海苔を食べる

 上手に海苔を食べられないことがコンプレックスだ。食卓によく上がる1袋5枚入りの海苔。僕が食べようとすると、大体余ってしまう。1枚目、2枚目まではいい。3枚目くらいになってくると他のおかずに気を取られすぎ、海苔の処理がおろそかになってしまう。気付いた時にはもう遅い、残ったご飯はわずか。3枚目の海苔はなけなしのホカホカご飯をくるむのに使い、最後の2枚は海苔・オン・ソロステージ。2枚まとめてパリパリ齧りながら「うん、素材の味」と思ってもいないことを呟く僕の目は、この屈辱に少し潤んでいる。


 海苔を食べるタイミングを教えてくれる人。そういった職務があればいいのだと思う。わんこそばのそばを注ぐ人とポジション的には同じである。朝餉を楽しむ僕の左後方にその人は静かに立ち、適切なタイミングで「海苔」と囁く。僕はその声に導かれるまま海苔を手に取り、ご飯をくるみ、食べる。そうすることにより、ご飯がなくなるのに合わせて5枚の海苔を綺麗に使い切ることができるのだ。




 例えばその日、僕はちょっとした長期出張のためホテルに宿泊している。私用の際に泊まるビジネスホテルより数ランク上のそのホテルのなかで僕は目覚め、朝の湯浴みを優雅に楽しんでから2階にあるレストランに向かう。右手にはルームキーを、左手には朝食券を握りしめている。


 レストランに着いた僕は、中を見て驚く。各テーブルの後ろに一人ずつ、厳かな和装を身にまとった人が控えているのだ。多くは3~40代程度の女性であり、ごくわずかに若い女性や、学生と思しき青年の姿が見える。


 海苔、海苔、海苔、と呟く声が聞こえる。なるほど、彼らが海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちなのだろう。


 僕は自分の部屋番号が書かれた卓に就く。後方に控えるのは同年代と思われる女性。凛とした立ち姿からは、何とも言えない気品を感じる。


 少し緊張しながら僕は朝食を取り始める。まず味噌汁をすすり、続いて米を一口食べる。次に鮭の身をほぐして一欠け口に含み、それから「海苔」ここで海苔だ。海苔の袋を開けて1枚取り出し、ご飯を包んで食べる。優しい味がして、僕はほう、とため息をつく。


 僕の食事は続く。漬物、米、ひじき、味噌汁、「海苔」、米、鮭、味噌汁、米、「海苔」、米。なるほど、少しオーバーペースであるような気もするが、実際のところこれくらいの按配がちょうどよいらしい。鈴の音のような彼女の「海苔」に従って、僕は正しく海苔を消費する。


「ありがとう」食事を終えた僕は言う。いえ、それが私の役目ですから、と彼女は答える。




 いつになく上手に海苔を食べることができた僕は気合十分、出張先で業務をバリバリこなす。昼になるとおなかが空くので、先輩に連れられて評判だというラーメン屋に向かうことになる。


「夏の暑い日に食うラーメンはうまいよな」と先輩は僕に言う。「ここ家系のラーメンなんだけどさ、おススメだよ」


 店の暖簾をくぐると、案の定そこにも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいる。先ほどホテルにいたのと同じ人たちのようにも思える。確かにラーメンの上に乗っている海苔を食べるタイミングもかなりの難問であるから、家系ラーメン屋にも海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちは必須であろう。


 僕はラーメン並盛の食券を買い、カウンターの上に出す。程なくしてラーメンが提供される。僕は箸とレンゲを手に取って、ラーメンを手元に寄せる。


「海苔」と僕の後ろで、先ほどと同じ鈴の音のような声が囁く。僕はそれを無視して先にスープに口をつけ、麺に手を伸ばす。「海苔」。再度声がする。僕は麺を啜りあげる。


「海苔」「うるさいな!」僕は思わず声を荒げる。「いつ海苔を食べようが僕の勝手だろう!?」「しかし後になると海苔がふやけてしまい、海苔本来の味わいが……」「ほっといてくれ、僕はスープでひたひたになった海苔を食べるのが好きなんだよ!」


 僕は凄まじい勢いでラーメンを食べ、最後に海苔を口に含むと、丼と箸をテーブルの上に叩きつける。「あんたに教えてもらわなくたって、僕は一人で勝手に海苔を食べるさ」そう吐き捨てて、僕は荒々しく店を出て行く。


