サンタクロースの弟子
クラウスに、どこにも行く当てはなかった。
裸の両の手をズボンのポケットに突っ込んで、つま先の少し前をジッと睨み付けながら彼は街を歩く。傘はない。今朝からずっと降り続いている細かい雪は、彼のコートと黒いニット帽にまとわりついてそれらを着実に濡らしていく。ぼろぼろにすり減ったブーツには雪解け水が染み込んで、クラウスの足先から熱を奪う。しかし寒さは感じなかった。12月の冷え込んだ外気よりも、降り注ぐ粉雪よりも、彼の心がすっかり冷え切ってしまっていたためだ。
何一つ、クラウスには気に入らなかった。街路樹を彩る電飾のことも、特別セールを告げる商店の看板のことも、楽しそうに笑いながら道を歩く若者たちのことも、何一つ。どこか浮足立った街の空気は、とにかく彼の癇に障った。もっとも、彼がどうしようもなく苛立つのはクリスマスイブに限った話ではなかったが。
繁華街になんか、出てくるんじゃなかったな。そうクラウスは呟いて、歩道の脇を走る排水溝に向けて唾を吐いた。適当に歩けば暇潰しの出来る場所くらいいくらでも見つかるだろうと高を括っていたが、どこもかしこもバカみたいに浮かれた奴らばかりだ。幸せそうに笑う人を見るたび、クラウスはすれ違いざまに顔面に拳を叩きこみたくなる。何がそんなに楽しいんだと胸倉を掴んで問い詰めたい衝動に駆られる。胸の内に湧き上がるその衝動を、自分の指に強く爪を立ててなんとか宥める。こんな人混みの中で暴れるほど愚かではない。警察沙汰を起こしたいわけでは別にない。
クラウスは一人であり、孤独だった。少し前は一緒に馬鹿騒ぎをして気に入らない奴らを小突き回す程度の仲間はいたが、しかし今では誰もいない。誰もクラウスにはついていけなくなった。もとより、暴力をちらつかせて他人を脅して相手がびくつく様を見ることだけが楽しみだったような小物のチンピラ達だった。彼らとクラウスでは、目的と手段がそもそも違っていた。
彼らは優越感を得るために暴力を利用したが、クラウスは暴力を振るうこと自体が目的だった。拳を向ける相手さえいればその口実はなんでもよかった。顔の形がすっかり変わってしまうまで喧嘩相手を叩きのめしている間だけは、際限なく膨れ上がる苛立ちを少しは紛らわせることができた。
最初はそんなクラウスを旗印に集まっていた少年たちだったが、次第に彼のことを恐れるようになり、彼のもとから離れていった。クラウスは無理矢理彼らを繋ぎ止めるようなことはしなかった。力で脅して関係性を長引かせたとしても、それは彼の苛立ちをいや増す要因にしかならないとわかっていたからだ。
クラウスは路地を東へと曲がった。彼の居る繁華街は南北に伸びており、東西へと向かって少し歩けば普通の住宅街に出ることができる。そちらの方が人通りも少なく、まだ苛立ちも少なくて済むだろうと判断しての行動だった。このまま真っ直ぐ繁華街を歩いて、万が一大きなヒイラギの樹の下で口づけを交わす恋人たちが目に入ろうものなら、クラウスには自分の苛立ちの暴発を抑えきる自信がない。「愛し合う恋人」などという露天商と同程度には胡散臭い人たちは、クラウスの最も嫌うものの一つだった。
東へと歩を進めるにつれ、すれ違う人の数は減っていった。雑多な人混みとネオンライトで賑わっていた景色は次第に落ち着きを取り戻し、車すらほとんど通りがからないようになった。歩道の左側には大きな公園があった。雪の降る夜ということもあり、人影は全く見当たらなかった。
街灯と月の光りが道に降り積った雪を淡く光らせる。雪の降る音が聞こえそうなほどに静かな道だった。
