シーズンとぅー

女もすなるインスタグラムといふものを、男もしてみむとして、するなり。

 一説によればそのアカウントは、そんな風にしては始まらなかったという。

 どんな風にして始まらなかったかについては数えきれない程の論説があり、そのどれもこれもが一様に正しくない。というのもそのアカウント、今となってはそれ自体が「インスタグラム」とそのものの名前で呼ばれたり「アカシックレコード」なんて大層な名前で呼ばれたりするようになったかのアカウントのログは余りにも膨大過ぎて、遡るには少し無理がある。ハッシュタグによる検索は、ご存知のとおりはなっから死に機能として存在していたものだから、どうしたところでそのアカウントの原初にたどり着く方法が見つからない。だから幾万通りの始まらな方が提案され、どれもが実際のところ、そういう風にして始まったという可能性を捨てきれない。

 今のところ、一番有望とされている始まらな方はこんなものだ。

 一枚の写真が添付されている。真っ白い部屋の中で、やたらと大仰な蛍光灯の光を見上げながら、彼は助産師の腕に抱かれている。タグ付けはもちろんこうだ。

  #おぎゃあ

  #おぎゃあ

 あまりにも陳腐すぎるが故に、さすがにこんな始まり方はしなかったのだろうという考え方が、目下最も支持されている。


 とにかく、いつの間にか彼はとあるアカウントとしてインスタグラム上に存在していて、数えきれない程の投稿をリアルタイムに行っていた。いかにしてそれを可能にしていたのかは未だ以って不明。毎分、下手したら毎秒、そんなペースで彼は、彼の目に映るありのままの視界を、未加工のままアップロードし続けていた。

 それは例えばこんな内容。

 煙草のケースと、くしゃくしゃになったティッシュと、文房具と、発泡酒の空き缶と、なぜそこにあるのか分からないプラスドライバーが乱雑に散らばったちゃぶ台の上。残り少ないスペースに一部が欠けたマグカップが置かれてあり、中のコーヒーがゆらゆらと湯気を立てている。

  #自宅

  #休日の朝

  #寝起き

  #風味の失われたインスタントコーヒー

  #片づける気の起きない机

  #僕は考えている

  #今日の時間の潰し方について

  #僕は考えあぐねている

 はっきり言ってつまらない。写真に映るのはありきたりな一人暮らしの男性の部屋であり、目を引く光景も美しい色彩も可愛い動物も何らかのポリシーも何も宿っていない。そこにはただ生活が映っているだけだ。

 おまけに彼の交友関係は著しく狭かったらしく、投稿に誰か他の人物が映ることはほとんどなかった。彼の生活に起伏はなく、その光景を映した写真は彼の孤独そのものだった。

 そんな投稿を彼は絶え間なく繰り返した。朝起きてからから夜眠るまで。果ては深夜にふと目覚めた時でさえも。アカウントが発足した初期ですら、投稿数は一日に四桁を優に数えたという。


  #車内

  #信号待ち

  #ウィンカーを出さない前の車

  #よろよろと信号を渡る老婆

  #ヘルメットを被って自転車をこぐ中学生

  #うんざりするほど強い日差し

  #生暖かい風だけを送り込んでくるエアコン

  #今の気分にそぐわない曲ばかりを流すカーステレオ


  #会議室

  #社員たち

  #傷の入った机

  #まとまらない議論

  #イライラと足を揺らす部長

  #眠気を堪える新人

  #意味のない落書きで埋まったレジュメ

  

  #スーパー

  #総菜コーナー

  #半額になった焼き秋刀魚

  #旬ではなくなった焼き秋刀魚

  #白い目をしてこちらを見ている焼き秋刀魚


 彼が話題を集めたのは、逆説的ではあるが、そのコンテンツ性が余りにも薄かった故であった。

 次から次へと、何でもない写真を投稿し続ける。そこには何のドラマもなく、何の感想を呼び起こしはしない。そのアカウントは無意味なデータの集合体であった。日々増え続ける莫大な数の写真が描きあげるのは、虚無にほど近い、一人の人間の生活であった。

 SNSに対するアンチテーゼである。いや徹底的なニヒリズムだ。ただの暇人でしょ。インスタグラムへの恨みがあるのだ、インスタグラムに親でも殺されたのだ。

 様々な意見が噴出して発展していき、混ざり合ってもう訳も分からなくなってきたころ、誰も予想だにしなかった変化が、彼に起こった。

 彼は分裂を始めた。


 始まりは些細な違いだった。

 直前にアップロードされたのはファミレスのグランドメニューを眺めている様子で、いつも通り、ページを一枚めくるごとに一枚の写真がインスタグラムに上がっていた。

 机の上のボタンを押して店員を呼ぶ。これも一枚の写真。

 そしてその次、メニューを店員に指し示すタイミングで、二枚の写真が同時にアップロードされた。

 一枚では、彼の指はハンバーグランチを指し示している。もう一枚ではチーズハンバーグランチを指し示している。

 数十円の贅沢をしたかどうか。

 それが彼の歩む可能性が分岐し始めた、最初の一歩となった。


 可能性の分岐とはどういったことを意味するのか。

 緯度、経度、そして高さ。その3つの座標があれば、地球周辺に限れば、あらゆる自分の存在する現在地を一意的に表現することが可能である。あなたの居場所は(緯度,経度,高さ)でもれなく示される。この座標のみがあなたの有する確実なアイデンティティだ。

