると、半分白人の血が通う細く白いうなじが顕わになる。

 首を傾げてもヴァイオリンの演奏に邪魔にならないような長さにするため、毛先をゆるいウエーブに巻いて仕上げる。


「アキ、今日はお客さん少ないの?」

「ウチみたいな美容院は年寄り客が多いからね。朝早い客は多くても、夕方は空いているの」


 マコの髪に巻いたカーラーを外しながらアキは自分の汚れた爪を見る。毎日使う髪の染料で徐々に染まってしまった爪はいくら洗っても落とすことは出来ない。白髪染めの染料は蛋白質に浸透が早いので髪と同じ蛋白質で出来ている爪も染まりやすい。商売道具の鋏は毎月砥ぎに出しているが、年配客相手のこの店では、流行りのカットは切らせてもらったことが無い。


「そっか。今までお店で髪を切ってもらうこと少なかったから気が付かなかった。アキママは?」

「そうね、マコの髪は大体ママがお風呂でささっとカットしてくれるからね。ママは公民館に行ったよ。来月の夏祭りの打ち合わせ。今年もみんなの浴衣の着付けを手伝うみたいよ。だから今日は私が店番」


小柄で華奢な身体。トーンの高い声。長い睫と白い肌。栗色の髪は肩まであり、それを無造作に掻き上げる少女のようなしぐさ。今日のように女の子の服を着ているとマコが男だということに気が付く人はほとんどいない。


「あの写真みたいにワンピースもアキとお揃いが良かったんだけどな」

「いつまでも保育園の時みたいにはいかないでしょ」


 店の隅の小さなフォトスタンドにはお揃いの黄色のギンガムチェックのワンピースを着たマコとアキが写っている。だがこれはワンピースではなく保育園に着て通園したスモックだ。アキママの手作りで「きっと二人ともすぐ大きくなっちゃうから」と大きめに作られた黄色のスモックは丈が長すぎて、まるでワンピースみたいだった。二人とも幼児には邪魔な前髪をヘアゴムで横に結わかれ、誰もが姉妹でお揃いのワンピースを着ていると思う。

 通りすがる人々が「おそろいなのね、可愛い!」と言われればマコもアキも頬が赤らむほど喜んだ。幼い頃は二人ともそれが変とは思わなかった。

物心ついた頃から一緒に過ごし、育った真琴(マコト)と晶(アキラ)。男とも女とも区別つかない名前と同様、二人に性別など関係なかったのだ。



「マコママはいつ帰ってくるんだっけ?」

「明後日。でもまたすぐにイタリアだって。音楽祭があるし」

マコの母親はヴァイオリン奏者でアキの母親とは従姉妹だ。彼女はイギリスに渡り、同じヴァイオリニストの男性と結婚したが出産後すぐ離婚し、産まれたばかりのマコを抱えて一人でイギリスからこの日本の田舎町に帰ってきた。

同じ頃、アキの母親もアキが生まれてすぐに夫と別れ、代々続く小さな美容室を一人で営んでいた。学生の時に両親の反対を押し切り勘当同然でイギリスへ渡ったマコママは実家に戻ることを許されず、アキママの店に身を寄せた。

夫と別れ、女手で子供を育てる決意をした二組の母子は家族になった。真琴の母はマコママ。晶の母はアキママ。お互いどちらの子も自分の子であり、マコとアキもどちらの母のも自分の母だった。


しかしマコは極端に淋しがりで甘えたがりだった。マコママは公演のために不在が多い。アキママがアキと同様に愛してくれていても実の母子とのわずかな差にマコは気がついていた。

だからマコは無意識に何でもアキと同じものを選んだ。そのわずかな差がこれ以上広がらないように。アキと同じものを食べて同じものを着て同じことをすることでマコは安心を得る。幼い頃マコの心の芯に固く根付いたそれは二十二歳の今になっても変わらなかった。



「僕のヴァイオリンを聴きに来てくれる人、どのくらいいるのかな」

「ネットであれだけアクセスがあったんだから、結構集まるんじゃない?」


 マコの通う音楽大学の春祭で、女装をしたマコがヴァイオリンを独奏している動画を春祭の実行委員会が大学のHPに掲載した。それがネットで「美女装子ヴァイオリニスト」と話題になり、再生回数はどんどん上がり、マコのFaceBook(フェイスブック)にアクセスが殺到した。


ある日、マコのFaceBookに「マリー」と名乗る人物からメッセージがあった。

「動画を拝見しました。とても美しく素晴らしい演奏です。突然のお願いなのですが、お住まいが近いようなので清佐和城址公園で演奏をしていただけませんか。立派な舞台などの用意はできませんが、七月一日の清佐和城最期の姫の命日に沢山の仲間が集まります」

マリーという人物を調べると小さなバーのマスターをしていることと、女装家であることしかわからなかった。彼が言う「仲間」とあれば女装家ということなのだろうか。

少し抵抗があったがマコとアキは「清佐和城最期の姫」という言葉を無視できなかった。



清佐和城最期の姫。

二人は十年程前に亡くなったアキの祖母の昔話を思い出した。

城主の月代を剃るために城に上がることを許されていた唯一の髪結いがアキの先祖だ。城に子が生まれ、男子であれば産毛を落とす。城主の側室に男子が産まれたと聞き、城に上がった髪結いは「子は女であったとせよ」と固く口止めをされ、城を出された。

後に落城した清佐和城の姫がどうなったのかは誰も知らない。姫の岩と呼ばれる大きな岩の下で眠っている理由も。

謎の多い言い伝えの真実を知りたかった。それが今回の演奏を引き受けた理由だった。



清佐和城址公園の公園灯がぽつりぽつりと灯りだす頃、少しずつ人が集まりだした。

比較的派手な髪色やドレスやワンピースを纏う者と、髪は長くても比較的地味なシャツやジーンズ姿の者。おそらくは全員男子なのだろう。人が増えるごとにわずかに異様な空気が広がってゆく。集まった人々にはいくつかのグループがあるようで、お互いを牽制しつつ品定めするような視線を投げ合っていた。


 


マコがアキとお揃いの格好ばかりしていたのは小学生までだった。

中学生になると強制的に「学生服」で男女は分別される。戸籍にマコは「男」アキは「女」と記されている以上、最低でも通学時のマコは「男子の制服」アキは「女子の制服」を身に付けなければならない。

 マコはいつまでも「アキとお揃い」でいたかった。当然それは許されずマコはジレンマだらけの学校生活を送り、アキへの依存が治まることはなかった。



 高校を卒業しアキは美容師学校へ、マコは音楽大学に進学すると生活もスタイルも一気に自由になった。

 男が女装でも女が男装でもそれはファッションという個性の主張であって誰も何も咎めない。


 マコの通う音楽大学の春祭は賑やかで、キャンパス内のあちらこちらで自由な演奏が繰り広げられる。皆どうやって自分の演奏を聴かせようかと苦心をし、仮装に武装、大道芸まで現れる。

マコは白いシフォンとレースのワンピースに天使の翼を背負い、裸足でキャンパス中を歩きながらヴァイオリンを弾いた。ヴァイオリンを奏でながら軽快に、時に踊るように。

しかしそれは皆の注目を集めるためではない。春祭を見に来るアキがマコを見つけやすいように工夫したのだった。




 清佐和公園での演奏のためにマコは話題になった動画と同じ白いワンピースを着たが、羽根は背負っていない。羽根は春祭の実行委員会からの借り物だった。幾つかあったはずだが順番に何人かが使用した後、どこかに片付けられ、探しても見つからなかった。

背中の羽根が無いからか薄暗い中でよく見えないのか、誰もマコに声を掛けてこない。


公園を城址の方向に進むと、普段はピクニックなどに使われている公園の備え付けの古い木製のテーブルがいくつかある。マコは靴を脱いで裸足で上がった。テーブルはあちらこちらささくれ立っており、その幾つかが足の裏に突き刺さったが、構わずヴァイオリンの準備をした。


「はじめまして、マコです。沢山のアクセスありがとう。今夜は僕が作った曲を演奏します。『Requiem for princesses』」



ざわざわと揺れる公園の木々の葉擦れの音でマコの叫んだ声は半分くらい掻き消されてしまった。

幸運にも雨は降り出さない。アキはテーブルの正面に立ち、下からマコに視線を投げた。マコはその視線を受け取り小さく頷くと、深い呼吸をひとつしてヴァイオリンの弓を弾いた。


スィーッと高く済んだ音が夕闇の公園に響くと、テーブル付近に人が集まり拍手が起きた。

湿り気を含んだ葉擦れの音と乾いた木から作られるヴァイオリンの相反する音色は、人よりも長い歴史をもった植物の二重奏となって観客の耳を奪う。


「マリーが言っていたのはあの子なの?」

「動画に映ってた子でしょ」

「へえ、いい音ねえ」

 男の低い声の女言葉が飛び交うと、どことなく卑猥さが漂う。けれどマコは何も気にせず思うままに演奏した。


全てはヴァイオリンの音色が浄化してくれる。男も女も女装も男装も関係無い。

マコはマコママの言葉を思い出していた。

「音楽の前では差別も偏見も全て消えてしまうのよ」


マコのヴァイオリンの音は瞬く間に集まった人々を魅了し、夕闇の風をも味方にしてくれた。湿気を含んだ重い空気はその美しい音色で軽くなり、さらに雲間に覗く夕闇の空の色と重なり聴く者の心を揺さぶった。

しかしこれは未完成曲だ。イメージがまとまらない。本当は即興ともいっていいほど適当な清佐和城の姫の調べを、ヴァイオリンはそれを感じさせないほど切なげに美しく響かせた。


皆が聴き入る中、どこからか突然細いライトがマコに向かっていくつも当てられた。それは段々と重なって虹のような輪を作り、曲を弾き終わる頃には雲間から降りる天使の梯子のように照らされた。

テーブルの周囲からわーっと歓声が上がった。「きれーい、天使みたい」


「マコ、素敵だよ!」

アキは大きく拍手した。

それに続き、周囲から大きな拍手が沸きあがった。

「ありがとう」

マコはテーブルを飛び降りた。


アキはマコを抱きしめた。幼い頃、アキママやマコママがしてくれたように。

すっとマコの緊張と高揚が解れて笑顔になる。一緒にヴァイオリンを弾いていたアキが弓を鋏に持ち替えた頃から、マコの演奏後のハグはアキの役目になった。男のくせに甘ったれと言われても、マコには今でもアキのハグが必要不可欠だ。


 

公園はすっかり暗くなり、数の少ない公園灯では二人を取り巻く人々がどのくらい居るのかわからなくなった。それでも木々と観衆のざわめきは静まらない。

 マコはヴァイオリンをケースに入れ、乾燥剤を詰め込み、足の裏に刺さったかもしれないテーブルのささくれの欠片を気にしながら靴を履いた。


「はじめまして、今日はありがとうございました。マリーと申します」

後ろから背の高い男に声をかけられた。

シャンパンブロンドの髪は腰まであり、細く長い手足。薄暗い中でも肌の色が真っ白なのがわかる。瞳は深い赤。顔立ちは出来すぎなくらい端正だ。細身のジーンズとメッシュのTシャツを着ており、メッシュで透ける胸元には黄色い花柄のような刺青(タトゥー)が見える。一体何歳なのか年齢さえも想像がつかない。あまりにも全てが整いすぎている容姿はまるでCG画のようだ。


「あの、あなたがマコにメールを送ってくれた人ですか?」

アキの問いにマリーが「そうです」と返事をするのと同時に、マリーの後ろから小柄でおかっぱ頭のセーラー服が現れた。

「ふうん、こっちのツインテールはホンモノ女子か」

おかっぱ頭はアキの顔を覗きこんで言った。

「あ、僕、バクって言います。バクって言っても夢喰いのバクじゃないよ。緊縛の縛ね。ねえねえ、君、縛られるの好き?ショーに出てみない?マリーさんの店あるビルの三階で月一でやってるんだ。最近さあ、男ばっかり縛ってるから、たまには女子も縛りたくってさ。女子はギュッ縛ると、おっぱいがバーンとなっていいんだよね。脚は腿からこう縛ってさ」

「ちょっと待って。何が何だかわからないです。ええと、ここにいるのは皆さん男の方ですよね。もちろんあなたも男の人ですよね。周りの人もお仲間とかお友達なんですよね」

アキは答える間もないくらい立て続けに話すバクをなんとか制した。

「へえ、何にも知らないでここに来ちゃったの?ここは女装子や男の娘(こ)の集会。女装趣味とか緊縛フェチの僕みたいな変態ばかりのね」

後ろから「えー、酷い言い方」誰かの声が上がった。

暗がりに眼が慣れ、よく見れば異様な雰囲気に包まれている。最初に声を掛けてきたマリーの容姿も美しいが人間離れしているし、逆にどう見ても綺麗とは言えない容姿の者や異常に派手な服装や化粧の人もいる。それらはファッションとか個性と呼べるのだろうか。

とんでもない所に来てしまったのではないかとアキはマコと顔を見合わせた。



「変態ではありませんよ」

マリーはジーンズのポケットから名刺入れを取り出し、そこから一枚黒地に金色の英字で「Marigold」と店の名前が印刷された名刺を二人に差し出した。

「マリーゴールドというBarです。清佐和駅の西口にあります。名刺の裏に地図がありますので、よかったら遊びに来てください」

「ありがとうございます」アキは差し出された名刺を受け取った。多分、行くことは無いだろうと思いながら。



アキが気付くといつの間にかマコの周りには人だかりが出来ており「ホント可愛いよねえ」「ねえ、ハーフなの?羨ましい!」などと声をかけられ、さっきまで不安そうにしていたマコの顔は一転、照れて真っ赤になっていた。

どんどんと人が迫ってきて、そのままマコを連れて行かれてしまいそうに思えたアキは小声で「帰ろうよ」と囁いた。「うん」とマコが返事をした時、少し離れたところで誰かが叫んだ。


「キャー!恭介ちゃんがヤバい!」

マコの周りの人々が一斉に声の方へ移動した。その人だかりを掻き分けて前に進んだバクが倒れている恭介という男の様子を見てマリーを呼んだ。

「マリーさん。痙攣してるし、こりゃ駄目だな。ドクターに電話する?」

マリーと同じようなメッシュのTシャツとジーンズを着た若い男がそこに倒れていた。

目の周りと唇は青黒く、それは明らかに化粧ではない。マリーは恭介が握っている薄茶色の紙袋を持ち上げ中身を覗くと、深いため息をついた。

「恭介、天使だって生きているんだよ」



「ドクターなら今頃『金鳳花(きんぽうげ)』でお楽しみ中よ」と誰かが言った。

「あいよー」とバクはセーラー服の胸元から電話を取り出した。


「もしもし、バクだよ。そっちに上原のドクターいるでしょ。呼んでよ、おねがーい!