クラウスは大きく息を吸い、そして吐いた。冷たい空気が肺を冷やし、先ほどまで頭蓋の裏で暴れまわっていた苛立ちをある程度収めてくれた。白く煙る自分の吐息を見ながら、これからどうしようかと彼は考えた。
ずっと外に居れば、この寒さではさすがに凍えてしまう。適当に歩けば静かなバーでも一軒くらいは見つかるだろうか。朝まで酒を飲んで時間を潰せさえすればどこでも良い。店員がもしクラウスがアルコールを嗜むには年若すぎることを見咎めようものなら、どうするかは店員の鼻に拳を叩きこんでから考えることにしよう。
そんなことを考えながらぼんやりと歩いていたものだから、クラウスの注意力は少し散漫になっていたらしい。曲がり角から急に現れた人物とぶつかりそうになり、彼は面食らった。
クラウスは咄嗟に身を躱した。相手はバランスを崩し、その場で滑って尻もちをついた。悪かったな、と謝罪の言葉をクラウスは口に出そうとしたが、しかし相手の姿恰好を見てその言葉を飲みこんだ。
衝突しそうになった相手は、恰幅の良い老人だった。眼鏡をかけ、白く豊かなあごひげを蓄えており、そして何より、ニット帽やコート、ズボンに至るまで、全ての衣服が赤色に白い襟や裾が付いたものだった。傍らには大きな白い袋が転がっていた。まるで絵本のサンタクロースがそのまま本から飛び出してきたような姿の老人だった。
クラウスは急に頭に血が上っていくのを感じた。こんなジジイまで浮かれきってやがる。どいつもこいつも、いったい何がそんなに楽しいんだ?
「気を付けろ、老いぼれ」クラウスは怒鳴りつけた。「まったく、下らない恰好しやがって」
老人はゆっくりと起き上がり、コートとズボンに付いた雪を払った。どこも痛めてはいないようだった。落とした袋を肩に担ぎなおして、それから彼はクラウスの顔をまっすぐ見つめた。
「フム」老人は自分のひげを撫でた。「下らないかね。クリスマスにサンタクロースの扮装をすることが?」
「下らないだろ。クリスマスなんて子供騙しなイベントにのせられて、いい年して恥ずかしくないのか」
「フム、恥ずかしくは別にないな」クラウスの怒声に怯えることもなく、老人は飄々とした様子で言った。
「そんなことを言う君こそ、随分とつまらなそうな顔をしている。まるで二日前の夕刊を無理矢理読まされたような面だ。一体全体、どうしてそんなにつまらないのかね? 誰も君の相手をしてくれなくて、一人ぼっちでこんな人気のない道を歩いていなくちゃならないからか?」
その言葉に、クラウスの怒りは振り切った。クラウスはズボンのポケットから右手を抜き、肩を大きくぐるりと回した。そして、右手を強く握りしめて、未だに悠然とひげを弄んでいる老人の顔面に向けて思いきり拳を振り抜いた。
身体全体が勢いよく一回転して、歩道の外に積もった綺麗な雪にその跡を刻み込んだ。ただし、老人のではなく、クラウスの身体が。
「老いぼれを舐めちゃあいかんな」両手を払いつつ、事もなげに老人は言った。いつの間にか老人は肩に担いだ袋から手を放していた。
真っ黒な夜空と視界の端で光る街灯をクラウスは茫然と見上げていた。投げられた、と気付いたのはそれから数秒経ってからのことで、「この野郎!」と彼は叫んですぐに立ち上がり、今度は左の拳で老人に殴り掛かった。
クラウスの身体がもう一回転した。
「元気がいいな、少年。まだわしに拳を向ける気があるなら、その腕を使い物にならなくしてやろう」老人は倒れたクラウスの右肩を油断なく足で踏みつけて、そう言った。「謝るなら今のうちだ」
「ふざけんな、ジジイ!」
「賢い返事とは言えんな」クラウスの肩にかかる力がさらに強くなった。
