[ファイナリスト」

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コートに一歩足を踏み入れた瞬間、私は私ではなくなる。そこに存在するのは牙を剥く戦う勇者と化した私だ。そんな大事な戦いに臨む時、背中には期待という重荷が圧し掛かって来る。でも、それは私に授けられた希望、それを掴む為に私は真っ直ぐ前を向いて歩くようにしている。私の視界に映る観客席の声援も審判の発する声さえも全てが雑音に過ぎない。戦いはすでに始まっており、勝敗の行方も自らの中では決している。後は粛々となすべき事を着実に行うだけだ。


               第1章 夢の舞台


 くすんだ曇空の下、シャッターを切る激し音が突然鳴り響き、フラッシュライトの眩しいほどの閃光がセンターコートの周辺を覆い尽くすと同時に精悍な表情をしたファイナリスト二人が足並みを揃えて現れてきた。二人とも真っ白を基調としたウェアを肌に着込み、同じように長い髪を靡かせた額には、これまた白を基調としたバンダナを巻いて、それぞれに用意されたベンチに向かってゆっくりと歩みを進めた。待ち受ける大勢の観客席からは怒涛のような拍手と歓声が湧き起り、静かだったセンターコートに二週間の間繰り広げられた過酷な戦いへの終止符を打つ時がついに訪れた。

 2019年、7月21日。今日はどんよりとした灰色の雲が空一面に垂れ込み、時々その分厚い雲の隙間から青空が申し訳なさそうに覗き、その合間に一筋の陽の光りがこの時とばかりに一瞬差し込めるといったイギリスでは日常からよくある不順な天候だ。しかし、そんな空の重たい雰囲気とは裏腹に彼の心は晴天のように青く澄み渡り、身体の奥底、そう心の中心とでも言うべき場所から自然と力が漲り、どんな苦しい状況でも突破できそうな心地良い感触を抱いていた。そして、それは自分に対して無理を強いている訳でもなく、自然と肩の力も一切抜けてリラックスしている、そんな自然体だった。

 今、こうして彼が立っている場所は、テニスの聖地イギリス、ロンドン南部郊外、チャーチ・ロードに位置するオールイングランド・クローケ・アンド・ローンテニスクラブ、そう全てのテニスプレーヤーの憧れの場所、全英テニス選手権開催の地、“ウィンブルドン”の栄えあるセンターコートだった。

 彼の名前は立花雄一郎、このウィンブルドン開催直前の7月1日にやっと21歳になったばかりの若者だ。日本人男子としては1877年にこのウィンブルドンの大会は設立され、140年にも及ぶ長い伝統あるウィンブルドン選手権(よく大会に敬意を表して『ザ・チャンピオンシップス』とも呼ばれる)の歴史の中でもオープン化して、今日このウィンブルドン決勝戦に臨むことができたのは史上初の快挙だ。それもウィンブルドンに彼が挑戦し始めて、2年連続で予選から勝ち進み、今年は奇跡的にも決勝まで駒を進めたのだ。

 昔を遡れば、1993年、佐藤次郎がウィンブルドンベスト4、1964年、沢松和子がウィンブルドンジュニアシングルス優勝、1975年同じ沢松和子、ウィンブルドン女子ダブルス優勝と栄えある成績をこのウィンブルドンの聖地に残していた。近年では男子テニスに限って言えば、2014年に錦織圭がUSオープン準優勝というグランドスラムでは日本人男子の最高峰を達成していたが、ここウィンブルドンでは1995年、松岡修造がベスト8という成績を残したに過ぎなかった。それだけテニスの聖地では日本男子テニス界は長い間世界の男子テニス界の中では低迷を続けてきたのだ。

 深い緑色と紫紺をどの建物にも施してあるこの伝統と格式のあるテニスの聖地は他にあるどの3ヶ所のグランドスラムの会場よりも特別厳かで重厚な雰囲気を会場全体に漂わせていた。それは全豪オープンテニスの会場であるトゥルーブルーに鮮やかに彩られたメルボルンの眩しいくらいのゴージャスな明るさとも異なり、フレンチオープンテニスの赤土のコートを要した要塞にも見えるローランギャロスのお洒落でファッショナブルな華やかさとも、或いはまた擂鉢の世界最大を誇る巨大なセンターコートで有名なUSオープンテニスの会場であるニューヨークのドラマチックにショーアップされた陽気な感じともまったく異なった厳粛でいて、また何か人の思いを容易に受け入れないような神聖な雰囲気を醸し出していた。そうであってこそ全てのテニスプレーヤーの誰もが憧れるテニスの聖地“ウィンブルドン”その場所なのだろう。

 まだ、試合が始まって凡そ15分が経過したところだが、第1セット、2-1と今のところ立花雄一郎が対戦相手を一歩リードしている。

 格式のあるグランドスラムの大会にしては昔からそうだったが、少し貧弱そうにも見えるどこにでもありそうな深緑の二脚の椅子に対戦相手と審判台を隔てて並ぶように座り、緊張のためか、いつもより早めに流れ出す額と両腕の汗を丁寧に拭いながら彼は用意してきた飲料水をペットボトルごと渇いた喉の奥に流し込んだ。

 ファーストゲームはコイントスを行い、迷わず彼はサービス権を選択した。レシーブサイドから始めようかとも考えたが、ここ一番では積極的に攻めるようにしていた。恐らくこの大舞台でのファーストゲームではさぞかし緊張して、自分でもどうなるかと不安を拭い切れなかったが、いざこうして幼い頃から憧れていたセンターコートに実際に立ってみると心配していたほど緊張しなかった。それはプロになってこの3年間、我武者羅に戦ってきた幾多の試合経験とこの決勝までの苦しかった予選3回戦、そして臨んだ本戦6回戦を戦い抜いてきたという揺るぎない自信があったからだ。

 ここまで辿り着くには長い年月と計り知れない多くの苦渋に満ちた試練が彼を待ち受けていた。それを克服するために幼い頃から指導してくれた父親やコーチ、それに家族には多大な負担を掛けてしまった。特に中学生までは人並み以上に反抗期が続き、テニスの成績は愚か、人間としても全然成長できていなかった。そのため周囲の人には沢山の嫌な思いをさせてしまったが、今彼は幼い頃抱いていた夢を現実のものとして実現させようとしていた。

昨年同様、このウィンブルドンでは今年も予選から何とか勝ち上がり、厳しい3回戦を必死の思いで戦い抜き、何度も崖っぷちに追い詰めれれては這い上がり、一瞬諦めてしまおうかと何度も思ったが、念願かなって漸くここまで辿り着いた。特にベスト8を決める準々決勝ではもう駄目か、これでこのコートともおさらばかといった苦境に幾度も立たされた。相手は世界ランキング120位の彼に対して、現在世界ランキング18位と急上昇を遂げているロシア選手アドリアーノ・べスコフ選手だった。ファイナルセットまで縺れに縺れて、3度もマッチポイントを相手に握られたが、開き直って思いっ切り高い打点で早目コースを変え、ネットにも詰めて果敢に攻めたのが功を奏して、幸運にも逆転で勝利を収めた。次の準決勝もビッグサーブで誉れ高いオーストラリアの中堅ジェレミー・オズワルド選手にファーストセットを1-6で簡単に奪われ、セカンドセットも2-5とリードされたところで、神様の悪戯か、彼にとっては恵みの雨が降り出し、30分間の待機時間を確保したことで作戦をもう一度練り直して、リターンの制度を高めた事とバックハンドのスライスショット、更にはドロップショットも多用したことで流れが一気に彼に傾き、セットカウント3-1でこの試合も逆転勝利を収めた。戦いには巧みな技術と作戦、それに強い精神力、強靭な体力に加え、勝利の女神様から与えられた予期もしない思わぬ幸運も少なからず必要だった。

 これまでの彼のテニス人生を振り返っても楽しい事よりも苦労の方が数倍、いや何十倍も多かった。この決勝戦に臨む際、前年度チャンピオン、アルベルト・コスナ―と共にセンターコートに一歩足を踏み入れた瞬間、彼はこれまでにない強い感情に襲われた。それは決してこの決勝戦に臨む緊張感でも、対戦相手に対する恐怖心でもなかった。言葉では言い尽くせないが、マグマが噴き出すような何か身体の芯からふつふつと湧き起こる期待感、高揚感とも、或いはまたこの10数年来の望みを叶える絶好のチャンスに恵まれたという幸福感だった。

 そんな希望に満ちた彼に不安が一つもなかった訳ではないが、憧れのセンターコートに一歩足を踏み入れると決して今は美しいとは言えない荒れ果てて剥き出しの砂地が見える緑の芝生も彼等ファイナリスト2人を心行くまで歓迎してくれているように見えた。歴代チャンピオンの颯爽たる姿で写る晴れやかなポートレートが掲げられているクラブハウスの廊下を歩き、19段ほどの階段を下りた所で開かれた二つの扉を抜け、緊張感を押し殺した態度で彼は先に歩みを進めた。そして、狭い通路を抜けるとそこには2人のファイナリストを待ち遠しく見守る歴史あるセンタ-コートが視界に飛び込んできた。嘗て経験したことのないその光景はまるで深緑に染まった高山が小さな彼に向かって押し寄せて来るようだった。でも、初めて経験するセンターコートの柔らかい芝生の感触を足元で味わいながら歩みを進めると、恐怖心よりも得難い光景、待ちに待った場面にやっと巡り逢えたような喜びを肌で味わった。

 こうして前年度チャンピオンと肩を並べて広いセンターコート内をゆっくりと歩く時、見知らぬ大勢の観客席からの声援を耳にすると、彼は自分の座る椅子にラケットバック等の荷物を置く際、耐え切れずに思わず涙が零れ落ちそうになった。いや、実際には感極まって、恥ずかしながらも少しの涙が頬を伝った。直ぐに持っていたタオルで誤魔化すように頬を拭ったので誰の目にも気づかれなかった筈なのだが・・・。そして、ベンチに腰を掛けて観客席を一度見回した時に、何故か誰かに見守られている、誰かに背中を押されているといった不思議な感覚を抱いた。その時は父親やコーチといった信頼するスタッフが見守ってくれていると感じたからなのだが、どうやらそれだけではなかった。

 世の中には不思議なことが沢山あるものだが、彼身にも『魂の応援』とでも言うべきことがその時起こっていたのかも知れない。

 こうして始まった人生最大の大舞台”ウィンブルドン決勝”友と一緒に戦った忘れもしない試合だった。


  第2章 世界王者


1セット目の第3ゲームが終了し、少し落ち着きを取り戻した雄一郎はベンチの椅子に腰を落とし、大会主催者から提供された大き目のタオルを両膝の上に置いて、次のゲームの組み立てをじーっと考えていた。頭の中ではスクリーンの映像を見るように色んなショットのアイデアが次々と浮かんできたが、今日の決勝の相手は昨年のこの大会を制したデフェンディングチャンピオン、現在世界ランキング№1プレーヤーの座を2年間もキープしているアメリカ選手、アルベルト・コスナ―なのだ。並大抵の戦略では決して勝てない最大の強敵だ。彼は左利きにしてバックハンドは両手で高い打点からの鋭いフラットドライブを得意として打ち、チャンスでは的確に相手をコートサイドに追い詰め、これも得意であるネットプレーを駆使して容赦なく相手を攻め立てる攻撃型オールラウンドプレーヤーだ。状況によってはサーブ&ボレーで早い段階からネットにも詰めるので、一瞬たりとも気の抜いたショットを打てない最大級の手強い相手だった。体格は身長185㎝程度で、ほぼ雄一郎と同じくらいあり、今の男子テニス界では平均的な身長だ。パッと見た外見は1970年~1980年代にかけて男子テニス界を席巻した同じアメリカの国籍を持つ偉大な選手、ジミー・コナーズを彷彿させるナイスガイでもある。これまで何度か雄一郎も対戦した経験はあったが、現在に至るまでの対戦成績は1勝3敗で負け越している。この1勝も相手が試合の途中に相手が膝を痛めて棄権したためで、実力で勝った訳ではなかった。先頃、ロンドンで行われたウィンブルドンの前哨戦、クィーンズ選手権の大会でも準々決勝で対戦して、セットカウント1-2で惜しくも負けていた。その対策として、ウィンブルドンの大会が始まる前には練習コートであるアオランギの会場で、サウスポー相手の選手と入念な練習を積んできたのだが、それでも勝ち切れる強い自信は持てなかった。でも、ある程度互角に戦える、こうしたプレーを繰り出せば何とか行けるという密かな自信も確かにあった。テニスという勝負事では、戦う前にこうしたら勝てるといったイメージを頭の中に鮮明に描けなければ実際には勝負にならない。

 コスナ―の驚異的な粘りと観客をも自分の味方に付けてしまう派手なパフォーマンスはまさに大先輩ジミー・コナーズを如何にも連想させた。何度かジミー・コナーズの往年のプレーを彼もビデオ等でコーチに見せて貰ったが、親子かと見間違うほど本当によく似ていた。多分、コスナ―自身も今でも人気の高いジミー・コナーズのプレーを意識して自分のプレーを組み立てているに違いない。

 いつもコスナ―の独特なサウスポーからの回転の違ったショットに選手誰もが翻弄され、苦境に立たされていたが、今日の彼は少しこれまでとは違った感触を客観的にも抱いていた。というのも昨年ヨーロッパで開催されたクレーコートの大会、ここでも雄一郎は予選から勝ち上がったのだが、試合が終了して、お互いネットを挟んで固い握手を交わした際、コスナ―から思わぬ嬉しい言葉を投げ掛けられていた。それは健闘を称え合って、握手を交わした後にコスナ―がにっこりと微笑み、「Good,Job。今日の君はとても手強かった。今度対戦する時にはやられるかもな」と冗談かも知れないが、そう肩を叩かれながら言われたのだ。そしてコートを立ち去り、2人で肩を並べてロッカー室に戻る際、今晩夕食を一緒にどうかと思わぬ誘いを受け、2人だけで郊外にあるお洒落なレストランで食事とちょっとしたアルコールを飲んで親交を交わしたのだ。それは彼にとっては信じられない出来事で、どうしてまだ大した戦績も残していない自分がと彼は不可解に思った。でも、コスナ―の言うことには、凡そ1年半前に初めて対戦した時から凄く自分に興味を抱いてくれたということだった。それは粗削りなプレーだったが、東洋人とは思えないボールの強さ、動きの速さを持って何の躊躇いもなく果敢に攻め立てて来るその逞しさ、我武者羅な姿勢に少し圧倒されてしまったと酒を酌み交わしながら笑っていた。その頃のコスナ―は、№1の座に胡坐を掻いて、少し傲慢で気の抜いたプレーを愚かにもやっていて、プロに成り立ての頃に我武者羅に戦っていたあの闘争心を忘れかけていた。その事を対戦することで思い出させて貰ったとコスナ―は素直に打ち明け

てくれた。雄一郎の真摯で前向きな闘争心がコスナ―の忘れかけていた闘志を再び蘇らせたというのだ。あの1戦がなかったら、今でもランキング№1の座にこうして君臨していることはなかったとも語っていた。

 一度だけ食事を共にしただけでは、コスナ―の性格まで全て推し量れないが、彼の語る話の内容や喋る時の口調、仕草などから観察すると大凡だが、彼の性格が雄一郎にも少し理解できた。ゆっくりと手振り身振りを交え、まじまじと人の顔を見ながら話す様子から気の強さ、自身の表れが感じ取れた。また、彫の深い端正な表情を崩し、左頬を少し吊り上げて微笑みながらユーモアを交えて話す仕草にはチャンピオンとは思えない愛嬌さえ感じられた。

 お互いの話も佳境に入ると、いつ頃から何故テニスを始めたかといった話題に入り、雄一郎は小学1年生の時にテレビで観たあのテニスシーンの事を話し、コスナ―は事故で亡くなった父親の影響で4歳の頃からテニスを始め、父親の厳しい指導の下でテニスの腕を磨いていたが、10歳の時、突然自動車事故で父親が亡くなり、ショックのあまり一時テニスから遠ざかっていたが、父親の自分に抱いていた夢を果たすためと、残された母親、妹のためにも死にもの狂いで練習に励み、今日に至るまで希望を抱いて頑張ってきたという話を聞かされて胸が詰まった。コスナ―の決して諦めないあの恐ろしいまでの闘争心はそうした悲しい理由からだったのかと初めて知り、コスナ―を倒すには相当な覚悟が必要だとその時彼は悟った。

 あれ以来、時々同じ大会に出場して顔を合わせる度にお互い近況を語り合い、食事を共にすることはなかったが、練習を一緒にすることは何度かあった。勿論、王者であるコスナ―から誘いがなければそういった練習は行われなかった。雄一郎としては、コスナ―と少し親密になるに連れて彼の性格、テニスへの強い思いなどを知るにつけ、親しみと共にこれまでベールに覆われて遠い雲の上の存在にしか思えなかった彼を身近に感じるようになった。しかし、戦う上ではコスナ―を敵に回すと凄く厄介だなと思う反面、殊更これまで感じていたような恐怖心を覚えなくなったのも事実だ。でも、それは相手のコスナ―にも当然言えることで、これからの戦いぶりに十分注意する必要があった。同じ世界に存在する者同士、親交を深めることはテニスプレーヤーにとって、或いは人間的にもとても大切だが、相手を深く知るにつけ、良い意味でも悪い意味でも戦い難くなることは大いに有り得る。その事だけは十分注意を払わないと真の意味での勝負師になれない。前哨戦では惜しくも敗れていたが、1セット奪ったという自信も手伝って、今日の雄一郎は何か物凄いことをやってのけるといったこれまでとは少し違った感覚が優っていた。何せ日本男子として初めてこの伝統あるテニスの聖地、テニスプレーヤーなら誰もが死ぬほどに憧れるウィンブルドンの栄えあるセンターコート、それも予選から勝ち上がってファイナリストとしてコートに立っているのだ。いつもと違った感情、状態になるのも当然だった。でも、そうかと言って、必要以上に緊張してしまうとか、不安が頭を一杯に去来するといったことにはならなかった。それはこれまで経験してきた辛くて苦しい日々の練習を何とか乗り越えてきた自負とコスナ―という人物像を脳裏で描くことで、恐怖心を消し去り、それが彼に勇気を与えたからだった。そして、これまで彼を支えてくれた幾多の人々の声援を背に受け、その人達の期待に何としても応えようと必死に頑張ってきた自分への信頼が揺るぎないものになっていたからだった。

 日本を旅立つ時、雄一郎は上空から小さくなっていく大地を見下しながら見ていてくれ、きっと皆の期待に応えられるように頑張って来るからと心の中で呟いた。呟きながらも西の空に向かって思いを馳せ、彼は一人のかけがえのない大切な幼い頃からの友人の事をこよなくも心配していた・・・。

 滴る汗おまを拭う顔に、雲のちょっとした割れ目からの弱々しい陽射しが眩しさとともに差し込んできた。その眩しさからタオルで目を覆い隠し、これまで歩んで来た足取りを束の間思い起こした。


             第3章 人生の分岐点


 あれはかれこれ14年前になる立花雄一郎が小学1年生の7歳になったばかりの事だった。自宅の裏庭では蝉のまだ煩く鳴く蒸し暑い日だった。すでに楽しかった夏休みもあっという間に終わり、あまり来て欲しくなかった9月に入ったばかりの頃で、まだ夏休み気分もすっかり抜け切らない一日だった。いつものように彼は朝6時過ぎに起き、洗面台で顔を洗って、冷蔵庫から10個もある1リットルのテトラパックに入った牛乳の一つを眠たい目をを擦りながら取り出して、コップ一杯に注ぐと、それを一口飲みながら何気なくリビングにあるテレビのリモコンスイッチを押してみた。朝の牛乳をコップ一杯に続けて二杯飲むのが大阪にまだ住んでいた幼稚園生の頃からの両親の厳しい躾だった。

 最初は甘ったるい牛乳の味に咽ぶように仕方なく飲んでいたが、今となっては呆れるほどに沢山飲めるようになった。いつも母親は「牛乳がもう足りないわ」と文句を言うでもなく嘆いていた。牛乳を注いだコップを口に運びながら彼はリビングにあるテレビの画面にふっと目をやった。そこには何やらざわめく歓声と共に、何かボールを激しく叩く軽快な音が一定のリズムで繰り返し何度もテレビ画面から鳴り響いていた。彼はその軽快な引き寄せられるようにテレビの方に近づき、その画面に釘付けになった。そこには髪をクシャクシャにして、汗だくになった二人の若者が真剣に低いネットを挟んで走っては止まり、力一杯にラケットを振り翳して、小さなボールを打っている姿が、まだ寝ぼけ眼で見ている彼の目に強烈な印象とともに飛び込んできた。彼の目はそのうちの一人ロジャー・フェデラーというスイスの選手に魔法を掛けられたように更に釘付けにされた。

 茶色く少しカールした長い髪に、太目の白い布を額に巻き付け、それはまるで精悍な顔付の若武者のようにも見えた。その鍛えられて引き締まった肉体に、しなやかな身のこなしで小さな黄色いボールを素早く追い、そうかと思うと蝶が羽ばたくように速やかにネット際に詰め寄って、意図も簡単にスピードのあるボールを鮮やかに決めていた。その若武者のマジシャンのようにボールを操るテクニックに牛乳を飲む動作も忘れて立ち尽くし、暫らく彼は食い入るようにテレビ画面に夢中になった。『こんなスポーツも世の中にはあるんだ。あんなに踊るようにして、しかも意図も簡単にスピードのあるボールを白線ぎりぎりに目掛けて狙い通りに打ち返すなんて、凄いとしか思えない』そんな印象を幼い彼は抱いた。思えば、あの瞬間に雄一郎の人生が一瞬にして決まったようなものだ。このスポーツをやるため僕は生まれてきたとその時本気で思った。それはテニスの試合に例えると、試合を決定づけるマッチ・ポイントを握ったようなものだった。

 長い人生にはいろいろと大切な場面が人それぞれに数え切れない程、覚えて入られないくらい沢山の場面が一人ひとりに訪れるだろう。でも、自分の人生を決定づける場面は、そう何度も頻繁に訪れるものではない。そして、その大切な人生を決定づける場面は、時としてこのように行き成り、しかも何の前触れもなく突然訪れるものなのかも知れない。ならば、その瞬間を大切に、それはもう二度とない絶好のチャンスかも知れない。そうであるなら一瞬たりとも油断してはならない。目を澄ませ耳を欹てるのだ。


 第4章 試合の序盤戦


試合が始まって、25分が経過していた。スコア―ボードの近くに表示してあるデジタル時計がそれを示していた。ゲームカウント3-2と辛うじて立花雄一郎が依然試合をリードしてた。リードと言っても、お互いにサービスゲームを無難にキープしているそんな状況だ。まだ試合は今後の展開を予測だにせずに静かな滑り出しを始めたばかりだ。腕の良いシナリオライターならこれから先どのように試合を面白く展開してくれるだろう。そのライターが雄一郎の知人だったら、簡単に3-0のストレートで勝利を齎せてくれるように懇願するところだが、ここは世界のテニスファンが注目するウィンブルドン、そう容易く勝負を決定させてはくれない。何故なら大勢の観客の見守る中で、素晴らしい好試合を見せるのがプロテニスプレーヤーの宿命だ。勝利がどちらに転ぶとしても、試合が終了して、誰もが家路に向かう際、皆が試合の展開を自慢して語り合える、そんな状況をこの舞台で見せなければならない。それ程の覚悟がなくては、この厳しい男子テニス界では勝ち残っていけない。そんなことも膨れ上がるセンターコートを囲む観客席を見渡しながら雄一郎は思った。