あ、ドクター?薬漬け一人お願い。歳?たしか二十歳。お金?大丈夫、コイツ政治家の息子だもん。親にガッツリ請求すればいいよ。うん、痙攣してる。斑点?あ、出てるねえ、なにこれ、マズイの?はーい、あはは、わかったー」バクはまるで遊びのように笑いながら電話を切った。


「舌噛んで死なないように口ん中に何か突っ込んで、身体は縛ってドクターの家の庭に放り込んでおけってさ」


バクは大きなトランクをどこからか運んでくると、中から赤い紐を取り出し、卑猥さを感じさせる縛り方で素早く恭介を縛ると、ピンク色の穴の空いたボールに黒い紐が付いたものを口に噛ませて紐の部分を頭の後ろで固定した。


「やだ、それギャグボールじゃないの。それにこの縛り方じゃ緊縛プレイね」

周囲で見ていた男の娘達がクスクスと笑う。さっきまでマコの演奏で美しかったはずの空気が卑猥で下品なエロチシズムで汚されていく。アキは胸の中がムカムカした。たまらなくなってマコの腕を引っ張って走り、公園の出口に向かった。




「アキ、待ってよ。痛いよ」

マコに言われ、公園を出てしばらく走ったところでアキはマコの手を離した。

「ごめん。でもここ、嫌だ。もう来たくないよ。なんかヤバイし気持ち悪い」

演奏しますとマリーに返事を送ったのは間違いだったとマコは後悔した。清佐和城の姫の話に興味深そうだったアキが喜んでくれるだろうと思ってマリーの誘いを受けたのだ。この集会がどういうものなのか、もっと調べるべきだった。



「マコ、帰ろう」アキはもう一度公園に背を向けて歩き出した。

「うん。あの、でも、これ」

 マコは紙袋を差し出した。恭介が持っていた紙袋だ。薄茶の地の真ん中に洋酒のラベルのような印刷がされている。

「なんでこんなの持ってるの」

「えっと誰かが放り投げて、それで拾って」

中身を見るとビニールに入った葉巻煙草のようなものと、札束がいくつか裸のまま入っている。

「なにこれ、返しにいかないと!」

 マコの腕を掴んで引っ張って走った道を、二人は再び走って戻った。




二人の息が上がるのと同時に木々のざわめきは一層大きくなっていた。しかし戻り着いたヴァイオリンを弾いたその場所にはすでに誰も居らず、公園には最初に来た時よりも湿気を含んだ重く生温い風があるだけだった。



空はもう堪えきれなくなったように、ポツリポツリと雨を降らせ始めた。



清佐和駅の西口を名刺の裏の地図通りに進むと、小さな歓楽街に出た。


梅雨が明け、赤熱の太陽に照らされ続けたアスファルトは太陽が沈みかけても熱を蓄えたままで、鳴きやまない蝉の声とともにローカルな街に放熱し続ける。


空が薄暗くなると歓楽街のピンクや赤の派手なイルミネーション看板が灯る。

その前で客引きがギラついた眼で通る人を待ち伏せる。狙われたら必ず捕まる。マコもアキも小走りで通り過ぎるが、あっという間に追いつかれる。


「こんばんはー。イケメンが揃ってるお店あるんだ。内緒なんだけど俺と来てくれれば席料タダになるからさ。ちょっと行ってみない?」

馴れ馴れしく腕を持たれたマコが「あの、僕は結構ですから」と言うと「あーっ、ごめん、男の子だ。可愛いすぎてわからなかったよ。実は俺、掛け持ちでさあ、そっち系のすっごいイイお店も連れて行ってあげられるよ」

 男はマコの肩や背中を撫でた。それを見たアキは全身の血が逆流し、湯気が立つかと思うくらいこめかみが熱くなった。怒鳴りそうになるのを堪え、マコの腕を掴んで走り出した。


公園の時と同じだ。ムカムカする。二度と触れたくない世界だと思ったのにまた触れなければならないなんて。


アキは歓楽街を抜けるまでマコの腕を掴んだまま走り続けた。

マコは斜めがけしたショルダーバックの蓋が開かぬように押えながら何も言わずに引っ張られるままに走った。




 歓楽街を抜けると街は急に地味なたたずまいになる。

しばらく歩くと、危うく通りすぎてしまうような目立たない一角に名刺と同じ黒地に金文字の看板を見つけた。

その看板の下の細い階段を地下に降りると正面の黒いドアに「Mari gold」の金文字のサインボードが光っていた。


ドアを引くと「シャラララン」と涼しげな音が響いた。

ドアにウィンドベルは付いていないようなので、ドアを引くと電子音が鳴るような仕掛けがあるのだろう。


店内には客の気配は無い。思ったより中は広く、落ち着いたダークカラーの内装。店内にはいくつかのソファーとテーブル、奥にカウンターがある。

店の中央には透明なアクリル板で作られた円筒があり、中には鮮やかな黄色の造花が生けられていて、その上にキラキラと金色の光の粒が降り落ちてくる。


「わあ、綺麗!」

マコはアクリル版に張り付くようにしてキラキラと降り落ちる金色の光の粒を見つめた。

どのような仕組みになっているのかわからないが、店内の照明を兼ねたこのオブジェクトが優しさと居心地の良さを醸し出していて、二人が歓楽街で味わった如何わしさで荒んだ気分を打ち消してくれた。



「いらっしゃいませ。公園では素晴らしい演奏をありがとうございました」


 カウンターの奥から現れたマリーは公園で会った時とはまるで違う、黄色のシンプルなドレス姿だ。真っ白な肌の上で長いストレートのシャンパンブロンドの髪と、肩を出したデザインの原色のドレスの鮮やかさが引き立っている。

しかしその姿はアキにイライラと不安を蘇らせた。


「やはりあなたも女装なんですね」

「私は着たいものを着ているだけで、女装と男装の区別はしていませんよ」とマリーは微笑んだ。

 

確かにマコだって今日もアキと同じミニスカートを着ているのだから女装子だけを区別するのは偏見なのだが、あの日以来アキは女装に対して如何わしいイメージが自分の中から取り払えない。


「何かご馳走しましょう。カクテルでよろしいですか」

アキがカウンターに座ると、アクリル版の円筒の中を眺めていたマコも挨拶をしてアキの隣りに座った。

「こんばんは、マリーさん。あのキラキラ、すごく綺麗ですね。どういう仕組みなんだろう」

「仕組みは企業秘密ですから教えられませんが、気に入ってくださるのなら作った甲斐がありますよ」

「え、マリーさんが作ったんですか」

「はい、私の本職です」

「へえ」

マコは身を乗り出した。

「あの、もしかして公園で演奏した時の虹色のライトも」

「はい、私が用意しました。舞台も何も無いところですからせめてライトくらいはと思ったので。あれは小さな機材だけで出来ますしね」


マコはもっと色々聞きたいというような表情で更に身を乗り出して聞いている。ミニスカートを着ていたってやはり男なのだ。

男は皆からくり箱が大好きだ。

幼い頃、マコが古いヴァイオリンを分解してマコママにこっぴどく叱られたのを思い出して、アキは思わずクスリと笑った。



 カラン、と涼しげな氷の音と共にテーブルの上に細いグラスが置かれた。明るいオレンジのカクテルが注がれ上には小さなミントの葉が添えられた。

「わあ、爽やかな味。美味しい」

「バーテンダーが入院中なので、私の作ったカクテルですみません」


アキはマリーの後ろの棚の隅に、あの紙袋と同じラベルの洋酒を見つけた。

「そのバーテンダーって、恭介さんですよね」

マコの言葉にマリーはしばらく黙っていたが、しばらくすると静かに答えた。

「そうです。公園で目の前で倒れたのだから知っていても当然ですよね」

マコは「あの、ええと」と小声で言いながら、斜めがけしたショルダーバックから、あの日恭介が持っていた紙袋を取り出した。

それを見たマリーの顔色が変わった。

「中身を見ましたか?」

「はい。だからここへ来ました。お金も沢山入っているから返したいのです。ここへ来れば恭介って人の居場所を教えてもらえるかなと思って」

「恭介は上原というドクターのところで治療しています。公園から見ると清佐和城の裏側で、病院ではないけれど大きな屋敷だから近くに行けばすぐに分かりますが…」

 マリーは何かを躊躇ったように言葉を続けなかった。




シャラララン。ウィンドベル風の電子音が再度奏でられ「おはよう」と軽装な女が入ってきた。


前髪までひっつめたポニーテール、どちらかといえば低い背丈。服装も黒いタンクトップとショートパンツにサンダルで、ぽっちゃりした身体つきが目立つ。下着は着けていないようでタンクトップに乳首の形が浮き出ている。

年齢は三十代後半だろうか。濃くも薄くもないような化粧は良く見ると完璧で、プロのメイクだと美容師のアキはすぐに気が付いた。


女はキャスター付のバックをガラガラと引っ張ってソファーの横につけ、ドサッと腰を下ろした。


「おはよう。モモコ」とマリーが挨拶を返した。モモコという女はマコとアキに目をやった。

「ふうん、新顔」

「こんばんは」二人は遠慮がち挨拶をしたがモモコは返事もせずにマリーに尋ねた。

「ねえ、マリー、慎二は?」

「さあ、今日はまだ…あ、来たね。いらっしゃいませ」


三度目の電子音とともに現れたのはどう見ても男にしか見えない身体つきの女装子だ。シースルーのブラウスと花柄のロングスカートを着ているが、背は高く、肩幅も広い。  

歳は二十代か三十代か、分からない。肌の色は浅黒くきめも荒く、髭剃り跡が目立つ。

化粧は全くしておらず、肩まである脱色した髪も痛んでいてパサパサだ。


「おはよう、モモちゃん」

挨拶の声も低い。


「遅いわよ」

モモコはキャスターバックを乱暴気味に開くと幾つかのボックスを取り出しテーブルの上にその中身を雑に広げた。


次に慎二をソファーに深く座らすと、向かい合う形で慎二の太腿の上に跨った。

「髭の剃り方が甘いわよ」と言いながら小さな電動シェイバーで慎二の剃り残した髭と太い眉を剃り整え、顔から首までにファンデーションを大量に塗りたくる。


「相変わらずいいおっぱいだねえ」

慎二は至近距離でメイクを施すモモコの胸に手を伸ばす。

「触ったら追加料金もらうわよ」

「相変わらずしっかりしてる」

慎二は仕方なさそうに手を下ろした。

「女だからね、本物の」

モモコは喋っていても手は止めない。視線もメイクを施している場所から外さずさない。

輪郭にシャドウを入れベースメイクを終えたところでモモコは振り向いてアキに声を掛けた。


「ねえ、手伝ってよ」

アキが戸惑って返事をしないままでいると、

「あなた美容師でしょ。この汚い髪を何とかしてよ」

「あの、何で…」

美容師って分かるのですかとアキが言い終える前に、モモコが答えた。

「爪」

アキはドキリとして毛髪用の染料で黒ずんだ爪を握って隠した。


「へえ、美容師さんなんだ。ぜひお願いしたいなあ。これから大切な人に会いに行くので出来るだけ綺麗になりたいんだ」

嫌だ、とは言えない空気だった。アキは答えに困った。できれば触りたくない、女装子の髪なんて。


「練習しなさい。田舎町で年寄りの白髪染めばかりやってたって腕は上がらないのよ」


モモコの言葉にアキは手をぐっと握り締めた。黒ずんだ爪が掌に突き刺さる。悔しい。

アキは立ち上がりテーブルの上に散乱するメイク道具の中からブラシと霧吹きを掴んでヘアピンを数本口に咥えた。


ソファーの背もたれを挟んで慎二の後ろへ回って髪に霧を吹き「えっと、前髪は横分けにして後はアップで」という慎二の注文を無視してパサパサの髪にブラシを通し、勝手にカーラーを巻いた。

男の髪は切ってセットしたことはあってもアップに結い上げたことは無い。カーラーで髪を巻きながら頭蓋骨の形を確認して仕上がりのシルエットを考える。大きな身体に大きなシルエットの髪は下品になる。小さくまとめるスタイルを頭の中でリストアップする。


髪の根元にピンを差し込んでボリュームを押えた。頬骨が出すぎた輪郭には緩く巻いた髪を下ろして、広い額には前髪を厚く被せた。トップで結わいた髪は柔らかく散らし、痛んだパサパサ感が出ないようワックスで落ち着かせる。