仰向けに転がったまま、喉元から勝手に飛び出しにかかる罵倒を必死に呑み込もうとして、意味を成さない唸り声をクラウスは上げた。自由な左手を、地面に思い切り叩きつけた。それから、大きな深呼吸を一つして、彼は言った。
「…………悪かった」
「ごめんなさい、だ」
「……………………ごめんなさい」
「フム。良かろう」老人は足を離した。「と、そう言いたいところだが」
クラウスは立ち上がった。喧嘩でこうも鮮やかに負けるなど、記憶をどれほど掘り返しても思い当たらないほど久しぶりのことだった。クラウスは奥歯を強く噛みしめて、老人の顔を睨み付けた。暴力的な衝動は、足下の雪を蹴り飛ばすことでなんとか抑えつけた。
「どうも予定の時間に遅れそうだ。君にも仕事を手伝ってもらおうか。なに、ただ働きとは言わん。ちゃんと働けばそれ相応の給料は出してやろう」
「何で俺がそんなことを」
「やってくれるだろう?」
老人はクラウスの目を真っ直ぐ見つめた。突然喧嘩を売ってきた相手を見つめるその表情に、しかし怒りは全く顔を覗かせていなかった。むしろどこか優しさすら感じさせるその視線にクラウスは気圧されて、目を逸らした。
「……仕事って、何をするんだ」渋々、クラウスは尋ねた。
「決まっているだろう。この恰好を見て分からんかね」
老人は自分の服装を見せびらかすかのように、背筋を伸ばし、両手を広げた。それから、笑いながら言った。
「私はサンタクロースだ。良い子にプレゼントを配るのさ」
*
老人の代わりに袋を両肩に担がされたクラウスは(先ほどまで気付かなかったが、大きな袋は二つあった)、彼の後ろに付き従って歩いていた。老人は時々、クラウスに話しかけた。それに対して無視を決め込もうものならその度に老人は振り返ってクラウスに鋭い足払いをしかけてきた。そのため、クラウスは老人と会話せざるを得なかった。
「君の名前は?」
「クラウス」
「年はいくつかね」
「16になったところだ」
「それなら、クリスマスイブは家族と過ごしても別段おかしくもない年頃だろう。何か家に居たくない事情でもあるのかね」
「…………」
足払い。
「……俺は家に居ない方がいいんだよ。ただの居候だからな」
「フム。あまり踏み込まれたくない話のようだな」
「今更過ぎる配慮を、どうもありがとうよ」
そんな調子で、老人とクラウスの散歩は続いた。そして暫く歩いたのちに、老人は立ち止まった。
「ここが目的地だ」
クラウスは足を止め、目の前にそびえる建物を見た。白く大きなその建物には、十字型をした大きな看板が取り付けられていた。
「……病院か」クラウスは苦々しげに言った。
「ああ、そうだ」老人はあごひげを撫でながらそう言った。それから、クラウスの顔を見て、その険しい表情に気付いた。
「どうした、病院は苦手かね。注射が怖いのか?」
「そんなわけねえだろうが、クソジジイ」
クラウスは老人をまた睨み付けてから、足早に入口へと向かった。
「ちょっと、嫌な記憶を思い出すだけだ」
自動ドアを抜ける。ロビーに置かれた椅子には誰も座っておらず、少し暗い照明と相まってどこか寂し気な印象を湛えている。
大きな袋を提げたクラウスに、受付に座っている女性が不審そうな視線を向ける。しかし続いて入ってきた老人の姿を見て、彼女の表情は和らいだ。
その辺に座って待っていろ、と老人はクラウスに言い渡す。それからカウンターへと近付き、女性に声をかける。
「少し遅れてしまった」
「いえいえ、毎年ありがとうございます。みんな、楽しみに待ってますよ」女性が紙を一枚取り出し、老人に手渡した。その様子を見ながらクラウスはロビーの椅子に腰かけ、隣の座席に先ほどまで提げていた袋を乱暴に置いた。丁寧に扱わんか、と老人の怒号が飛び、クラウスはそれを無視する。