 90秒という短い休憩時間が終わろうとしている。彼は定められたルーティンをゆっくりとした動作で静かに行う。ラケットの点検、シューズの紐のチェック、タオルの整理等など。

 パワーのある男子テニス界では、サービスゲームをしっかりキープすることが肝心だ。それをブレイクされることは、即刻そのセットを失う危険を孕んでいる。特にここウィンブルドンの球質の速い天然芝のコートではサービスゲームを絶対にキープしなければ、そのセットを制することは不可能だった。

 レシーブサイドからすれば、200キロを優に超えるスピード、パワー、変化のある重たいボールを狭いエリアとはいえ、どこに入るか分からないものをリターンするのは至難の業だ。どちらにしても、これまでの長い練習で培った手腕を存分に発揮しなければ、1ゲームも取れない過酷なゲーム、それが近代テニスというスポーツだ。先ほど戦った5ゲーム目も雄一郎のサービスゲームだったが、3度のデュースまで縺れ、その後意を決して放った2本のファーストサーブが狙い通りに相手の正面に続けて突き刺さり、危うかったが何とかサービスゲームをキープした。コスナ―のような反射神経の抜群に鋭いプレーヤーには、時としてセンターやワイドといったお決まりのコースを狙うより、思い切って正面を突いた方が成功する場合があった。今はその作戦がたまたま上手く成功したが、この先いつまでもそれが通用するとは限らない。テニスプレーヤーなら誰もが畏れる百戦錬磨のチャンピオン、これからいろんな手段を高じて容赦なく雄一郎を攻め立てて来るに違いない。『ユウイチロウよ、なかなかやるじゃないか。だが、お前には勝ち目はないぞ。悪いが今回もこの俺様が勝たせて貰う。このタイトルだけは他の誰にも譲れないのだ。観念するがいい』といった言葉が密かに聞こえてきそうだ。コスナ―の不敵な笑みが彼の脳裏を掠める。そんな邪心を脳裏から追い払い、必要なルーティンを済ませると心を静め、ペットボトルに入った水分をもう一度補給しながら首筋から肩にかけて軽く自分で筋肉を揉み解した。それを行いながら次のレシーブゲームに意識を集中させた。

 幾つかの案が脳裏に浮かんだが、一つ試してみる価値のある作戦は、コスナ―のセカンドサーブをインパクト直前にベースラインの内側まで瞬時に詰め寄り、思いっ切りダウンザラインにリターンエースを狙うことだ。場合によってはサービスライン付近まで詰めて、ハーフボレー気味にリターンすることもあった。このリターンは彼の武器の中の一つで、1本でもこの手が決まれば試合の流れをグッと引き寄せられる。緊張する試合では、このような1本の有効且つ大胆なショットで試合の流れを引き寄せられた。

 つい先程までセンターコートに少し射していた薄日も今はまたすっかり消え失せ、上空にはどんよりとした一塊の鉛色の雲が重たそうに垂れ込んでいる。それは激しい動きで汗がした滴り落ちる2人のファイナリストの姿を高い上空から嘲笑っているようだ。そんな悠憂鬱な空を仰ぎながらも目に力を込めて雄一郎はベースライン上に立った。


               第5章 生い立ち


 立花雄一郎の生まれた故郷は父親の実家である山口県の東部、現在は地域の市町村が合併して岩国市となっている山間部にある田舎町だった。以前は玖珂郡錦町といって、アーチ式の五橋で有名な錦帯橋のある美しい錦川を上流に遡って位置する人口5千人程の小さな町だった。でも、彼が産まれて間もなく、家族は父親の仕事の関係で奈良、大阪と移り住んで、小学校に上がる前の幼少時代は一端の都会人を装っていた。幼稚園時代は大阪の浜寺という所にある聖書幼稚園に通った。彼のおぼろげで怪しい記憶もその頃からの出来事を随分覚えていた。その幼稚園の頃に特に印象に残っている事と言えば、園長先生が外国人の背の高い綺麗な女性だった事。そして、あまり大きな建物ではなかったが、土曜日の午前中に必ず通っていた幼稚園の敷地内にあった天井に高い教会ことはよく記憶に残っていた。その聖書幼稚園を卒業する時に父親の仕事の関係で、再び山口県の山間に囲まれた場所にある彼の生まれた故郷、祖父母の住む父親の実家に家族全員で戻ってきた。その時には四つ下の弟、謙二郎すでに生まれており、外套もない寂しい山間部の実家は孫たちも交えて賑やかで楽しい生活になっていた。

小学校は高根小学校といって、全生徒が百人も満たない本当に小さな小さな小学校に通った。校舎は彼が入学する一年前に建て替えられたばかりで、二階建てのコンクリートで固められた頑丈そうな建物だった。1年生のクラスには総勢で18名の元気な田舎の子らしき子供がいて、最初は彼も少し戸惑った。それは大阪の幼稚園の頃には見掛けなかった鼻水を垂らした子や赤い頬っぺたをした如何にも田舎っ子らしき子供もいたので、自分もこれからこん子になってしまうのかと不安に思ったからだ。それからやっぱり言葉の違いが大きかった。

 桜の咲き誇る4月の入学式の時、担任の女性の田代先生から胸に花の飾りの付いたピンク色のリボンと名札を付けて貰い、先生から初めて声を掛けられた時だった。「立花君、ご入学おめでとう。大阪から戻って来たんじゃって。ここは大阪とは違ごうて田舎じゃけん、周りは山と田んぼだらけで何かと不便じゃろうけど頑張るんよ。先生も応援しちょるけんね」確かそんな会話をしていた時、何と返事をしたのか覚えていなかったが、きっと馴染みの大阪弁で変な言葉を使って返答したのだろう。それがそばで聞いていた地元の子には滑稽で面白かったのか、入学して暫く雄一郎はその大阪弁が原因でよく同級生にからかわれた。

 そんな事で、入学当初は暫らく誰に対しても彼は少し引っ込み思案になっていた。でも、そんな取り越し苦労も1学期の半ば頃にはもう何でもなくなった。それというのもクラスの人数が極端に少なかったせいもあるが、男の子も女の子も元来皆とても気の優しい子ばかりで、直ぐに仲の良い友達になれた。それに一番は何といっても雄一郎は他の誰よりも運動、特に駆けっこが速かったのが大きかった。元々、彼は幼稚園の頃から走るのは大好きで、運動場を走る時には他の子より半周くらいは差をつけるくらいにすば抜けて足が速かった。低学年の小学生の間では勉強ができるというより、スポーツができる子、或いは皆を楽しませて冗談を言える明るい子が生徒皆の注目を集めるのはどこの地域でも同じだった。そして、世間一般のご多聞にも漏れず、彼の初恋とまではいかないまでも、最初に心ときめいた女性は入学式の時にリボンの飾りを胸に付けてくれた担任の田代先生だった。先生の側に近寄ると甘い仄かな花のような香りが漂い、これまで嗅いだことのないその香りに未熟な彼の心が虜にされてしまった。でも、後にして思えば、あれが本当の初恋かと思えるのは小学2年生になった頃、隣の教室にいた1年先輩の広田京子さんを好きになった時だった。

18名という少ない同級生の中には、生涯の彼のかけがえのない友人である柳川修二という身体の凄く弱い子もいた。愛嬌のとてもいい素直な明るい子で、入学して間もない頃、彼が周りの子に馴染めず、一人で教室の片隅でポツンと佇んでいると優しく声を掛けてくれて直ぐに2人は仲良くなった。修二君の自宅は学校の近くにある商店街で代々薬屋を営んでいた。登下校の際には必ず彼も修二君の家の前を通っていたので、一緒に登下校することも多く、自然と2人は話す機会も増えた。

 修二君の身長は同じ年の子と比べると何故かとても低くて、身体もほっそりとして可哀そうなくらい痩せていた。年少の幼稚園生と言っても分からないくらい華奢な身体だった。冗談でよく雄一郎は「小人ちゃん」と渾名を勝手に付けて親しく一緒に遊んでいた。修二君はそんなからかい半分の言葉や行動にも気前よく応えてくれて、いつも笑顔を絶やさずに楽しく喋ったり、校庭では走り回って遊ばなかったが、教室内では本を一緒に開いて見ては笑顔を交えて遊んでいた。時々天気の良い日には皆と一緒に外で鬼ごっこなどもして彼と遊ぼうと誘ってみたが、「いやだ、絶対にしない」と強く言い放って、怖い顔を向けて頑として首を縦に振らなかった。それ程、修二君は外で遊ぶことが嫌いだった。

 もう直ぐ夏休みに入ろうかという1学期も終わる頃、3日間ほど修二君が学校を休み、その時になって初めて彼は生まれた時から心臓病を患っていたと担任の田代先生からクラス全員に話が合った。彼が皆と同じように大きく成長できなかったこと、そして激しい運動を殊更避けていたのはそれが原因だった。雄一郎はその話を先生から聞かされて、自分のこれまでの愚かさに初めて気付き、胸が締め付けられた。数日経って、元気そうに登校して来た修二君に雄一郎は冗談とはいえ、これまであんな失礼な呼び名を付けてしまったことや何度も校庭で一緒に遊ぼうと誘ったことを正直に誤った。修二君はいつもの屈託のない笑顔で「そんなこと気にしちょらんよ、だから立花君も気にせんでええから、これまで通りにしちょってね」と言って、反対に雄一郎を気遣ってくれた。

 その柳川修二君とは2年生の冬休みまでは同じ学年だったが、3年生に進級する頃には彼は心臓の大きな手術をすることになって、丸々1年間入院生活を余儀なくされた。彼の心臓は元々弱い上に、生まれた時から小さな穴が開いており、いよいよ大きな手術を施さなければならなくなったのだ。クラスの全員が広島の修二君は入院している総合病院に手術の当日学校を休んで見舞いに行き、病院の屋上に整列して、手術の成功を皆で心から祈った。1年後、手術も無事成功し、回復した彼が学校に戻って来たのだが、雄一郎の1年後輩となり、それでも2人は仲良く学校生活を送っていた。しかし、その後も修二君は幾度となく入院生活を送り、授業も遅れるなどして、事情をよく知らない1学年下のクラスの悪ガキには苛められることもあった。暫らくそんな修二君の苦しい状況を知らずに雄一郎は学校生活を送っていたが、友達から彼がクラスの何人かの生徒に苛められていると聞かされてびっくりした。直ぐにその日、下校時に下駄箱の前で彼お¥を待ち伏せして真相を問い質した。でも、彼は否定するだけだった。彼の表情からして、心配を掛けまいとしているのは明らかだった。まだ幼かった雄一郎も何も話してくれない彼に嫌気がさし、廊下で擦れ違っても無視を通していた。

 でも、ある日彼が廊下の片隅で実際に苛められている現場に偶然雄一郎が遭遇して、彼を取り囲んでいた下級生3人をきつく問い詰めると、素直に苛めを白状した。「今度やったら、お前ら先生に言うぞ」と幼いながらも怖い顔で脅しをかけると、もう二度と苛めたりしないと約束したので許してやった。彼らが立ち去った後、修二君は上目遣いに済まなそうな笑みを浮かべていたが、断固として苛められたことを認めなかった。それだけ彼にもプライドがあったので、それ以上とやかく口を挟むのは止めておいた。でも、彼の事情はよく分かったので、あの日以来下級生になった修二君だったが、これまでと同じように接して、また2人は親しく付き合うようになった。

 雄一郎がこうしてテニスで頑張って来られたのも修二君というかけがえのない大切な友達がいて、彼から勇気と我慢すること、そして健康で普通の日常生活を送ることがどんなに幸福なことなのかを学び、いつも彼に励まされてきたからこそ、雄一郎の中に眠っていた思わぬ潜在能力を引き出せたのかも知れない。


             第6章 魂のぶつかり合い


 何だか今日は時間がゆっくりと動いているようにさえ雄一郎には感じられた。コート上から観客席の人の動きもスローモーションを眺めているようにはっきりと見えた。そのお蔭で、観客の声援がどちらの選手に応援を送っているのかさえ、このベンチの椅子に座っていても分かるくらいだ。

 週ごとに世界各地のどこかで開催されている主要な大会やその他の下部に属する大会に出場している時以上に彼はこの大舞台のこの大切な試合にこの上なく集中していた。しかし、先程のコスナ―との長いハードなラリーは、心臓の鼓動が急激過ぎて止まってしまうほど苦しかった。でも、今の自分の調子を掴むにはとても有意義な打ち合いだった。大勢の観客が目を見張るくらいに激しく乾いた打球音だけを会場内に響き渡らせ、固唾を呑む、魂と魂がぶつかり合う、まるでボクシングの試合の様な激しい打ち合いとはあのようなものを指すのだろう。

 テニスの試合は、好ゲームになればなるほどネットを挟んだ格闘技とよく例えられた。雄一郎もそのような観客が望む激しい格闘技のようなテニスがいつもしたくてこれまで必死に戦ってきた。お互い相手の動作を鋭い眼光で観察しながら、彼はリストの利いた強いトップスピンをコート上高く跳ね上げるように打ち、コスナ―は高い打点からフラットドライブを直線的に長く打ち放って来る。球種の違った魂の籠ったボールがネットを挟んで幾度も繰り返し打ち返される。観客はそのボールを追うように首を左右に忙しなく動かす。テニスの試合ではこうした場面が際限もなく反復的に何度も繰り返される。その激しい打ち合いの最中でもお互いの魂と魂が激しく鬩ぎ合い、内面的な戦いも繰り広げられる。最後はコスナ―が我慢し切れずに、バックハンドのドロップショットを思わずネットに引っ掛けてしまい、命拾いはしたが、あのまま止め処もなく容赦のないラリーが続いていたら、このゲームを奪えたか疑問だ。ネットにボールが掛かった瞬間、コスナ―は持っていたラケットで軽く自分の頭を二度叩き悪ふざけをして見せた。勿論、試合はこのまま終わる筈もなく、コスナ―にもチャンピオンとしての意地があるので、これからどう反撃してくるのか油断のならない状況が尚も続く。

 現在、ファーストセット、ゲームカウント5-4。互角の展開が続く。お互い3-2のゲームカウントの後、サービスゲームをしっかりとキープしている。両者とも自分なりの試合の流れを掴んだのか、簡単にサービスブレイクのチャンスを相手に与えていない。ネットを挟んでいてもコスナ―の全身から醸し出される重圧を肌で感じ、それを弾き飛ばすように雄一郎は燃え滾る闘争心を掻き立てた。

 次のゲームが、この決勝戦の大勝負となる極めて大事な、言うなればこのファーストセットを取るためにこれまで苦難の厳しい練習を重ねてきたと言える。

 厳かな雰囲気で静かに始まったこのウィンブルドンの決勝も、45分が経過して、1セット目の2人のファイナリストにとっては、この試合の結果を左右しかねない大切な山場を迎えていた。

 白と黒を基調としたラケットのフレームの両サイドには鮮やかなグリーンの線が数本入ったレケットを膝の上に掲げ、雄一郎は何気ない動作でそのストリングスの歪みを指先で直した。縦糸は柔らかめのナチュラルガットで、横糸は固くて丈夫な引っ掛かりの良いポリエステル系ガットを57ポンドの硬さで張ってあった。縦糸と横糸の種類の違ったストリングスを張ることで回転の鋭く利いた食い付きの良い重たいボールを打てた。このハイブリッドなストリングスを張る選手は、男女を通じてとても多かったが、打球時のホールド感も絶妙で、振動も吸収されて、腕に負担も掛からないのが多くの選手に好まれている理由だった。彼もコーチに勧められて高校生の頃から頻繁に愛用しているストリングスパターンだった。

「雄一郎、お前に尋ねるが、相手のサービスゲームをどうしても破れない時はどうしたらいいと思う」プロに成り立ての頃、試合後にコーチが彼に聞いてきた言葉の一つだ。「さぁー、どうでしょう。よく分からないけれど、何か思い切った作戦を取ることじゃないですか」彼はそんな曖昧な返事をした。「ふふ、そうだな思い切った作戦・・・、確かにそうだ。で、その作戦とは具体的にどんなことだ」

「う~ん、・・・」

「ははは、それが分からなければ、実際に対策が取れないじゃないか、雄一郎」

「それはそうなんですけど・・、じゃー、コーチには何かいい作戦でもあるんですか?」

「あるとも、究極の作戦がな・・・」

「えぇー、究極の作戦ですか?何ですかそれは。コーチ、教えて下さい」

「それはな・・、先に相手に自分のサービスゲームをブレイクさせてやるんだ。それもこれ見よがしに業とらしくな。試合が硬直して、どうしても動かなくなった時には自分から何か変化を起こすことが大事なんだ。おれも学生の頃、大学のリーグ戦で対戦相手とサーブのキープ合戦が続いた時、もう我慢し切れずに嫌になって業とセカンドサーブまで思い切って打ち捲くったんだ。俗にいうダブルファーストってやつだ。プロなら兎も角、素人の大学生がそんなことをしても入るわけがないだろう。当然、ダブルフォルトの山を築き、サービスダウンだ。応援していた味方の選手からは、そりゃもうブーイングの嵐だった。でも、それでこちらの気分も意外と楽になり、相手は逆にそれまでの自分のリズムを完全に狂わされて、その後は全俺が相手のサービスゲームをブレイクして勝利を収めたんだ」

「へぇー、でもコーチ、そんな危険な賭けは僕にはできませんよ。場合によっては相手を調子付かせるだけかも知れませんから」

「だから雄一郎、最初から究極の作戦だと言っただろう。でも覚えておけ、お前にはそこまでする勇気がないといけないぞ。時として、無茶苦茶と思われるような作戦もやらなければ試合に勝てない場合も厳しいプロの世界ではこれかれ幾らでもあるのだからな」そんな事をプロに成ったばかりの雄一郎に向かってコーチは話してくれた。とても信頼しているコーチだが、時として破天荒なことも難なくやってしまう人だったので、周りが冷や冷やする場面もよくあった。


              第7章 第一関門突破


「ウオッー」という悲鳴とも歓声とも受け取れる観客席からの声援がこれまで固唾を呑んで見守っていたセンターコートに大小様々な拍手も入り乱れて一斉に湧き起った。

 結局、ディフェンディングチャンピオン、アルベルト・コスナ―の不調もあって、大切なファーストセットは第10ゲーム目で、立花雄一郎が相手のサービスゲームをブレイクして、6-4のスコア―で望み通り先取した。この結果は、この大切な大舞台に臨む前夜に父親やコーチ、チームスタッフと二時間という普段は行われない長いミーティングをした際、必ずやり遂げなければならないと全員で確認したことだった。

 彼の父親とコーチは準決勝を無事突破して、決勝に駒を進めると分かった直後。クラブハウス内でコスナ―が決勝に勝ち上がることを予め想定して、念入りに打ち合わせをしていた。その内容は、コスナ―性格からして、ファーストセットをあっさり奪うと、セカンドセットは更に威勢をつけて、ショットの切れも正確性も数段上げて攻撃的に試合を運んで来るに違いない。ラテン系の血を引くコスナ―を最初に気分良く乗せてしまったら、もう手が付けられない。それだけは何としてでも封じ込めなければならない。それが喫緊の課題だと。逆にファーストセットを雄一郎が握れば、コスナ―に相当のダメージを与えることになる。以外に彼は気分屋の面があり、リズムが一旦狂ってしまうと立て直しが難しいタイプなので、先手を奪えさえすれば、かなり有利に展開できる。それに、これまでの試合の内容を観察すると、どうもコスナ―は出足があまり良くないスロースターターのようなので、捨て身で戦えば、ファーストセットはあっさり奪えるかも知れないという結論に達していた。その計画が何とか第一段階は無事に達成できて、雄一郎はベンチに戻るなり内心ほっと胸を撫で下ろした。ベンチに腰を落として、ペットボトルを口に含んだ彼の全身からは湯気が立ち上り、全身あらゆる部分に大量の汗、もしくは精神的な冷や汗も混じって滝のように溢れていた。

 ファ-ストセットを振り返ってみて、確かに最後のポイントでは雄一郎のリターンがダウンザラインに一本鋭く決まりはしたが、どうもチャンピオンの調子が1セット終了した時点ではまだ本調子ではなかった。体の切れもいつもの絶好調時のコスナ―の本来ものとは程遠く感じられた。どうやらコーチが推察した通り、この大事な決勝戦で、不覚にも、雄一郎にとっては幸運にもだが、犯してはならないスローなスタートをコスナ―は切ってしまったようだ。世界№1と言えども、まだ若干22歳の若者だ。昨年のこの大会を制しているとはいえ、連覇の掛かるこの試合では相当なプレッシャーを感じているに違いない。亡き父と家族のために戦っていると言っていた時の彼の潤みを帯びた遠くを見詰める目が脳裏に浮かんだ。彼も人間、きっとこの大舞台を前に苦しんでいるのだろう。だが、ここは勝負の場面、一時の感情に浸っている場合ではない。雄一郎も幼い頃からの夢を追い駆けて死にもの狂いで戦って来たのだ。その夢を実現する場面に今こうして存在している。この願ってもないチャンスを何としてでも手中に収めなければ、これまでの苦労が無に帰してしまう。

 昨年のコスナ―はこのウィンブルドンでは圧倒的な強さを誇り、全試合1セットも落とさずに優勝を飾ったが、今年はこの決勝戦に至るまで、何度も苦しい局面を乗り越えてこの日を迎えていた。特に準決勝では、今上り調子の若干19歳のセルビアの新鋭ジュルジュ・ベルドビッチ相手にマッチポイントを二度も奪われ、危機的状況から蘇って、この決勝戦の舞台に駒を進めてきた。それ程男子テニス界では、ランキング100位前後ではとても層が厚く、どんな番狂わせが起こっても不思議ではなかった。まだまだ若い22歳のコスナ―だが、ファイナルセットまで戦った準決勝の疲れが精神的にも肉体的にも残っていたのかも知れない。逆に言えば、それが雄一郎とっては最大のチャンスなのだが、この先どう試合が展開されるのか誰にも分からない。だが、ここまで来たからにはもう失う物は何もなかった。只々、全力で石に齧り付いてでもアルベルト・コスナ―に真正面から立ち向かって、悔いのない試合をして行くしかない。

 ファーストセットを奪ったという逸る気持ちを胸の奥にグッと押し殺し、雄一郎は椅子に座って大きく深呼吸を二度、三度繰り返してセンターリングを試みた。そして、ペットボトルに入った水分をもう一度喉の渇きを確かめるようにゆっくりと補給した。

 ウィンブルドンのような大きな大会で、先に1セットを先取できたことはとても重要だった。そして、5セットマッチというロングゲームの流れの上でもそれは物凄く大切な戦略だった。試合の始まる凡そ1時間前、コーチと最後のミーティングをした時にも、「雄一郎、お前がこの大会で是が非でも優勝したいと強く望むなら、絶対にファーストセットを奪わなければならない。簡単には行かないが、是が非でもそれをやり遂げなければ、お前の夢は叶わないぞ。それが達成できて、漸く相手と対等に戦えると思え」そうコーチからは厳しく指摘されていた。その言葉を胸の奥に噛み締めて戦い、その目的を達成したという安心感よりも、更に厳しい戦いに今後突入するであろう試合展開に思いを馳せた。戦いはまだ序奏曲が奏でられたばかり。これからが楽曲の主要部分の始まりだ。本当の意味での正念場が雄一郎を待ち受けていた。