ヘアが出来上がる頃にはメイクも出来上がっていた。

ニキビ跡が目立つ肌は陶器のように滑らかに仕上がり、優しい印象の眉が丁寧に描かれ、男っぽい目元は長い付け睫毛で艶やかに、唇はつややかで甘く仕上がっていた。

メイク前とは違い、シフォンのブラウスが似合って見えた。メイクやヘアでこんなにも変わる。ぱっと見た感じでは大柄な女性に見えるだろう。



「わあ、素敵だ」

モモコが大きな二面鏡を開いて仕上がった姿を慎二に見せると「これなら多めに金を払ってもいい」とモモコとアキに壱万円札を数枚ずつ手渡した

「こんなに」アキが驚くと「いいのよ、コイツは金持ちだから。IT会社の社長よ」とモモコは受け取った金をメイク道具と一緒にボックスに放り込んだ。

「早く行きなさいよ。今夜は告白するんでしょ」

「告白ではなくてプロポーズ。結婚したいんだ、その人と。ずっと一緒に居たいって言ったらさ、ちゃんとプロポーズしてって言われて。それからプロポーズする時は自分が一番素敵だと思う格好でしてねって」

「その彼女、知ってるの?アンタが女装趣味の変態だって」

「変態だけ余計だよ。でも気がついているんじゃないかな、多分。女装を始めたのは彼女と出逢ってからなんだ。その人、不思議で綺麗で柔らかくて。会えば会うほど女ってものをもっと知りたくなったんだ」

「ふん、それで女装?金持ちの考えることは分からないわ」


 慎二の女装のきっかけが思ったより純粋なもので、アキは複雑な心境で二人のやりとりを聞いていた。握っている数枚の壱万円札は返せないものの自分の財布にも入れられなかった。



マリーはその間、バーカウンターの手入れをしていた。

途中からマコが「カクテルのお礼にお手伝いします」とカウンターの中に入った。

「あ、すごい。レシピいっぱい」

マコはカウンターの内側に外側から見えないようにカクテルのレシピがぎっしりと貼られていることに驚いた。


「恭介が貼ったの。熱心な子だからね」

「僕にも作れるかな」

「難しいものではないよ。レシピ通りで大丈夫」

「挑戦してみていいですか」

「どうぞ」マリーはにっこりと笑った。

マコは壁のレシピを見ながら嬉しそうに材料を揃えだした。

「あの、マコがすみません。ご迷惑ではないですか?」

「いいえ、全然。お二人はご姉弟?」

「いえ、マコと私の母親が従姉妹なので私達は又従姉弟になります」

マリーは「本当の姉弟以上に仲良しなんだね」と微笑みながら隣りでカシャカシャとシェーカーを振るマコに「グラスはこれがいいよ」とホルダーを指差した。ホルダーに掛けられた幾つものグラスは曇り一つなく丁寧に磨かれ、使われる時を待ちながらカウンターの光を優しく反射している。

マコはそのグラスをホルダーからそっと取り出し、アキの前でシェーカーから注いだ。甘い香りとともに薄い乳白色のカクテルがグラスにゆっくり注がれた。


「ねえアキ、飲んでみて」

アキがそっと口に含むと、白っぽいカクテルはカルピスがベースのようで懐かしい味がした

「美味しいよ。これ、カルピスが入ってるの?」

「そうカルピス。懐かしいでしょ。二人でよく飲んだよね」



夏休み。

毎日宿題の朝顔やミニトマトの観察をして、プールに行って、カルピスを飲んで、昼寝をして。

自由だった毎日。楽園のような季節。

幼い頃の夏の風景が二人の脳裏に流れる。

けれど毎年夏休みが訪れるたび、二人で飲むカルピスは違う味になっていった。

それは多分、毎年少しずつマコの身体は男、アキの身体は女になっていったからだろう。

そして今はもう複雑なアルコールになっている。



「早く彼女のところへ行きなさいよ」

モモコに促された慎二は「気つけ」だといってマリーにテキーラを一杯注文し、艶やかに綺麗に塗られた口紅をを落とさぬようにショットグラスを浮かせてテキーラを口の中に流し入れると、ガッツポーズをして店を出て行った。



「アキ、あなたなかなか上手だったわよ。ねえ、マリーも頼んでみたら」

そう言うとモモコは慎二と同じテキーラの入ったショットグラスを舌で舐めるように飲んだ。



「この写真と同じ髪型を頼んだらやってもらえる?」

マリーはグラスホルダーになっている棚の上に置かれた小さな写真立てを取りアキに手渡した。

写真にはマリーと同じ黄色いドレスを着た女性が黒髪を夜会巻きにアップさせ耳の脇から緩やかに毛束を下ろした姿で写っていた。華奢で上品な顔立ちの美しい女性だ。

「いいですよ、これなら十分もかからないと思います」


マリーにソファーへ座ってもらいアキはマリーの髪にブラシを入れた。

艶やかな髪は根元まで同じシャンパンブロンドで美しい。眉や睫毛の白に近いほどの金色だ。黄色人種の日本人にはあり得ない。


「髪、染めてないんですね」

マリーは答えなかった。

「マリーさんて、肌は真っ白だし、瞳は赤いし髪も金髪で。どこの国のお生まれなんですか」

マリーは何も言わなかった。

代わりにモモコが答えた。

「マリーはアルビノよ。先天性白皮症てヤツね。メラニン色素が作れない身体なの」

驚いたアキはどう返していいのか分からず、黙ってヘアメイクを続けた。


高い位置でまとめた髪は十分ほどで仕上がったとは思えないほど優雅で美しく、シャンパンブロンドならではの気品があった。


「ありがとう。今まで自分では上手くできなかった」

「いいえ。あ、慎二さんみたいにお礼はいらないです。簡単だから」

マリーはモモコが差し出した二面鏡の中を長い間見つめていた。マリーの赤い瞳は鏡の中の自分ではなく、もっと遠くの何かを見ているようだった。




「マコ、そろそろ帰ろう。マリーさん、ありがとうございました。明日上原ドクターのところに行ってきます」


アキは得体の知れない不安を感じていた。

このまま知らない世界に足を踏み入れてしまうような気がする。

マコが演奏したあの日から繋がっていく何か。

そしてそれは今感じているより、深い。



カクテル代の代わりに慎二から受け取った数枚の壱万円札をカウンターに置いた。



入道雲は縦に幾つも並んでいた。

清佐和城址公園の蝉の声は何十、何百にも重なり、騒音に近い。


正午に近い太陽が眩しすぎて、中央の丘に位置する城を見上げることはできない。

後ろに一つに結わいた髪のせいで顕になった白いうなじに直射日光が突き刺さる。マコはTシャツの袖で額から流れる汗を拭った。



昨日のマリーゴールドからの帰り道、アキは何も喋らなかった。

マコが呼びかけると「うん」と返事はするものの、考え事をしているかのようでマコの話は聞こえていない。

だが、マコにはアキの心の中はなんとなく想像がついていた。


アキは清佐和城址公園での演奏以来、女装をする男達に嫌悪を持っている。


あの時は自分も同じように感じた。

全てではなくとも一部のそれは確かに猥褻なものに繋がっている。繋がっているものと繋がっていないものとの境界が僕達には分からない。分からないから自分の偏見や迷妄に良心が痛む。


蝉の騒音が激しい公園を横切り、清佐和城の裏側へ向かった。


マコは今日ここへ一人で来ることをアキには知らせていない。店が忙しく、アキが出掛けるのは無理な様子だったからだけではない。アキに嫌悪を感じさせることから少し離したかった。


アキから見て自分は境界線のどちら側にいるのだろう。平気で女性の服装をしている自分は境界線の近くであるのは間違いない。


早く終わりにしよう。この紙袋を返してしまえば今回のことは忘れればいい。境界線など考えなくていい。


マコはTシャツとジーンス、長い髪はゴムで後ろに束ね、滅多に被らないキャップを目深に被って家を出た。男っぽい格好は久しぶりだった。




背の丈ほどの鉄製の柵の門のから続く石畳の向うに建物が見える。マリーが言う通り病院とは程遠く、白壁が美しく豪華な別荘のようだ。

医院の看板は何処にもなく門の横の石壁に「UEHARA」と刻まれた表札が埋め込まれている。

その下のインターホンらしきボタンを押すと間もなく返事があった。



「はあい、上原医院ですう」

ああ、ここもか。中途半端なトーンの語尾を延ばした喋り方がいかにも女装した男をマコに思い浮かべさせる。

「あ、あの、恭介さんがこちらに入院されていると聞いたので」

「ご家族の方あ?」

「違います。あの、届け物があって」

しばらくするとコスプレのようなテカテカ光るサテンピンクのナース服を着た女装子がやってきて門を開けた。


「どうぞ」というナースの後ろについて進む。くっきりした目鼻立ち、バランスが完璧なボディ。全て整い過ぎて気味が悪い。人工的な容姿だ。



丁寧な彫刻のある大きな木製のドアの向こうは冷んやりとした大理石の床が広がる。

奥へ進み、冷房のよく利いた広いリビングに通された。

内装が上品なので尚更コスプレのようなナース服の卑猥さが増す。


「有紀夫、誰だ?」

「恭介さんのお友達ですよ、ドクター」


ぶっきらぼうな態度でドクターは現れた。しかしその態度とは反対に聡明な顔立ちだ。背は高く痩せていている。ジーンズを穿いているが上半身は裸で肩にタオルをかけており、濡れた髪が風呂上りを意味している。


「面会か?」

「あの、恭介さんに落し物を届けに」

「どこでここを知った?」

「マリーゴールドで教えてもらいました。あの、これを返したくて」

マコが紙袋を差し出すと隣からそれをスッと持っていかれた。


驚いて隣を見ると老婦人が立っていた。身に付けている白いナース服は病院で見かける本物で、白髪をきっちりと後ろにまとめている。額やナース服の袖から出る手には深く皺が刻まれているが背筋は真っ直ぐ伸びている。


老婦人は紙袋の中の札束を無視しタバコのようなものを出して臭いを嗅ぎ「これはいけませんねえ」と言いながらそれをドクターに手渡した。


「ふん、こんな安物使うからだ。光江さん、焼却だ」

「お金も入ってますよ、ドクター」

「治療代にもらっておけ、どうせ足りないが」

ドクターは首に掛けていたタオルをソファーに投げると有紀夫が手渡した白いシルク地のシャツを羽織った。


 焼却されるそれは危険なもののはずだ。マコは尋ねた。

「それ、何ですか?麻薬ですか?」

「兵器」

「え?」

「学校で習っただろう。アヘンのように低俗な麻薬は兵器だ。脳を壊し、人を壊し、国を滅ぼす。それらは麻薬と呼ばれるが兵器に使われる偽物だ。世界の裕福な上流階級は本物を使う。身体には影響が無く、快楽だけを感じる」


麻薬なんて自分とは関係のない遠いところにあるものだと思っていた。今、自分が持っていたものはそれなのか。知らずに触ってしまったがこれは犯罪だ。

マコは足が震えた。


「早く焼却いたしましょう」

光江は紙袋を持って部屋から出て行った。


「麻薬なんて使わなくったって気持ち良い事はいっぱいあるのにねえ」有紀夫がクスクスと笑う。

「ねえドクター、そうでしょう?」

ドクターは何も言わず「出掛ける」といって出て行った。

「あ、冷たーい」拗ねたように言い、「ねえねえ」とマコに寄ってくる。


「私の身体はドクターの作品よ。美人でしょう。あの人、天才よねえ」

「作品って何ですか」

「全身作り変えてもらったのよ」

「整形ってことですか」

「そうよ、全身見せてあげよっか」

「いえ、遠慮します」


ドクターに相手にしてもらえない退屈しのぎなのだろうか。全身整形のアンドロイドなんて見たくもない。

麻薬を所持してしまっていたショックでマコは頭がクラクラしそうだった。


「これ以上関わりたくない」アキがそう言った気持ちが分かった。卑猥で如何わしくて危険なものに自分の世界までも汚されてしまう。



もう帰ろう。

マコがそう思った時、どこからかハミングが聞こえた。


「あら、ご気分が良くなってきたようですねえ」

戻ってきた光江は二階を覗うように天井を見上げた。

「あ、ほんと。昨夜まで吐いていたのに」

有紀夫も二階を覗った。


マコはそのハミングが「Requiem for princesses」だと気が付いた。この曲はあの日清佐和城址公園でマコのヴァイオリンを聴いた者しか知らないはずだ。二階にいるのは恭介だ。



「恭介、天使だって生きているんだよ」

 清佐和城址公園でのマリーの言葉がふっと頭をよぎった。



「恭介さんに会わせて下さい!」

 マコは返事を待たずにリビングから続く階段を駆け上がった。

もう関わりたくない筈なのに。

でも知りたい。

僕は天使の姿で大学で演奏した。その姿に恭介とマリーは何を感じ取ったのだろう。




ハミングは幾つかあるドアのうち一番奥のドアから聞こえているようだった。そのドアの前でハミングを一緒に口ずさみながらそっとドアを開いた。

気配に気がついてベッドに横たわっていた恭介はマコを見た。ハミングは止まり恭介は眼を大きく見開いて叫んだ。

「うあーっ!」


恭介が何故叫びだしたのか分からない。マコはどうしていいかわからず、おどおどしている後ろから光江が恭介の方へ駆け寄った。

「幻覚じゃありませんよ。お見舞いに来られたのですよ」

 その声に叫び声は止まり、光江は浅い呼吸の恭介を抱え起き上がらせた。


ベッドの横のテーブルの昼食であろう食事は手付かずに残っている。

「やだあ、何にも食べてない。せっかく今朝からベルト外したのに」

有紀夫は不満そうに食事を下げていった。


 ベッドの側面には固定ベルトのようなものが三本垂れている。暴れる身体を制御するためだったのだろうか。



「君はヴァイオリンの子だよね」

恭介はあの夜と比べて生気のある顔にはなっているものの、眼は落ち窪み、頬はこけたままでやつれた表情だ。

「はい、僕の曲を覚えてくれてありがとう」

「どうしてここに?」

「あなたが持っていた紙袋を拾って、マリーさんに聞いたらここを教えてくれました」

「ああ」

恭介は気怠そうに俯いた。


「あの、具合はどうですか」

「見たとおりだよ、残念ながら生きてる」

「恭介さん、死にたいんですか」

「ああ」

「どうして」

恭介はしばらく黙っていたが、浅い呼吸を止め、一つ深く息を吸うと嘆くように話し始めた。


「俺は必要とされていない人間だからさ。親父には兄貴さえいればいいんだ。俺のことは親父の耳に入っているだろうに、秘書がドクターに治療費と口止め料を渡しに来ただけだ。俺の身を案じることは無い」