「すまないが、もう一枚くれないか」受付へと向き直り、老人は言う。「今年は一人、手伝いがいるのでね」
「あの……少年ですか?」女性がクラウスを見て、眉を顰める。クラウスは舌打ちし、彼女を睨みつける。
自分の見た目が他人にどんな印象を与えるか、それくらいは自分でわかっている。不良。チンピラ。目が合うだけで殴り掛かってきそうな乱暴者。そう思われることにまた苛立ち、印象を現実のものにしてしまう。
クラウスは椅子に浅く腰かけ、鷹揚に脚を組んだ。
「心配しなくていい、根は優しい若者だ。捨てられた猫が雨に打たれていたら、迷わずに傘を差しだすだろう」老人の心にもないセリフに、クラウスはまた舌打ちをした。
老人は受付の女性から手渡された紙にペンで何やら書き込み、そしてクラウスのほうへと戻ってきてそれを差し出した。
クラウスは紙を受け取って眺める。病院の見取り図だった。地図にかかれた病室のうち、十数個程度に丸が付けられている。
「それが君の担当だ」と、老人は言う。
「袋の中には言うまでもなくプレゼントが入っている。印のついた部屋に入院している子供たちに手渡してくれ。それぞれに名前を書いたタグを張り付けてあるから、くれぐれも間違えることのないように」
「はいはい」おざなりな返事をしながら、クラウスは頭の中で考える。十数人の子供の枕元にプレゼントを置いていくだけか。随分楽なバイトだな。
「勿論、ただプレゼントを渡すだけではダメだ」クラウスの思考を読んだかのように老人は言う。「世界中の子供たちが、誕生日よりも、新年よりも、長期休暇の始まりよりも、ほかの何よりも待ち望んでいるのがこのクリスマス・イブという日だ。それに相応しい思い出を、子供たちに与えてやりなさい。なにか愉快な話でもして、な」
「はぁ?」クラウスは思わず立ち上がり、老人に食って掛かった。「そんなこと、俺にできるとでも思ってんのかよ。俺と目が合った赤ん坊は十中八九泣くんだぞ」
「大丈夫、赤ん坊はいない。せいぜい三歳児くらいのもんだ」
「ろくに会話ができないって意味じゃ赤ん坊と変わんねえだろうが!」
「では後は頼んだぞ」そう言うが早いか、老人は一方の袋を掴んで病棟の奥へと去っていった。クラウスが彼を呼び止める声など、ちっとも聞こえていないかのように。
後に残された袋と手に持った地図をかわるがわるに見て、クラウスは深いため息を吐いた。子供の相手など、した経験はない。目の前で泣かれて、泣くなと俺が怒鳴りつけ、さらに酷い事態になるのが関の山じゃないだろうか。クラウスは頭を掻きむしる。
顔を上げると、受付の女性とまた目が合った。「やりたくないなら、帰ってもいいですよ」女性は言った。「せっかくの日に、病室で騒ぎを起こされても困りますし」
クラウスは女性の顔を見た。心配そうな表情が浮かんでいた。入院している子どもたちや起こるであろう問題を気にしているというよりも、彼女は今椅子に座りこんだまま動けなくなっているクラウス自身のことを案じている。クラウスにはそう感じられた。
「やるよ」クラウスは立ち上がった。彼は袋を掴んで肩に担ぎ、地図を睨みつけながら印のつけられた方向へと歩いて行った。
ここで帰ったら、とんでもなく惨めな気持ちになりそうだった。
自分にできることは喧嘩くらいしかないのだと、自分で認めてしまったような。
*
アシュリー。
最初の部屋の扉には、そんな名札がかかっていた。
たっぷり5分の間、クラウスは扉の前に立っていた。手をノブに伸ばし、戻す。その動作を何度も繰り返したあと、くそ、と吐き捨てて、逡巡を振り払うように勢いよくクラウスは扉を空けた。