 コーチも指摘したように、ファーストセットを先取して、漸くコスナ―と対等に戦える準備ができたようなものだ。それは彼自身が肌で感じて一番良く分かっていた。それ程の強敵を敵に回して、この憧れのウィンブルドン、栄えあるセンターコートで戦っていた。

 案の定、審判台の向こう側では、アルベルト・コスナ―が先に1セット奪われ苦しい立場に立たされているにも関わらず、何食わぬ顔をして、表情一つ変えるでもなく涼しい顔で飲み物を補給している。ペットボトルを口元から離してコート上に置く際、チラッと雄一郎の方を睨んだようにも見えたが、その眼の奥に宿る眼光からは、牙を剥いてこれから襲い掛かかろうとする恐ろしいくらいの闘争心が一瞬、雄一郎の身体に電気がビビッと走るように感じられた。先程よりコスナ―の調子をとやかく心配していたことが愚かに思えるほど威風堂々と勇者の如くコスナ―は振る舞っていた。少しウェーブの掛かった黒髪に白いバンダナを巻き付け、汗でその黒髪も紫外線に照らされて黒光りしていた。その横顔は鼻筋がスーッと通った彫の深いギリシャ彫刻のようでもあり、褐色の肌に流れる汗をひとしきりタオルで拭っていた。雄一郎からは彼の横顔しか見えなかったが、それも審判台が遮って、あまり良く表情を窺い知ることはできなかった。でも、この試合展開に至ってもコスナ―の表情が一つも曇るはずがないことは疑う由もなかった。コスナ―の風貌からして、ハリウッドの映画スターにでもなれるような容姿を誇り、世界中のテニスファンに限らず、多くの女性ファンが彼に群がるのも無理もなかった。

 1万5千人近くを収容できるセンターコートの観客席では、立花雄一郎を応援する熱心な日本人らしき人や外国人の声援もあるにはあったが、それよりも思わぬ展開で1セット目を失って失望するコスナ―を応援するファンの大声援がセンターコートを埋め尽くしていた。「アルベルト、アルベルト」と彼の名を何度も連呼して、アメリカの国旗を振り翳す人、顔に小さな国旗を幾つもてテニスぺンティングした若い女性を中心とした黄色い声援を繰り出す大勢の人。こういう時、雄一郎は相手の声援を自分に向けられた温かい声援だと努めて思うようにしていた。これも彼の信頼するコーチからの良きアドバイスの一つだ。そのまま雄一郎は鳴り止まぬ歓声を耳にしながら、膝の上に置いてあったタオルを広げるとスッポリと頭の上に被せて視界を遮断した。そして、気持ちを落ち着かせ静かに瞼を閉じた。


             第8章 夢への第一歩


雄一郎が小学2年生になった時、その頃唯一の地元のスポーツとして盛んだったソフトボールのクラブに入部した。本当は1年生の時に入学して直ぐにでもソフトボール部に入りたかったが、それはできなかった。その当時のソフトボール部の監督は学校の近くにある散髪屋の川本のおじさんがやっていたのだが、どんなにお願いしても「1年生はダメだ。昔からのルールじゃけん、仕方ないのー。また1年後に入部したけりゃ、来んさい」と言われて、簡単に断られてしまった。

 ソフトボールができなかった我慢の一年間が過ぎ、2年生になってソフトボールができるようになると、雄一郎は一生懸命にボールを拾って広いグランドの中を存分に走り回った。2年生では簡単にボールを打たせて貰えなくて、少しがっかりしたが、それでも必死になって高学年の先輩たちが打つ飛んでもないボールをフェンスを越えてまで、その外に広がる田んぼの中にまで泥んこになりながらも拾いに行った。

 元来、彼はどんなスポーツでもいいから体を動かすことがとても好きで、自分の性にも合っていた。やはり、勉強よりは断然運動の方が大好きだった。あの劇的な印象の強かったロジャー・フェデラーの華麗なテニスの試合を観たのは忸怩たる思いで、まだソフトボールもやっていなかった1年生の頃だったが、周りの彼を取り巻く環境はこんな状況だった。とてもテニス、それも過激な近代テニスを行えるような理想的な環境には程遠かった。でも、あの時テレビで観たロジャー・フェデラーの颯爽とした雄姿はいつまでも幼い彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。フェデラーのコートに立つ華麗な姿は他のどんな偉大なスポーツ選手よりも光り輝き眩しく見えた。あれほどまでに憧れるスポーツ選手はどのスポーツ界を見渡しても他に見当たらなかった。ロジャー・フェデラーのテニスコートを縦横無尽に羽ばたく雄姿に時分の姿を重ね合わせ、将来自分もあんな風にコート立って、皆が憧れる選手として活躍する姿を思い描いた。必ずいつかはテニスをやりたい頭の隅では常に考えていたが、それも直ぐには叶わず、身近にできるソフトボールに熱中するしかなかった。

 その後もテニスの試合が放映していないかと何度か番組欄を確認してみたが、山間部の田舎では、というよりテニスというスポーツそのものが、今一つ日本ではメジャーなスポーツではなかったので、テレビ中継も特に民放の番組では殆ど放映されていなかった。当時は、スポーツでは他にサッカーも盛んだったが、野球では大リーグに挑戦する日本の選手が多くて、イチローや松井秀喜といったスター選手がアメリカで活躍して、彼も将来は野球選手もいいなと多少男の子なら誰しも憧れるくらいのことはあった。

 2年生になってからのソフトボールの練習は、夕方5時までほぼ毎日練習して、5キロ近くある長い山間部の道を歩いて戻った。家に帰ると勉強はそっちのけで、バットを振って、イチローや松井選手の真似をして見せたものだ。毎日、凹凸のある曲がりくねった山道を通っていると、自然に足腰も丈夫になり、その日常から仕方なく課せられた自然のトレーニングのお蔭で彼の力強いフットワークも鍛えられた。

 そんなある日曜日、雄一郎は母親と一緒に岩国市内デパートに買い物に行き、そも建物の6階にある本屋のスポーツコーナーに何気なく足が向いた。幾つかの棚にあったスポーツ雑誌の中にあの憧れのロジャー・フェデラーを表紙にしたテニスの雑誌が一冊だけ置いてあった。誘われるように直ぐに彼の目がその一冊しかなかった雑誌に釘付けになった。再び、あのテレビで観た興奮が甦った。すぐさまそのテニス雑誌を手に取ると、中身を見もせずに買い物をする母親の所に持って行き、無理やり手渡した。母親は強引に手渡された雑誌の表紙をチラッと眺めてから彼の顔を覗くと、「ほーっと」感心したような顔付きを見せて、特に何を言うでもなくレジの方に持って行った。自宅に戻る途中、車で1時間掛かる道のりが何と長く感じたことか。そして、やっと自宅に戻ると急いで部屋の中に閉じ籠り、漸く見つけた宝箱を開ける探検家のようなわくわくした思いで最初の1ページを捲った。そんなことなら買って直ぐに車の中で開いて見ればいいのだが、それではワクワクする楽しみが直ぐに失せるし、何だか表紙を飾っている凛々しいロジャー・フェデラーに申し訳ないような気がした。をれから間もなく、小学2年生がソフトボールの練習の合間に一人で行う僅かばかりのテニスの特訓が始まった。


            第9章 セカンドセット


 ファーストセットは、コスナ―の調子もそれほど上がらずに雄一郎が幸先良く1セットを先取できたが、問題はこれから始まるセカンドセットだった。そのファーストゲームは、雄一郎のサーブからまた開始される。これはファーストセットと同じ入り方だったが、今度はコスナ―の調子集中力もこれまでのファーストセットとは比べようもなくレベルを上げて来るに違いない。きっと最初のファーストポイントから容赦のない鋭いリターンを打ち込んで、行き成りサービスゲームをブレイクして来るはずだ。表情には決して出さないが、自尊心の高いコスナ―なら、この予想もしなかった展開に忸怩たる思いで、セカンドセットは是が非でも最初から飛ばして、力の差を見せつけようとするに違いない。そのように雄一郎はコスナ―心境を分析してみた。だが、そんな攻撃に恐れを成しては世界のテニスファン、いや世界中の人々が注目しているこのセンターコート、男子シングルス決勝では戦えない。雄一郎は腹を括り、どんなに容赦のない攻撃でも恐れずに逃げることなく受けて立つ覚悟をした。『さぁー、いつでも来い』無性にやる気が湧き起ってきた。それにしても、このセンターコートも彼が子供時代からテレビで観戦していた頃とは随分趣が変わっていた。確か、2009年に3年間掛けて改装され、開閉式の半透明の屋根が出来上がっていた。これまでの古い厳粛な雰囲気も随所に漂わせながら、斬新で近代的な明るいイメージも新たに加味され、彼はこのセンターコートがとても気に入っていた。

今年の大会では、それ程雨が降らずに一日を通して試合が中止となった日は一度もなかった。何とか2週間ここまで順調に試合が予定通りに行なわれ、開閉式の屋根が閉まる場面を見る機会がなかった。でも、昨年の大会では観客席からそれを一度見ることができた。昨年は、このウィンブルドンの大会に初出場ながら彼は惜しくも2回戦で敗れ、次の日に今戦っているコスナ―とチャールズ・クリストファーの試合を観戦したのだ。凡そ10分間の時間を費やして、ゆっくりと半透明な屋根が、芝生のコートを覆うと雰囲気がこれまでとは一変した。まるで古い過去から超近代的な未来のテニス会場に一瞬迷い込んだしまった錯覚を覚えた。観客の誰もが、まず雨粒の落ち始めたセンターコートにスタッフたちが緑色の大きなシートを張る手際の良さに感嘆して、濁った灰色の空を惜しむかのように徐々に蓋を閉めて行く滅多に見られない光景に更に感激して、状況が様変わりする様子を十分堪能していた。白い鉄骨を要した半透明な屋根が、少しずつ視界を遮り、広い空間の中に1万5千人程の大観衆が一気に飲み込まれると、その空間は別のテニスシーンに移り変わった。殆どの観客が、隣同士で手を取り合って、皆でウェーブを繰り返したりして、各々自分たちの好きなことをしてその瞬間を楽しんでいた。開閉式の屋根が音も立てずにゆっくり閉まると、一瞬大きな歓声がセンターコート内に鳴り響き、これまでとは違った空気は漂い、身が引き締まった。そんな緊張感が新たに漂う中で軽快な動きを見せてボールを放つ選手たちの打球音は随分と周りに反響して、その打球音を直接耳にしている選手たちのプレーはこれまでより更に優れたプレーに進化していた。

 雄一郎はセット間の休憩時間をフルに活用して、先にコスナ―がコートを立ってからゆっくりと次のコートサイドに向かうことにした。それまでは瞼を閉じて、次のプレーのイメージトレーニングを何度か繰り返した。イメージするのは、いつもサービスサイドであれ、リターンサイドであれ、得意なショットを放って、ネットプレーで相手を仕留め、派手なガッツポーズを演じる場面だった。これを何度もスクリーンの再生画面を見るように繰り返しイメージした。「タイム」という次のゲームの進行を促す審判の声がマイクを通して鳴り響き、いよいよセカンドセットが始まろうとしていた。2人のファイナリストが、今では荒れ果ててしまった芝生の戦場に立つと、またしても盛大な拍手と歓声が湧き起った。観客席の誰もがこれから始まる第二幕に向けて期待の眼差しをを輝かせていた。やがて、そのざわめきは、長年の格式のある伝統のうちに、海から潮が引くようにどこからともなく穏やかに鳴り止むと、それは静かな凪となり、センターコートにはいつもの怖いくらいに静寂が甦った。「センキュ」と、そこにはテニスプレーヤーにとってはお馴染みの名審判、アルフォンソ・ジェンキンズ氏の低く澄み渡った太い声がマイクを通してまた聞こえてきた。

 彼、アルファンソ・ジェンキンズ氏も、昨年は女子の決勝、今年は男子の決勝と、2年連続してこのウィンブルドンの名誉ある決勝の審判を行っていた。彼の主審としての威厳ある態度にはどんな選手も素直に納得させる独特な雰囲気があった。恐らくそれは、ジェンキンズ氏の厳格な態度と説得力のある抑揚を備えた太い声、それに選手の心を見透かしたような鋭い眼光に、テニス選手の誰もが魔法を掛けられたように吸い込まれるからなのだろう。また、彼の表情を一つも変えずに一瞬にして人を諭すような視線に捕らわれると、どうしようもなく悪態をつく選手も、借りてきた猫のように瞬時に大人しくなった。その威厳ある誇り高き態度は一流の選手と同じように一流の名審判もこれまでの長期に亘って培ってきた豊富な経験と知識、それに確固たる自信が備わっているからなのだろう。

 雄一郎はゆっくりと呼吸を整えながらベースレイン上に赴くと、ボールボーイから2個のボールを受け取った。そして、大きく深呼吸を三度行い、ボールを三回コート上に付いてサーブを打つ準備に入った。静寂の中、垂れ込める灰色の上空に向かって勇気を振り絞り、ゆったりとした動作でトスアップを開始した。

 さすがにセカンドセットのファーストゲームは、お互いに力が入って、デュースは繰り返し六度も続き、時間にして1ゲームだけで15分近くも費やした。しかし、ここもサービスゲームを辛うじてキープした。これまでの所、彼のサーブは余分な力が一切抜けて、思い切って振り抜くことができている。ファーストサーブも入れるというより、思い切ってポイントを奪いに行くといった積極的なサーブが今の所順調にできていた。試合前にコーチからアドバイスされたことは、サーブが試合の流れを大きく左右するのだから、力まずに滑らかな大きなスウィングに心掛けること。そして、ファーストサーブの確率をいつも以上に高めて、サービスエースを大切な場面では必ず奪わなければならないと口を酸っぱくして言われた。このサービスエースはリターンエースを奪うと共に彼が得意とする大きな武器だった。それは、小学生の頃から特別コーチによって鍛え上げられたものだった。そのファーストサーブが、この試合では有効に利いていた。対戦相手のコスナ―もスピード、回転量も鋭くて予測の難しいファーストサーブに体勢を崩し、リターンが少し甘くなっていた。殆ど彼の奪ったポイントは、サーブで相手をコートサイドに追い込んだり、体勢を崩させたりして、返球された短くて甘いボールをネット際に素早く詰めて、オープンコートにボレーやアプローチショットで決めたものだった。だが、コスナ―も奪われたポイントの後には、すかさずスライスの利いた低いボールを足元やコートサイドに鋭角に沈めて来て、ミスを上手く誘い込み、奪われたら奪い返すといったしつこいまでの攻撃を仕掛けてきた。並みのの選手ならポイントを奪われると、次には過剰な闘争心を剥き出しにして、無理にエースを奪いに来たり、普段は行わないプレーを強引に仕掛けるものだが、さすが百戦錬磨のコスナ―はそんな浅はかな攻撃はシテコナカッタ。落ち着いたプレーで、じっくりと相手の弱点を突き、ミスを誘う作戦を展開していた。やはり、油断のできない史上最強の王者、それがアルベルト・コスナ―だ。敵ながら、あっぱれと思わざる終えない展開が今後も執拗に展開されるだろう。

 雄一郎は、ボールボーイからタオルを受け取ると、歩きながら上目使いでコスナ―の動向を目で追った。コスナ―も同じように歩きながらタオルを使って顔の辺りの汗を拭いていたので表情は良く分からなかったが、あの鋭い眼光の奥に秘められた勝利への飽なき執念が燃え滾っているに違いない。あの一度きりの食事の時に見せていた彼の所作からほんの少しだが彼の性格が読み取れた。それは食事をしながらでも何度もウェイターを呼び寄せて、食事の内容を詳しく聞いたり、アルコールの種類を頻繁に変えてみたり、またテーブルの上を何度も布巾で拭いたりして、思ったより忙しなくて、神経質そうに見えたことだ。その上、かなりの潔癖症で、自分が納得しないと物事を運ばない完璧主義者のようにも感じた。それは彼との会話の中でも感じたことだった。ふっとそういったあの時感じたコスナ―の性格を思い起こして、雄一郎はS更に試合に向けて集中力を高めた。少し息が切れて苦しかったが、今は自分の唯一の休息の場である狭いベンチに戻り、立ったままだが、予定されたいつもの儀式を行った。透明のペットボトルに入ったコールドウォーターが渇き切った喉をスーッと冷たく癒してくれた。それは今の彼の軽快な足取りのように身体の奥深く、手足の指先にまで沁み込むように行き渡った。


             第10章 父親と息子たち


小学二年生の一学期を終えた頃、やっと雄一郎は自分のラケットを手に入れた。当時、彼の父親は一度家族全員で、雄一郎が小学校に上がる時に大阪から山口県の父親の実家に戻って来たのだが、また父親一人だけ出稼ぎで一年の内大半は大阪で造船業の仕事に従事していた。そして、春先の田植えや秋の稲の刈り入れの時期などに時々戻って来るといった二重の生活を続けていた。父親は年に数回実家に戻って来ると、よく雄一郎に「父さんが留守をしている間、お前が長男なんじゃから、母さんや弟をしっかりと守っちゃるんじゃぞ。父さんはな、お前が母さんの側にいるから安心して大阪で働いておられるんじゃけんの。頼むで」と彼の頭を掻き毟りながら言っていた。その言葉を聞く度、どうして僕が・・・と少し気が重くなったが、父親はそう言うと必ず大阪から買ってきたお土産を彼に差し出してご機嫌を窺っていた。それは本だったり、時には奮発して高そうなSLの玩具だったりもした。そして、何故かテニスのラケットを父親に欲しいと強請った覚えはなかったのに新品のラケットを買って来てくれた。それは単に父親が事前に母親に最近雄一郎が一番欲しがっていた物は何かと予め聞いていたからだった。このように随分と父親は雄一郎には気を使っていた。でも、そんな父親の気持ちとは裏腹に、彼は父親が帰って来て2日、3日もすると、いつ大阪に戻るのと父親に向かって失礼なことを平気で尋ねていた。弟の謙二郎はまだ幼かったので、父親が戻って来ると普段は甘えられない分、べったりくっ付いて離れなかった。

 そんな家族が離れ離れになった生活も雄一郎が2年生の夏休みを送っている頃に祖父の後を継いで父親が造園業を手伝うことになり、やっと家族4人が一緒の屋根の下で暮らせるようになった。というのも随分前から痛めていた祖父の腰の具合が思って以上に悪化して、急遽手術することになったのだ。そして、当時祖父が家業として営んでいた造園業の仕事も父親が引き継ぐことになった。将来は父親も祖父の家業を継いで立花造園業を守って行かなければならないと前々から造園の勉強はしていたようで、その為に大阪に行って、他の仕事も掛け持ちでしながら造園の修行も積んでいたのだ。

 祖父の下で働いていた4人の従業員たちも一時はどうしようか、このまま仕事が無くなり路頭に迷ってしまうのではないかと心配していたが、雄一郎の父親が戻って家業を継ぐことで皆一安心していた。

 久しぶりに戻って来た父親は夏休みの間、ソフトボールの練習と帰って来てはテニスのラケットを一生懸命に振っている雄一郎の姿を見て、にこにこ微笑んでは何か機嫌を窺うような様子で話し掛けてきた。当時は長い間、家庭を留守にしていた申し訳なさか、或いは自我が少し芽生え始めた我が子の気持ちが理解できなかったのか、父親は2人の息子にどう接してよいのか迷っていた。やはり、時々実家に戻って来て、子供たちに接するのと、いつも毎日顔を合わせて接するのとでは事の他勝手が違っていたようだ。どことなく父親と2人の息子と間にちょっとした溝ができていた。

「雄一郎、お、お前ソフトボールを学校でやっちょるらしいが、どうしてまた家でテニスのラケットまで振って頑張ちょるじゃ?」

「う~ん、ちょっと面白くてね・・・」雄一郎はラケットを振りながら面倒臭げに答えた。「そ、そうか。でも、お前が今振っているラケットは父さんが買ってきたラケットは軟式用で、ボールは硬式用の硬いやつじゃないか。どっちをお前はやってみたいんか」

 そうなのだ。父親は母親からラケットと聞いて、疑いもなく軟式テニスと思ったのだ。母親に軟式と硬式の違いを説明していなかった雄一郎は悪かったのだが、その頃は本人でさえ硬式と軟式では使う道具もルールも違うことを知らなかったのだから仕方がなかった。「へぇー、父さん、硬式テニスのこと、少しは知っているんだ?」

「うーん、まぁ、ほんの少しやけどな・・・。そんなことより雄一郎、お前、本当は硬式テニスも本気でやってみたいんと違うんか、なぁ母さん?」

「ええ、お父さんはスポーツのことなら何でも知っているのよ。雄一郎、本当にやりたいのならお父さんに教わってみれば。ねぇ、お父さん。ふふふ」父親と息子の会話の途中から来て、庭先で洗濯物を取り込んでいた母親は自分の息子に対して妙に気を使っている父親の様子が可笑しくて、父親の顔を覗き込んではクスクスと含み笑いを浮かべていた。「へーん、なんだ、また僕だけ除け者にして。テニスの事なら僕でも知っているんよ。あの学校でお姉ちゃんたちが『ハーイ、ハーイ』と言って叫んで打っているやつやろ」母親の後をくっ付いて来た弟の謙二郎まで話に加わって、夕食前にはどこの家庭でもありそうなこんな会話を父親が大阪からあ戻って来てからは立花家でも交わされるようになった。そして、日が経つに連れて、父親からの子供たちへの愛情溢れるアプローチが度を増して激しくなり、2人の子供たちはいつの間にか父親に対して取っていた他人行儀な態度は失われつつあった。

 父親の取ったアプローチとは、まず自分から面倒くさがらずに息子たちに挨拶でも何でも声を掛けていろいろとお節介を焼くことだった。時間があればいつでも子供たちの所に寄って来て、一緒にスキンシップを図った勉強を見たりして、傍から見ても呆れるほどだった。それから間もなく、父親は何の前触れもなく、今度は間違いのない新しい硬式用のラケットを広島にあるスポーツ専門ショップから雄一郎のために購入してきた。それはまだ2年生の子供には重くて新しい大人用のラケットだったが、そんなことより父親が自分のことを真剣に思ってくれた気持ちが雄一郎はとても嬉しかった。三日三晩、その真新しいラケットを胸に抱きしめて寝ていた。早速、次の日から直ぐに彼は家の前のブロック塀に向かって壁打ちを始めた。以前から持っていた軟式用ラケットで壁打ちは結構暇を見てやっていたが、手に残る打球感はやっぱり硬式ラケットの方が数倍も打ち易かった。しかし、その壁打ちに使用されるブロック塀は、下半分がゴツゴツした大き目の石が積み上げられて、上半分だけに平らなブロックが1メートル範囲に重ねられて造られていた。そんな状態だったので、ゴツゴツとした石の表面にボールが当たると、とんでもない方向にボールが飛んでいた。上手くブロックに当たったとしても、どうにもボールが大きく弾み過ぎて、反対側にある道路脇の溝や田んぼの中にボールが何度も落ちてしまったいた。それは単に雄一郎のテニスの技術が未熟で、ボールを上手く操れなかっただけなのだが、これを打開する良い解決策がないかと、まだ8歳の頼りない頭を巡らせて考えた。そして、とても素晴らしい妙案を思いついた。だが、それは後に父親から嘗てないほどの大目玉を食らう破目になる秘密の特訓だった。


