one more dog, one more cha

 どこにでも現れるってことは、どこにでも現れうるってことで、それは現れるための条件を僕らはまったく掴み切れていないってことだ。

「どこを探せばいいのだろう?」と僕は訊ねた。

「御覧なさい」と彼女は道端の排水溝を指差した。僕はそこを覗き込んだ。堆積した泥の隙間をか細い水流が通っていた。小さな羽虫が壁に張り付いているのが見えた。

「なにもいない」と僕は言った。

「そう、そこにはなにもいない」と彼女は言った。「しかしながら、そこに現れる可能性は捨てきれない。私の目の届く範囲は限られているから、より多くの範囲を見るためにはより多くの目が必要。私は上を見るから、あなたは下を見なさい」

「前と後ろと横が見えないね」

「私は上を見るから、あなたは頭をグルグル回転させなさい」

「僕の首をなんだと思っているんだい」

「曲げれは曲がるでしょう」

「こんな排水溝に現れでもしたら、それはお茶犬っていうより、泥犬だね」

 これは彼女に黙殺された。彼女はいつだって興味のないことを黙殺する。


 ポアソン分布。

 数式で書けば P(k)=λ^k×e^(-λ)/k!。

 単位面積・単位時間あたりに平均λ匹お茶犬が現れる場合、単位面積・単位時間あたりにk匹のお茶犬が現れる確率は上記式に基づいて導かれる。

「お茶犬が完全に無作為に、無差別に、ランダムに現れるとすれば、だけれど」

 県立図書館の敷地内にある小さな緑地に腰を下し、僕らは油断なくカメラを構えている。

「この場所にお茶犬が現れる可能性は?」

「まあ、限りなく低いだろうね。そもそも真のλが分からない」

「なら、ここでこうしている意味は?」

「神のみぞ知る」

 彼女はため息をついて、手元の水筒を開け、コップに中身を注ぐ。ほうじ茶の香ばしい香りの湯気が立つ。

「あらゆる場所がお茶犬となる可能性を存在して、そこにお茶犬があると観測された場合にお茶犬である可能性がそこに凝縮するのでは?」

「量子論を適当な解釈で利用するのは好ましいとは言えないわね」と彼女は言う。

 じゃあこんなのはどうだ、と僕は言う。核生成。

「大気中にか地面にか水面にか、均質生成だか不均質生成だか知らないけれど、なんらかのお茶犬の核が生まれ、そこに凝縮するようにお茶犬が生成する」

「核とは一体?」

「右のちっこいやつ」

「それはラヴォスの核」

「お茶犬は核を破壊されない限り何度でも蘇る」

 偶然通りかかった犬に彼女はお茶をぶっかけるが、その犬はお茶犬の核とはならず単なるお茶臭い犬としてそこにあり、僕らは飼い主にしこたま怒られる。


 これはお茶犬を探した僕らの日々の断章。一向に現れやしない犬を求めて無為に過ごした時間の記録。

 どうして僕がお茶犬を探し始めたのかというと、たまたま講義で隣の席に座った彼女がノートパソコンを開いて板書を取っているのかと思いきや至極マジメな顔でお茶犬のホームページを精読しており、授業が終わるやいなやパソコンを閉じて「さて、探しにいきましょう」との呟きに「僕も行こうかな」と独りごちると思いの外食いつかれたからであり、彼女がお茶犬を探し始めた理由については最後まで教えてくれなかった。


 無から有は生まれず、どんな生成反応も元を辿れば原子と原子の結びつきにより説明できるのだから、犬原子とお茶原子が反応することによってお茶犬が生まれるのであろうという定説が当時の流行であり、ではとりあえず原子核に陽子をぶち込み続ければそのうち犬原子もしくはお茶原子が生成されるのではという思い付きは陽子加速器の使用許諾という高い壁の前に頓挫する。当たり前だ。

「そもそも犬は原子ではない」と気付いた彼女は、他のアプローチを試みる。

「犬を適度な状態に保てば発茶点に至るのではないでしょうか?」

「発茶点」

「発火点のように」

「お茶とはいったい何なのか、君は今一度考え直した方が良い」

「とりあえず大きな圧力なべを買ってみましょう」

「それで生まれるのは犬の角煮だと思う」


 犬を主体と考えるから駄目なのだ。

 聞けばお茶猫という亜種も存在するらしい。お茶犬・お茶猫の両者が存在するということはお茶から両者が生成されると考えた方が妥当である。

 そこで彼女は浴槽いっぱいにお茶を溜め、コップ一杯の何かを投入した。

「それは?」

「つまらぬ炭素と酸素と水素のまざりものよ」

「進化をもう一度繰り返すつもり?」


 空き教室の机一杯に地図を広げ、お茶犬の出現が報告された地点をプロットしていく。

 その地点を一筋書きに結んでいけばそこに巨大なお茶犬が現れる、なんてことはなく、ただ都市部に目撃例が比較的集中していることだけがわかる。

「お茶犬の出現頻度は人口密度と相関がある」と推測する僕を「愚の骨頂ね」と彼女は切り捨てる。「人口が多いから目撃例が多いだけ。出現頻度そのものと相関あるとは限らない」