 そんな僕の後姿を、「すみません」と呟く彼女と、置き去りにされた先輩が寂しそうに見つめている。




 次の日の朝、僕の目覚めは悪い。昨日吐いてしまった彼女への悪態について、夜遅くまで考えを巡らせていたからだ。


 朝食の時に謝ろう。そう思いながらレストランに入った僕は異変に気付く。一人もいないのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人たちが、どこにも。


 僕は不安な気持ちになりながらテーブルにつき、一人で食事をする。周りの人たちは海苔を食べるタイミングを教えてくれる人がいないことも気にせずに平気な顔をして海苔を食べており、それが僕の不安をさらに掻き立てる。動揺のあまり僕は海苔を4枚も余らせてしまい、残った海苔を4枚一気に頬張って口の中が海苔まみれになる。


 仕事に向かうも、身が入らない。急に姿を消してしまった、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女のことが気になって仕方がないからだ。


「僕、ちょっと出てきます!」


「おい、どこに行くんだ!?」


 先輩の言葉も聞こえないふりをして、僕は職場を飛び出す。駆け足で駅に向かう僕は、思い出している。そうだ。彼女と出会ったのはあのホテルが初めてではない。その前から、何度も。ずっと、彼女は僕に海苔を食べるタイミングを教えてくれていたのではなかったか。汗を滴らせながら、僕は走り続ける。


 僕はもう、どこに行けばいいのかわかっている。それはつまり、海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女が待つ場所を、僕は最初から知っていたということだったのだ。


 携帯が着信で震えている。僕は電源を切る。


 電車に揺られて数時間、僕はたどり着く。そこは懐かしい場所だった。小学校の林間学校で訪れた、古いキャンプ場。そのシンボルである巨大なクスノキの下に、彼女はいた。木陰に隠れるように、艶やかな黒髪を風になびかせながら、彼女は僕に背を向けて立っている。


 僕は彼女の元へと向かう。


「今日はさ、4枚も残してしまったんだ」と僕は言う。


「自分一人でも海苔を食べられるなんて、あんな大見得を切っておきながらさ。僕はやっぱり、君がいないとダメみたいなんだ。君が傍に立ってくれていないと、一人で満足に海苔を食べることすらできやしない」


 戻ってきてくれないか。そう僕は言う。彼女は振り向かない。僕に背を向けたまま、彼女は答える。


「あなたは言いました。私がいなくても、自分で勝手に海苔を食べると。もっと早くそうすべきだったのです。あなたは私に甘えすぎたし、私はあなたを甘やかしすぎました。そうするのが心地よかったからという、それだけの理由で」


「ダメだ! 君がいないと、僕は……!!」「大丈夫。あなたは大丈夫ですよ。私がいなくても、あなたは自分のタイミングで海苔を食べることができる。その勇気を、あなたはもう持っているのですから」


「待ってくれ!」僕は彼女に駆け寄り、抱きしめようとする。確かに彼女を捕まえたはずの僕の両手は空を切り、僕はその場に崩れ落ちる。


 妄想に過ぎなかったのだ。海苔を食べるタイミングを教えてくれる彼女は、僕の弱い心が生み出した、ただの幻だった。小学生の時、周りがそうするように上手に海苔を食べることができなかった僕は、そのコンプレックスを埋めるために海苔を食べるタイミングを教えてくれる存在を頭の中だけで作り上げ、彼女にずっと頼って生きてきたのだった。


 僕は力なく身体を起こし、上体をクスノキに預ける。僕の感傷になど構うことなくセミは鳴き続け、夏の日差しは僕を焼いていく。


 大丈夫。そうどこからか声が聞こえたような気がしたが、これもきっとただの幻聴なのだろう。




 それから僕は先輩に謝罪の電話を入れ、急いで仕事に戻った。ありのままを話そうとしたのだが、「海苔」の時点で先輩が「海苔がなんだ!!??」と恫喝するため、正しく事情を説明することはできず、僕は平謝りを続けるばかりだった。


 次の日の朝、僕はいつものように目を覚まし、食事をとりにレストランに向かう。海苔を食べるタイミングを教えてくれる人は、当然ながらもう誰もいない。僕は一人で食卓に着く。


 味噌汁を啜り、米を一口食べる。それから「海苔」と自分で呟いて、海苔の袋を開ける。


 僕の頬を、涙が静かに流れていく。

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