              第11章 シーソーゲーム


試合が始まって、凡そ1時間15分が経過していた。セカンドセット、2ゲームズオール。開幕当初、あの目にも色鮮やかで、陽を浴びるほど星屑が鏤められたように輝いていた芝生が、今は随分とコートの半分以上が傷んいでしまい、下の黄土色が剥き出しになった個所も随所にあった。特にベースラインとサービスライン周辺は、選手が頻繁にフットワークを使う場所なので、相当傷んで芝生が捲れたようになっていた。

 このどんなスポーツスタジアムにも負けない世界一有名なセンターコートに年に一度、まだ誰も足を踏み入れていない神聖なコートに入場できるのは、前年度男子シングルスチャンピオンと幸運に恵まれた、だが1回戦で無情にも前年のチャンピオンと戦わなければならない人物の2人だけだった。今年、その特別な特権を与えられた人物は言うまでもなく目の前に力強く立ちはだかる世界ランキング№1のアルベルト・コスナ―、その人だ。

 雄一郎は少し落ち窪んだような目を吊り上げ、暗くなりかけた表情を無理して明るく取り繕いながらもボールボーイ(いや、今は女の子もいるのでボールパーソンと呼ぶのが適切かも知れない)からベースライン後方でタオルを受け取り、顎の下まで流れ落ちる汗とグリップを丁寧に拭った。そして、先程まで執拗なまでに繰り返された幾つかのプレーを思い起こした。試合中、過去のプレーを振り返ったりはしなかったが、さすがに人生に一度あるかないかの大きな檜舞台では違った。それも原因したのか、セカンドセット、恐れていたことだが、ついに第5ゲーム目でサービスゲームをブレイクされてしまった。全てのサービスゲームを完璧にキープするのはこれだけの大舞台での決勝戦では難しかった。でも、それが彼に与えられた使命であり、もし達成できなければ貴重な1セットを落としかねない緊急事態だった。

 セカンドセット、コスナ―は早目の展開から容赦なく攻め立てて来るだろうと予測はしていたが、案の定ファーストサーブが決まらなかった分、甘くなったセカンドサーブを引き付けられて思いっ切り叩かれてしまった。何とかストロークの応戦に持ち込み切り返しはしたが、先にネットに詰められ連続ポイントを許し、サービスゲームを破られてしまった。それだけテニスというゲームはファーストサーブの確率が試合の展開を大きく左右した。だが、そんな苦しい状況でも雄一郎は焦らずに落ち着いて、淡々と次のプレーに臨んだ。その姿勢が良かったのか、次の大切な第6ゲームでは、試合中に滅多にダブルフォルトを犯さないあのコスナ―が、何故か自分のサーブを立て続けにダブルフォルトを犯した。コスナ―にとって、そのミスは痛恨の極みだったが、彼とて人間、油断したわけではないだろうが、余分な力が加わって奇しくもこのような結果に陥っていた。コスナ―の短気な面が出て、何度かラケットで自分の頭をしきりに叩いていた。その信じられない幸運なミスに雄一郎は付け込んで、0-30からお互い1ポイントずつポイントを重ね、15-40とした。次のゲームポイントでは甘く入って来たクロスボールを両手バックハンドで引き付け、高い打点からダウンザラインに渾身の力でエースを放った。その魂の籠った鋭いボールは、サイドラインに沿って真っ直ぐに伸び、ベースライン手前から急激に落ちた。サイドライン上に回転するボールが半分掛かって落ちると、白いチョークが一瞬舞い上がった。それは紛れもなくコートインを示していた。

 こうして相手の度重なる不注意なミスに助けられた感もあったが、直ぐに相手のサービスゲームをブレイクバックした。これでセカンドセット3-3のタイになり、振出しに戻った。硬直したこのような試合ではサービスゲームを一度破られると直ぐに破り返すといった展開が続く。一度破られてしまうと、お互い何度も続けてサービスゲームを破られるという好ましくない展開に陥る場合もあった。不思議だが、試合の流れはその状況、その場の雰囲気で以って如何様にも伝染するというのか。ボールパーソンに指先を向け、雄一郎はタオルを受け取るとサーッと額から首筋までの汗を瞬時に拭き取り、今はまだ白く濁ったままの曇り空を見上げた。そこには、真っ白いキャンパス地に描かれた絵のような数派の鳥たちが連なってセンターコートの上空を東の空へ向かって飛んで行く姿が垣間見えた。その様子を眺めながら、あのような幸せそうな鳥たちにも人間には分からない自然界の厳しい荒波がきっとあるのだろう。今のこの状況のような・・・、そんな弱気な考えがふっと彼の脳裏に浮かんだ。でも、その否定的な考えを直ぐに打ち消すと唇を強く結び直し、ベースライン後方のボールパーソンに近づいた。そして、肩に掛けていたタオルを放り投げるように渡した。ダメだ、ダメだ、折角イーブンに戻ったというのに少し弱気になってきた。ここは再度集中力を高めて是が非でも次のサービスゲームをキープするぞ自分に向かって活を入れた。ベースライン後方から踵を返すと、彼は他のボールパーソンからまだ使用されて間もないニューボールを2個受け取った。このボールは先程まで使用されていた6個全てのボールが新しいボールに交換されていた。ツアーでの公式戦では、最初のボールは試合がスタートして7ゲームが終了した時点で行われ、二度目からは随時8ゲームが終了した時点でボールチェンジが行われていた。このサービスゲームはニューボールを活かして、何として

もサービスゲームをキープしなければならない。

 雄一郎は1個のニューボールをラケットフェイスで弄びながらベースライン上に両足を置くと、軽く二度三度その場でステップを踏んで呼吸を整え、ボールをゆっくりとコート上に弾ませた。そして、徐に顔を持ち上げると鋭い眼光をネットの先に向けた。その視線の先には好敵手、アルベルト・コスナ―が威風堂々とし立ち姿でレシーブの位置に構えていた。


「フーッ」とベンチに戻って椅子に腰を掛けると肩を落とし、大きな溜息を吐いた。セカンドセット、4-3、苦しい場面が続くが、何とか雄一郎はリードを堅持した。安心の度合いが大きかった分、ベンチに戻るなり全身の力が抜けたような脱力感に見舞われた。厳しい状況だったが、攻める気持ちが大きく働いた分、無事にサービスゲームをキープした。一度、サービスブレイクを許すと立て続けに次も破られるというジンクスは免れた。プロの世界では二回続けてサービスゲームを破られると、ほぼそのセットは失うところだが、まだ彼にも幸運の女神様が味方に付いてくれていた。テニスに限らずスポーツの世界では実力だけでなく、運というものもがその試合を大きく左右する。これまでにもプロになって世界を転戦し始めて、今年で彼の3年目になるが、雨での中断、一つのコードボールや審判のミスジャッジ等で試合の流れが大きく良くも悪くもなることが幾度となくあった。そんな時、彼は例え不運が自分に舞い降りたとしても、挫けずに次は自分の方にきっと幸運が舞い降りて来ると確信していた。それもスポーツの女神様がこの世に存在するとしたら、不運も自分に与えられた試練と考えて、どんな状況でも諦めずに戦ってきた。どんなに苦しい状況でも、決して諦めさえしなければ、前を向いて前進さえすれば、女神様も見放すことはできない。そう言えば、幼い頃、父親からも「三度歯を食い縛って頑張っても、それでもダメならその時はもう無理をするな」と言われて育ったことを思い出し、ふっと笑みが零れた。『今のこの状況は三度目の限界?そんなはずはない。まだまだ先は長いぞ、雄一郎』と自分自身を奮い立たせた。そして、水分を補給して、渇いた喉を潤しながらタオルを頭からスッポリと被った。こうして目の前を遮断し、目に映る物を一時的に無くすことで、とても気持ちが落ち着いた。ジュニアの頃から試合中に不安に陥ったり、どうしても試合に集中できなくなった時、また次のゲームの作戦を考える大切な場面では、よくこうしてタオルを頭からスッポリと被って集中力を高めた。


               第12章 秘密の特訓


秘密の特訓、後にして思えば、あんな事を懲りもせずによく平気でやっていたものだとつくづく彼は思った。家の前の道路沿いを巡っているブロック塀に向かって、雄一郎は暇な時は壁打ちをやっていたのだが、どうしてもボールの弾みが強くて、真面な壁打ちになっていなかった。それなら何かもう少し柔らかい物体に向かってボールを打てば、少しは弾みがなくなり、上手く繋がるかも知れないと子供心に考えたのだ。そこで思いついたのが、家の物置に置いてあった2枚の黴が生えた古い畳を利用することだった。雄一郎がもう少し小さい頃、父親が大阪から時々実家に戻って来ると遊びがてらによく母屋の隣の納屋、といってもかなり広くて十畳はありそうな場所で、何枚か畳を敷いては俄か柔道場を造り、柔道の稽古を遊び半分でやっていたのだ。父親は自分が若い頃得意だった柔道を子供にも教えたいと思って、大阪から戻って来た日にはよくこの俄か柔道場が開かれていた。

 彼は埃を被って物置の奥に捨てられないで残っていた2枚の畳を最初は家の前のブロック塀に立て掛けて、その畳に向かってボールを一心不乱に打ち込んでいた。でも、さすがに近所の人の目もあって、恥ずかしくなり、今は殆んど使用されていなかった近所にある集会場に場所を移して壁打ちならぬ畳打ちを開始したのだ。

 その場所は集会場所いうよりは倉庫のような大きな建物で、天井も見えるほど高く、下はコンクリートが崩れて土が剥き出しになっていた。部屋の大きさは三十畳もありそうな広い場所で、四方を高い壁で囲まれていたので、誰の目にも見えなくて理想的なポジションだった。自宅からはほぼ200メートル程離れており、2枚の重たい畳を運ぶだけでも容易ではなかった。最初、手で運ぼうと試みたが、とても小学2年生の子供に運べるような代物ではなかった。暫し思案に暮れていると、またまた素晴らしい解決策が浮かんできた。それはいつも祖母が畑仕事で野菜を運ぶのに使っていた小さな子供でも楽に押せる一輪車を利用することだった。

 田舎では田んぼや畑があるとこうした一輪車必ずどこの家庭にも何台かあって、大いに活躍していた。どっしりと重たい2枚の黴臭い畳を一輪車に運ぶだけでも大変で、慣れない頃は何度も畳を地面に落としていた。何とか一輪車に載せて、フラフラしながらも川沿いにある集会所まで運んだ。凡そ20分掛けて建物の中に2枚の畳を運び込むと、壁が所々ひび割れた個所にその2枚の畳を立て掛けて、これまでの苦労を吹き飛ばすように思いっ切りその畳に向かってボールを打ち続けた。やはり、まだ下手糞なせいもあって、時々畳からボールが大きく外れて、剥き出しになった脆い壁にもボールが何度も当たっていた。でも、打っている最中は無我夢中で、何のお構いもなしに何時間もボールを畳とは言わずに壁にも向かって必死になって打ち続けた。畳に向かってボールを打つと畳の柔らかさがクッションとなって返って来るので丁度打ちごろとなっていた。

 3ヶ月もテニスの練習ともまだ言えぬ特訓が続いた頃、近所ではある神妙な噂が立ち始めていた。

 そんなある日、仕事から戻って来た父親が夕食の席で他人事のように笑顔も交えて家族全員に話があった。「なぁ、母さん、あそこの今は使われていない集会所の中の壁が誰かの悪戯で激しく剥がれ落ちちょるらし。どこかの悪ガキが来て壊しちょるのを見かけんやったか?こんな田舎でも、知らん奴らがバイクで乗りつけて来ては悪戯をすることもあるからのー」その思いがけない父親の言葉に雄一郎も母親も一瞬言葉を失った。まるで暖かい常夏の国から物凄い極寒の身も凍える氷の世界に送られたようにフリーズした。それでも母親は気を取り直し、硬直した顔を済まなそうに上げて、「さぁー、どうでしたか。でも、そんな人は近くでは見かけませんでしたよ」と雄一郎の顔をチラチラと覗き込みながら消え入りそうな細い声で答えた。

「そうか、近所の小山のおじさんの話じゃ、何だか野球のボールくらいの丸い物が当たった跡が壁の上の方に沢山ついちょって、そこから古い土壁が剥がれちょるらし。雄一郎、謙二郎、お前たちは何か知らんか」

「ええー?僕たちはそんなの知らないよねー、兄ちゃん」弟の謙二郎は何食わぬ表情で隣の席に座る兄の同意を求めるように大袈裟に答えていた。雄一郎はこの時ほど無邪気な謙二郎の表情が憎らしいと思ったことはなかった。もし、周りに誰もいなかったら、恐らく謙二郎の頭を感情の赴くまま数回ぶっ叩いていたことだろう。

 母親はボールの跡が付いていると聞いて、堪忍したらしく、というのも母親だけがこっそり畳を集会所に運んで壁打ちならぬ畳打ちをしているのを知っていたからだ。時々、「壁を壊さないように気を付けてやるのよ」と彼に注意をしていたくらいだった。母親は大きく深呼吸を一度すると顔を強張らせ、毅然とした態度で、「雄一郎!」と大きな声を発した。そして、食べかけのお茶碗と箸をテーブルの上に置くと彼をきつく睨み据えた。その声に一瞬怯えたように反応した雄一郎は、口の中一杯にご飯粒を含んでいたので、思わず吐き出しそうになった。何とかそれを堪え、急いでお茶を一口飲み干すと『ゴッホン、ゴッホン」と二度咳き込んで、この期に及んではもう堪忍するしかないと諦めた。「あのー、父さん、それはもしかして、いやー多分、いや間違いなく・・この僕がやりました」

 最初、一体何を言っているのか全然理解できずにぼけーっとした表情で笑顔を向けていた父親だったが、そのうち「嘘だろう」と一言言うと、母親の頷く姿を見て、見る見るうちに笑顔が崩れた。それと共に漂っていた和やかな空気も一瞬にして入れ変わった。それはまるで葬儀場にでも来たかのように心痛で重たかった。そして、父親の頬の筋肉がぴくぴくと痙攣したように動くにつれて両目が吊り上り、ついには額の方から絵具を塗ったように真っ赤に染まった。それはまさに天下を二分にして戦う戦国武将さながら鬼の形相だった。その晩は夕食どころではなく、延々一時間余りも彼は畳の上に正座させられ、お灸をたっぷりと据えられてしまった。それから父親は1週間も経たないうちに雄一郎が学校に行って知らない間に左官屋さんを呼んで、滅多に使用されていない古びた集会所だったが、剥がれた壁をこれまで以上に綺麗に塗り替えてくれた。それを見て、雄一郎は父親に対して本当に申し訳ないと心底深く反省した。当たり前だが、その後当分の間、テニスの畳打ちは無論、壁打ちもソフトボールの遊びさえも却下されてしまった。

 そんな寂しい思いが暫らく続いていたある日、父親は彼を自分の部屋に呼び寄せてこう切り出した。

「雄一郎、この前の件はもうお前も深く反省してよう分かっちょると思う。人様の物、公共の施設、例えそれが古びて、今は使われていなかったとしてもじゃ、人様に迷惑を掛けるようなことは絶対にしちゃならん。分かっちょるな」

「はい、父さん」

「うん、よろしい。ところで雄一郎、ソフトボールの練習はどうなんじゃ、楽しくやっちょるんか?」

「はっ?、うーん、まぁまぁだけど・・・。まだ下っ端だから玉拾いばかりやらされているよ。やっと最近になって、キャッチボールくらいはやらせて貰っているけれどね」

「そうか、・・・で何で畳まで持ち出してテニスをやろうと思ったんじゃ。そんなにテニスもお前は好きなんか?」

 この時になって初めて彼は父親に向かって、あの一年くらい前にテレビで観た衝撃的なテニスの場面、まるで何かの華やかなショーを観ているようでもあり、観客席を埋め尽くすほどの大勢の観衆に見守られて熱い火花を撒き散らして戦っていたあのテニスの試合、あの決勝戦のロジャー・フェデラーとその対戦相手、名前はもう忘れてしまったが、その2人の息を呑む大熱戦に憧れて、自分もあんな風にテニスコートに立って、激しく相手とボールを打ち合い、観客席からの熱い声援を一身に浴びてみたいと感じた印象を素直に打ち明けた。自分では気付かなかったが、身振り手振りを交えて、物凄く興奮した様子で、あの時の試合状況を熱心に父親に説明していた。その表情は目をギラギラと光らせ、普段家族にも見せたことのないやる気と希望に満ちた表情を臆面もなく向けていた。父親は、そんな彼の普段見せない興奮した態度に、少し驚いた表情を見せていたが、それでも黙って彼の話を胡坐を組んだまま静かに聞いていた。時折、腕を組み変えては目を瞑って「うんうん」と頷きながら熱心に耳を傾けていた。

 雄一郎の情熱的な熱弁が終わると、父親はゆっくりと閉じていた瞼を開き、彼に対して真剣な眼差しを向けた。そして、二度、三度頷くと俄かに口元を緩めてにこっと微笑み返して思いも寄らない言葉を彼に投げ掛けた。「雄一郎、お前本当に自分の好きなこと何でもしていいんじゃぞ。それが、お前の人生じゃ、一度しかない人生なんじゃから、お前の好きなことをするんじゃ。人に決められたレールを黙って歩むのは本当の自分の人生じゃない。もしかしたら、お前はテニスをするためこの世に生まれてきたのかも知れんのー。うん、きっとそうなんじゃろう。それが。お前のこの世の生まれてきた使命じゃ。そうと決まったら、明日から父さんと一緒にテニスを本気で始めるんじゃ。分かったか!」そう叫ぶように言うと、父親は何か決心を固めたように右手に拳を作り、もう一方の手の平と力強く打ち合わせてスーッとその場から立ち上がった。そして、畳を両足で強く踏みしめながら部屋から出て行った。雄一郎はそうした父親の態度に唖然とするだけで、黙ってその場に佇んでいた。そして、口をあんぐりと開けたまま襖を開けて部屋から出て行こうとする父親の後姿を呆然と見送った。

『使命』、この言葉は何かと父親が子供たちに向かって幼い頃からよく言っていた言葉だった。「人にはな、必ずこの世に生を受けて、その生を全うする過程では、何らかの使命を果たさなくちゃならん。それは、前世で成し遂げられなかった使命だったり、また新たに神様から授かった使命かも知れんがな。早くお前たちも、この世における使命を見つけるんじゃぞ」と事あるごとに言っていた。「使命か・・・、テニスをやることが僕の使命?まさかそんなバカな・・・」 雄一郎は父親の言葉を信じられずに、そんな風にしかその時は考えていなかった。

 早速、次の日には食卓のテーブルの上に5冊ものテニスに関する本と雑誌が無造作に積み上げられていた。新しく購入した『テニスの基本…』と言った類の物や、古くて表紙の剥がれた図書館から借りてきたようなテニスのルール本まであった。それを見て、てっきり父親が雄一郎に読めと言うのかと思ったが、違った。父親は夕食を手早く済ませると、その本の束を脇に抱えて、意気揚々と自分の部屋に閉じ籠ってしまった。そんな日が数日続いて、母親に「父さん、どうしたの?直ぐに部屋に籠ったりして・・・」と雄一郎が尋ねても「さぁね、何を考えているのかしらね・・・」と半ば呆れた返事だけが返ってきた。只、父親と顔を合わす度に「雄一郎、毎日素振りはやっちょるか。バットじゃないぞ、ラケットだぞ」と意味有りげに微笑んで訊いてきた。その表情には身尻に深い皺が入り、瞳の奥には何か秘めた企みが隠されている様子だった。

 それからまた数日が経過して、雄一郎が部活から戻って、夕食までの薄暗い中、毎日欠かさずに庭先でラケットを振っていると、父親が彼の側

にそおっと近寄って来て、その場に座り込んだ。そして、彼のラケットを振る姿を暫く何も言わずに眺めていた。雄一郎はチラッチラッと何度か父親の方を気にしながらも素振りに専念していたが、そのうち父親が周りを窺うように立ち上がると、ぼそぼそと小声で彼に話し掛けてきた。「雄一郎、調子はどうじゃ、ラケットはしっかり振れちょるんか?あのなー、雄一郎、ここだけの話じゃが、これから父さんがお前のテニスコーチをしちゃろうと思う。母さんにまだ内緒じゃぞ。いいか、明日にでもソフトボールは辞めて、早く家に戻って来い」と信じられないことを言ってきた。

 雄一郎の父、立花政隆は祖父もよく言っていたが、昔から誰にも相談せずに行き成り物事を始めてしまう仕方のない奴じゃ。そして、やると決めたら例え誰が反対しても、どんな事をしてでもやり遂げようとする奴じゃ。そんな風に祖父も褒めると言うよりは少し嘆いていたが、まさにこの時はそんな状況だった。どうやら父親はあのテニスの本や雑誌を熟読して、父なりに必死になってここ2週間の間、テニスの猛勉強をしたようだ。そして、自分でも何とか息子にテニスを教えられると抱かなくてもよい自信、根拠のない自信を深めてしまったようだ。父親の凄いところは、後先を深き考えずに根拠のない自信を抱き、自分で決めた事は直ぐにでも実行に移す行動力だった。

 雄一郎は父親の話を聞いて、嬉しいというよりも半ば呆れ果てて、どうせテニスなど何も知らない父親が教えられるはずがないと高を括っていた。きっと、その時の彼には『人間、やれば何でもできる。やる気があるということは、それを達成できる能力がすでにその人には備わっている』といった人間界の法則がまだ理解できていなかった。


             第13章 サービスブレイク


 お互いセカンドセット、2-2、2-3、3-3と相手にサービスブレイクを一度ずつ許したが、試合は順調に推移して、手に汗握る激しい展開が続いていた。そして、4-3から4-4へと続く2ゲームでは、お互い相手に一度ブレイクポイントを握られたが、強力なサービスエースを大切なポイントで2人とも放ち、難なくサービスゲームをキープしていた。

 1万5千人の大観衆の中には、このままサービスをお互いにキープして、このセットは待ちに待ったタイブレイクに突入すると期待する観客が多かったかも知れない。一度お互いサービスゲームをブレイクされて、直ぐにまたブレイクバックしたのだから誰もがそう考えるはずだ。だが、思わぬ展開進むにがテニスだ。観客の思惑に反して、第9ゲームでまたしても雄一郎の大切なサービスゲームが破られてしまった。愕然と肩を落とし、頭を垂らしたまま暫く雄一郎はコート上に佇んだ。試合の展開として、4-4までの過程では、順調にサービスキープが続く場合が多いが、次の第9ゲームからは1セットの中でもレシーバーにとってサービスブレイクを齎す最後のチャンスだ。そのため、レシーバーは更に集中力を研ぎ澄まして攻撃して来るのは必至だった。その威勢に根負けして、サーバーは必要以上にプレッシャーを感じ、プレーにも精彩を欠き、結局ブレイクされてしまうケースが少なくなかった。そんな展開が計らずも雄一郎の身にも実際に起こってしまった。何とか食い止めようと必死にもがいたが、コスナ―の迫力あるプレーに圧され、思い切って攻められずにブレイクを許す結果となった。後悔先に立たずだが、第9ゲームに入る直前、ほんの一瞬だが、ベースライン上に立った時、このサービスゲームをブレイクされたらどうしようとふっと考えてしまった。直ぐにその考えを打ち消したが、時遅く潜在意識の奥底に消極的な気持ちが浸み込み踏んではいけない轍を踏んでしまった。しかし、このセットを決して諦めた訳ではなかった。セカンドセット、4-5。次はコスナ―のサービスゲーム、サービング・フォア・ザ・セットにもなるとても重要な場面を向かえる。