「お父さんて、政治家でしたよね。お兄さんも?」

「そう、親父の秘書の一人さ。地元の政治活動に加わったから次は市議会選に出馬だろうな。きっとその次は県議会。兄貴は秀才なんだ、俺はいつも足手まとい。子供の頃からずっとそうさ。何でも出来る兄と何にも出来ない俺。俺は生きている価値なんて無い」



 マコは幼い頃の夜を思い出した。

マコママが公演で居ない夜はアキママが添い寝をしてくれた。そして布団の中でマコとアキに子守唄を歌ってくれた。アキママの歌は下手で歌詞もあちこち間違える。間違えて大笑いする。右と左に二人の子供を抱えながら。


 アキママの右隣はいつもアキがいた。美容師のアキママが鋏を持つ右手。大切な手の方へ自然と自分の子供を置くのだ。マコママが弓を弾く右手でマコを抱くように。

 ほんの少しの差を子供は感じとってしまう。どちらを大切に思っているか気が付いてしまう。それはとても切なくて辛いこと。


「アキはしっかりしていて本当にいい子。マコもアキみたいにならなくちゃ」

マコが公演から帰ってきたマコママに甘えると、マコママが必ず言う言葉。


甘えちゃいけないんだ。

今思えばマコママは公演で疲れていたのかもしれない。

アキママに世話を焼かせているのではないかと心配していたのかもしれない。


けれど当時のマコの心に刻まれたのは


「アキみたいにならないと、マコママからもアキママからも、そしてアキからも


嫌われてしまう」



「君の動画を見つけてマリーさんに教えたのは俺さ。ヴァイオリンを弾いている君は本物の天使みたいだった。死んだら君みたいな子がいる天国にいけそうな気がしたんだ。そう思ったらとても死にたくなった」

「マリーさんにそう話したの?」

「うん。馬鹿なこと言うなって叱られた。親父や兄だけじゃなくてマリーさんにも叱られるくらい俺はダメ人間なんだよ。

そのあとであの煙草、モモコさんに「沢山吸ったら死んじゃうよ」って聞いたから買った。でも死ななかった。みっともない姿を晒しただけだったな」

「僕が公園でヴァイオリンを弾いた夜、マリーさんは倒れた恭介さんに天使だって生きてるんだよ、って言ったんだ。マリーさんは恭介さんに生きていて欲しいから僕を呼んだんだよ、きっと。

すごくすごく、心配していたんだよ」


 恭介は声を出さずに泣いた。

「あの人はどうしてこんな俺を見捨てないんだ」

 嗚咽の代わりの途切れ途切れの息が恭介の涙を押し出した。

「大丈夫?」

「ああ」



恭介は地元の政治家である父の後援者のパーティに同行した時にマリーと出会ったと話した。

マリーは地域の注目を集める目的の新進気鋭な建物にアーティスティックな電飾を設置していた。人口の虹に光の粒を流し、各メディアでも紹介されるほど話題になったが、マリーは決して表舞台に立とうとはしなかった。光の粒はマリー独自の開発で彼にしか作れない。もっと有名になって脚光を浴びてもいいはずだ。

恭介は不思議に思ってマリーを訪ねた。


「そのとき先天性白皮症ってどんな病気か初めて知ったんだ。メラニン色素を作って紫外線から身体を守ることが出来ないから太陽はほとんど見たことが無いって。いつも薄暗いところで生きてる。でも諦めたりしない。自分に手に入らないものは自分で作るって言ったんだ。虹も太陽も自分で作ればいいって。

俺、感動した。何も出来ない俺でも何か出来そうな気がしたんだ。家を出て押しかけるようにバーテンになった。あの人ともっと関わりたいし色々教わりたかった。

そんな矢先、俺の戸籍が勝手に変えられていたことを知った。母方の親戚に養子縁組されて姓が変わっていた。

親父はそれほど俺を迷惑がっていたってことだ。俺は要らない子なんだよ」



恭介の事情はマコの胸に突き刺さる。


要らない子。

マコの心の中にもそれはずっと潜んでいたかもしれない恐怖の言葉だった。


泣きはらした恭介の眼には虚無感しかない。


「恭介さん、マリーゴールドに戻ってきてくださいね。マリーさんもそれを待ってると思うから。それまで僕、あの店でお手伝いしながら待っています」



恭介は仰向けになって天井を見つめたままだった。

マコは「お邪魔しました、お大事に」と頭を下げ部屋を出た。




外へ出ようとするとスコールのような雨が降り出した。足止めを喰らって上原家の大きな玄関ロビーで時間を潰した。

しばらくすると二階から恭介の鼻歌が聞こえた。マコのヴァイオリンの曲。マコもそれに合わせ、一緒に口ずさんだ。

マコの中で中途半端だった曲のイメージが少しだけはっきりとした。 

「バーテンダーは黒服がメインだからといって、まさかマコがメイド服でカウンターに立つとは思わなかったよ」

アキは苦笑した。そしてそれがマコにとても似合ってしまうことに、アキは複雑さを感じていた。

 

 いつものように「アキもお揃いで」とメイド服を着ることをせがまれるのかと思いヒヤヒヤしたが、不思議と今回はそれが無い。

もしや女装子の影響を受け始め「アキと同じ」にするために女装をするのではなく「女装趣味」に転じ始めているのではないかと不安になった。

 しかしヘッドドレスの下で揺れる栗色の髪と笑顔がなんとも愛らしい。マコがにこりと笑うと客は皆大喜びだ。



 アキが時々この店でモモコと組んで女装のヘアメイクを担うようになってから、その出来栄えの良さが噂になりマリーゴールドに女装子の客が増えた。そこにマコのメイド姿の人気も加わり、客は更に増えた。


「アキ、ヘアメイク希望のお客さん、増えたね」

 マコは自分のことのように嬉しそうに言う。

「それよりここでヘアメイクやってること、アキママに言ったでしょ」

「うん、でも悪いことしてるわけじゃないし、いいよね。アキママにはアキは勉強してるんだよって言っておいたよ」

アキはカウンターに座ったまま俯いた。昨日のアキママとのやりとりが頭を過ぎる。辛さがまた蘇る。




「アキ、本当は別の店で働きたいんじゃないの?」

 アキはドキリとした。午前に予約があった客を全て終え、アキママは店の隅で軽い弁当の昼食を摂りながらアキに言った。

「もしそう思っているなら、ここ辞めてもいいんだからね」

少し曇った鏡の端を磨きながら、アキは答えに迷っていた。

「アキ、カズコさんが辞めたからって気にすることは無いのよ。アキは自由にしていいの。こんな小さな店、私だけで十分」

 アキの眼に涙が滲んだ。アキママの「自由」という言葉が辛い。




 美容師の専門学校を卒業後、一年間は東京の大きなヘアサロンでインターンとして働いた。

閉店後には毎日カットウィッグで練習を続けた。しかし先輩達からはダメ出しをされるばかりでシャンプーやドライ、アイロンの他に仕事はさせてもらえない。

仕事をもらえない時は先輩達の邪魔にならないよう床に散らばる切り落とされた髪を掃き集め、カーラーやブラシを洗い、薬剤やタオルの補充した。

同期で同じ店に就職し既に自分の客を持っている者もいるというのに、アキは一年間練習以外に鋏は持たせてもらえなかった。


「あの、何か手伝えることは」

「今忙しいから君を教えている暇ないよ。何もしなくていい。休んでいて」

毎日同じ会話の繰り返しだった。誰も厳しくなかった。しかし誰も優しくなかった。


東京はどこへ行ってもそういう街だ。

「何もしなくていい」という言葉が何よりも怖かった。どこにも自分の場所を見つけることが出来ない。


アキママはカズコという年配の美容師をパートで雇い、二人で店を切り盛っていた。

アキは就職からちょうど一年後、体調を崩したカズコが店を辞めたことで「実家の店を手伝う」という理由を作り、東京からこの街に帰ってきた。

でも本当は逃げたかったのだ。都会のあの先端の世界に挫折していた。自分を必要としない世界に。



「そうしたくなったら、そうするよ」

 アキママはそれ以上何も言わなかった。滲む涙を悟られないようにせっせと鏡を磨いた。


 アキママは強い。


マコを連れてマコママが日本に帰ってきた時、自分も夫と別れたばかりだというのに「一人育てるのも二人育てるのも一緒よ」と公演で留守がちなマコママからマコを預かった。

そのアキママのバイタリティーと優しさがプレッシャーになる。

鏡には真後ろの美容師の免許状が映っている。その上には亡くなったお婆ちゃんと、曾お婆ちゃんの写真。髪結いから始まった老舗美容室のご先祖様達は、鏡越しにこちらを見ている。


ごめんなさい。アキは心の中で呟いた。

「ずっとこの店にいてほしい」そんなアキママの言葉を期待しながら。




「ねえねえ、マリーさん。約束したでしょう?照明作ってよ。キラキラ振ってくるのがいいな、ここのあれみたいにさ、あのキラキラは金色だけど僕のは赤で」

 バクはカウンター席でナッツをボリボリと食べながら、店の中央にあるアクリル版に覆われた黄色が鮮やかなマリーゴールドを指差しながら言った。相変わらず良くしゃべる。トレードマークのおかっぱ頭はウィッグだったらしく今日は男性的な短髪でTシャツとジーンズだ。

上原のところから退院した恭介がマコと一緒にバーテンダーをしている。マコは恭介にカクテルの作り方を熱心に聞いていた。


「舞台の照明と重なると電力が足りないね」

「ちぇ、欲しかったのになあ」


 マリーの答えにがっかりした様子も束の間で、バクはモモコが連れてきた客の髪にブラシを入れているアキに声をかけた。

「ねえねえアキ、次のショーでは縛られてくれるんだよね?」

「そんな話、知りません」

「ええ?公園で約束したじゃない」

「約束なんてしていません」とアキがきっぱり答えると、紅筆を止めてモモコが大笑いした。

「アタシはバクがどうしてもって言うから五万円で縛られてやったわよ」

 そりゃ見たかったな、とメイクを施されている客も笑った。

「モモコさんはもういいよ。大体こっちが金払うなんて。縄師の施術は二万円が相場だっていうのにさ。本当は僕が貰いたいよ」

「観客から金取ってるんだからに出演料は当然よねえ」とモモコはアキに言って笑った。

「お金がどうって問題じゃないです。人のこと縛るなんて、しかもみんなに見せるなんて。酷いっていうか残酷って言うか、理解出来ないです」アキは髪を整える手を休めず答えた。

「そうかなあ、僕は美容師って職業のほうが理解出来ないけど。髪を切るんだよ、人間の身体の一部を切り落とすんだよ。残酷そのものでしょ。僕は縛るだけだもの、しかもお客の希望でね。君の耳にはピアスが付いている。耳に穴を開けているんでしょう?それはどうなの?身体の一部を切り落としたり、穴を開けたり。それはどうなの?残酷じゃないの?」

「それとこれとは全然話が違うでしょう!そんなの屁理屈よ、意味が分からない!」

アキは手に持ったヘアブラシを握り締めバクを睨みつけた。

「それなら縛られてみてよ、意味がわかるから」

バクはニヤリと笑い、恭介の方に目をやった。




地下にあるマリーゴールドの上の一階部分は空き店舗でシャッターは常に下りたままだった。

その上の二階と三階部分は小さなライブハウスになっている。時折激しい音楽が聞こえたり、マニアックな芝居が上演されたりしている。

 ライブハウス内の楽屋は狭く、空調設備も悪い。じっとり汗ばむ空気の中でアキは自分は何でこんなことをしているのだろうと思っていた。どう考えても異常としか思えないこの趣向を受け入れるなんて。

マコは舞台の袖からそっと客席を覗いて「わー満員」と驚いて戻ってきた。

楽屋にはバクが「お手伝い」と呼ぶ筋肉隆々の男が二人、隅で胡坐をかいて座っている。



あの日、マリーゴールドでアキとバクは激しく口論をした。

人を縛ることは異常で、髪を切ることは普通のことだ。産まれてから死ぬまで髪を一度も切ることのない人など居ないに等しい。アキが懸命に論じたところで口達者なバクに勝てるわけが無く、無茶苦茶な論理でまくし立てられた。

バクは恭介もショーに出るように声をかけると恭介は二つ返事で「お願いします」と言った。驚いたアキに恭介は「アキさんも縛られてみませんか?縛られたら自分の事がよくわかるような気がします」と言い、続いてモモコも「縛られるならちゃんと金をもらうのよ」と笑った。店の客達も「アキちゃんが縛られるなら観に行かなくちゃ」と盛り上がり結局緊縛ショーに出演させられるハメとなった。

マコが止めに入っても「そんなに心配なら君も一緒に縛ってあげるよ」と言われる始末で、横で見ていたモモコはずっと笑いっぱなしだった。



まだ照明の消されていない観客席を舞台袖の隙間から覗くと、集まっているのはごく普通の人ばかりでとても緊縛好きなどとは思えない。

「君のおかげで満員御礼だな」とバクは満足だ。

「あの、私やっぱり」

「ま、初めてだから緩めにしておく。心配ないよ」


おかっぱ頭のセーラー服はそういって舞台へ出て行った。

拍手と歓声が怖い。アキには全てが異常に感じる。


しばらくすると「お手伝い」がアキの身体を軽々と担ぎ上げた。一人に上半身、もう一人に下半身を担がれ腕も脚もがっしりと抱えられ、身動きも取れないまま舞台へと運ばれてた。

すぐさまガムテープを口に貼られた。観客は大きな拍手をした。恐ろしくて眼を開けられないでいたらそのまま目隠しをされた。「やっぱり嫌です、止めてください」叫んでもモゴモゴと言葉にならず、唸り声も観客の歓声でかき消された。


私、何やってるの。こんなの最低。


自分がどっちを向いているのかさえわからない。額には汗、目隠しの下では涙が滲んだ。当てられる舞台のライトが熱い。


やめて!お願いやめて!