手狭な病室だった。右奥にベッドがあり、その上では小さく、白く、華奢な少女が、上体を起こし、部屋への闖入者を見つめていた。瞳は静かな光を湛えていた。驚いた様子はなかった。
しばしの間、クラウスは少女と見つめ合った。それから舌打ちをして、ベッドのもとへと歩み寄った。
「いつものおじいさんと違うのね」と少女は言った。
「爺さんは多忙でな」とクラウスは答えた。「だから今年は俺が手伝っている」
クラウスは手元の地図を見つめ、背中に背負った袋を下ろし、中に手を突っ込んでプレゼントを探り始めた。包装紙に貼り付けられた番号札は12番、中身はぬいぐるみ。幾度かはずれを引いたあと、クラウスは正解のプレゼントを掴み出し、ほら、と不愛想に少女に差し出した。
ありがとう、と少女は微笑んで、それを受け取り、包装紙を破り始めた。少女の微笑みを受けて、クラウスはどことなく居心地の悪さのようなものを感じ、頭の裏を掻いた。
「座ったら?」と少女はベッドの横に置かれた小さな椅子を指差した。言われるがままにクラウスは腰を下ろした。それから苦々しく顔をしかめた。気を使われている。いくつ年下だか分からない、この幼い少女に。
少女は包装紙を解いた。中からはなんの種類の生き物とも見当のつかない、珍妙な顔つきをしたキャラクターのぬいぐるみが現れた。
「不細工なぬいぐるみだな」とクラウスは言った。
「私もそう思うわ」
「こんなのが人気なのか?」
「いえ、全然。だからこの子のぬいぐるみは山ほど売れ残ってるらしいの」
「なんでわざわざそんな外れの品を選んだんだ」
「あら、皆がこの子を愛さないからといって、それは私がこの子を愛さない理由にはならないわ。考えようによっては、皆が見向きをしないようなものこそ愛しがいがあるもの。あなた、わかっていないのね」
少女は触感を確かめるようにぬいぐるみを数度叩き、それからぎゅっと抱きしめた。目を閉じて嬉しそうに頬を擦り付けるその表情は、少女の大人びた言葉とは打って変わって年相応のものにクラウスには見えた。
「ありがとう、お兄さん。お名前を伺ってもよろしいかしら?」
「クラウス」ぶっきらぼうに彼は答えた。
「クラウス!」と少女は言った。「なるほど、まだ見習いだからサンタがつかない訳ね!」
そういうわけじゃない、と彼は答えようとした。しかし、目の前でころころと快活に笑う少女を見て、クラウスはその言葉を喉の奥に引っ込めた。
「そうだ、俺はまだ見習い。ただのクラウスからサンタクロースになるためには、あと四十年くらい修業が必要なんだ」
「修業って、どんなことをするの?」
「えーっと、子どもの名前をちゃんと覚えて間違わないようにプレゼントを配る訓練とか、トナカイにちゃんと言うことを聞いてもらう訓練とか」クラウスは口から出まかせを適当に並べたてた。
素敵、と少女は笑った。
「将来、立派なサンタクロースになったあなたに会えないのが残念だわ」
「しょうがないから、お婆さんになったお前にも特別に持ってってやるよ。お前の孫にプレゼントを配りに行く、そのついでにな」
「いえ、そう言うことじゃなくて」少女は笑い続けながら、言った。
「私、あと四十年も生きられないもの」
***
クラウスはプレゼントを配り続けた。
素直に喜んでくれる子どももいたが、中には不機嫌そうにこちらを睨み付ける子どももいた。クラウスを見ておびえたように泣き始める子どももいた。全く表情を変えない子どももいた。
新しい部屋に入るたび、クラウスは慣れない笑顔を貼り付けて、おどけてこう言った。
「俺はサンタクロースの弟子だ」
「だから、まだただのクラウスなんだよ」
そうしてどうにかこうにか、クラウスは子どもたちから笑顔を引き出していった。
袋のなかに入ったプレゼントをどうにか配り終えた時、彼の顔は笑顔に引きつりきっていた。