 5-4とリードを奪い、ベンチに引き揚げようとするコスナ―の動作からは、もうこのセットは俺の物だという確信めいた自信が満ち溢れていた。そうしたコスナ―の仕草に忸怩たる思いを募らせながら雄一郎は真っ直ぐに前を向いて歩き、起きてしまったことは忘れようと気持ちを切り換えた。そして、落ち込む姿勢を一切見せずにボールパーソンからタオルを受け取るとゆっくりとした足取りでベンチに戻った。

 第9ゲーム、雄一郎のサーブはファーストサーブが不調で、全てのポイントがセカンドサーブとなった。サーブとはこのように、調子が良いかと思うと次のゲームでは急激にガターンと調子が狂って修正が利かない場合もあった。それ故、サーブの力だけに頼る選手は大方たいせいしないとテニス界では囁かれていた。

 そうした雄一郎の不調なサーブ力より、コスナ―のリターン力の方が数段優って、ストロークの展開でも主導権を握られていた。その反省だけは、彼もベンチに戻って直ぐに行い、気持ちを切り換えようと必死に努めた。

観客の中には、鋭いリターンであっても、何とか返球して対等の打ち合いに持ち込めば、お互い立場は同等ではないかと思われがちだが、一度後手に回った選手が、そこから挽回するのは至難の業なのだ。すでにペースは相手のイメージ通りに実行され、切り返すには並外れた技術と精神的タフさが必要だった。それは実際にプレーしている選手とって途轍もなくきつい作業だった。でも、それが可能だからこそ誰もが認めるトップ選手として君臨できるのだ。テニスとは、それ程までに過酷で自分しか頼れない孤独なスポーツだ。だからこそ如何に早く打ち合いの主導権を、リズムを相手よりも先に握るかが勝負の分かれ道と言えた。今後、何とかファーストサーブの確率を高め、サーブの威力で相手を圧倒しなければ、今後もサービスブレイクもチャンスを相手に与えてしまうだろう。

 雄一郎は傍目には焦っているように見せないつもりだったが、一抹の不安が脳裏を掠め、逐一それを打ち消さねばならなかった。

 それにしても、さすがコスナ―だ。世界ランキング№1、誰もが認める偉大なチャンピオン。ここ2年もの間、世界一の座を揺るぎなくキープして、堂々とテニス界の王者として君臨している。打ち込んで来るボールには、他の選手にはない強力なヘビースピンが掛かり、スライスにしても低い軌道でコート上に食い込むように逆スピンが利いている。それはまるで雨の日の水分を含んだコートで打つ打球のようにかなり滑る。その上、しっかりとコーナーを狙ったボールを綺麗な糸を引いたように簡単に打ち砕き、徐々に獲物を追い詰めるように攻め立てる。また、こちらが逆にコーナー付近に追い込んだかと思うと、透かさず切り返しのリターンが容赦なくコート上に突き刺さったりもする。それは、動物的な臭覚を利かせて、次のコースを先んじて予測し、相手に多大なプレッシャーを、これでもかこれでもかと言うくらいに執拗に仕掛けて来る容赦のない攻めだ。その攻撃からして、その褐色の肌の色からもコスナ―は、テニス界ではせ選手皆から黒豹と渾名され対戦相手は同じコートに立っただけでも萎縮し、必要以上に彼を恐れていた。

 ベンチの椅子に深く腰を落とし、雄一郎は持参してきたバナナを半分口に頬張る。冷凍保存していたので、とても冷たくて堪らないくらいに美味しい。喉の奥がスーッと癒される感じだ。そのまま一気にバナナを一本平らげると、コールドウォーターを一気に飲み干した。

 以前、この自然水とスポーツドリンクを薄めて割って飲んでいたのだが、それではスポーツドリンクのミネラル分まで薄まり効果が半減すると分かった。それからは自然水とスポーツドリンクの両方をペットボトルに入れて持参し、半分ずつ飲むようにしてきた。

5名のメンバーからなる彼のチーム(大会によって、集まるメンバーは多少異なる)は、5月に行われるフレンチオープンを終えると、一時帰国することはあっても、直ぐにそのままイギリスに渡り、一軒の邸宅を借りて芝のシーズンに備えた。そして、ウィンブルドンの前哨戦に行われるクィーンズ選手権に出場するのが大方の大会スケジュールとなっていた。

 再びタオルを頭から被り、次の相手のサービスゲームをブレイクするイメージを頭の中でシュミレーションする。気持ちは追い込まれているにも拘らず、この段階に来てはリラックスした自然体に戻り、先程よりは幾分か落ち着きを取り戻した。恐らく、ファーストセットを先に先取した余裕がそうさせたのだろう。

 すでに試合は始まって2時間近くが経過していた。上空には先程の軽そうな白い雲から墨汁を垂らしたような重たい灰色雲がセンターコート上空に垂れ込めていた。重たい雲とは対照的にグリーン色を基調とした伝統あるセンターコートに備え付けてある時計が刻々と近づく、どちらが勝利を掴むのか未だに勝利の女神様も決め兼ねている瞬間へと時を刻んだ。時々、選手はコート脇に備え付けてある時計を見て、念入りに今後の作戦を立てている。

 第2セットの状況は厳しく、次はコスナ―のサービング・フォア・ザ・セット、緊迫した場面を向かえていた。このまま簡単にセットを許してはならない。ここは時間を十分取り、試合をゆっくり運ばなくてはならない。さすがにコスナ―が順当にセカンドセットははリードをキープしているからなのファーストセットとは異なり、会場内は静謐なムードが漂っていた。でも、あまりの静けさに我慢できなくなった観客の一人が「ユウイチロー」とたどたどしい発音で叫ぶと、その声に呼応したかのように今度は「アルベルト」と流暢な発音で叫び合う声が競うように聞こえてきた。同じように叫び合う声が数回等間隔でセンターコート内に鳴り響き、それは重苦しくも感じる今の観客の気持ちを代弁しているようだった。

 曇り空のお蔭で気温もそんなに高くないのがせめてもの救いだが、湿った空気が上空の気配と同じように肌に重たく感じられた。恐らく、現在雄一郎が苦しい立場に追い込まれているから尚更そう感じたのだろう。


           第14章 父親への怒りと感謝


「父さん、この前、父さんから言われたようにソフトボール、今日の午後、キャプテンに言って辞めて来たよ」家の裏庭で黙々と植木の剪定をしていた父親に向かって、雄一郎は少し生意気な態度で報告した。「・・・」でも、何の返答も父親からは返って来なかった。「父さんってば、部活、今日辞めて来たんだよ。何とか言ってよ」それでも父親からは何の返答もなかった。いつものことだが、植木の手入れをするとなると父親は誰が声を掛けても相当集中しているのか気付かなかった。それでも、三度目に「父さん、僕・・」と叫ぶと「分かちょる」とだけ面倒臭げに言って、一瞬彼に目を向けたかと思うと、松の剪定に精を出した。そんな父親の態度に彼は俄かに腹が立って、つい「くそじじぃー」と叫んでしまった。そして、そのまま裏庭から回って表玄関に出てきた。そんな暴言を父親に吐いたことは一度もなかったが、まだ本当に父親が自分のテニスコーチをすることに半信半疑だったし、ソフトボールも皆と一緒に練習することが楽しかったので、それを急に父親の気紛れで辞めさせられたのだから憤慨も止む無しだった。その上、あのような父親の傲慢な態度を見せつけられては溜りに溜まった怒りが火山の噴火の如く爆発しても仕方なかった。

 この日、雄一郎は部活を辞めると監督に言おうとしたが、胸がドキドキしてついに言えずにいた。そのまま一旦グランド整備をして家に帰りかけたのだが、このままではいつまでも辞めるとは言えないと思い直して、まだグランドに残っていた6年生のキャプテンの所に走り寄って、「申し訳ありません。今日で部活を辞めることになりました。短かったけど本当にありがとうございました」と短く挨拶をして。逃げるようにその場を後にしたのだった。とても、親切にしてくれた大橋キャプテンは、狐に抓まれたようにポカーンとした表情をしていたが、それ以上キャプテンの顔を彼は直視できず、「立花、立花」と大声で叫ぶキャプテンの声にも耳を貸さずに一目散に家路に向かったのだ。

 暫らくして、父親が剪定ばさみを脇に抱えて、玄関前に涙顔で立ち尽くす彼の所に近寄って来た。そして、「そうか、辞めて来たんか」とぽつりと一言だけ言って、首に巻いていたタオルで額から首筋辺りの汗を一汗拭っていた。それ以上、父親は彼の顔を見ようとはしなかった。そのまま父親は何食わぬ顔でまた裏庭に回り、庭弄りに精を出す始末だった。

 彼は無責任な父親のそうした自分勝手な態度に腸が煮え繰り返り、怒った表情を曝け出して、玄関先にあった小石を続け様に何度も道路に向かって思いっ切り蹴散らした。そして、縁側に踏ん反り返って激しく泣きじゃくった。暫らくの間、泣くだけ泣いて涙が枯れ果てると、家の反対側、川を隔ててどっしりと構える雄大な山々を涙で滲んだ目で眺めた。彼の実家の縁側からは迫るようにして身近にそういった山々が幾重にも連なって見えた。その山を隔てた川沿いには5月に植えた稲穂が少し黄金色帯びて真っ直ぐに伸び、長閑な田園風景が辺り一面に続いていた。「こんな山の中で、下手すると日本昔にでも出てきそうな寂しいこんな場所で、テニスをやろうなんて考えるだけでも可笑しいや」と雄一郎は自虐的に自分自身を笑った。何故か、怒りの後には先程とは違う種類の涙がまた目を潤し、急いで左手の甲で流れ出ようとする諦めの涙を拭った。涙を拭いながらも父親を信用して部活を早々に辞めて来た自分が愚かで情けなかった。そして、何をするにも馬鹿馬鹿しく思えて、暫らく縁側でうつ伏せになったまま寝転がっていた。

 凡そ、30分が経過して、少し気持ちも和らいだ頃、このまま縁側に寝転んでいても仕方がないと思い直し、宿題をしようと自分の部屋へと戻った

 それから丁度1時間が経過し、宿題が終わろうとする夕方6時過ぎになって、玄関先で車のクラクションが煩く鳴り響いてきた。誰だろうと思いながら窓を開けて外をそおっと覗いて見ると、軽トラックに乗った作業服姿の父親が「おーい、雄一郎、着替えをしてラケットを速く持って来い」と声を張り上げてきた。

 今日はもう何もないだろうと思っていた彼はそんな身勝手な父親の態度にブツブツと小声で文句を言って、椅子から立ち上がろうとしなかった。するとけたたましいほどクラクションがまた鳴り響いた。雄一郎は不満を抱きながらも仕方なく急いで運動着に着替えると、部屋に置いてあったラケットを持って、今にもエンジン音が途切れそうな汚れの目立つ軽トラックに乗り込んだ。

 表のに 庭先では洗濯物を取り込む母親と謙二郎が先程から何度も鳴り響くクラクションの音に何だろうと不審そうな表情で首を伸ばして様子を窺っていた。

 軽トラが苦しそうに排気口から目一杯の白い煙を吹かして頼りなげに発車し始めると、謙二郎が車の荷台の後ろから大声を発してきた。「兄ちゃんたち、どこに行くの?僕も連れて行って」と軽トラの真後ろかを必死になって追い駆けて来た。それを見て、父親も危ないと感じて急ブレーキを掛けた。こうして予定外だったが、弟もどこへ行くの分からなかったが、一緒に連れて行くことになった。

 結局、1人しか座れない手狭な助手席に2人の子供が陣取ることになって、車内はとても窮屈だった。でも、雄一郎にはその方がつい先程まで反感を抱いていた父親と2人きりで車に乗るには抵抗があったので、弟がいてくれて助かった。後ろの揺れ動く荷台には大きなブルーシートが被せられて、田園地帯の夕方の涼しい夏風にバッサバッサと忙しなく靡いていた。

 車の助手に乗り込んだ子供たちは頭を並べて覗き込むように目の前を速い速度で通過する道路を物珍しそうにジッと眺めていた。あまり前の奥行きのない軽トラックに2人とも乗ったことがなかったので、道路が間近に見えて怖かったが、どんどん目の前の景色が移り変わるので2人とも面白がっていた。

 暫らくして、雄一郎は父親に向かって遠慮がちに尋ねた。

「父さん、これからどこに行くの?もう夕方の6時過ぎだよ」

「何を言っちょる。これから2時間はたっぷりテニスの練習ができるじゃろ」

「どこで?」彼はすぐに問い返した。

「決まっちょるじゃろう、羅漢高原や」

「あんな所まで行くのー」

「何を言っちょるんじゃ、この辺りじゃあそこぐらいにしかテニスコートはないじゃろうが」確かにそうだ。羅漢高原は標高1,109メートルの羅漢山を間近に控え、高原地帯は900メートル程の高さを誇るこの地域では宇佐にある寂地峡と並ぶちょっとした観光名所だ。真夏の蒸し暑さを凌ぐには絶好の場所でもあり、天気の良い日には瀬戸内海も一望できるほど風光明媚で、訪れる人の目を始終楽しませていた。その高原に向かう急勾配な上り道を父親の運転する軽トラは重量オーバーのせいで苦しそうに白い噴煙を吐きながらも目指す場所に向かっていた。

 助手席では隣の席というより、今では兄の膝の上にちゃっかりと乗っかった弟が羅漢高原に行くと聞いて、大きな目をクルクルさせて、両手を高々と振り上げながら喜び勇んでいた。弟は家でじっとしているより出掛ける方が好きで、兄よりも随分と活発だった。いつも雄一郎は弟を見る度に思ったのだが、弟の目は二重瞼でくっきりとして、瞳は人並み以上に大きくて羨ましかった。一方、彼の目は一重瞼で少し上になだらかに吊り上り、瞳自体は弟に負けないくらいに大きかったのだが、一重瞼がどうにも気に入らなかった。でも、母親は雄一郎の目の方がきりっとして男らしいわよといつも褒めてくれていた。

 羅漢高原に到着すると、夕方でもあったのか人っこ一人誰もいなくて寂しい高原の閑静な風景が限りなく続いていた。相変わらず空気だけは澄んで、とても美味しく、見渡す限り広々としていた。視界もグーンと広がった感じで、ここに来ると誰しも気持ちも大らかになる気がした。

 肝心なテニスコートは羅漢高原山スキー場のゲレンデのある麓近くに、この場所には贅沢とも思えるオムニコートが4面設備されていた。今は雪のないスキー場の天然芝のグリーンとオムニコートの砂の入り混じった人工グリーンとが急勾配な山の斜面と平地とのコントラストとともに美しい風景を見せていた。

 父親が少し離れた場所にある管理棟に行ってコートの受付をしている間、子供たちは父親に言われた通り、荷台に敷いてあったブルーシートを開く作業をしていた。すると2個の大き目のショッピングで使う籠に盛り沢山の真新しい黄色いテニスボールが置いてあった。雄一郎はその沢山入った籠の中から1個のボールを拾い上げ、犬がよくやっているように鼻を近づけてそのボールの匂いを嗅いでみた。何故だか分からないが、彼はテニスボールのフェルト部分の毛羽立った感触が大好きで、またあの工業的な独特の匂いも決して良い香りとは思えないのに落ち着いた気分になって、とても好きだった。その荷台の片隅にはこれまた新しいテニスシューズが2足、恐らく雄一郎と父親の物と思われるシューズも置いてあった。更に新しいラケットも大人用2本、ジュニア用1本、全部で3本のラケットも透明なビニール袋に入って置いてあった。いつの間にか父親は家族全員でテニスが楽しめるようにと密かに準備してくれていたのだ。

 彼は今までの父親に対する憤慨遣る方無い怒りはサッカーボールを大空に向かって蹴散らすように軽く吹っ飛び、弟と一緒に荷台の上で、「やったー、やったー」と大声を張り上げ、トランポリンを飛ぶように全身で喜びを表現していた。あまりにも激しい2人の喜びようで、軽トラも右に左に上に下へと大きく揺れ動き、子供たちと一緒に喜びを分かち合っているようだった。受付を終えて戻って来た父親はテニス一式があるのを見つけて大喜びする子供たちに向かって、少し照れ臭そうに鼻の下を伸ばして、にやけた表情を作っていた。いつも困った時や気恥ずかしいのだが、何か自慢したい時によく見せる父親の仕草だ。その照れ隠しの子供のように見える表情を見ると、雄一郎は何故だかいつもほっとした。普段は人一倍厳格な父親なので、そういう表情をされると自分の父親ながら親しみを感じて、やっぱり僕の父さんなんだと安心するのだった。それだけ父親は2人の息子にとって怖い存在でもあり、頼れる父親でもあった。

 父、政隆は体調の悪い祖父の後を次いで大阪から戻って来て以来、立花造園を順調に経営していた。多くの仕事は大手の岩国市内にある造園会社から仕事を委託されて市の公園、ゴルフ場、民間企業の施設内の植木の剪定などを主に任されて、時には個人の家の庭園造りも行っていた。朝は陽がまだ昇る前に仕事で使う草刈り機などのいろんな機械や道具を大きな仕事用の青いトラックに積み込み、母親の作った手弁当を持って勇んで仕事に向かっていた。冬場も凍えそうなくらい寒くて暗いうちから仕事に出掛けるので、元気も出ないところだが、父親は毎日傍から見ても分かるようなやる気を全身に漲らせて仕事場に向かっていた。

 そんな父親は何事にも関しても前向きにやる気と積極性を前面に出して、子供たちの見本となるように努めていたのかも知れない。

 子供の躾けに関しては大阪から戻り、いつも子供たちの側にいるようになる、雄一郎対しては特に厳しかった。中でも人に対する挨拶、返事、声の大きさ、時間厳守など最近の親では口煩く言わないようなことまで厳しかった。雄一郎もあまり煩く言われるので、口答えなどして歯向かったことも多々あった。特に「僕にはできない」とか「もう駄目、無理だ」などと消極的な言葉を口走ろうものなら烈火の如く怒り、「やってもいないのにお前は最初から諦めるのか」と鬼のような形相で逃げ惑う彼を追い駆けて、少しも聞き分けがないと見るやビンタまで飛んできたこともあった。父親は本当に雄一郎が怖がっているとは本気で思っていなくて、その後この事態はテニスの指導にも悪い影響を及ぼすことになった。


「どじゃ、雄一郎、凄いじゃろう。テニスで必要な道具は全てそこに揃えちゃる。驚いたか。さぁー、早くコートに入れ」父親はいつまでも荷台に上で飛び跳ねている子供たちに向かってそう言うと、荷台に飛び乗ってせっせとテニス道具を降ろし始めた。子供たちも負けじと急いで片っ端から道具を地面に降ろし、3人で誰もいない殺風景な高原に佇むテニスコートに入った。実際に雄一郎がテニスコートに足を踏み入れたのはこの時が初めてだった。そこは思った以上に広々とした別世界だった。これから人生の大半を過ごすことになるテニスコートはワクワクして気持ちもときめいたが、一抹の不安も押し寄せてきた。それは傍から見るよりも実際にコート上に立つと、1人で走り回るには広過ぎる上にとてもきつく思え、本当に自分にもテニスができるのか心配になったからだ。

 この日が家族でテニスを必死になって打ち込み始めた記念すべき日だった。それは忘れもしない7月22日、蝉の煩く鳴く夏独特の蒸し暑い一日だった。


             第15章 セットダウン


 大歓声が劇場のカーテンコールのように鳴り響き、それは雄一郎に向かって容赦なく浴びせる罵声のようにも感じた。

 幾度となくデュースを繰り返しながらもセットポイントをチャンピオンに先に握られていた。最後のポイントでは、30回をも超える息詰まる厳しいラリーの末、短めのボールをコスナ―のバックサイドに鋭く放ってネットに詰めたが、意表を突かれたトップスピンロブで鮮やかに頭上を意図も簡単に抜かれてしまった。これでセットカウント1セットオール、いよいよ試合の行方が雄一郎に不利な状況に傾いた。これまではサイドを抜くフラット気味の鋭いパスで応戦していたコスナ―だったが、ここ一番ではこうした思わぬ相手の意表を突くショットもタイミング良く放つ。さすが昨年の覇者と認めざる終えなかった。だが、それでこそこの大舞台で倒す相手と相応しいと、ともすれば弱気になろうとする気持ちを奮い立たせた。

 雄一郎は死に物狂いでここまで登り詰めたファイナリストとしての矜持を胸に強く抱きながら、今目の前に高く聳え立つ頂にも見える気高くアルベルト・コスナ―をベンチに戻りながらジーッと見据えていた。コスナ―は1セット奪い返したことが然も当たり前のような態度で表情一つ変えずにベンチに戻って水分を補給していた。内心はどうなのか計り知れないが、あの自信家コスナーのことだ、きっとこれで勝利が我が方に一歩近づいたと考えているのだろう。雄一郎も彼に見習って、これでこそ倒すに値する本来のコスナ―に戻ってくれたと前向きに考えた。

 テニスという競技は別のスポーツでもそうかも知れないが、対戦相手の好プレーに触発されて、自分のプレーも実力以上の素晴らしいプレーが誘発されるのだ。コスナ―の調子が上向きになったことで、戦いはもっと苦しくなるはずだが、世界が注目するこの最大の大会ではお互い死力を尽くし、誰もが決勝戦に相応しい好ゲームだったと自慢できる成果を残さないとプロフェッショナルとは言えない。