強張り縮む身体から引き剥がすよう両腕を取られ後ろで縛られた。

バクの声が会場に響く。


「貴女をここへ招待したのには理由があります。ワタシには解る、貴女は縛られたいと思っています。

人は皆、無意識のうちに束縛を求めています。

束縛の全く無い自由は怖いでしょう。そしてとてつもなく寂しいでしょう?

貴女は誰かに、何かに、必要とされ、縛られ、繋いでいてもらいたい。

だから私が縛って差し上げます。もうどこへも行かなくていいように。身体にも心にも安心を差し上げます」

 

歓声は大きく上がった。自分も縛る、自分も縛ってくれ、と言わんばかりに。


 ここにいる人は皆、縛りたくて縛られたいのだ。


 強く拒否をしながら、バクに心の底を言い当てられ身体の芯が震えた。

 自由は、怖い、寂しい。

 都心で働いていた一年が目隠しの下で走馬灯のように流れた。

 怖い、寂しい。

 マコと二人でカルピスを飲んでいた楽園のような季節は東京には見つけられない。


 ロープが身体のあちこちに食い込んでくる。胸と背中、太腿と脛、両腕と首。

アキは自分の身体がどうなっているのか分からなくなっていた。

 ガッチリと身体に食い込むロープはずっと奥底に押し殺していた感情を無理やり絞り出すように噴き出させ、涙を熱くし、呼吸を激しくした。


怖いの、寂しいの、ママ、私をここにいさせて!


無意識に叫ぶ声にアキ自身も驚いた。ガムテープを張られた口ではモゴモゴを叫ぶだけだが、頭の中でその声は、はっきりと何度も何度も繰り返す。


目隠しの下では涙が流れ続けた。ロープが締まるたび嗚咽は高くなった。手足はガタガタと震え、喉の奥は熱くて痛い。身体中が叫んでいる。叫んでいる身体をロープがガッチリと縛っている。


しかしそれは段々とアキの身体に馴染んでいった。ガッチリと縛られているのではなくガッチリと抱えられている。アキはそんな錯覚を感じ始めていた。


「ご気分はどうでしょう?」

バクはアキの目隠しを取った。顔は涙と汗と鼻水で汚れ、頬と眼は真っ赤になっていた。

「今まで味わったことのない充実感が身体中に満ちているでしょう」

バクはそういってアキの唇を人差し指で触れ、そしてゆっくりキスをした。

アキの耳にボーンという低い耳鳴りがし、さっきまで強張っていた全身の力が抜けぐったりとなった。同時に狭い会場が揺れるほどの歓声が起った。


この感覚が充実感?


アキは弱々しく両手の拳を握った。力は入らなかった。



仰向けに寝かされた舞台から観客席の天井が見えた。観客の熱気は湯気となって天井にこもり出口をさがしてユラユラと揺れていた。


歓声に混じって舞台の袖から微かに泣き声が聞こえた。

 それはマコの声だとアキにはすぐに分かった。

アキを担いだ「お手伝い」の二人が現れロープは解かれたが、代わりに大きな孤独感に縛られる。


「ごめん、やっぱりショーを止めればよかった」

舞台袖に戻ったアキを抱きかかえてマコは泣いた。


観客席は再び大きな歓声に沸き、恭介が縛られるショーが始まった。


緊縛ショーが終わって一週間、アキはマリーゴールドに来なかった。


アキは深く傷ついてしまったのではないだろうか。マコはずっと考えていた。

ショーなんて止めるべきだった。僕らが入る世界じゃない。もしかしたらこの店だって僕らがいるべき場所じゃないかもしれない。


ショーの間、舞台上のアキの悲しみと苦しみの全ては分からないが。感じているものの一部は分かった。


それは寂しくて怖いもの。切なくて悲しくて痛々しいもの。


赤ん坊の頃から一緒に過ごした二人でなければ分からない感情を、容赦無くバクが縛り上げた。

痛かったのはロープが食い込んだ皮膚ではなく胸臆。

晒されたのは縛られた身体ではなく僕らが抱えている悲しみの心象。



恭介もショー以来姿を見せない。

恭介は身体を縛るだけではなく、鞭で叩くことをバクに頼んでいた。バクはお易い御用と引き受け、革製ではなくバネのような鞭で上半身裸の恭介の背中を何度も叩いた。  

恭介は顔色一つ変えず初めて会った時と同じ虚無な眼で空を見つめていた。

歓声で盛り上がったアキのショーとは真逆にライブハウスは静まり、恭介と同じ虚無感が漂っていた。


マコはマリーゴルドのオブジェの前でずっと考えていた。


叩くのは何の為?

女装は何の為?

縛るのは何の為?


僕が今ここにいるのは何の為?


光の粒はいつも通りゆっくりと黄色い花の上に落ち、すうっと消えていった。




毎年お盆は町内の祭りで浴衣の着付けや髪結いで忙しい。アキとアキママは二人で夕方から公民館に行ってしまった。

お盆の間もマリーゴールドは開店していたが、客は殆ど来ない。

モモコも稼げないと思ったのか姿を見せない。



カウンターの奥には「STAFF ONLY」と書かれたドアがありマリーの作業場になっている。マリーは客が居ない時にここで電飾の作業をしていた。


今日も客は一人も来ない。

マコはカウンターとグラスを磨き、氷を割ってハーブと果物を揃えるとやることが無くなってしまい、フロアに出てヴァイオリンを弾いた。

盆明けにはマコママが帰ってくる。そして一番でマコにバイオリンを弾かせるだろう。大学が夏休みで指が訛っている。マコママが帰ってくるまでに感覚を戻さなければ。



幼い頃はアキもヴァイオリンを弾いていた。マコと一緒にマコママに習って毎日弾いていたのだ。

二人で弾く協奏曲が大好きだった。ヴィバルディー、モーツアルト、チャイコフスキー、アニメソングからアイドルの歌まで、弾き方は滅茶苦茶で楽しければ何でも良かった。 

指が音階を覚えてしまえば、口ずさんだとおりに音は奏でられる。


何を弾いてもママは止めなかった。何を好んでも、何を選んでも。

マコがメイド服を着て女装子が集まるこの店でヴァイオリンを奏でてもママはきっと止めない。そしてきっと言う。


「芸術は何処から始まってもいい。始まりがあって終わりのないのが芸術よ」


マコは未完成の『Requiem for princesses』を弾いた。終わることの出来ない曲は延々とリピートする。終わりがないのではなく終われない曲。永遠は哀しい。



手を止めると店の中は静まり返る。

マコはヴァイオリンの弓を縦に持ち、弦を擦ってキュッキュッと音を鳴らした。

マコとアキが協奏する時、お互いをメロディの中へ呼ぶときは必ずこの音を鳴らした。

これは「おいで」の合図。誰もいないフロアに返事があるわけが無いが、もう一度鳴らした。


シャラララン



相手が居れば丁度返事が来るタイミングで鳴ったウィンドベルに振り向くと、アキではなく高校生くらいの男の子が立っている。


「へえ。ヴァイオリン、上手だね」

未成年は入店出来ません、とマコは言おうとしたが勝手知ったるように店内に入ってきた。


「そのメイド服、似合ってるけれど君もやっぱり男なんでしょ?ねえ、父さん作業中かな」

「マリーさんの息子なの?」


うん、と言いながらカウンターの内側に入り、マコがさっき砕いた氷をグラスに入れ冷蔵庫から出したオレンジジュースをそこに注ぎ、一気に飲み干した。

「ふう、外は暑かったよ」

甘酸っぱい息を吐きながらにこりと笑った。

髪は黒く短く肌は黄色人種のそれであるが、端正な顔立ちとスレンダーな身体はマリーとよく似ている。

マリーの息子はカウンターの外へ出てチェアに座り、肩掛けしていたバックからカラー写真の入った案内書のようなものを何枚か出しそれをカウンターに並べた


「マリーさんを呼んでくるよ」

「作業部屋にはモニターがあるから父さんは僕が来てることわかってるよ。出てこないのは手が離せないってことさ。しばらくすれば出てくるよ。それよりさ、君、父さんが見てた動画のヴァイオリニストかな?天使の格好してた人」

「そうです。真琴と言います」

「へえ、やっぱり。俺、晄(ひかる)です。よろしく」


「どうした、晄」

 晄の言ったとおり、しばらくするとマリーは作業場から出てきた。今日はいつものドレスを着ておらず、シャンパンブロンドの髪は後ろで一つに束ね、上下つなぎの作業服を着ている。晄と会話する姿は普通の父親だ。

「留学が決まったんだ。その報告」

晄はカウンターに並べていた案内書をマリーに渡した。マリーはそれに眼をやったが顔を曇らせた。


「クィーンズランド。父さんの勤める大学だよ、一緒に行ってもいいでしょう」

「え、マリーさんが?」


オーストラリア。クィーンズランド州。技術大学。

勤める大学、ということはマリーはオーストラリアに行ってしまうということだ。マコは驚いた。


「二月の新学期に間に合うように行くつもり。三月のこっちの卒業式には一度帰ってくるけどね」

「爺さんは知っているのか」

「許可はもらったよ。父さんが講師になるってことは言ってないけどね。一緒に暮らしたいんだ。昔みたいに」


様子から見て複雑そうなマリーの家族の事情に立ち入ってはいけない。そう思いマコはカウンターの外に出た。

「あ、ええと、オレンジジュース買ってきます」

「あ、ごめんなさい。俺が飲んじゃったから」

「ううん」

そういってマコは足早に店を出た。夜に蒸れた空気が息苦しい。どこかで鳴いている蟋蟀が秋が近いこと知らせてくれる。けれどまだまだ暑い。


メイド服のまま外を歩けば視線を集める。

「この辺にメイド喫茶なんてあったっけ」通りすがる声に聞こえないふりをして通り過ぎる。

少し先のコンビニに入り、果汁100%のオレンジジュースをレジにもっていくとアルバイトらしき男性の店員に「ねえねえ、女装子の店のメイドさんでしょ」と声を掛けられた。

「はい」と返事をして金を払うと逃げるように店を出た。


逃げることはないのに。この後ろめたさはなんだろう。




マリーゴールドへ降りる階段の前まで戻ると、晄が店を出て階段を上がってきていた。

「おかえりなさい、おじゃましました」

「ねえ待って。マリーさんはオーストラリアに行ってしまうの?」

「知らなかったの?」

「うん」

地下からの階段を登りきった晄は建物を見上げた。


「ねえ、この建物の屋上って行ったことある?」

行こうよ、と言って晄はマコの返事も待たずに細い階段を登っていった。

マコはオレンジジュースの入ったコンビニ袋を提げたまま晄に付いていった。



三階建ての建物の屋上に出る錆びた鉄のドアには鍵がかかっておらず、押せばギイイと低い音で簡単に開いた。

空調設備の室外機が鈍い音を立てて熱風を噴出すのでその方向を避け、落下防止の低い柵の下のコンクリートの縁に腰掛けた

「向こうが西だから城の在るほうだね。今は暗くて見えないけど」晄は指を差した。


「城のある丘のほうに街灯の明かりが見えるでしょ。あの辺りが宝物庫。普通の人は入れないんだけど俺は宝物庫の鍵を持ってる。俺の先祖はあの城の城主だからね」

「へえ、そうだったの」

「と、言ったって戦で一番早く落城したヘタレ城主さ。落城の時に価値のあるものはみんな獲られて残っているのは巻物くらい」

「じゃあ、マリーさんは」

「ううん。父さんは婿。母さんが亡くなった後、清佐和から籍を抜いたんだ」

「そう、お母さん亡くなったんだね」

「菊姫って知ってる?姫の岩の。本当の名前は白菊でね、その姿は宝物庫の巻物に描かれているんだ。

肌も髪も真っ白でね、白菊も多分父さんと同じアルビノだったんだ。昔はアルビノが特異体質なんて誰も知らないから、呪われた子だといわれてね。

落城したのも白菊のせいにされた。

白菊は殺されないように出家したんだけれど、系図や記録を見ると早くに亡くなっているから本当は殺されちゃったのかもね。

呪われないように魂をあの岩に閉じ込めたとか、いろんな言い伝えがあるんだ」

「そのお姫様、本当は男だったんでしょう?」

「へえ、よく知ってるね。言い伝えではそうだけど、本当のところは誰にもわからない。

うちの爺さんは、父さんのあの身体を嫌ってね。結婚は最後まで認めなかった。

僕が生まれてしばらくして母さんは父さんと家を出たのだけれど、母さんは俺が十二歳の時に病気で亡くなって、言い伝え通り呪われたんだって爺さんはますます許さなくてさ。

俺は強引に清佐和に引き取られて今に至るってとこ」

「淋しい?」

「うん、淋しいかな。こうやって会いにくるくらいだからね。

俺、父さんがつくるライティングが大好きでさ。幼い頃に母さんが父さんは光の魔法使いなんだって言ってたのを、俺、信じちゃってた。大きくなって魔法じゃなくて才能と技術なんだってわかってから、ますます父さんを好きになった。