ほうほうのていでクラウスがロビーに辿り着くと、そこにはクラウス同様、空の袋を肩からぶら下げた老人が、喜色満面の笑みを浮かべて待っていた。
「ご苦労さん」と老人は言った。「思ったよりも、マジメにやってくれたみたいだな」
「見てきた風に言うな」クラウスは袋を老人に投げつけた。老人は何ということもなくそれを宙でつかみ取り、二つまとめて小さくたたみ、ポケットに仕舞い込んだ。
「どうだった」老人はクラウスに訊ねた。
「どうだったって、何が」
「全てさ」老人は大きく手を広げた。「君が今日したこと。見たこと。聞いたこと。話したこと。その全て」
クラウスは両の手をポケットに突っ込んで形だけでも不遜な態度をとり、言葉を探すように視線を遊ばせた。それから、わかんねえ、と言った。
「わかんねえけど、」彼は言葉を続けた。「悪くなかった」
それは良かった、と老人は言った。
老人は外に向かって歩きだした。クラウスは慌ててその後ろをついていった。受付の女性が「ありがとうございました」と言い、老人はこちらこそありがとう、と答えた。クラウスは彼女の方を見て、軽く頭を下げた。
自動ドアが開く。雪は知らぬ間に止んでいた。
「給料だ」と老人は振り返り、クラウスに高額紙幣を差し出した。
「要らねえ」とクラウスは言った。そのあと、顔をしかめた。自分がどういうつもりでその言葉を言ったのか、彼は自分で良く分からなかった。
「良いから受け取っておけ」老人はクラウスの手に紙幣を押し付けた。「労働にはそれ相応の対価が支払われるべきだ」
クラウスは紙幣を手に取った。
あの子、とクラウスは言った。「アシュリー。あと四十年は生きられないってさ」
「そうだな」と老人は言った。
「なぜだ?」
「心臓の病だ。成人できるかも怪しい。彼女だけではなく、お前が今日プレゼントを配った相手には、そういった重い病の子どもがいた」
クラウスは黙ってうつむいた。それから足元の雪を軽く蹴った。子どもたちを襲う不条理な運命への憤りもあったが、それを口に出しても何にもならないことも彼には分っていた。
「クラウス」と老人は言った。「君はもっと、人をまっすぐ見るべきだ」
「はあ?」
「君は今日、きっと色々なことを感じただろう。この病院で、子どもたちと顔を合わせて、話すことで。その感覚だ。今日君がしたように、他者を受け入れ、他者と向き合う。それが人をまっすぐ見ることということだ」
「はあ」
「友人の目を、叔父、叔母の目を、他人の目を、まっすぐに見る。君はそれだけで、もっと幸せになれる。事故で亡くなった君の両親も、君がそうやって幸せになることを望んでいるはずだ」
「いきなり、親の話なんかするんじゃねえよ」
クラウスは唾を吐き捨てて、踵を返して歩き出した。
背後から老人の声が聞こえた。メリークリスマス。それを無視して真っすぐ歩き続けた。それから、クラウスはふと気が付いた。
なぜ、あの老人は知っている。俺は家庭の事情をあいつに話していない。ましてや、両親が事故で死んだことなんて。
クラウスは振り返った。
そこには既に、誰もいなかった。
ちらほらと、再び雪が降り始めた。さきほどまでの吹き付けるような吹雪とは違い、全てを優しく覆い隠していくような雪が。
クラウスは老人にもらった紙幣をクシャリと握りつぶして上着のポケットに突っ込み、そして歩き出した。
家に帰ろうと、そう思った。
*
さて、これはクリスマスイブのお話だ。だから、この話はクリスマスイブが終わるまで、もう少し続く。
帰り道の途中、クラウスは商店に立ち寄って、老人から貰った給料の大半を使って赤ワインを購入した。店番をしていた青年は、レジに置かれた赤ワインの瓶を見て初めは顔をしかめた。