 テニスの長い歴史上、ライバル関係と注目されて幾多の死闘と言える戦いがこれまでも何度か展開されてきた。ここウィンブルドンに限って言えば、1980年の決勝、スウェーデンの貴公子ビヨン・ボルグとアメリカの悪童と呼ばれたジョン・マッケンローの試合はファイナルセットまで縺れに縺れて、試合時間も芝のコートではあまり見られない3時間53分もの長い時間を要し、未だかってテニス界では稀に見る激闘と長らく語り継がれていた。彼も父親からその試合の物凄さは直に聞いていたし、コーチからもその試合のDVDを何度も見せて貰っていた。時代が移り変わり、テニスのスタイルも現在のテニスと当時のテニススタイルとでは随分と異なるが、その2人のファイナリストの静と動の対立する個性溢れる独特のプレーは観ていて面白かったし、言葉に尽くし難い感銘を受けた。『真のプロフェッショナルとはこういうものか』とそれ以来特に好きになったビヨン・ボルグの動作を練習中でも彼は真似してみた。更に付け加えるとしたら、2008年のウィンブルドン決勝、雄一郎がテニスを始める切っ掛けを作ってくれた憧れのロジャー。フェデラーとラファエル・ナダルの4時間48分もの長い死闘も子供の頃、テレビで噛り付いて観たが、2人の闘志溢れる戦いに怖いくらいの感銘を受けた。その試合もファイナルセットまで縺れ、6-4、6-4、6-7、6-7、9-7でラファエル・ナダルがロジャー・フェデラーのウィンブルドン6連覇の野望を打ち砕いたのだった。あの芝の王者フェデラーが負けたという強いショックは暫らく彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 相手、アルベルト・コスナ―を熱心に応援する大観衆に圧されて肩を落としかけたが、雄一郎は直ぐに気を取り直してベンチでいつものルーティンを行った。ロブで頭上を抜かれた瞬間、「しまった!」と唇を噛むほどの悔しい思いをしたが、逆にそれで彼の燻っていた闘争心に真っ赤な炎が点火した。テニスの試合で、雄一郎が一番相手にポイントを奪われて悔しい思いをするのは、サービスエースでもストローク戦からのノータッチエースでもない、先程のような意表を突かれた柔らかいあ。ロブであったり、思わぬ形のドロップショットだった。特にロブというのは相手の出鼻を挫くといった言ってみれば姑息な手段だ。これをやられるとジュニアの時からもそうだったが、あの頭上をボールがスローモーションのような感じでゆっくりと飛んで行き、分かっていても追い着けないあの気怠さというか、情けなさが堪らなく嫌だった。想像してもみるがいい、あの頭上を抜かれて、焦った思いのまま必死でラケットを振り回してボールを追い駆け、やっと返球できればまだしも、苦労の末、それが叶わなかった時のあの惨めで間抜けな醜態を晒されると思うとそれは許し難い惨状だった。ジュニアの頃、ネットプレーが思うようにできるようになり、意気揚々とネットに詰めたは良いが、相手に簡単にロブで抜かれて、そのボールを追いもせずに諦めて平然と血相を変えて向って来たコーチにこっ酷く叱られた苦い思い出が脳裏を掠める。そんなこともあって、こうしてロブを上げられた暁には、これまで以上に怒りにも似た闘争心が沸々と湧き、これまでにない相当なやる気が起こった。そして、ここまでの試合の過程は十分彼にも予想できた。前年度チャピオンに対して、この栄えある夢の大舞台ウィンブルドン、それも決勝戦でセットカウント2-0でリードできるほどテニスは生易しいスポーツではない。それは対戦前、いや1セット先取した時でも十分分かっていた。今更、何を焦る。雄一郎は自分にそう言い聞かせて、喉を冷たい水とスポーツドリンクで潤し、シューズの紐を強く結び直した。

 次のセットも、雄一郎のサービスゲームからスタートする。ベンチの椅子に腰を掛けたまま少し身体を起こし、一時的に視界を遮断していたタオルゆっくりと頭から取ると、背筋をピーンと伸ばして瞼を閉じ、静かに精神統一を図る。耳には先程とは違った観客からの静かなざわめきが聞こえていたが、やがてそれは彼の中では小さくなって聞こえなくなった。


             第16章 父親のレッスン


「雄一郎、もっと腕を強く振って、肩もしっかり入れて、体の回転で打つんじゃ。足も全然動いちょらんぞ。それでもテニスをやっちょるつもりか」

「雄一郎、そんな遅い動きじゃ話にならん。ほんまにテニスをやりたいんか、お前は」

「おい、おい、足が笑っちょるぞ。もうバテたんか。もっと低い姿勢で、気を引き閉めてボールを打たんか」怒涛の如く、聞きようによっては罵声とも受け取れる父親の激しい言葉が大自然を背景にした羅漢高原のテニスコートに陽が落ちて暗くなるまで鳴り響いた。横に並ぶようにある4面のテニスコートには、他の人は誰もいなかったので良かったが、人前ではとても見せられないほど初めての父親のレッスンは手厳しく、言葉も乱暴で容赦なかった。あれは本当にテニスのレッスンと言えたかどうかも分からないが、雄一郎には途轍もなくきつかったのは確かだった。

 それはソフトボールの全体練習とは比べもものにならないくらい肉体的にも

ハードで、父親にしてみれば、まだ小学2年生の子供、それも初めて自分が教えるテニスと言うスポーツだったので、どの位の激しい運動量に子供が耐えられるのか、恐らく見当が付かなかったのだろう。雄一郎の苦しむ様子を推察しながら、でもその具合を量り兼ねて、楽なよりはきつい方が練習になると考え、父親も必死でボールを出していた。球出しのボールも、打ち易いボールが飛んで来たかと思うと、次には飛んでもないアウトボールも容赦なく飛んで来て、傍から見れば練習というよりは苛めのように映ったかも知れない。

 これが本当の硬式テニスの練習なのかと子供ながら彼も疑問に思ったが、父親に「何だ、もうへこたれたのか」と馬鹿にされるのが悔しくて、必死にボールを追った。お蔭で、もう途中から足がパンパンになり、走りたくても足が思うように付いて行かなくて、頭の中も酸素が足りなくなったのか真っ白になった。うっかり下を向くと吐き気さえ催しそうになった。最後の方では、赤ちゃんが這い這いをするような情けない恰好になってもボールを追い、一切弱音は吐かなかった。テニスをやろうとする根性だけはその時から一人前に彼にもあった。選手としての雄一郎はコーチとしての父親に、お互い初の経験だったが、相手にどうしても負けたくないという対抗意識がその時の彼には少なからずあった。

 弟の謙二郎は兄の苦しそうな姿を見言う炎て、ベンチに座ったまま時々兄の方を心配そうに覗いてはコート上に蹲り、コートの砂を指で弄り回していた。

「どうじゃ、謙二郎、お前も少しやってみるか?面白いぞ」暫らくして、休憩する雄一郎に代わってコートに入れようとして父親が言うと、「いいよ、僕は・・・」と謙二郎は首を横に振り、少し怯えていた。余程、兄の練習がきつく見えたのか、それでも2時間が程の練習の最後の方では、父親は弟にはこれ以上ないくらいの優しい指導をして、楽しそうにラケットでボールを付いていた。

 父親の練習は戸惑いはあったが、初めてにしては理に適った中々良い練習だった。教え方は大層荒っぽかったが、技術的にはよく理解し易い内容だった。実際、父親の言った通りにボールを打ってみるとボールが良く飛び、コート内にも驚くほど入っていた。父親は細かい指導は一切せずに、自分の拙い見本と「~のように大きく」とか、「~のように細かく」といった打ち方を頭の中でイメージできるような言葉を頻繁に使って分かり易かった。具体的には「飛行機が離陸する時の下から上に振りおように上げてみろ」とか、「最後は手首を利かせてワイパーのように身体の前に振るんじゃ」と言ったようなことだ。それが彼にはとても理解し易くて、直ぐに真似ができた。彼の父親は物事を教えるといった才能を生まれながら持ち合わせていたのかも知れない。

 初日の初めて経験した苦しかった練習は、夏の陽射しがやっと落ち始める午後7時半過ぎまで行なわれた。羅漢高原の西側の遠く連なる山脈の頂きに薄紅色夕陽が落ちて、木々の葉っぱが風にそよぎ始めると、3人は涼しくなった高原から軽トラに乗ってまた標高高い山を下り始めた。激しく揺れ動く軽トラの中では、行にあった重たい空気はどこかに吹き飛び、和やかで爽快な空気は狭い車内に充満していた。3人のそれぞれの顔にも。目的を達成したという満足感の漂った笑顔が満ち溢れていた。

 初めてのきついテニスの練習だったが、それを一応やり遂げたという達成感雄一郎にはあった。いつも見慣れていた高原の長閑な風景も澄んだ空気もいつになく清々しく感じられ、何だか自分に向かって木々の葉っぱや草花までも「よくやったぞ、雄一郎」と応援の賛歌を贈ってくれているように感じた。そして、折角物事を見るのなら、晴れやかな気持ちでしっかり見ないと物事は良い方向には進まないんだと実感した。また、何か目的を達成した時には、人は物事に対して素直で優しくもなれるんだとそれとなく思った。

 こうして、苦しい状況を逃げずに何とか乗り越え、目的を達成したという充足感も加わって、その時の雄一郎は誇らしい気分に浸っていた。初めて体験した厳しい練習の後のそんな爽快感、満足感、達成感をいつも味わいたくて彼はその後も苦しいハードな練習を続けたのだった。

 軽トラのライトを点灯させて勾配の激しい道を下って家路に向かう途中、父親は道路沿いに無言のまま車を静かに止め、島根県方面の眼下に見える山間に美しく浮かぶ夕陽を3人で並んで眺めた。そのオレンジ色に輝く夕陽を眺めながら、父親は息子たちに向かって言葉を投げ掛けた。

「雄一郎、謙二郎、この美しい夕陽をよーく覚えちょけ。綺麗な絵葉書にでもしたいような景色じゃろ。自然の美しさとはこういうものじゃ」

「うん、こんな綺麗な景色、今まで見たことがないよ」

「僕もだよ、お父さん」4歳になったばかりの謙二郎も父親に抱っこされながらそう言うと、夕陽に向かって目をキラキラと輝かせて笑っていた。

「いつも見慣れちょるこの夕陽がこんなにも鮮やかに美しくも見えるのは、今お前たちが苦しい練習を乗り越えたからじゃぞ。人間はな、いつも見ちょる風景も何がしかの目的を達成した時には、もっと美しくも綺麗にも見えるものなんじゃ」

「ふーん、そうなん?」弟は何も分からずに笑っていたが、雄一郎は父親が自分と同じような事を考えていたので少し驚いた。「今度、この美しい夕陽を見る時がありゃ、雄一郎がテニスのチャンピオンになった時がいいな。何年先になるか分からんが。のぉー、雄一郎!」と父親は笑って目尻を緩めながら遠くの景色を眺めていた。

「ええ、じゃ、僕は?・・・」

「おお、忘れちょった。謙二郎も兄ちゃんに負けんくらい偉大なチャンピオンになっちょくれよ」

 こうして家から20分ほど掛かる高原に向かう山道を毎日とは行かなかったが、週に4日か5日、父親や時には母親も伴って通う長らく続いた。

 初めての練習から10日が経過した頃、母親から聞いた話だが、父親はテニスを教えるために週1回、わざわざ広島市にあるどこかのテニスクラブにナイターの時間に通ってレッスンを受け、また週に何度か空いている時間を上手く利用して、岩国市営コートのテニスサークルにも参加して一生懸命練習したそうだ。そして、幾つかの県内外のテニスクラブにも足を運んび、ジュニアの練習風景を撮影したりして学習したらしい。道理で最初は球出しもどこにボールが来るのかさっぱり分からなかったが、何回かやっているうちに球出しのテンポもリズムもぐんぐんと上達して、打ち易いボールが飛んで来るようになった。父親のテニスに対する情熱は、その時分には雄一郎を遥かに超えていた。


          第17章 ターニング・ポイント


 観客のどこからともなく聞こえてくる黄色い声援とともに第3セットが静かに始まろうとしていた。雄一郎はベンチの椅子から立ち上がると、いつも通りラケットとタオルを片手に持ち、サイドラインを踏まないように歩いてベースライン上に向かった。そして、もう一度顔と両腕の汗を軽く一汗拭うと、ボールパーソンに向かってにこやかに微笑んでタオルを渡した。このボールパーソンにタオルを渡す時も無表情よりは少し笑顔で渡した方が良いと細かくコーチにはアドバイスされていた。笑顔を作ることでリラックスもでき、全身の力が自然と抜け、次には好プレーが連発するようなことも過去には度々あった

 彼、彼女らのこうしたボールパーソンもイギリス全土から選りすぐられた優秀な子が厳しいトレーニングを積んで、このセンターコートに立っていると聞く。どのボールパーソンにとっても選手たちと同様にこの舞台は一生に一度有るか無いかの晴れ舞台だ。そう一人ひとりがウィンブルドンの主役なのだ。この子たちに負けない、そして恥ずかしくないプレーを心に刻んで潔く戦って行かなくてはならない。

 雄一郎は大きく深呼吸を繰り返して、更に気を引き締め、ボールパーソンから受け取ったボールを1球ショートパンツの左ポケットの中に入れると、もう1球をストリングスの上で二度三度軽く弾ませて左足をベースライン上に構える。今まで鳴り響いていた観客席の声援が海水が砂浜からスーッと引いたように一瞬にして静まり返った。それに合わせたように、彼は柔らかく握っていたボールをコート上に一定のリズムで三度付くと、濁った曇り空に向かってトスアップを高々と開始した。


 ネットを揺らしたボールがスローモーションのように相手コートにポトリと落ちた。「フーッ」と一息吐いた歓声とも溜息とも取れる観客席の反応を背に雄一郎は軽く左手を相手、アルベルト・コスナ―に向けた。でも、足取りは軽快にして、駆け足で自分のベンチに戻り、新しいラケットに取り替えた。これは時間を稼ぐためとロングマッチの場合、3セット目のファーストゲーム終了時に新しいラケットに取り替えるのがプロになってからの習慣だった。選手によっては9ゲームに入る前にニューボールに替えられる時点でラケットも新しく取り替える選手が多かったが、彼はストリングスが切れない限り、2セットが終了して最初のゲームまではこれまでのラケットを使用していた。頻繁にラケットを取り替えるのは彼の性分ではなかった。試合中では余程のことがない限り、使用するラケットは2本くらいで十分足りていたし、ストリングスが試合中途中で切れるということはあまりなかった。その分、試合前に十分ラケットの全ての部分を点検していたし、どの試合でも張り上がったばかりの新しいラケットを使用していた。但し、プロツアーでは1週間から2週間は試合の日程が続くので、ツアーの最中には10本以上のラケットが必要だった。その最低2本のラケットを彼は試合前日には大切に枕元に置いて、勝利の瞬間を夢の中で見られるように、また勝利神様に祈るような思いで寝床に就くのがいつもの習慣だった。でも、夢の中で勝利を収める場面に遭遇した経験は一度もなかった。勝利の女神様への祈りが浅かったと言われればそれまでなのだが・・・。 それにしても先程のラッキーショットはまだ彼にも女神様から授かった運が残っているのか、きわどい場面で彼の放ったバックハンドの軌道の低いスライスボールがコードボールとなり、相手コートに幸運にも落ちてくれた。肝を冷やしたが、ボールがネットを揺らした瞬間、『入れ!』と思わず心の中で声を発していた。コードボールになった時、直ぐに内なる声を発すると、意外にボールが運良く相手コートに入る場合が何故か多かった。自分の発した「気」がボールに乗り移った訳ではないだろうが、お蔭でサービスゲームをこうして無事キープできた。

 このファ―ストゲームは大切なセカンドセットを占う上で、とても重要なゲームだ。つくづく先程の放った幸運なショットを勝利を司る女神様に感謝した。

 長い試合になると、必ずどこかに大切なターニング・ポイントが潜んでいる。そのターニング・ポイントとは時間、場所を問わずプレーヤー自身、また観客も少しも気付かないかも知れないが、必ず密かに潜んでいるものなのだ。それは好調なプレーヤーにとっては暗闇に紛れて自分の出番をひっそりと待つ悪魔の如き姿かも知れない。極端な事で例えるなら、あんなに調子が良かった選手が、突然体調不良や怪我での突発的なアクシデントといった思いも寄らない形で何の前触れもなく現われる場合もある。それは突如として思わぬ所で顔を出し、誰もが予測できない場面でも容赦なく牙を剥き、それこそ神のみぞ知るであった。選手はそういった隠れた大切なターニング・ポイントに早く気付き、早目の対策を講じて、確実にそのポイントを掴むかどうかで試合の流れを大きく左右できる。一度相手の方に転んだ流れを自分の方に再度引き戻すには相当な時間と労力がまた必要だった。但し、その目に見えない隠れたターニング・ポイントは一度しか訪れないかというとそうではなく、実際のテニスの試合のように、ピンチの後には必ずと言っていいほどチャンスあがまた巡って来るというように繰り返し何度も訪れた。それは何かを達成しようと試みるが、敢え無く失敗し、挫けずに再度挑戦するといった人生の中で諦めなければこの世に失敗はないということにも通じている。一度、これはターニング・ポイントだと思ったものをミスして取り損なったとしても、次に諦めさえしなければ次のターニング・ポイントが必ずまた巡って来るのだ。それを示すかのようにコスナ―も自分のベンチに戻って、悔しそうな表情を浮かべながらもペットボトルに入った水分を補給していたが、目にはまだ先を見通した希望の炎が燃え滾っていた。苦境に立たされた時によく見せる自信の表情だ。それ以上、雄一郎はコスナ―に目を配ることは止めて、大きく深呼吸をすると、いつも通りのゆっくりとした足取りで次のリターンに備えるべく反対側のコートに向かった。


             第18章 日々の練習


 テニスを始めた当初はあんなに厳しいと思っていた羅漢高原での練習も2週間がが過ぎた頃には大分体も慣れて、雄一郎は練習中に疲れて足が動かなくなるという情けないことはなくなった。日増しに体力も付き、父親に向かって「もっと練習しようよ」と2時間ほどの練習では物足りないような発言を生意気にもしていた。実際、父親もそう思ったのか、暗くなるまでボールを打った後、高原の周辺道路や傾斜の穏やかな芝生の上でランニングをさせたり、幾つかの種類のトレーニング等も何かのテニス教本に載っていたドリルを持ち出して来ては行っていた。また時には父親が考案したというフットワークドリルを子供たちに試しがてらに見せて強制的にやらせていた。

 最初、テニスをやること自体に恐れをなしていた謙二郎もボールを打つ喜びを肌で味わうと直ぐにテニスに興味を持ち始め、父親と雄一郎が練習に行くと知るや遊んでいた手を休めて必ず一緒に練習に付いて来るようになった。テニスを一種の遊びとして楽しむことに関しては兄より弟の方が数段優れていた。その事がその後の兄と弟のテニスの上達の差に大きく関係することになった。

 小学2年生の夏休み前から始まった練習も9月になって1ヶ月半が過ぎると、雄一郎のテニスの腕もグーンと上がり、(本人がそう思っていただけなのだが・・・)、父親とのストロークラリーもある程度できるようになった。ストローク、サーブの素振りは軟式ラケットを初めて持った7歳くらいの時から見よう見真似でやっていたし、例の畳打ち練習でもボールを当てることにかけては慣れていたので、ある程度フォームは固まっていた。でも、そう思ったのは家族だけで、実際には相当変な打ち方をしていたようだ。そして、後はボールを打つリズムとタイミングさえ覚えれば上達は早いと彼も父親も勝手に結論付けていた。だが、それはあくまでも家族だけの練習の場合であって、そのプレーが即試合に通用するというものではなかった。後になって、その事を父親も雄一郎も含め家族全員が金槌で頭をぶん殴られたように思い知らされた。それでも、テニスの腕前は少しずつだが、一生懸命に練習した分、着実に上達していた。

 その頃には父親も元来の運動神経の良さからか、或いはタユマヌ練習の成果か分からないが、ボールを思うように操り、且つ好きな所にボールをコントロールできるようになっていた。単に子供たちだけのコーチとして見れば、それはそれは立派なものだった。あの作業服を着たままコートに入る姿さえなければの話だが・・。でも、その姿も妙に板に付いていて、ラケットと作業服のミスマッチこそ父さんだと弟と2人で思っていた。

 父親のストロークはどこで覚えたのか分からないが、リストを十分に利かせて、ボールを下から上に跳ね上げるようにフォアもバックハンドも打って来るので、下手すると雄一郎の身長も超えるくらいにボールが高く弾んでいた。父曰く、「テニスは卓球の大型版なんじゃけー、ピンポン玉を激しく打つみたいに手首を利かせてトップスピン、アンダースピンをを強く掛ければええんじゃ。どうせ卓球もテニスも平面のラケットでボールを打つ似たようなスポーツなんじゃから。難しく考えることはない。父さんはな、卓球でも学内じゃ、誰にも負けんかったぞ」などと自慢げに言って、面白そうにボールに好きなだけ強いスピンを利かせていた。そんな言葉を聞いて、テニスと卓球とでは全然違うスポーツだろうと雄一郎は嘲笑っていたが、後に卓球のことを英語でテーブルテニスと言うことを母親から聞かされて、『そうなんだ、じゃー、大して変わらないスポーツなんだから、父さんの言うとおりに打てばいいんだ』と納得したものだった。

 雄一郎は父親の回転が強く利いたトップスピンのボールを返せないのが悔しくて、父親に詳しく教わった訳ではないが、見よう見真似で父親のように肘を軽く曲げ、リストを利かせてワイパーのようにラケットを大きく振り回して暫らく打っていた。すると、極端に大きく振り回すものだからフレームショットも沢山犯し、ボールがネットを超えて遥か遠くまで飛んで行くことも頻繁にあった。その度に弟にお願いしてボールを拾って貰っていた。最初の頃、可哀そうにも弟は兄の専属の玉拾い要員みたいなものだった。それでも弟はボールを拾いに行くことがとても楽しいようで、いつもにこにこして嬉しそうに兄のために働いてくれた。そんな様子を見て、父親は弟にも兄に負けないテニスの才能があると早くから見抜いていた。

 父親は雄一郎の大袈裟に体を回転させて、多分にリストを使った打ち方を批判するかと思いきや、意に反してにこやかに頷くと、「いいぞ、もっと振れー、もっと振り上げろー。じゃが、ボールだけはしっかり見て打て。顔が横向くくらいにボールを良く見るんじゃ。いいな雄一郎」と大声で反対側のコートから叫んでいた。

 最初から父親はボールを見ることに関してはとても煩く言っていた。彼も父親のそんな声に調子に乗ってバンバンと空振りしようがお構いなしに来たボールを全て擦り上げるように、跳ね上げるように打っていた。その結果、いつの間にかトップスピン(今で言うエッグボール)というボールをこの頃から彼はマスターしていた。

 こんな風に自由奔放に、でもしっかりとした的確なアドバイスで父親は子供たちを鍛え上げた。そして、練習を積めば積むほどテニスへの情熱や面白さは子供たち以上に父親は物凄く抱いていた。子供たちは父親に連れられるようにしてテニスの腕前を伸ばして行ったようなものだった。


「こりゃ、雄一郎、そんな甘いボールも返せんのか。情けない、もっと肩、腰を大きくターンして全身をバネのようにして打つんじゃ。父さんのプレーを見れば分かるじゃろ」(分かるものではない。まだそれ程父さんは上手くない)だが、「はい」と一応気持ち良く返事だけはしておく。

「相変わらず足が動いちょらんぞ。もっと細かくリズミカルなステップを踏んで、激しくコートを走り回るんじゃ、ええか」(はいはい、何度も煩ない!」

「そうじゃ、スタンスは広めに取るんじゃ。あー、なんて書いてあったか・・、うん、そうじゃ、肩幅よりも広くだ」

「はい」(本に書いてあったことくらいはもう覚えておけよ)

「振りは大きくして、ラケットに目がくっ付いちょるくらいにボールをしっかり見るんじゃ。ええか雄一郎、聞いちょるんか」

「はい、はい」(本の受け売りはいい加減もう聞き飽きたよ)

このようにコーチである父親から雄一郎は何度も口煩く注意され、言葉には出さなかったが、胸の内では親の言った言葉に一々反発するといった丁丁発止がテニスコート内では日々繰り返されていた。まだ、全幅の信頼を父親に抱いていた訳ではなかった。