俺の名前ね、日光と書いて晄。父さんが付けてくれた名前。父さんが一番憧れているものだよ」

メラニン色素が作れない身体のマリーは日光に当たることが出来ない。日の光はマリーが一番欲しいものに違いない。


「父さんはね、手に入らないものは自分で作ればいいって言うんだ。太陽もいつか作るって。すごいよな」

「晄君、マリーさんの勤める大学に通うんでしょう?そこで一緒に光の研究できるといいね」

「うん。父さん、渋々だけどさっき認めてくれたよ。父さんは爺さんに見つかって揉め事が起きた時に俺を巻き込むのが嫌なんだと思うけど、俺はもう幼い子供じゃない」

晄は「外は暑いな」と言いながら学校の案内書でパタパタと仰いだ。


「ねえ、君はどうしてこの店に来たの?」

「マリーさんにメールをもらったんだ。清佐和城の最期の姫の命日に清佐和公園でバイオリンを弾いてくれませんかって。それでその命日に公園で演奏したんだ。それがきっかけでここに」

「命日っていつ?」

「七月一日」

「それ、母さんの命日だ」

「え」

「それからさ、俺の母さんの名前。麻里って言うんだ。」


マリーという名は自分の妻から肖ったものだったのだ。麻里さんは確かに清佐和の血を引く言うなれば「姫」だ。

「じゃあ、公園で演奏したあの曲のタイトルを変えなくちゃね」


『Requiem for Mari』


マコの中でそのメロディがまた少し変わった。未完成だった部分がはっきりと旋律になった。

キラキラと光が降るマリーゴールド。

マリーが今は亡き愛する妻のために作った光。その光はマコの中で旋律となった。


「へえ。その曲、いつか聴かせてよ」

晄が顔を近づけまじまじとマコの顔を覗き込んだ。

「君、本当に可愛いよね。でも男なんでしょう?」

晄の唇がマコの頬に触れた。

「母さんにヴァイオリンを弾いてくれてありがとう」

じゃあね、といって晄は鉄のドアの向こうの階段を降りていった。


マコの心臓がドクンドクンと大きな音を立てて鳴った。




マコからマリーがオーストラリアに行ってしまうという話しを聞いて、アキはしばらく遠のいていた足をやっとマリーゴールドに向けた。


マコはマコママが帰ってきてからバイオリン漬けだ。マリーゴールドは休まざるをえない。恭介も緊縛ショー以来姿を見せていないと聞いた。

マコがバーテンをしている間にアキも少しカクテルの作り方を覚えていたので、ヘアメイクよりも店の手伝いのつもりでマリーゴールドに向かった。

さすがにメイド服は着ないが袖の丸いパフスリーブのブラウスと黒のフレアスカートを着た。


緊縛ショー以来、アキの心のモヤモヤは取れない。


どこか性的な匂いのするそのショーの行為はもとより、自分の中にそれに繋がる何かがあることを認識してしまった。

それは認めたくない自分自身。あってはならない自分。


自分さえ知らなかった心の内側にバクは強引に入り、それを開き、晒し、認めさせた。出来れば知りたくなかった。

でも知ってしまった以上それは自分の隠れた本心であることを認めるしかなかった。そしてもっと深い何かがあるのかもしれないと感じていた。

その未知の世界に恐怖を感じていた。赤いロープは身体から解かれても、心はずっと孤独と恐怖に縛られたままだ。


いつものように日暮れの繁華街を足早に抜ける。客引きの男が薄い笑みでチラリとアキを見る。


あの客引きもバクも恭介もマリーゴールドの客も

そしてマリーも

何かが繋がっている。


嫌だ。怖い、気持ち悪い。



盆が過ぎた途端、日が傾きはじめると昼間のジリジリとした暑さに逆らうようにひんやりとした風が吹き始める。

昼と夜がタイマンを張るかのように夏と秋も競っている。



店に入るとモモコがダルそうに一人ソファーに座っていた。

「あら、ひさしぶり。マリーなら電飾部品を買いに行ったわ。あと一時間は返ってこないと思う。

外は涼しくなってきているのにここは蒸し暑いわ。なかなか冷房が効かないわねえ」

モモコは「STAFF ONLY」のドアを開けるとスタスタと中へ入り、部品が詰まれている棚と大きな作業代の脇を抜け「ここが一番涼しいのよ」と、一番奥の簡易ベッドに腰を下ろした。


「アンタの彼氏は来ないの?」

アキは今までモモコと一対一で話したことはほとんど無かったことに気付いた。

「マコは彼氏ではありません、またいとこです。物心つかないうちから一緒に暮しています。しばらくはヴァイオリンの練習が忙しくて来ません」

「ふうん、家族同然じゃ女装してても嫌悪は無いか。ここに来る女装子には慣れた?」

「いえ、あまり。何故女装したいのか、分かりません。

マコは子供の頃から私となんでも一緒が良くて、それがきっかけで女装が始まったけれど、他の男の人が女装したい気持ちが分かりません」

モモコはふふふと笑った。

「女の子って好きなアイドルやモデルのファッションを真似たりするじゃない。それだけその人が好きだったり憧れたりしてるからでしょ。

男の娘達も同じよ。女装っていったって様々でジャンルも色々あるけれど、みんな自分の好みの女になるのよ。自分が抱きたくないような女には絶対にならないわ。憧れた存在がたまたま女だったというだけ。

マコだってアキのことが好きで真似したがるんでしょ。

きっとマリーも同じね。彼は死んだ妻を追い続けてる。マリーって名前も妻の麻里という名を借りたものよ。この店だって元は彼が麻里にプレゼントしたカフェバー」

「そうだったんですか」

 モモコは切り裂いたデザインのジーンズの尻のポケットから潰れた煙草の箱を取り出し一本を口に咥えると、作業代の上にあった小さめのバーナーを灯し煙草に火をつけた。


「アタシねえ、麻里の親友だったのよ」

モモコが天井に向けて吐いた煙はエアコンの風に揺れながら段々と薄められ消えていく。

「あなたが最初にここへ来た日、マリーがヘアを頼む為に写真を見せたでしょう?あれが麻里。女のアタシから見てもいい女だったわ」

 アキは黒髪の女性の映った写真立てを思い出した。


「麻里は生まれつき心臓に疾患があったの。その事を彼に知らせないまま麻里は子供を産んだわ。しばらくは元気でいたし、この店も経営してた。でも病気が悪化して死んでしまったわ」

モモコはドアを開けてフロアの中央のマリーゴールドのライトオブジェクトを眩しそうに見つめた。

「あれも彼が麻里の好みに合わせて作ったの、麻里が好きだった花。彼がここで着ている黄色のドレスも麻里の遺品を直したものよ。ずっと忘れることなく求め続けているのね、麻里のことを」


モモコは少し遠い眼をして煙草の煙を眺めていた。煙は口から吐き出されては周りの空気に薄められ消えていく。

「死んだものは二度と帰って来やしないのにね」

 それはが亡くなった親友への悲しみなのか、追い続けるマリーへの憐みなのかアキには分からない。


「アタシは過去を追うより未来で成功したいの。自由の国アメリカで。でもね、自由には沢山お金がかかるのよ」

特殊メイクをやりたいのよ、とモモコは話を続けた。

「アタシは変身するのではなく変身させる側になりたいの。

誰だって変身願望はあるものよ。アタシは実在しない創造上の顔や身体だって作り上げてみせるわ」モモコはアキの方を向き、強い眼差しでニッと笑った。


モモコは意志が強い。アキママに少し似ている。

あの日、そんなモモコに「手伝ってよ」と言われたのが嬉しかったのだと、今頃気が付いた。

アキは今自分がここにいる単純すぎる理由と、弱くて小さい自分を考えると悲しくなった。



モモコは短くなった煙草を床の隅にあったコーヒーの空き缶に入れると、いつものキャスターバッグの外側のポケットから別の煙草を取り出し咥えた。



「一服どう?」

「いえ、煙草は吸いません」

「これは煙草じゃないわ。ハリウッドに留学した時に知り合ったメイクの先輩が時々送ってくれるの。向うではお祭りの日にみんなで咥えるのよ。日本にもあるでしょ、ハッカパイプとか」

それは確かに煙草とは違う赤やオレンジのビビットな色の巻紙で、モモコが火を着けても煙はほとんど出ずハッカのような清涼感のある香りが狭い部屋に広がった。


 モモコに手渡されたそれを恐る恐る咥えてみた。

一口吸うと、爽やかな香りが肺に入り込み、スーッと落ち着いた。もう一口吸うと肩の力が抜け、更に落ち着いた。


しかし落ち「着く」はずが落ちていく感覚が止まらない。

段々と意識が揺らいで頭の奥でゴーッと音がした。暖かい血液が流れる音。心地良い音。その音に誘われ、引きずられるように招かれ、どこまでも深く沈んでいく。


全身の細胞が心地良く楽な方を選んで動く。

そしてその細胞達が言う。


楽になろう。気持ち良くなろう。悩みも不安も捨ててしまえ。

男でも女でも男の娘でもどちらでもいい。

鋏もロープもどうでもいい。何でもいいんだ。

何でもいいだなんて、可笑しいだろう。

そうだ、笑ってしまえよ。


「可笑しいでしょ。思いっきり笑っていいのよ」いつの間にかモモコは隣に座っていた。

可笑しい、全て可笑しい。

ゲラゲラと笑った。なんて下品な笑い方だろう。それがまた可笑しい。笑いが止まらない。


「楽しくて気持ちいいでしょ。こっちを向いて」

モモコの笑顔が揺れている。その笑顔が近づいて柔らかいものがアキの唇に触れた。

モモコの小さな舌が唇の間を滑り込み口の中で蠢いた。それは生温かい何かが身体の奥深くへ入り込んでいき、全身を内側から優しく愛撫されているような錯覚を起こさせた。


頭の奥で響いているゴーッという音が次第に激しくなり脳味噌が暴走しはじめる。全身の細胞が叫びだす。

世界の全てを欲しがるように。


もっと欲しい

もっと早く。

もっと強く。




突然作業室のドアが開いた。

「うあー!」

マコは駆け寄り、ブラウスははだけ、スカートも捲れた半裸のアキを抱えて叫んだ。

マコはすぐに自分のメイド服の真っ白なフリルエプロンを外し、アキのはだけた胸を覆った。

「アキ、ごめんね。ごめん。僕が居ればよかった」

アキは焦点の定まらない眼をしたままマコに抱えられている。

後ろからTシャツとジーンズ姿のバクが飛び出すように現れた。

「アキ、ドラックをやったのか!モモコ、お前だな!恭介に渡していたのも」

「ふん、通報したければすればいいわ。日本では危険ドラックのリストにも載っていない合法モノよ、刑罰にはならないわ。なんならまた縛る?いつものショーみたいに」

「二度と嫌だね、お前なんか縛ったらロープが汚れる。マコ、アキをドクターに診せて!」

「ドクター上原?ふふふ、随分世話になるのね。みんな知ってるくせに、麻里の腹違いの弟だってことも」

「え、腹…違い?」

「そうよ、清佐和麻里。上原雅成。姉弟よ。ドクターの家に光江って女がいたでしょ。あれがドクターの実母。あら、アキとマコはまだ知らなかったのね」

「そんなことはどうでもいい!もうここへは来るな!」

バクは両手を握りしめて叫んだ。

「もともとそのつもりよ、マリーもいなくなるしね。アタシもそろそろハリウッドに渡るわ。恭介も連れて行くつもりよ。あの子はこのまま日本にいたら本当に死んじゃうわ。    死にたい死にたいって言うから、死なない煙草をあげたのにね。」

「なんだよそれ、死なない煙草って」

「さあね。あなたの大好きなドクターに聞いてみたら?」



モモコはクスクスと笑みを漏らしながら店を出て行った。ガラガラとキャスターバッグの音が遠ざかっていった。




バクがドクターに電話をすると、すぐに有紀夫が黒いベンツで迎えに来た。

アキを負ぶってメイド服に汗をにじませながら店の前で待っていたマコに有紀夫はベンツの窓から顔を出すと

「もう、バカねえ。早く乗せて」と言いながら後部座席を顎で指した。


既に日が落ちた清佐和の街を、城址裏の上原医院の家へ向けて有紀夫は思いっきりアクセルを踏んだ。

朦朧としているアキを抱きしめながらマコは自分を責めずにいられなかった。



あのショーも今日の事も、何故防げなかった。

アキが苦しむのを見たくない。

僕はどうすればいい。



「さあ治療するわよ」

上原医院に到着すると有紀夫はニッと笑い、アキを軽々と抱え上げ診察室まで運び、ベッドの真っ白なシーツの上へ寝かせた。サテンピンクのナース服でもその瞬間は男だ。

光江は表情を変えずに素早くアキの服を脱がせ、眩しいくらいのライトを全裸になったアキの白い肌に当てた。アキは変わらず朦朧としており、意識はあるものの返事すら出来ない様子だ。


「何喰った?」診察室に入ってきたドクターはぶっきらぼうな口調でマコに訊いた。

「食べたんじゃ無くてハッカパイプみたいなのを吸ったみたいです。バクがドラッグといっていたけれど」

「何処から手に入れた?」

「モモコさん」

「ふん」



光江は湯気のたったタオルをアキ乳房にしばらく押し当てた。ドクターはそのタオルを捲り両手で強く乳房を掴むと、うっすら赤い斑点が白い乳房に浮き上がった。

アキをうつぶせにさせ、尻にも同じことした。両股の内側にも。

その度有紀夫は「はい、チーズ!」とその部分を写真に撮っていった。

その様子が如何わしく思えてマコは不安になった。

「あの、何しているんですか」

マコの問いにドクターは何も答えず「コントレクト」と光江に指示をだした。

「承知しました」

光江はテキパキと動き、点滴の用意をしながら不安そうに様子を見ているマコに言った。

「アキさんの身体の柔らかいところに斑点が出ています。それが出ている間はドラッグが体内に残っている証拠です。完全に消えるまではここに居てください。神経に障害が出てしまってからでは遅いですからね」