 あなたの居場所の経時変化は、緯度、経度、高さをあなたの生きた時間tの関数としてそれぞれ表記することにより示される。これはあなたの歩んできた道のりであり、あなたの歴史そのものである。時間tをあなたが生まれた時間からあなたが死ぬ時間まで変化させれば、あなたの居場所は、緯度、経度、高さの三軸により構成される三次元空間上に、一筆書きに描かれる。

 この一本の線が、あなたの人生だ。

 この一本の線以外に、あなたの人生は存在しない。

 しかし、彼のアカウントが描く彼の人生は、ハンバーグランチを食べた人生と、チーズハンバーグランチを食べた人生の二つに分岐した。

 つまり時間という一変数に依存する関数であったはずの彼の人生が、もう一つ他の変数、「可能性」にも依存するようになったということを意味する。

 彼のアカウント、今まで「退屈な男の生活」を描くだけだったアカウントは、「退屈な男が取りうる幾通りもの生活」を描きはじめたのだ。


 ハンバーグランチとチーズハンバーグランチ。

 この小さな差異がもたらす影響は、彼の財布の中身、食後の満足感、ナイフに付着したチーズの重さ、ファミレスのチーズの在庫状況と計り知れない要素に及ぶ。分かりやすい違いとして挙げられるのは(少々眉唾ではあるが)、チーズハンバーグランチを食べた場合は、思いのほかチーズが重たくて腹に溜まり、やむを得ず残してしまったポテトが残飯として処理される際、こぼれたポテトの一かけらを齧って生き延びた野生のドブネズミは、その後下水道に戻った際に運命の恋ネズミと出会い、とんでもない数の子を成し、そのうちの一匹が突然変異で巨大で凶暴な化けネズミと化し、地上にのっそり出現して農村に赴き、田畑に忍び込み作物を食い荒らしてさらに巨大になり、遂には大型犬と見まごうばかりの大きさまで成長し、たまたま祖母の家に遊びに来ていた幼児を襲って食い殺し、激高した祖母の猟銃に撃ち抜かれて死亡し、それが全国ニュースとなり、化けネズミの死骸は剥製にされて村役場に飾られ、観光客の人気を獲得し、村は化けネズミせんべいや化けネズミ最中などの売り上げで潤い、孫を食い殺された挙句観光のネタにされた老婆は憤死したという。彼がハンバーグランチを食べなかった場合、化けネズミは生まれずに村は過疎化で廃村となった。


 彼の人生は二つに分かれただけでは留まらず、なおも分裂を続けた。

 緯度、経度、高さの三次元空間上で、始めは一本の線だけだったはずの彼の人生は分裂し続け、小学生の描くあみだくじのように無作為に分かれ、交わり、蜘蛛の巣のように張り巡らされていった。彼の出現から随分と時間が経った現在、彼の人生は三次元空間上を埋め尽くすように軌跡を描いている。

 今となっては、どこの座標にも彼がいる。地上のほとんどすべての場所に彼がいる可能性がある。

 彼は今、何万、何億、何兆といった、無数の人生を生きている。無数の人生を生きながら、無数の写真をインスタグラムにアップロードし続けている。

 彼はもはや、位置にも時間にも可能性にも囚われてはいない。好き勝手に座標をジャンプし、時空を遡行して生まれ直し、「退屈な男の人生」どころか「人気者の美少女の人生」も「理解者に恵まれない孤独な天才の人生」も、あらゆるパターンの人生を生きて、その瞬間瞬間をやっぱりインスタグラムにアップし続けている。

 どうしてインスタグラムにそこまで執着しているのかは不明。インスタグラムに親でも殺されたのだ、という説が再び支持を集め始めている。

 彼の出現のため、インスタグラムはSNSとしての役割を完全に失った。膨大な彼の投稿に押し出される形となり、一般の利用者は誰も写真をアップロードしなくなった。写真を挙げたところで彼の投稿の影に埋もれ、誰も見てくれはしないからだ。そしてインスタグラムで稼働しているのは彼のアカウントだけとなり、彼のアカウントがインスタグラムそのものとなり、結果、インスタグラムはあらゆる人生のあらゆる瞬間を収めた写真の貯蔵庫と化し、「アカシックレコード」と呼ばれるようになった。

 アカシックレコードとは結構乱暴な名づけ方であり、実際収めているのはただの写真で、インスタグラム自体は本物のとは違って何の叡智も予言も授けてはくれない。しかし、現在もかなりの数の人がインスタグラムをたまに覗いて、自分がいつか過ごした気がするような写真や、自分がいつか過ごすことになりそうな写真を探しているという。

 何を授けてくれなくても、どこか懐かしく、そして予感に満ちた写真の数々は、少しは彼らの気持ちを救ってくれるそうだ。

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