 こうしたやり取りが他に誰もいない静かで自然の息吹が聞こえてきそうな高原のテニスコートの中では練習中ずーっと続いていた。その喚くような父親の掛け声は高原周辺の山々に煩いくらいに木霊していた。折角、羅漢高原に静かに棲みついていた昆虫や穏やかにすくすくと育っていた草花もさぞかし父親の喚く叫び声に迷惑したことだろう。

 弟は兄の休憩中に母親と一緒に手を添えた状態でボールを楽しそうに打ったり、蹴飛ばしたりして遊んでいた。まだ、4歳でもあり、身体もネットの高さよりも小さくて、ラケットを使うというより、ラケットに振り回されるような感じで、真面にボールを打てる状態ではなかった。

 この頃には母親も一緒にテニスコートに来る機会も多くなり、父親の自分勝手な指導のお蔭もあって、少しはボールを打ち返せるようになった。ボールが上手くラケットに当たるとどこへボールが飛ぼうがお構いなしに母親は「キャー、キャー」と騒ぎ立てて、コート内にボールが上手く入ろうものなら雄一郎に向かってこれ見よがしに顎を突き出して自慢のポーズを決めていた。別の意味で、母親はテニスというスポーツを純粋に楽しんでいた。無邪気に喜んでボールを打つ母親の姿を見て、雄一郎はあれでいいのかと疑いの目で見ていたが、父親はそうした母親の喜ぶ姿を嬉しそうに眺めていた。父親はスポーツとはテニスに限らず何でも元来楽しむべきもので、その前提で子供たちにもテニスを教えようと思っていた。でも、そのテニスを楽しむという事自体、その後雄一郎は嫌というほど身に沁みて体験するのだが、苦しい場面、ピンチに立たされた時であっても、それを乗り越えることに楽しみを見出さなくてはならないという意味も含んでいた。長い間、そんな難しいことは彼には少しも理解できなかった。


             第19章 試合を楽しむ


 第3セット、ゲームカウント2-1とお互いサービスゲームを順当にキープして、依然苦しい膠着状態は続いていた。テニスに限らず、あらゆるスポーツでは相手に勝つというより、自分自身に打ち勝つことが最優先されると父親やコーチからも教わっていた。また、それと同時に雄一郎がコーチから煩くアドバイスされたことは覚悟を持って相手、或いは自分自身と格闘して、ピンチの時こそ本当の自分の真価が問われている。そして、その時を心底楽しめるようにならないと真の意味での強い選手にはなれないと厳しく言われていた。この『テニスを心底楽しむ。楽しみながらも勝ちに行く』は幼い頃からの雄一郎の大きな課題だった。今、それがこの大舞台で試されようとしている。雄一郎は深い緑一色の伝統ある椅子に腰を落とし、タオルで全身の汗を拭いながらもそう考えた。また、苦境に直面した場面ではいつも次のように考えた。『自分自身に勝つ。自分の甘えた気持ちに何が何でも勝ってやる。昨日の自分に今日の自分は必ず勝つんだ』と。そして、『いつでも来い、ピンチこそ楽しんでやる。おれは最強なんだ!』そう思うと自然に体の奥底からどこからともなく、普段の自分にはない別の力が漲って勇気が湧いた。

 他にも苦境に立たされるといつも自分の意識とは違う別の場所から聞こえてくる声があった。それは『やればできるぞ、雄一郎。そうだ顔を上げて、胸を張り、前だけを向いて先に進むんだ』そうの言った声に耳を澄ませると急にやる気が身体の奥から漲り、苦しい状況を何度も乗り越えることができた。その声は時には『お前ならきっとできる』、『雄一郎、そんなだらしないことでいいのか』とか『大丈夫、応援しているぞ、お前には皆がついているからな』といった他の言葉だったりもした。父親かコーチの言葉のようにも感じたが、見知らぬ誰かの声のような気もして、その度に『ああ、そうだった、僕は皆から応援されているんだ皆の大きな期待を好きで背負っているんだ。だから皆のためにもここで諦めずに頑張らなくちゃ』とよく思ったものだ。

 先ほどの第3セットの3ゲーム目は1ポイントも失わずにサービスゲームをキープできた。余分な力が一切抜けてフラット、スライス、高速スピンサーブと球種を上手く打ち分けたのが功を奏して、3ポイント全てサービスエースで切り抜けた。残りの1ポイントは下半身のバネを強く利かせたキックサーブをコスナ―が珍しくフレームショットして、ボールがコートを大きく超えて観客席の方まで飛んで行ってしまった。コスナ―もセカンドセットは意識を集中して果敢に攻め立ててきたが、まだ調子はあの華々しくコート上を舞う自信に満ち溢れたいつもの王者そのものではなかった。それに人間の持てる集中力とはそんなに長い間持続するものでもなかった。それはお互いの選手に共通して言えることなのだが・・・。それ故に大きな大会ではセットを奪ったり、奪われたりする固唾を呑むシーソーゲームが際限もなく展開されるのだ。

 まだ観客もコスナ―と一体になって応援する雰囲気には今の所至っていない。誰もがコスナ―と対戦して一番厄介なのは派手なパフォーマンスを繰り広げ、ショットを決める度にそれを何度も繰り返し、観客を躍らせては我が方に味方に付け、自分自身を奮い立たせては調子を上げて行く彼独特のプレースタイルがいつ始まるのか、そこが対戦する上で選手皆が危惧する問題だった。今はまだそんな雰囲気に至っておらず、ここを何とか我慢して凌げば、この先必ずチャンスがまた巡って来ると頑なに雄一郎は信じた。

 審判台を境にして、同じ並びの狭い椅子に腰を下ろし、両腕の汗を拭きながら観客席の方にジーッと目を凝らすコスナ―に雄一郎はペットボトルの水分を口に含みながらチラッと視線を送った。コスナ―のファミリーボックスには、コーチングスタッフ以外にもいつものように彼の母親と妹が声援を送っているはずだが、そちらに視線を向ける素振りは見せていない。家族2人のためにと必死で戦っているコスナ―に違いないが、それは雄一郎とて同じだ。簡単に相手に向かってエールを送る訳には行かない。無言のうちに心を落ち着かせて彼は静かに瞼を閉じ、意識を次のゲームに集中させた。


            第20章 真剣さの相違


 小学校に上がる時、コンクリートの大都会大阪から山脈の連なる自然に囲まれた実家のある山口県の片田舎に戻って来て、何よりも雄一郎が一番嬉しかったのは大好きな祖父母と一緒に暮らせることだった。大阪で暮らしている時は電話でしか月に一度、長い時には3ヶ月に一度しか祖父母と話す機会がなくて、とても寂しい思いをした。2人の兄弟はどちらかと言うとお祖母ちゃん子で、「百合子ばあちゃん、百合子ばあちゃん」と何かと声を掛けては祖母の後を金魚の糞のようにくっ付き回していた。そんな時も祖母は少しも嫌な顔を見せずに2人の孫を心底可愛がった。自宅の周辺には幾つかの畑があり、祖母の仕事は野菜を育てるの毎日の日課のようになっていた。2人は祖母と一緒にいろんな野菜の種を植えたり、青々と育った野菜を引っこ抜くなどの仕事を遊び半分でやらせて貰っていた。自然の土を弄っていると世間一般のいろんな煩わしさからも解放され、ほっとした安らぎの空間が持てるので、大人になっても雄一郎は暇を見ては畑弄りに精を出していた。同じ太陽の下で汗を掻くといっても、テニスコートの上と畑の中とでは汗の種類も随分と異なっていた。

 少年時代、雄一郎がテニスや勉強でも頑張れたのはこうしてよく遊んでくれた祖父母が近くにいてくれたからだった。幼いなりにも彼は何とか祖父母に活躍しているところを見せて、褒めて貰いたいと思っていた。

 父親の指導を受けて本格的にテニスを始めた2年生の秋頃から、山口県のジュニアテニス大会に参加してみてはどうかと父親が行き成り言い始めた。時々、練習では父親と試合らしきこともそれなりにやってはいたが、まだ彼はポイントの数え方も試合の運び方も碌に覚えていなかった。家族全員でテニスを始めて、両親は映画やスポーツ番組を専門に放映している局と直ぐに契約をしてくれたので、自宅でもプロ選手のテニスの試合はよく観られるようになった。でも、何故か1ポイント取ると15とか30になるのか、小学2年生の彼にはさっぱり分からなかった。審判のコールも英語だけだったので意味が分からずに、その先も覚えようとしなかった。それに試合に出場するなんて、テニスを始めて間もない頃には考えもしなかったので、恰好良くプレーさえできればいいやと彼は悠長に考えていた。テニスをやるなら試合に出場するのは当たり前だが、その頃の彼はテニスを本格的に初めて4ヶ月位では到底試合に出場できないと勝手に思っていた。

 ある時、父親はまだ点数の数え方もまともに知らないで一人前のつもりで平気でテニスをやっていた雄一郎に激怒して、ボールを何球も彼に向かって打ち込んで来たことがあった。そうした父親の予期せぬ出来事に彼は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように驚き、目を真っ赤にして涙を流しながらも自分に向かって来る危険なボールから身を守った。

 父親は相当な短気で、ちょっとでもいい加減な態度を練習中に見せると平然としていた態度から一変して、烈火の如く怒り、ボールを投げるわ、ベンチを蹴散らしたえりして、手が付けられないこともあった。でも、それは確かに雄一郎が悪いのであって、真面目に練習に取り組んでさえいれば何の問題もなかった。それだけ真剣に父親は彼が考えている以上にテニスに必死に取り組んでいた。そんな父親の思いも知らずに彼は長い間、テニス自体は面白いけれど、父親から厳しい指導を受けることに関しては徐々に不満を抱き始めた。そのため心底楽しんでテニスをプレーすることが段々とできなくなっていた。

 そんな彼の思いとは裏腹に、もうこの頃から父親はテニスのプロ選手、それも世界に通用する強い選手になるという壮大な夢を描いていたのだから、甘ったれた練習では到底叶わない。血を吐くような厳しい練習、世界一になるには誰にも負けない猛練習を必死に積まなくてはならないと危機感を抱いて練習に取り組んでいた。

まだ、テニスを憧れとしか考えなかった幼い雄一郎には到底考えの及ばないことだが、父親は最初からそんな厳しい覚悟で鍛え上げようとしていた。雄一郎と父親の間にはそれ程の大きなギャップが当時はあったのだ。

 その後、父親は試合のルールをまだ良く分からない彼に時間を費やして、ポイントの数え方やその他のルールを丁寧に我慢強く教えて、何とか試合に臨む体制だけは整えたように見えた。でも、それは後になって身に沁みて分かるのだが、試合の厳しさ、難しさを少しも理解していない甘い考えに他ならなかった。この頃の立花家の家族全員はまだまだ試合に関する知識を誰一人として持ち合わせていなかった。


          第21章 黄色いワンピース姿の少女


 尚も試合は一進一退が続いた。コスナ―は次の自分のサービスゲームを難なくキープして。ゲームカウント2-2とした。このゲームではコスナ―は白く傷んでしまった芝生のコートを上手く利用して、弾まないスライスサーブをコーナーやセンターぎりぎりに鋭く決めてきた。敢え無く雄一郎のリターンはコスナ―の思うが儘無残にもネットに力なく引っ掛かった。40-15からのサーブでは、一度センターに鋭く切れて行くスライスサーブを上手く返球したのだが、素早く前に詰めてきたコスナ―にバックハンドボレーで鮮やかに決められてしまった。第3セットからはコスナ―も自分のサービスゲームでは、サーブ&ボレーを積極的に展開して、絶え間なく激しいプレシャーを掛けてきた。だが、雄一郎も負けてはいなかった。次の自分のサービスゲームでは、今までとは少しパターンを変えて、相手ののバックサイドにファーストサーブから回転の利いた高く弾むキックサーブを深く打ち、短めに返球されたチャンスボールをしっかり振り被って、得意のフォアハンドでオープンコートに打ち込むことができた。彼の得意とするショットは幾つかあったが、このキックサーブも長年コーチと一緒に磨きをかけて鋭さと重さも加わり、これまでにもキックサーブで何度か危険な場面を凌いできた経緯があった。コーチからも、この大事な大会が始まる直前に大切な場面では、この高速キックサーブをファーストサーブから上手く使えととアドバイスを受けていた。それだけ彼のキックサーブは鋭く、ボールが外に向かって高く跳ね上がって、尚且つ左手が上空に真っ直ぐに伸びて左肩もしっかり入るので、相手レシバーにはラケットの振り出しも遅れて見えて、コースが容易には判断し辛かった。他の人の目から見ても、それはとても有効な武器となっていた。

 その後、キックサーブの威力とコスナ―のリターンミスも重なり、立て続けに4ポイント連取して、ゲームカウント、3-2とした。辛うじて雄一郎がリードをキープしていた。ほっとした安堵の思いで、彼はボールパーソンからタオルを受け取ると、軽い足取りで今一番このセンターコートで安らげる自分のベンチへ戻った。そして、程なく時計に目をやった。試合が開始されて間もなく2時間20分が経過しようとしていた。

 センターコートを覆い尽くす上空は午後2時の試合開始前と同じようにどんよりとした重たい鉛色の雲が空一面に立ち込めてはいるが、風もなく穏やかで、雨の降る気配は今のところ皆無だ。これでは、凡そ10分間で開閉できる半透明の自慢の屋根も活躍できる場魔円はなさそうだ。でも、当てにできないロンドンの空模様は、いつ驟雨のような雨が降らないとも限らない。

 雄一郎はペットボトルを片手に取り、それを口に運びながら徐に観客席に目を配った。するとその視線の先に雲のような塊の白い霞が薄っすらと掛かっているのに気付いた。何だろうと思い、瞬きを数回繰り返していると俄かにその霞のようなものが晴れ、そこには黄色いワンピース姿で、裾に白いフリルの付いた可愛らしい服装をした金髪の少女の姿が目に飛び込んできた。その少女の腰の辺りまで伸びる長い金髪の額には可愛らしい表情を際立たせるような白いヘアリボンが巻かれてあった。多分、7、8歳位の女の子だろうが、雄一郎の方を向いて微笑んでいるように見えた。ふっと自分とコスナ―のどちらのファンなんだろうかと考えて可笑しくなった。一人笑みを浮かべながら、今そんなことを考えている場合かと自省して、邪念を打ち消すように軽く頭を振った。でも、何故かその黄色いワンピースを着た可愛らしい女の子、彼女自身というより、その子の動作、仕草、もっと厳密にいうなら、彼女の周辺に漂う雰囲気がどうにも気になってしようがなかった。


             第22章 初の公式戦

 

 本格的にテニスを始めた8歳の秋口、父親と相談して雄一郎は県のジュニアの大あ会に出場することにした。試合は勝つ自信は全くなかったが、何とかⅠ,2回戦は勝てるんじゃないかと彼は楽観的に考えていた。

 母親が試合に関していろいろと調べてみると、県のジュニアの大会に出場するには、まず地域にあるテニス協会と山口県テニス協会に団体と個人登録が必要という事が分かった。それにはどこかのテニスクラブに等の団体に所属する必要があった。熟慮の末、両親は自分たちだけのテニス団体を結成することにした。とは言ってもメンバーは立花家家族4人だけだった。団体の名称は家族全員で考えた末、『ウィング』に決めた。鳥のように大きく翼を広げてどこまでも空高く飛び、テニスでもジャンプアップして、世界に飛躍しようと考えたのだ。『ウィング』からの出場選手は当面、当たり前のことだが、雄一郎只1人だけだった。

 県のテニス協会から送られてきたジュニア会員登録証は彼の好きな緑色を配色したテニスコートの絵柄が施されていた。その新しい会員証を手に取り、これから試合に出場できるというワクワクした喜びと、本当に試合に出ても大丈夫だろうか、今の自分の実力で本当に勝てるのだろうかといった不安が打ち寄せる波のように何度も押し寄せてきて、暫らく彼は眠れない日々を送った。

 結局、初めて公式戦と呼べるジュニアの試合に彼が出場したのは、その年の秋に行われたオータムサーキットの大会からだった。

 山口県の中心部に位置する山口市のテニス会場で行われたこの大会で、雄一郎はテニスの厳しさ、難しさ、それに自分の不甲斐なさを嫌というほど思い知らされた。試合が行われる湯田温泉に程近いそのテニス会場は陸上競技場も兼ね備えた16面もテニスコートがある立派な施設だった。陸上競技場は新しく新設されたばかりで、赤茶色の真新しい競技用トラックが白線とと共に鮮やかに浮き上がって、周りの木々の緑色とバランス良く調和していた。また、近くには体育館もあるようで、人々が始終行き交って賑やかで、周辺を見渡すと遠目には低い山脈も見えて、この場所が山脈に囲まれた盆地であることが窺えた。

 凡そ、このテニス会場までの距離は実家から山間を抜けたトンネルの多い高速道路を利用しても車で2時間近く掛かった。

 試合の前日は緊張のためか、夕食の時から食事は喉を通らず、落ち着きなく、母親にも「お母さん、僕緊張するよ・・・。明日の試合、僕、大丈夫かな・・・」と不安な言葉を何度も連発していた。無理もなかった、まだ大した練習を積んでいた訳でもなく、小学2年生の頼りない子が1人で戦う厳しいテニスの試合に始めて臨もうというのだから。すでに彼は戦う以前から気持ちで勝負に負けていたようなものだった。「雄一郎、いいのよ、どんな競技でも、試合前は誰でも緊張するものよ。あなただけじゃないのよ。それに明日の試合はあなたにとっては初めてのテニスの公式戦なんだから、思い切ってやりなさい。負けて元々でしょう」そう言って母親は息子を勇気付けた。

 父親はというと、リビングでテレビを観ながら何も語らずにソワソワする彼を横目で見ながら何か言いたそうにしていたが、ジッと我慢していた。

 試合の当日は陽がまだ明けていない暗いうちから自宅を出発して、家の周辺いは真っ白な霜が降りて、肌身を尽くさすようなとても寒い日だった。会場に向かう途中、彼は朝陽立ち昇るのを車内から見ながら、でも朝陽が美しいなどと思っている余裕はなかった。『このまま朝陽を拝みながらテニスの試合ではなく、どこかに遊びに行きたい。きゅうに天候が変わって、雨にでもなってくれればどんなにいいか。昨日の予報では、山間部は時々雨になると言っていたけど・・』等と自分の都合のいいように後ろ向きに考えていた。もうそうなっては気持ちは逃げることばかりで、試合に勝つという前向きな考えは微塵もなかった。

 会場には午前8時前に無事到着した。もうすでに小中学生の強そうな男女が数人が、各コートに散らばり、必死になってボールを打って練習していた。それを見た瞬間、雄一郎は「皆、僕よりかなり上手い』と心の中で唸った。そして、会場全体を見渡せる観客席に立ち、初めて目にする16面もある広大なテニスコートを見渡すと、その雰囲気にここでも圧倒されて、緊張感は更に高まった。

 第1試合目から雄一郎が出場する9歳以下の男子シングルスがスタートすることになっていた。大会受付の前に設置してある大きなホワイトボードには対戦相手と自分の名前が試合の行われるコート番号と一緒に小さな用紙で張り出されていた。雄一郎は自分の名前が記入されているその用紙を見た時、無理やり剥がしてでもその用紙と共にどこかに消えてしまいたい衝動に駆られた。

 試合開始午前9時を回り、いよいよ試合が始まるアナウンスが会場内に響き渡ると、彼の緊張感は極限に達した。全身が硬直して、心臓の鼓動は外部に聞こえるくらいに高鳴り、手足にちょっとした痺れまで感じた。雄一郎は小刻みに震える身体を自分の手で何とか押さえ、父親に試合中の注意を上の空で聞いて、それでも自分では万全な態勢でコートに向ったつもりでいた。だが、あれほど自分が緊張してしまうとは夢にも思わなかった。歩く歩調もいつもと違って何だかぎこちなく、肝心のラケット、タオル、水筒も全て待機場所に忘れて、試合で使う2個のニューボールだけを手に持ってコートに入ろうとした。母親が直ぐに気付いて、事無きを得たが、側で見ていた父親は「何しちょるんじゃ、もっとしっかりせんか!」といったきつい目付きで睨まれてしまった。この時点で、もう彼は内心試合どころではなく、またしてもどこかに逃げだしたい心境だった。でも、逃げる場所も見つからず、仕方なく堪忍して試合コートに小首を項垂れた弱々しい姿勢で入った。そこからは対戦相手の顔をムるまでは覚えていたが、その後は頭の中が真っ白になって、試合の内容は愚か、いつの間にか人生初の大切な記念すべき試合も何が何だか分からない間に終わっていた。6ゲームマッチの試合は短いようで、でも彼にとっては丸一日を費やしたようにとても長く感じられた。試合に要した時間は凡そ40分間だったらしい。途中、セルフジャッジに迷って、試合を中断する2人の子供にコートレフリーが何度か様子を見に来て、何かアドバイスをしてくれたのだが、それさえもよく覚えていなかった。それでも結果は5-7で、惜しい敗戦だった。

 試合が終了し、ほっとしたものの、まだ緊張感が抜け切らずに真っ赤な顔になっていた雄一郎は対戦相手との礼儀正しくあるべき握手もいい加減に済ませアて、一目散で背丈ほどもある大きなラケットバックを肩に背負い、コートから逃げ出すように待機場所に戻った。でも、そこには彼以上に顔を真っ赤にして怒り心頭の父親が腕組みをして待ち構えていた

雄一郎、どうしたんじゃ。今の試合、本当はお前が6-4で試合に勝っちょったんじゃないか。途中から勝っちょったお前のスコア―と相手のスコア―が逆になったじゃないか。何であんなバカな間違えをしたんか!」

「ええー、そんなこと・・僕、全然覚えていないよ。しっかり打ち合って、ポイントも取っていたと思ったんだけど・・・。途中、。3-1でりーどしているところまでは覚えていたけど・・・。その後はお互いのポイントがゴチャゴチャになって、・・・ごめんなさい」雄一郎はそんな弁解を涙声になりながらもした。周りにいた他の選手やその両親たちは彼の戸惑う様子を横目で見ながら同情の表情をありありと浮かべていた。

 父親の隣で聞いていた母親も呆れた表情をあからさまに浮かべて彼の顔を覗いていたが、目だけは確かに怒っていた。

 次のコンソレーション(敗者復活戦)は更に惨めで情けない試合になってしまった。サーブはダブルフォルトを何度も連発して、ストロークは思った所にボールは飛ばずに簡単なミスを犯して、1-6で実力上位の年上の選手にこてんぱんに打ちのめされてしまった。

 こうして立花雄一郎の記念すべき公式戦初デビューは目を覆いたくなるような散々な結果で終わった。それは試合を楽しむような状況ではまったくなく、針の筵に立たされたような苦しい経験となった。

 予定外に早く試合が終了したので、父親の命令で本当は直ぐにでも試合会場を後にして自宅に帰り勝ったのだが、夕方近くまでシード選手のプレーを有無も言わさずにじーっと観戦させられてしまった。他の選手の試合を観戦しても、雄一郎の頭の中は不甲斐ない今日の自分の試合の後悔ばかりで、他人の試合を観戦している余裕はなかった。自分の佇む周辺だけ空気が薄いのではないかと錯覚するくらいに息苦しく、自分を見る他人の目が「何だアイツ、大した練習もせずによく試合に出て来られたものだ」と嘲笑っているようにさえ感じた。『穴があったら直ぐにでも入りたい。早く明日になってくれ』と神様に縋るような心境だった。