「この子、美容師さんでしょう?ちゃんと解毒しないとハサミ使えなくなっちゃうよお。死にはしないけど、神経の感覚が鈍るドラッグだもん」

有紀夫はカメラを片手に笑いながら最後にアキの顔を撮った。



しばらくするとアキの意識ははっきりしてきたが悪感が始まり何度もトイレに行った。

点滴スタンドに掴まっても足元がふらつくアキを心配してマコは病室とトイレの往複に付き添った。ドクターと様子を見に来た有紀夫が二人に声を掛けた


「あら、効いてきたのね。これはねー、あなたが吸っちゃったヤツを相殺する薬なのお。ドクターが作ったのよ、ね、天才でしょ。あ、この薬、高いから。恭介さんの時は重症だったから三日使って、三百万円払ってもらったのよ。ふふふ」

「そんな大金、僕達には用意が」マコが驚いて答えると後ろからドクターが言った。

「金は要らない。その代わり全て忘れろ。おそらくモモコは幾つかの合法麻薬を売りさばいていたはずだ。マリーは海外へ行き、マリーゴールドは閉店する。あの店も関わった人間のことも全て忘れろ」

「きゃあ、ドクター優しい!あのね、実はマリーさんの仕事もドクターが探したのよ」

「え、何故」


「ドクターのお姉さんの遺言だから。お姉さんの死因、モモコって女の持ってきた薬だったのよね。でも頼んだのは本人」

「お姉さんて、麻里さんでしょう?心臓の病気ではなかったんですか?」

「確かに先天性の心臓疾患はあったみたいだけどね。夫のマリーさんと自分の実家が上手くいかないから家を出て晄君を産んだでしょ。そしたらもっと実家と仲が悪くなって悩んでて、そのストレスに効く薬を探してモモコに頼んだみたい。全くとんでもない女だわ、モモコって。心臓に持病があるのにあんな薬渡して!ドクターは全部知ってて看取ったの。死因も持病による心不全ってことにして」

「有紀夫、黙れ」

「はーい、ごめんなさーい」

「どういうことなんですか?僕、晄君に会いました。マリーさんの勤めるオーストラリアの学校に入学するって言ってました。でも彼は麻里さんの死因やモモコさんのことは何も知らないですよね」

マコの質問にドクターは背を向けたまま答えた。

「全て麻里の遺言だ。晄には何も知らせないこと。将来父親と暮らせるように仕向けて欲しいこと。モモコの罪を隠すこと」

「え、それって」

「麻里は自殺だ。死ぬ為の薬をモモコに頼んだ。さすがにモモコもここへ相談に来た。マリーも麻里の実家も知らないことだ」

「えーアタシも知らなかった」と有紀夫が素っ頓狂な声を上げると光江が有紀夫の腕を引っ張って診察室から出ていった。込み入った話なので気を利かしたのだろう。

「なんで自殺なんて」

「麻里を連れ戻すために父がマリーの仕事が続けられないよう、彼の進めていたプロジェクトを阻止し始めた。おそらく当時県知事だった恭介の父親を金で動かしたんだろう。それを知って俺も清佐和家を出て母親姓に戻った」

「止められなかったからですか」

「ああ、それに俺はもうあの家には要らない人間だった」

ドクターはポケットから煙草を取り出して咥えた。黒い巻紙に金のストライプ柄のそれは日本で売られている煙草ではないようだった。



「俺は麻里とは腹違いだが歳は同じ。麻里は生まれつき心臓に疾患があった。右心房と左心房の間に小さな隙間があって動脈の血液に静脈の血液が混じってしまう。激しい運動は禁じられている。出産も危険だ。

清佐和の家は跡取りに健康な男子が欲しかった。だから俺は妾の子だが清佐和の家に引き取られ、しばらくの間、麻里と一緒に清佐和の家で暮らした。父は厳しい人だったが継母は優しかった。麻里と区別なく育ててくれた。毎日が楽しかった

お前たちを見ているとその頃を思い出す」


アキとの暮らした幼い頃の日々の記憶がマコの想像する麻里とドクターの幼い頃の様子に重なった。

本当の姉弟でなくても同性でも異性でも関係無かったはずだ。楽しければよかった。


旋律がめちゃくちゃなヴァイオリン。弦が緩んで音階がおかしくて、そんなのどうでもよかった。笑顔しかなかった世界から少しずつ大人になって、僕らの笑顔も少しずつ減っていった。


戻りたくても戻れない。

きっと同じ世界に麻里もドクターも居たのだ。


「麻里に男の子が生まれた。俺はそれで完全にお役御免」


お役御免。


優しかった継母にはっきりそう告げられたわけではないだろう。

しかしどんなに優しくされても本当の親子の絆には一歩及ばない。それはほんの些細な出来事でもはっきり答えを現わし、自分の存在を否定する。



俺は要らない子



あれから恭介の姿を見ていない。

恭介とドクターと自分。

同じ孤独を心の奥に持っている。


ドクターは眠っているアキの胸元を開いて、再度斑点を確認した。「斑点が消えるまではここを動くな」と言ってドアへ向かった。



そしてドアを開け背を向けたまま、部屋を出る前にマコに言った

「お前、そろそろ男になれ」

「バク、久しぶり!」

「有紀夫、元気そうだな。その容姿じゃ、変わりすぎてすれ違っても誰だか分からないな」


ドアの向こうから聞こえる会話でアキはバクが訪ねてきたことを知った。



身体の斑点は昨日よりずいぶん薄くなった。

光江は「二、三日で消えますよ」と言っていたので明日には家へ帰れるだろうかと、アキはまだぼんやりする頭で考えていた。

マコはアキの着替えを取りに一旦家へ戻っていった。


「アキ、具合はどう?」

部屋に入ってきたバクは短髪の頭をを掻きながら「ここは涼しくていいなあ」とベッドの前のソファーにドカッと腰掛けた。

「昨日はありがとう。斑点はまだ消えないけど大丈夫よ」

「ふふん、アキ、おねしょしたな」

「え」 

何故分かったのだろうと周囲を気にすると、ベッドにはビニールパッドが敷いてあり、自分は薄い検査用の着衣のままだった。アキが慌てる様子を見てバクは笑った。

「嘔吐も酷かったか?」

「ううん、嘔吐はそれほどでもないわ」

「恭介は失禁も嘔吐も酷くて禁断症状で暴れたと聞いていたから、それくらいで済んだのなら良かった。有紀夫も元気そうだし」

「有紀夫さんと知り合いだったの」

「ああ、ドクターがお気に入りの『金鳳花』ってゲイバー知っているだろ。僕たちはあの店でショーをやっていたんだ。でも今とは逆で僕は縛られる方さ。そして有紀夫は縛る方」

「へえ、意外ね」

「その頃の有紀夫は筋肉ムキムキの正真正銘のゲイ。でも顔は不細工で性格はネチネチしていて店の中では嫌われ者。

好きだった男に振られ、仲間に苛められ、自殺未遂をしたんだ、ショーの最中に自分で首吊って」

「緊縛ショーで?」

「そう、その時に助けたのが客だったドクターさ」

「あー、ダメよ、バラしたら」

有紀夫がアキの点滴を取り替えに部屋に入ってきた。

「僕は昔のお前を知っているから、その姿は気持ち悪いよ」

バクがクックッと笑うと有紀夫もクックッと笑った。


「有紀夫さん、どうして整形を?」

「アタシ、自分のことが嫌いでね、生まれ変わりたかったの。

自殺未遂しちゃった後にドクターに相談したら「じゃあ整形してやる」って言ってくれてね、どうせなら全身やってくださいってお願いしちゃった。でもお金なんかなかったから代金はここでのタダ働き」

「どうせドクターの玩具(おもちゃ)だろ?」

「そうでもないのよ、ドクターはゲイじゃないしね。馬鹿なドラッグにハマった人を拾う闇医者は少ないから案外忙しいのよ。こんな田舎で、しかも高額治療なのに患者は多いわ」

「ゲイじゃないのに『金鳳花』に来ているのはドラッグ患者を拾うためか」

「ふふ。あのね、『金鳳花』のオーナーって実はドクターよ。あの店を通して患者を受け入れているのは当たりだけど」

「ええっ、ちっ、やられたな。道理でドクターへの待遇がVIP過ぎるわけだ。客の振りをしていたなんて」

二人はまたクックッと笑った。

「で、そっちはアタシが知らない間に緊縛ショーを派手にやっているんでしょ」

「あ、僕、縛る方が才能あったぞ」

「あら!」

「この前、アキもショーに出てもらって縛った」

「へえ。アキ、どうだった?縛られてみて」

「どうって。うーん、怖かったです」

「それって、縛られることがじゃなくて自分が怖くなったんでしょ。知らない自分が現れなかった?」

「はい」

「緊縛って一種の催眠術みたいなものだからね。催眠術は医療にだって使われる行為さ僕は君を治療したんだよ。君は自分で隠している孤独でそのうち心のバランスを崩すだろうからね」



催眠術。

アキはショーの間、コントロールが出来なかった自分の感情を思い出した。

吹き出すように溢れ出た感情の中に本当の自分を見た。そこにいたのは初めで出会った自分だった。

 


「僕は縄を使うけど、モモコは同じ目的にドラッグを使う。僕はそれには反対なんだ」

「恭介もモモコのドラッグにやられちゃったしね。ふふふ、アキちゃん、未遂で良かったわ。危うくモモコに犯されるところだったんでしょう」

「あの、私、そんなに孤独に見えますか?バクさんにもモモコさんにもわかるくらい」

「見えるね。君の事情はよく知らないけどマコの前ではしっかりしなくちゃ、と思っている。本当は自分が支えてもらいたいのにそういう存在がいない。図星だろ?

あはは、図星すぎて何も言えないか。まあまた自分の事がわからなくなったら僕が縛ってあげるよ」


お見舞いの品だと言ってバクは小さな紙袋をベッドの脇のテーブルに置いた。

紙袋の口からは白いウサギのぬいぐるみの頭がはみ出ており、大きな二つの耳が紙袋の外へ垂れ下がっていた。


「ねえ、恭介君はあれからどうしているの」

「恭介は自分が子供だってことに気が付いたんじゃないかな。誰からも必要とされてないから死にたいなんて甘えた子供の言うことだろ?自分で自分を必要としない奴を誰が必要とするのさ、あはは。そういえばアメリカへ留学するって言ってたな。本当にモモコが一緒なのかは知らないがね」

ではボクはショーの準備があるから、と言ってバクは部屋を出ていった。


「私も甘えた子供なのかもね」

バクの置いていった紙袋からウサギぬいぐるみを取り出すと、首から下は赤縄できっちりと緊縛されていた。

有紀夫はそれを見て「あはは、アタシならその大きな耳から縛り上げるけど」とケラケラと笑った。


あのショーと時のように自分と同じ縛り方で緊縛されているウサギをそっと撫でると、今まで自分で気が付くことが出来なかった孤独の感触が指先にじわりと伝わる。


「ねえアキ、縛られている時って、誰かに強く抱きしめられているような感じがしない?

緊縛って、愛よねえ」


そうなのかもしれない。

ウサギの垂れた大きな耳がとても寂しく見えて、この耳も縛ってあげたいとアキは思った。

真夏の茹だるような暑さがおさまる頃、アキの身体の斑点も跡形もなく消えていった。

夕方になるとひんやりとした風が吹くようになり、清佐和城址は蝉の大合唱からコオロギと鈴虫の大合唱に交代した。


マリーゴールドは慎二が店を買い取ることになった。

慎二のプロポーズは成功し、結婚の日取りが決まった。妻となる春菜という女性がマリーゴールドのオブジェクトをたいそう気に入ったのだ。それならと慎二は店ごと買い取った。