「あんた、成人済みかい? そうは見えませんが」
「ああ、未成年だ。これは俺が飲む分じゃなくて贈答用なんだ、お世話になった人たちへの。売って貰えないのかな」
「普段ならそうですね」そう言いながら、店番は赤ワインをレジに通した。
「しかし今日はクリスマスイヴだ。クリスマスプレゼントより優先されるべきルールなんて、この世には存在しません。きっとご相手の方も喜ばれることでしょう。メリークリスマス!」
メリークリスマス、とクラウスは小さく呟いた。
クラウスが家に辿り着いたのは、クリスマスその日の足音がすぐ間近に近づいた頃だった。
静かに鍵を開け、クラウスは身体を中に忍び込ませた。家は暗く、静まり返っていて、全てのものが眠りに就いているようだった。クラウスは足音を立てないように静かに歩き、リヴィングルームへの扉を開いた。明りの消えた居間の中で、ソファの近くにある電気ストーブだけぼんやりと赤い光を放っていた。そしてそのストーブの前で、この家の主であるクラウスの叔父が、ぼんやりと目を閉じて座っていた。
「叔父さん」とクラウスは声をかけた。
叔父はびくりと身を震わせ、目を開けた。それからクラウスを見た。
「ただいま」とクラウスは言った。
叔父は再び驚いたように目を見開いた。クラウスが叔父に話しかけるなど、随分とないことだった。ましてや、帰宅の挨拶をするなど。
「……おかえり」と叔父は言った。
クラウスは静かに叔父の近くへ歩み寄り、サイドテーブルに、先ほど購入した赤ワインを置いた。
「……これ」クラウスは言った。もう少し何か喋ろうと思ったが、使い慣れていない喉の奥には、叔父に言うべき言葉が見つからなかった。
「赤ワイン」と無機質に叔父は言った。
「……プレゼントだよ」とクラウスは言った。
「プレゼント」叔父は言葉を繰り返した。こうした話し方が彼の特徴だった。表情を変えず、まるで何かを確かめるように、短い言葉だけを話す。
叔父は赤ワインを見定めるように、近くでラベルを読み、遠く離して全体を眺め、その動作を度々繰り返した。クラウスは叔父の様子をしばし眺めていた。叔父の言葉を待っていた。物静かな、叔父の言葉を。
叔父はワインをサイドテーブルに置いた。
「高かったろうに」
「別に盗んだわけじゃねえから心配するなよ」
「いや」叔父は髪を掻き上げた。「そういうわけじゃなくて」
叔父はまたしばし黙った。電気ストーブが静かに唸る音が聞こえた。
「ありがとう」と叔父は言った。
「どういたしまして」とクラウスは言った。
それで会話は終わりだった。クラウスは頭を下げ、リヴィングルームを出ていった。
階段を静かに上り、自分の部屋の扉をゆっくりと開ける。隣の部屋で眠る従姉妹たちを起こさないように。
ややこぢんまりとしたクラウスの部屋は、しかし物を置かない彼の性質のため、普段は広々としていた。だが、この日に限っては、部屋の中央に大きな紙袋が鎮座していた。
中を開ける。
それは彼の趣味には合わないが、シックで質の高そうな、彼の足のサイズにぴったりと合う、真新しいブーツだった。
彼は薄く笑ってそれを部屋の真ん中に戻し、それから思い返したようにブーツを枕元へと移動させ、自分の身体をベッドへと潜り込ませた。
目を閉じる。クラウスは、自分の中でずっと蠢いていた苛立ちが、不思議と影形もなく消え去っていることに気付いた。
今日は安らかに眠れそうな気がした。
明日からは何も睨み付けることなく街を歩けるような、そんな気がした。
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