 帰宅の際、家族全員が雄一郎の負け試合を背に受けて、ぐったりと疲れ果てて車に乗っていた。いつも車中ではしゃぎ回っている元気な謙二郎でさえ、沈痛な面持ちで座席にいた。ハンドルを握る父親は憮然とした表情で黙って前だけを見据えて車を走らせていた。そのハンドルを握る手捌きは肝を冷やすくらいに恐ろしく乱暴だった。『父さんはまだ起こっている』そんな思いが彼の脳裏から離れなかった。

 後部座席に座っていた母親は疲れ果てて眠ってしまった弟を膝に抱えながら彼に話し掛けてきた。

「雄一郎、今日の記念すべき初戦はお父さんも言っていたように本当はあなたの勝ちだったのよ。それは一緒に観戦していた対戦相手のお父さんも『お互い初めての試合で、緊張して訳が分からなくなってしまったんでしょうね。ご迷惑を掛けてすみませんでした』と誤っておられたわ」

「はい・・」雄一郎はもう垂らす頭がないくらいにすっかり項垂れて、枯れ果てた老人のようになっていた。

「でもね、雄一郎、、あなたさえしっかりしていれば、こんな情けない負け試合にはならなかったのよ。それは分かっているの?」

「うん、分かっている」つくづく自分が情けなくなって、込み上げてきた涙が頬を伝った。

「まぁ、今回は良い経験をしたと思いましょう。でも、初戦は仕方ないとしても、その次の試合もあんな負け方をするとは本当に不甲斐なかったわね」

「はい、ごめんなさい」ひたすら彼は誤るしかなかった。

 普段なら感情を表に出さない母親がその時は本当に情けなくも寂しそうな薄い表情で彼から視線を外し、暫らく車外の遠くを見詰めていた。

 雄一郎も試合の結果には相当落ち込んだが、自分以上に残念がっている家族を見ると、何だか自分が重大な罪を犯した犯罪者のように思えて心はとても暗く息苦しかった。その間、父親は一言も口を利かずに真っ直ぐ前を向いてハンドルを握り、そのうち少し気持ちも収まったのか、母親の言葉の後にはまたいつものように静かに車を走らせていた。それでも車中にはずっしりと重たーい沈黙が帰宅するまでの間漂い、家族4人はその沈黙の中で窒息しそうなほど疲れ果てていた。

 体力も気力も使い果たし、やっとの思いで家路に着くとほっとする間もなく、直ぐに雄一郎は父親の部屋に呼ばれた。明莉も点いていない部屋の冷たい畳の上に有無も言わさずに正座させられると、今日の反省を延々とさせられてしまった。

 最初は彼に素直に父親のアドバイスに耳を傾けていたが、あまりに鵜句作言われるので途中から愚かにも反感を抱き、もう素直に父親の言うことを聞けてなくなった。父親の言わんとすることは十分自分でもよく理解できたが、それを実行に移せない自分がいて、それに腹立たしさを覚えたのもあるが、煩く説教をする父親への怒りも込み上げてきて、むしゃくしゃした耐えるに堪えられない感情的な気分になった。そんな様子が子供のためと思って必死に諭してくれる父親に分かるはずもなかった。そして、そんな彼の投げ遣りな態度も一言何かを言われる度に逃げ腰になり、だけど目だけは反感を宿した眼差しだったものだから、ついにそれまで我慢していた父親も堪忍袋の緒が切れた。もうその後は怒りの罵声とともに彼は父親の部屋から、いや家の中からも腕を掴まれ引きずられるようにして真っ暗な屋外に裸足のまま放り出された。

 真っ暗な星空の下、激しく泣きじゃくる彼の声が山々に暫らく反響していたが、父親は許す気配もなく、玄関の扉は固く閉じられたままだった。そのうち何事が起ったのかと心配した祖父母が隣の母屋から駆けつけて、父親を何とか説き伏せてくれた。その日はその日はそのまま祖父母の母屋に仕方なく彼は泊まることになった。 

 人生初のテニスの公式戦に出場して,幼いなりにも雄一郎が理解したことと言えば、テニスというスポーツは技術、体力だけでは勝てない気持ちの面が重要だということだった。そこが負けた彼には全然理解できていなかった。少しばかりのテニスの技術とボールを追い駆ける足や体力さえあれば、何とか勝てると安易に思っていた。それにあの試合にの不安感には驚いたとしか言いようがなかった。練習中、その試合の時に感じるような強いプレッシャーを感じて練習を積んだことなど一度もなかった。あの緊張感、不安感を克服するための経験が彼には全くと言っていいほどなかった。これまでの練習では心理面など少しも考えずにプレーをしていたし、ミスを犯しても『次に頑張ればいいや』とか『下手糞だな僕は・・・』等といい加減に考えるだけだった。本番の試合の時に感じるようなプレッシャー、例えば『ミスをしたらどうしよう』とか『このポイントを取らなければ負けてしまう』といった切迫した緊張感を抱いたことはなかった。あの試合で感じた途方もない緊張感を身に沁みて味わったことなど人生で一度もなかったし、あの胸を締め付けられるような圧迫感が一体どこから来るのかさえ全然理解できなかった。それは初めて試合に出場した選手であれば誰もが感じる緊張感で、そうした精神的なケアを小学2年生の幼い子が1人でできるはずもなかった。

 こうした公式戦初デビューは『テニスとは本当に辛いスポーツだ』と初めて思った思い出したくもない嫌な記念日となった。それがまたトラウマとなって、暫らくテニスという試合自体に雄一郎は楽しみを見出せずに見事なまでも勝利を挙げることができなかった。でも、この辛い思い出が随分先になってしまうが、彼の糧となり、真摯にテニスというゲームに本気で取り組む礎となったのも事実だった。もし、初めての試合で簡単に勝っていたら、これ程までにテニスに夢中にならなかったし、直ぐにテニスというゲームが詰まらないと考えたかも知れない。難しさゆえ、思い通りに行かないが故に挑戦する価値がある。世の中にはそう考えて挑戦して行く対象が人其々に沢山あるのだろう。

 今回の大会で、彼の両親もその精神面の脆弱さが嫌というほど理解できたようで、メンタルタフネスの重要性を十分感じていた。その後、父親はメンタルタフネスに関する本を読み漁り、メンタル面も鍛え上げようとした。でも、そのメンタルを鍛え上げる訓練は彼にとってテニスの技術を高める以上に相当困難な課題だった。それに両親が最初に犯したミスは、子供がどんな不甲斐ない試合をしても、優しく見守り、我慢強く応援してやることだった。直ぐに試合の結果を云々したり、結果を求めることではなかった。テニスの試合の厳しさを問うのも大切だが、それ以上に例え負けても次の試合にも出場したい、何てテニスの試合は面白いんだと子供自身が感じられるようにすることが先決だった。まだ、テニスというスポーツに雄一郎や家族全員がどう対応して良いのか迷いに迷って試行錯誤していた。

 こうして始まった立花家家族全員のテニス大会初戦だったが、今後も暫らく、そう2~3年はこんな情けない試合の状況が幾度となく繰り返された。それは苦い経験から始まった苦難の長きにも亘る試練だった。


             第23章 勇気が湧く


少し上空の雲が風に流されてゆっくりと動き、陽射しとまでは行かないまでも薄い青空が所々垣間見えては隠れ、天空は2人の選手の思いとは別に気儘な様相を呈していた。気温はだいたい22、3度といったところだろうか。でも、温度は少しむっとするくらい高く、襟付きの薄手のシャツは肌に張り付いて、すでに汗でびっしょ濡れだった。次のセットでは2枚目のこのシャツも着替える必要があるだろうと雄一郎は考えていた。

 試合は第3セットの第6ゲーム目に入ろうとしていた。ここでコスナ―のサービスゲームをブレイクするとかなり有利に立てる。雄一郎はこれまで以上に集中させ目頭に力を込めた。そして、父親の言っていた言葉、「雄一郎、大胆になれ。そして、誰にも負けない勇気を発揮するんだ。いいな、最後に勝つのはその勇気を最大限に発揮した者だけだぞ!」父親の聞き慣れた頼もしい声が彼の脳裏に何度も木霊した。


 驚異的な芝生をも剥がしそうなコスナ―の鋭いサーブを予測力と反射神経だけを頼りに何とかクロスコートにリターンして、ストローク戦へと粘り抜いた末にポイントは30-40となった。ここまではストロークの激しい応戦の末、雄一郎がネットプレーでもポイントを順調に稼ぎ、有利に展開を進めていた。次のポイントではコスナ―のクロスのアプローチからのネットプレーで彼はバックサイドに走らされたが、コンパクトな両手バックハンドのリストを利かせたショットでクロスに向かって瞬時にパスを放った。ライフル銃から発射された弾丸のような剛球はネットを超えると急激に落下した。そして、相手コートのサイドラインを掠めると一瞬にして白い粉が舞い上がった。「キャー」という観客席の悲鳴を背に受けながらも雄一郎は左手の拳を胸の前に突き上げ、上空を仰ぐようにして唸り声を上げた。ついに二度目のコスナーのサービスゲームをここでブレイクすることに成功した。

 第3セット、ゲームカウント4-2と2ゲームリードを広げ、何とか優位を保った。それでもコスナ―はチャンピオンらしく平然とした態度でボールパーソンからタオルを受け取ると、ベースレイン後方で頭から両腕、両足にかけて全身の汗をゆっくりとした動作で拭っていた。

 雄一郎より一つ年上のチャンピオンはこれまでにも危機的と思える幾多の修羅場を乗り越えている猛者だ。彼にとって、この状況はピンチと言えるほどのものではないのだろう。雄一郎はコスナ―を上目遣いに睨むようにジッと見詰めると、気分を落ち着かせて額から顎にかけて流れ出した汗を丁寧に拭った。そして、そのタオルを先程自分に向かって微笑んでくれたボールパーソンに投げるように渡した。そのままその場所に腰を落とすと、シューズの紐を両足ともゆっくりとした仕草できつく結び直した。ふっと顔を上げ、レシーブサイドに構えるコスナ―に視線を向けると、彼はこちらを向いて少し微笑んでいるように見えた。チャンピオンとしての余裕の表情か、それとも親交を温めた若き日本人の期待以上の健闘ぶりに敬意を表したのか分からないが、その姿を見て雄一郎は『やれるぞ、いや、今日こそは必ず勝ってやる!』という強い勇気が湧き起こった。何故ならの偉大なチャンピオンがこの遥々東洋の島国からやって来た若者を認めてくれた証だと思ったからだ。また、これで対等どころか、それ以上に有利な立場でこれから試合が運べるとも前向きに考えた。それは、相手の実力を認めるということは、コスナ―にも相当なプレッシャーがこの先幾度となく襲い掛かるはずだからだ。そして、何よりも精神的な面で相手よりも優位な立場に立てなくなったことを意味していた。五感を研ぎ澄まし、雄一郎は全神経を今手に握る一つのボールに集中した。

 第3セット、4-2からの彼のサービスゲームも高い打点から振り下ろした強烈なフラットサーブが相手のバックサイドや正面を的確に付き、更に高速のキックサーブが再び思うように決まって、意外と順調に次のサービスゲームをキープした。小学生の頃から鍛え上げてきたサーブの威力がこの夢の舞台で真価を発揮し、有効な武器となっていた。ラリーになったのは1ポイントくらいだったか。芝生のコートでは、特にこうした2週間もの長い戦いの末に荒れ果てたコートに様変わりすると、やはりビッグサーブが有効な決め手となった。男子シングルスでは圧倒的に、そして尚の事このウィンブルドンの芝生のコートでは、ビッグサーバーがかなりの割合で試合を有利に運んでいた。それ故、今大会では強力なサーブを持つアルベルト・コスナ―と立花雄一郎が決勝戦に勝ち上がったのも当然のことのように思えた。他にも強力なサーブを持つ数人の期待された若手プレーヤーも実際にはいたが、ショットの安定性を欠き、敢え無く敗退していた。それ程、現在の男子テニス界では、絶対的に強烈なサーブ力が必要であり、それに加えてあらゆるショットの正確度が求められていた。立花雄一郎とアルベルト・コスナ―がこの決勝戦に無事に臨むことができたのも絶対的な武器であるサーブの威力とそのサーブを打ち返すリターンの精度、そして安定した総合力が他の選手よりもこの大会では優っていたからだった。これで、第3セット、5-2と雄一郎のリードは更に広がり、思いも寄らない展開となった。

 この第3セットはお互いサービスゲームをキープして、この試合初めてのタイブレイクに突入するだろうと誰もが予測していたが、思わぬ展開に彼自身も驚いた。だが、このセットをすでに手中に収めた訳ではない。まだまだ油断できない展開は否応もなく続く。今、目の前に対峙しているのは、ここ数年間ですでにグランドスラムを5タイトルも獲得して、誰からも敬愛される最強の王者なのだから。

 凡そ1年間前に雄一郎がアメリカの西海岸の大会でコスナ―と初めて対戦した時に、1セット目、2-6でダウンし、セカンドセットは5-1と彼が大きくリードを広げたのにそこからあっという間に挽回され、結局セットカウント0-2で惜しくも負けてしまったことがあった。あの時はリードを保って油断した訳ではなかttが、1ゲーム毎にコスナ―は試合のペースをグングンと上げて、5-5と並ばれた時にはもう手も足も出せずに完敗モードだった。試合が終了して、ネット越しにコスナ―と握手を交わす際、恐れを成して足が竦んでしまった。でも、コスナ―は初めて対戦した雄一郎に向かって笑顔で微笑みかけ、弱々しい感じで握った彼の手に対して力強い握手を返してくれた。それはまるで勝敗を決した後に交わす握手とはこうするものだとプロとしての心構えを教えてくれているようだった。それを示すように、握手を交わした後にはさり気無いウィンクをして、コスナーは彼の背中を励ますように優しく叩いてくれた。その時、雄一郎はコスナ―のプレーの偉大さは重々承知していたが、心の優しさ、寛大さ、そして負けた相手への思いやりを言葉ではなく態度から肌で感じて、王者とはテニスの技術だけでなく、人間性も王者たる資格を備えているものなんだと深く感じ入った。アベルト・コスナ―はそれで毛の人格者であり、大勢の選手たちから敬愛や尊敬の念を受けて、尚且つ戦う上では畏怖さえも覚えるほどの驚異的なプレーをまざまざと見せつけられて、近年ではあの計り知れない不撓不屈の精神力、スキルを持ったロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルに次ぐ偉大なチャンピオンに間違いなかった。

 ベンチの椅子に腰を落とし、雄一郎はラケットのストリングスの硬さを手で何度か叩いて確かめた。これも彼がよくやるルーティンの一つだ。その作業を終えると水分を十分補給し、グリップの汗をタオルで丁寧に拭き取って、自分の足元を見詰めながら静かに瞼を閉じた。

 次の第8ゲームを取るとセットカウント2-1となる。コスナ―にこの大舞台で勝利するには先に2セットアップすることが彼に託された絶対条件だった。それは試合前に父親とコーチ、そして他のチームスタッフと行ったミーティングの中の確認事項でもあった。

 彼の信頼するコーチは「雄一郎、どのセット勿論重要だが、1セット目と第3セットは特に大切なセットなんだぞ。ここを死に物狂いで奪いに行かないと0-3のスコアーで呆気なく試合が終わらないとも限らない。そんな無様な展開だけは子の栄えあるウィンブルドンの決勝では許されないぞ、分かっているな。全てのテニスファンが、このウィンブルドンの決勝では素晴らしい好試合を期待して、世界中から集まって来るんだ。決勝に残ったからには、その全ての人たちの期待を裏切らない素晴らしい好試合をすることが、今の雄一郎に託された最大の使命だぞ。頼むぞ」と真剣な眼差しでアドバイスを受けた。

 隣で座っていた白髪も随分と目立ち始めた父親はあの厳しかった幼少時代とは違った穏やかな表情で「お前ならきっとできるさ、父さんはそう信じている」と信頼し切った眼差しを向けていた。そして、優しく何度も雄一郎の肩を叩いてこの』場所にこうして送り出してくれたのだ。幼少の頃なり、とても怖く見えた頑固一徹の父親は、雄一郎が大人に成長するにつれて徐々に穏やかになり、今は彼を信じ切って、何でも相談できる親子関係になっていた。両親が彼の側に帯同していなかったら、こんなにも厳しいテニスツアーには到底耐え切れなかっただろう。両親の献身的な支えがあったからこそ、彼の選手生活がこうして成り立っている。それを肝に銘じて雄一郎はツアー生活を送ってきたつもりだ。

 瞼を閉じたままゆっくりと深い深呼吸をしながら雄一郎は心を静めた。そして、コート上を素早く走り回ってボールを強く打ち抜き、エースを奪っている自分の勇姿を繰り返しイメージして自信を深めた。


               第24章 反発心


 散々な結果で終わった初のジュニア公式戦はその後も出場した幾つかの試合に大きな悪影響を及ぼした。父親との普段の練習では雄一郎は見違えるほどテニスの腕も上がり、サーブではスピンサーブ、ストロークではスライスショットも覚え、その応用としてドロップショット、サイドスピンも試合で使えるようにと身に付けていった。ジュニアではまだ厳しいとされるネットプレーにも少しずつだが挑戦するようになった。

 試合に出場してから3ヶ月もすると、父親から1ゲーム中、数ポイントは確実に奪えるようになった。彼の成長に合わせて弟も母親も、そして勿論コーチである父親だが、家族全員のテニスの腕前はテニスを始めて半年も経つ頃になると数段技術も体力も向上して、テニスの楽しさも存分に味わえるようになった。但し、どうしても試合、特に県主催の公式戦となると雄一郎は良い成績を残せずにもがき苦しんでいた。いざ公式戦となると、彼は必要以上に緊張してしまい、試合中も楽しめない状態が続よき、何よりも公式戦に出場すること自体に消極的だった。練習での打ち合いでは、トップスピンの鋭く利いた小学生とは思えない素晴らしいショットを連発するのだが、いざ試合形式となると、考え過ぎて緊張してしまい、ショットも安定しなかった。当然、そうなると今度は守りに入って消極的なプレーとなり、また時々強打してもそれは無意味なミスに繋がって、最後には自分自身に腹を立てるといった惨状を懲りもせずに何度も繰り返していた。そんな愚かな姿を見て、彼の両親は情けなくも歯痒い思いをしていた。

 時には母親も大声で、「そんな無様なな態度を取るのならテニスなんて辞めてしまいなさい。自分を責め立てて、自滅する姿を見て喜ぶのは対戦相手だけなのよ」と父親にも負けないくらいの怒鳴り声を張り上げて彼を叱っていた。でも、その頃の雄一郎は精神的にも未熟だったせいか、両親のそういった叱咤激励を快く自分の中に素直に受け入れる度量が足りなかった。自分に対して良しとしてアドバイスをしてくれたのに相手の言葉尻だけを取って、全て自分への批判だと愚かにも考えてしまい、自分にはテニスの才能が少しもないのでは・・・とかなり落ち込んだりもした。プロ選手へのテニスの夢が蝋燭の炎のように風に靡いて、今にも消えかかろうとしているそんな時期が長らく続いた。

 それは普段の生活態度にも顕著に表れ、2年生から3年生にかけては物事に対して極端なマイナス思考で、動作も緩慢、誰かに注意されても少しも素直に聞けなかった。また、あいさつや返事も蚊の鳴くような小さな声で、やる気の無さが前面に出ていた。かと言って、両親に対して強く口答えする勇気もなくて、只悶々として受け入れるしかなかった。

 テニスそのものは凄く好きだったが、試合は緊張して思うようなプレーができずに負けるので嫌い。自分の好きな事柄には積極的に取り組むが、そうでない事に関しては人から言われても前向きに行動しないといった愚かな態度を平気で装っていた。 

 こうした不甲斐ない彼の姿勢が微妙にだが少しずつ変化していったのは弟、謙二郎の存在がとても大きかった。謙二郎は4、5歳という幼稚園に通い始める幼い頃から物事に対してとても積極的で、自分の意見を幼いなりにはっきり言って両親を困らせるくらいだった。挨拶や返事にしてもとても大きくて、その頃の兄とは対照的だった。そう言ったことで、弟は両親にも褒められることがとても多かった。

 雄一郎は弟と比べられるのもとても嫌だったが、弟にできて自分にできないはずがないと3年生の後半頃から少しずつ思うようになって、普段の行動も少しは積極的なものになり始めていた。そうするとテニスの公式戦ではなかったが、地域のクラブが主催する小さな大会ではこれまでよりも成績が上向くようになった。しかし、県主催のランキングの付いた公式戦ではそう簡単には行かなかった。

 屈辱の最初の負け試合から幾度となく行われたジュニアの公式戦でも1回戦負けが続き、4年生になって行われた全国選抜ジュニアテニス選手権県予選、中国オープン、それに全国小学生テニス選手権県予選と出場する試合は全て立て続けに1回戦負けを喫していた。試合に関しては、もうこれ以上ないくらいの辛酸を嘗め尽くしていた。

 そうした事、で相当彼も落ち込んだが、それ以上に両親が不甲斐ない試合に落ち込むというより、悲しみをも通り越して怒り心頭だった。そうするとますます彼のプレーは縮こまった消極的なものとなって、更に悪循環を繰り返す嵌めになった。

 普段の生活面では弟を見習って積極的に行動しようと頑張っていたのに、まだそれが過酷なテニス試合では十分生かされずに暫らく辛い日々が続いた。

 この頃の父親は自分の息子ならこれ位はやれるはずだという期待感が強過ぎて、少し焦りもあった。また世界で通用する強い選手になるには甘やかさずに、今は駄目でも将来のことを思って厳しくしなければ真のトップ選手にはなれないという持論を強く抱いていた。そんな父親の秘めた思いを幼い雄一郎が理解できる訳もなく、どうしてテニスの試合に負けたぐらいでこんなにも酷く怒られなければならないのかと彼は疑心暗鬼に陥っていた。 

 漸く、その事に気付かされたのは、彼が5年生になったばかりの敗戦試合からの帰り、父親が教えてくれた。それはテニスの技術や勝敗のことではなく、闘争心の欠片も無く、ましてや子供らしい元気さや試合を楽しむといったスポーツで必要な根本的なことが欠けていたからだった。それに負けても悔しがる素振りを全く見せない愚かな態度に対してだった。父親は、例え試合で負けても必死になって全力を出しさえすれば逆に褒めてやるとさえ言っていた。父親からそのように言われて、やっと自分の試合に臨む時の甘さや未熟さ、試合中の闘争心の欠如に気付かされた。いや、心の内では彼にも前々からその事は分かっていたのだが、それをどのように実際のプレーや態度に表現していいのか、さっぱり分からなかった。そして、続けて父親は外国の彼のようにプロを目指している選手の話題に触れた。それによると、外国の同年齢の選手はそれこそプロになる意識がとても強くて、メンタルも物凄く強い。試合や練習であっても、皆必死になってボールを追い駆けては渾身の力で打ち返して来る。それは自分の夢を現実としていつも追い求めているからだ。それに夢を実際に掴むまでは決して諦めないと自分に強く言い聞かせているからだ。もっと端的に言うと、将来の自分や家族の生活が懸かっているから、皆目の色を変えてジュニアの頃から頑張っているんだ。

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