モモコは誰にも知らせずアメリカに発った。

同じ頃、恭介が留学という名目でアメリカに発った。おそらくは二人は一緒なのだろう。



常連の客達がマリーゴールドの最後の営業日に集まった。

皆それぞれに持ち寄ったマリーゴールドの花束で飾られ、店内は華やかな黄色に染まった。


マリーは晄と「STAFF ONLY」と書かれたのドアの向こうで何か作業をしているらしく、店が開店しても出て来ない。バーテンダーはマコとアキに任された。


マコはウォッカとカルピスを生のパイナップルジュースで割ったオリジナルのカクテルを作り、めいいっぱい着飾った女装子達に配った。

「マコちゃんのメイド服も見納めねえ」

「今日はヴァイオリン弾いてくれるんでしょ?」

「はい、あとで弾くつもりです。今日は特別に二人で」とマコは言い、カウンターを手伝っていたアキのほうを向いた。

わーっという歓声とともにアキに向けて拍手が起こった。

「ものすごく久しぶりだから、良い音は出ないかもしれませんよ」

アキは苦笑いした。


最初の頃よりなれたものの、女装子達の中に上手く溶け込めず、アキはマリーゴールドの最後の日まで何となく浮いた感じを消すことはできないでいた。

モモコが居なくなってメイクの依頼が無くなり、同時にヘアメイクも無くなった。

客達は段々と自分でメイクする術を覚え、独自のスタイルを身に付けていった。アキはここでも居ても居なくてもいい存在になったと感じていた。


「何もしなくていい」

東京で何度も聞いた言葉がアキの頭の中で反芻する。

マコはそんなアキの気持ちに気が付いていた。しかしどう励ましていいのか思いつかない。


ドクターに言われた「男になれ」という言葉がマコの頭の中で反芻していた。




シャラララン


ドアが開くと同時にウエディングマーチが流れ、慎二と春菜が現れた。

慎二は仕事帰りのスーツ姿で、婚約者の春菜はいつか慎二が来ていたものと似たシースルーのブラウスとロングスカート姿だ。

春菜はグラマラスで色気がある。歳は慎二よりも上のようだ。


「おいおい、聞いてないぞ」とウエディングマーチに驚いた慎二が照れ臭そう言うと

「知らせてないから面白いんじゃないの」と誰かが笑った。

カウンター席に座った二人にマコはカクテルにパイナップルジュースではなくクラッシュストロベリーで割ったピンクのカクテルを作り、それを二人に渡した。

「おめでとうございます」

「ありがとう。マリーゴールドは春菜が続けるからこれからも遊びに来てよ」

慎二が言い、春菜をアキとマコを紹介した。春菜はよろしくね、とウインクした。


お祝いの胴上げよ!と誰かが叫び、慎二の大柄な身体は女装子達に抱えられ、ワッショイワッショイと宙に上がった。

「女装してても、やっぱり男よねえ」と春菜はケラケラと笑った。屈託のない明るい性格のようだ。

「春菜さんて、気持ち悪いとか思わないんですか」

「男の娘達?思わないわよ。みんな綺麗でいいじゃない」

「あの、慎二さんて本当に女装でプロポーズしたんですか?」

「そうよ、プロポーズは一番素敵な格好でしてねって言ったら、彼、女装で来たのよ。僕にとっての一番素敵は君だから君と同じ格好をしてきた、だって」

春菜はまたケラケラと笑いアキの顔を覗き込んだ。

「アキちゃん、女装する男なんて気持ち悪いって思ってるんでしょう」

「うーん、ちょっと理解出来ないっていうか。憧れの対象の真似だとしても、なんかこう身振り手振り、口調も大袈裟で」

「変態みたい?」

「はい」

「そうね、みんな変態を装うのよ、純情を隠すためにね。彼らは皆純情で繊細。あ、逆に純情を装う男は変態だから気を付けるのよ! あ、きゃあ!」

春菜さんも胴上げ!の声とともに春菜の身体も宙に上がった。慎二よりも高く。



「今日は僕の出番は無いな」

おかっぱ頭のセーラー服が春菜と代わってカウンター席に座った。

「あ、僕は純情ではないけど、変態でもないから」

「バク、今日も誰かを縛るつもりだったの?」

「そのつもりがなければこの格好はしないよ」

「ねえ、純情でも変態でもないバク何故セーラー服を着るの?」

「うん?これは処女の聖服。汚れていない証」

「そんな意味があったのね」

「そう。あ、みんな!僕からもお知らせ!緊縛ショーのDVDが出版されるからよろしくね!」

胴上げが終わった店内に向かってバクが叫んだ。店内は二度目の歓声と拍手が起こった。



「みんなすごいなあ」

空になったグラスを洗いながらマコが呟いた。

「これ洗い終わったら着替えよう」

マコが洗い終わったグラスをアキが丁寧に磨いた。

「天使に?」

「うん、今日は翼も持ってきた。アキの分もね」

「大学の春祭の時、何故マコは天使になろうと思ったの?」

「アキに早く見つけて欲しいから、目立つ格好でと思って」

「目立つのが目的だったら、悪魔だって妖怪だってあるでしょ」

「うーん、そこはバクと同じかな。ヴァイオリンを弾いている時は悪魔じゃないし妖怪でもない。弾いている僕も聴いてくれる人達も天使になってくれたらいいなって思う。

 それに音楽は差別や偏見を消してしまうんだってマコママが言ってたんだ。僕が女装をしても馬鹿にされないのは音楽のおかげかな」


アキは誤解をしている自分に気が付いた。

自分が思っているよりもずっと清らかなものが皆の内側にはあるのだ、きっと。

でもそれは繊細で傷つきやすい。軽蔑されたら、侮辱されたら、壊れてしまうかもしれない。自分も。他の誰かも。

だからわざと歪曲させるのだ。図太く。大袈裟に。誰も傷つかないように。




カウンターのグラスが片付くと二人は天使の衣装に着替え、ヴァイオリンを持ち、マリーゴールドのオブジェの前に立った。

今日の衣装には小さな仕掛けがある。前日に晄が衣装に糸のようなものを数か所に縫いこんでいる。それが何なのかはマコとアキには知らされていない。


「あ」

二人の上からゆっくりと光の粒が降りてきた。

マリーゴールドの花の上に降る光の粒が二人にも降ってくる。

そこは一瞬で不思議で幻想的な世界に変わった。


拍手は起こらなかった。そのかわり店は静まり返り、光の粒を纏う二人に皆は釘付けとなった。それほど綺麗だったのだ。



キュッキュッ。弦が鳴った。

「昔みたいに僕を追いかけて弾いて。自由に!」マコの言葉にアキは頷いた。




スィーッとマコのヴァイオリンが響くとアキも続いてヴァイオリンを響かせた。

曲名は『Requiem for Mari』

楽譜はマコの頭の中だけにある。

未完成だった部分はこの夏の出来事で埋められていった。



アキの奏でる音はマコの奏でるメロディに早過ぎず遅過ぎず、強過ぎず弱過ぎず、実に丁度良いタイミングで付いてくる。今日の為の練習はしていない。開店前に『Requiem for Mari』をアキに一度だけ聴かせただけだった。



アキはいつも丁度良い距離にいてくれる。

その距離は優しさの距離。逆の立場だったら僕にも同じことが出来るだろうか。



弓を弦から話すと大きな拍手共に、いつのまにか女装になっていた慎二が春菜と一緒に前に押し出された。

誰かが「ウエディングマーチもね!」と叫んだ。

マコは笑顔で頷くと再び弓を弦に当てた。そして皆の意表をついてわざと暗く低い音を出した。

「え?」と客の表情が変わったところでマコはアキの方を向いてウィンクをした。

アキはニッと笑って、キュッと弦を鳴らすとキキキーと車のブレーキのような音を出し、続いてマコは猛スピードのウエディングマーチを奏でた。

客は拍手喝采で皆踊りだす。

慎二の女装の丈の合わないワンピースがひらひら揺れる。春菜がそれを見て大笑いしながらも皆と踊る。



 憧れる人。

 尊敬する人。

 大切な人。

 愛する人。


 手に入れることは出来なくても

少しでも近づきたくて、真似をする。



早いテンポの曲に合わせて踊っていた春菜が躓いてバランスを崩した。すかさず慎二が手を伸ばし春菜を抱き留めた。



男になれ。


ドクターの言葉がマコの頭の中を過った。

パキッと身体の表面にヒビが入ったような感覚がした。もう少し力を入れたら殻が落ち、違う自分が産まれるような気がした。




「わあ!」

客達から歓声が上がった。

二人の後ろにあるマリーゴールドのオブジェから小さな太陽が現れたのだ。小さくても力強く暖かく輝き、それはキラキラと降る光の粒の上に浮かんでいる。

マリーゴールドの花達はその黄色を一層輝かせた。


マコはオブジェを満足そうに覗きこんでいる晄に声をかけた。

「晄くん、お父さんを手伝っていたの?」

「うん」

「君のお父さんはやっぱり魔法使いだね」

「うん、俺もそう思う。俺も絶対に魔法使いになる。」




演奏が終わるとアキは天使の衣装を着替えてカウンターに戻り、溜まっていた空になったグラスを一つずつ丁寧に洗った。

「ねえ、もう一杯頂戴」

客の一人がまた空になったグラスを持ってきた。

「はい。次は違うカクテルにしますか?」と訊くと

「そうねえ、この前マコちゃんが勧めてくれたヤツ。なんだっけ、青い色の」

客はショートカットの髪を掻きながら宙を見ているが、思い出せない様子だ。

マコが勧めるカクテルは大概カルピスが入っている。カルピスが入っていて青い色のカクテルなら…。

「ブルーラグーンですか」

「そうそう、それ」

アキはカウンターの内側にびっしり張られたレシピを探した。恭介の几帳面な文字の中にブルーラグーンを見つけると、材料を集めた。


ブルーキュラソー、マンダリンリキュール、レモン、カルピス。

淵にソルトを付けた細長いカクテルグラスにシェイカーから綺麗な水色のカクテルと注ぎ込ませ、赤いチェリーをそっと沈める。


「さっきのパイナップルのも美味しかったけど、これもなかなかお気に入りなのよ」

グラスはパイナップルのカクテルと同じものを使っていた。

注ぐカクテルでグラスは変身する。

華やかで明るい黄色の装いから、クールで落ち着いたブルーに。



きっと、人も同じ。

モモコが言っていたように、皆憧れを追いかけて変身を望む。



慎二は愛する女性に。

 恭介はマリーに。

 マリーはこの世を去った妻に。

バクは処女に。


マコは幼い頃から私の真似ばかりしていたっけ。


私は何になりたいのだろう。



「ここは楽しいわ。マリーさんは居なくなっちゃうけど、春菜ちゃんが継いでくれるならまたここに来れるわね。アキちゃんもマコちゃんもまた来てね」

客はカクテルを飲み干すと「美味しかった。ありがと」とグラスをカウンターに置いてフロアに戻っていった。


店の客達は明日になれば、きっと普通の男性に戻るのだろう。

今とは全く違う顔と装いで、皆、普段の生活に溶けていく。




マリーはいつもの黄色いドレスに着替え、店の客一人一人に挨拶をして回った。そして最後にカウンターを片付けていたアキに言った。

「アキとマコにはお世話になったね。ありがとう」

「いいえ、こちらこそ。晄君、嬉しそうでしたね。お父さんみたいな光の魔法使いになりたいって言ってました」

「姫の岩で演奏をお願いしたのは麻里とのけじめをつけるきっかけにしたかったんだ。いつまでも引き摺ってはいけない、でも実際はなかなか離れられなかった。けれど晄に気付かされた。私には夫ではなく父親の仕事が残っている。」


 洗い磨かれたグラスはマリーと晄が作った小さな太陽を反射している。グラスホルダーに並ぶグラスはそれぞれに反射する光が集まり、また一つ違う小さな太陽を作り出していた。


「ねえ、マリーさん、私、なんていうか、ここに集まる女装子達ってってずっと好きになれなかったけど、今は彼らの事が少しだけ分かったような気がします」

「そう」

「彼等を見ていて分かったことの一つがね、彼等ってすごく男なんだなって思ったんです」

「どうして」

「だって男にしか女装って出来ないじゃないですか」

あはは、それはそうだね、とマリーが笑った。

「マリーさんの笑ったところ、初めて見ました」

アキも笑った。



店のフロアではアンコールされたマコが別の曲を弾いていた。

流行りの歌謡曲を即興でアレンジして早いリズムで弾くと客達が皆踊りだし、お祭りのようだ。

マコも楽しそうにステップを踏んで身体を揺らして弾いていた。


キュッキュッ。

アキを呼ぶ合図が鳴った。アキも微笑んでヴァイオリンを構えて合図を返した。



店の中心の小さな太陽は、小さいながらも燦々と光とエネルギーを降り注いでいた。


「でね、結局のところ菊姫が男か女かっていうのは分からないんだ。でもアルビノだったっていうのは巻物の絵で明らかだって、晄君が言っていたよ」

「その巻物、もう見せてもらえないの」

「晄君、オーストラリアに行っちゃったしなあ」

アキはセミロングのマコの栗色の髪に丁寧にブラシをかけながらブロッキングのピンを挿した。

「いいの、本当に切ってしまって」

「うん」

店で使う鋏は月に一度研ぎに出している。研ぎ屋から戻ってきたばかりの鋏は音がしない。髪に刃を当てるだけでパラパラと髪は床に落ちた。


「どうして急に」

「急じゃないよ。ずっと考えていたんだ。アキをドクターのところに運んだ時から。

僕、今頃分かった。欲しがってばかりじゃだめなんだって。真似したって手に入らない。

大好きだから欲しいんじゃなくて、大好きだから守らなきゃ。

だから男になる。男の方が色々都合がいいんだ」


「切るよ」

アキはマコの栗色の髪に深く鋏を入れた。

いつかバクがいっていた「人の身体を切り落とす」作業。

この栗色の髪は幾年かのマコの歴史を吸って生え伸びている。

その幾年かを切り落とす。

蛹(さなぎ)が脱皮するように、身体から切り離すのだ。

新たな歴史を作るために。

新たな自分になるために。


女装も新たな自分を生み出すための一過程なのかもしれない。


蛹なのかもしれない。



「ねえ、マコ。私もう一度東京へ行こうと思うの。

バクが言っていたとおり、私、縛られたいのかもしれない。誰かに、何かに、必要とされていたい。自分の能力を認めて必要とされたい。東京ではそれが見つけられなくて逃げ帰ってきちゃった。アキママなら頼りにしてくれるかもなんて、甘えてた。縛ってほしいなんて甘えてるよね。

私まだ幼虫なんだ。蛹にもなっていない。

これから自分で自分を縛ってみようと思うの。自分をちゃんと見て、認めて。まずは蛹にならなきゃ産まれるものも産まれないよね」

「じゃあアキが蛹の間、僕はイギリスに行ってくるよ」

「お父さんに会いに?」

「晄君を見ていたら、お父さんに会ってみたくなった。というより僕の「男」っていう遺伝子を確かめたくなった」




鏡に映る短い髪のマコの姿はとても凛々しく

もう誰も女の子に間違えないだろうとアキは思った。

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