「なるほど」

「原理を見つめなさい。あらゆる現象には必ずメカニズムがあるのだから、そこを見誤らないように。そして、そこを見誤る可能性というものは、決して根絶できるものではないのだということを忘れないように」

 これは彼女に教えて貰ったことの中で、多分2、3番目、あるいは4、5番目くらいには大切なこと。


 お茶犬高速移動説。

 人間の目には捉えきれない速度でお茶犬は空を飛ぶ。ただ、お茶の香りをそこに残していくだけで。

「スカイフィッシュとか、RODSとかそういうやつ」と僕は言う。

「UMAは信じないことにしてるの」と彼女は言う。

 お茶犬なんてUMAそのものだろ、とまでは僕は言わない。


 茶畑の土を掘り返したりもした。

 日本各地のドッグランに日がな一日張り付いてもみた。

 日本茶検定に挑んだりもした。

 一向にお茶犬は現れなかった。

 お茶犬の基本性質。「ひた向きで、頑張り屋さんで、真っ直ぐで、でも少し疲れて寂しくなってしまった現代人を癒すために現れる」と言われている。

 その当時の僕らは疲れた現代人ではなく、モラトリアムをたっぷり享受している学生だった。だからお茶犬は僕らのもとに現れることがなかったのだろう。

 しかし、お茶犬を探すことを止めて何年も経ってしまった今だから、こう考える。

 あのときの僕らが疲れた人間にも寂しい人間にもならなかったのはきっと、お茶犬を探す、あの行為が、僕らを支えていたからだろう。

 学生時代が終わりを迎える頃、「じゃあね」と言って僕らは別れ、それきりお茶犬を探すことはなくなった。

 あの四年間を通して、僕ら二人がやることといえばお茶犬を探すことばかりだったし、いつまでもこれを続けてはいられないことなんて、声に出さなくても僕らはすっかり分かっていた。


 今。

 僕はコーヒーとタバコの匂いにまみれたスーツ姿の現代人になった。温かいお茶をゆっくり啜ることもなければ、ふらふら寄ってきた犬をワシワシ撫で回すこともない。お茶とも犬とも遠い生活を僕は送っている。

 お茶犬。どこにでも現れるはずのそいつを探したこと。それはまるで小さい頃集めていた貝殻のように、祭りで手にいれたビニールバットのように、父から貰ったMDプレーヤーのように。かつては大事だったけれど、とうの昔に失ったものとして。ただ僕の記憶の中でだけ存在し続けている。

 もう排水溝を覗くことはない。そこには何もいないことを僕は知ってしまっているから。

 だから、排水溝をちゃんと見たのなんて、随分久しぶりだった。

 その日、職場でミスをしでかして、上司にさんざっぱら怒鳴られて、憂さ晴らしに酒を遮二無二飲んで、帰り道の路地裏で排水溝にゲロを吐いた。異臭を放つゲロを涙目でぼんやり眺めていた。

 排水溝にはなにもいなかった。当たり前だ。そこに何かがいるはずはない。

「だけどさ」と僕は呟いた。「ここにお茶犬が現れるかもしれない、その可能性は、その可能性を信じていられたことは、僕の希望だったんだよな」

 手の甲で眼を拭った。真っ直ぐ立って深呼吸をした。歩き始めて、すぐによろめいて、道端の電信柱にもたれかかった。あぁと意味にならないうめき声を漏らして、膝に手をついては中腰になって、それからもう少し大きな声であぁと叫んで、空を眺めた。


 僕の頭上を、一匹のお茶犬が駆けていった。


 数瞬の硬直から回復した僕は、走り始めた。お茶犬の後を追った。よろめいて転んで、もう一度吐いた。すぐに立ち上がり、また走った。

 手を伸ばせば届きそうな低い空を、お茶犬はゆっくりと飛んだ。道に沿ってお茶犬は進んだ。僕を案内しているのだろうと思った。どこに案内しているのか。それに関しては奇妙な確信があった。

 数分の追いかけっこの末、お茶犬は地面に降り立った。住宅街の真ん中に設えられた小さな公園だった。お茶犬は跳び跳ねるように走り、公園の奥にあった滑り台を坂の方から登っていった。僕はゆっくり歩いて、反対側、階段の方から、一段、また一段と、少しずつ登った。決して踏み外さないように。

「お茶犬を探し始めたのは、」

 滑り台の頂上から声がした。

「あの時の、一人暮らしを始めたばかりの私は、どうしようもなく寂しかったから。そして結局一度もお茶犬を見つけられなかったのは、きっと寂しくなくなったから」

「僕もそう思うよ」

 僕は階段を登りきった。

 彼女はこっちを見て立っていた。腕にお茶犬を抱えていた。

 狭い足場で、うっかりすれば抱き締めてしまいそうな距離で、僕らは向かい合った。

「だから、今ならお茶犬に会える気がしたの。私は、どうしようもなく寂しかったから」

 僕もだと言おうとして、掠れた声は意味を成さなかった。

 彼女の腕の中のお茶犬はこっちに首を伸ばして、僕の鼻を、涙を舐めた。それからお茶犬はゆっくりと消えていった。

 僕と、彼女と、お茶の香りだけが、真夜中の公園の中に、確かにあった。

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