さかしま

「……人々が東京スカイツリーにばかり集まるようになったものだから、東京タワーはすっかり拗ねてしまい、駄々っ子のようにひっくり返った。それからというもの、東京タワーは逆さまになったまま、地球に刺さり続けているのだ」

 目を瞑り、朗々と語っていた老人は、話の終わりを示すように両手を広げた。彼が目を開くと、先ほどまでは部屋にたくさんいたはずの子供たちはすっかりいなくなっていた。狭い部屋の中には積み木を枕にして眠る年少の男の子が一人、携帯端末をいじくっている女の子が一人、そして不機嫌そうな顔をしながら壁にもたれて単語帳を眺めている高校生の少年が一人。

「じいさん、ふざけてんのか?」

 少年が顔をあげ、老人に向かって言う。

「そんなにでかい建物が逆立ちするなんてバカみたいな話、子供だましにもなりゃしねえ。ガキもみんな外に遊びに行っちまったよ」

 老人がは窓の外に目を向けた。そばにある小さな公園で、子供たちはボール遊びをしていた。全力でボールを投げ、四方八方を走り回る小学生たちの中に紛れて、誰よりも楽しそうにはしゃいでいる高校生の姿が見えた。

「なんだ坊主、今日も‟彼女さん"のお迎えか。殊勝なことだな」

「そういう呼び方をするな。だから年寄りは嫌いなんだ、デリカシーがねえ」

「そう言ってやるな、年寄りの中にもデリカシーのある者はいる」

「年寄り一般に向けてじゃなくてあんたに対して言ってるんだよ」

 少年はうんざりしたような表情で老人を見た。それから大きくあくびをした。

 ここはいわゆる学童保育施設だ。共働きなどで夜まで家を留守にする親を持つ小学生たちが、放課後ここに集まる。基本的には正規の職員たちが子供の世話をするのだが、少数ながらもボランティアとして運営を手伝っている人がいる。外で子供の相手をしている少年の恋人や、この老人がそうだ。宿題を教えたり、古き良きおもちゃの遊び方を伝えるのが老人の役割となっているのだが、

「最近、子供たちがあまり俺に構ってくれん。どうしたもんかな」

「そりゃあんた、口を開けば昔の話ばかりするからだよ。昔は良かった、今はこんなんだ、そんな小言聞かされちゃあガキもつまんねえって。まったく年寄りは昔話が好きなんだから」

「それは俺に対して言っているのか?」

「いや、年寄り一般に対してかな」

 色鮮やかなマットの上に、様々なおもちゃや絵本が所狭しと転がっている。その片隅の段ボールの中では、老人が持ってきたベーゴマやヨーヨー、ミニ四駆、レゴ・ブロックまでもが埃をかぶっている。やれやれ、と老人はため息をつく。

 こういった玩具の面白さがすっかり失われてしまったわけではない、と老人は考えている。正しい場所で正しい遊び方をするならばこれら以上に面白いものはない、しかし今では画面の向こうに掃いて捨てるほど用意されているインスタントな娯楽があまりにも子供たちには魅力的に映るのだ、というのが老人の持論だったが、そんな小言をいうものならばまた子供たちに敬遠されるだろうし、そもそもボール遊びに負けているのだから液晶画面ばかりを非難するのもお門違いである、とそのくらいは老人も理解している。

 少年は単語帳を地面に伏せ、カバンの中からコンビニの袋を取り出した。中にはホットスナックが入っている。‟彼女さん"の好物らしく、少年がここに訪れるときには必ず二本買ってくる。自分の分と、恋人の分。

「先ほどの話だがな、」老人は言う。「東京タワーの話だ。あれが冗談だと何故言い切れる? お前さん、昔の東京タワーを見たことはないだろう。いつの間にやらひっくり返って、あの形になったのかもしれないじゃないか」

「そりゃ見たことはないけどよ、当たり前に考えてそんなことが起こるわけねえだろ」

「俺が言いたいのはな、その『当たり前』という部分についてだ。お前さんが自然の摂理のように考えている当たり前、世間の常識ってやつは、ごく最近一般的になったばかりのものだってことがほとんどなんだ。大事なのは実際に東京タワーが逆立ちしたかどうかという点ではない。我々の常識がいつの間にやらひっくり返ってしまっているという可能性について俺は示唆しているのだ。例えばの話、逆さまに置いたコップを逆立ちして眺めれば、コップは直立しているのと同じ見え方をするわけだ」

 はいはい、と少年はホットスナックをかじりながら適当な相槌を打つ。「何が言いたいのかさっぱりわかんねえよ」

「そうだな、実のところ俺自身も何が言いたいのかわからんのだよ、いつも割と適当に喋っているからな」

「知ってるよ」

「適当ついでに話を変えるが少年、お前さんが今食っているそれはなんだ?」

「唐揚げだよ、見たらわかんだろ」少年は右手に持ったそれを軽く振る。木の串には香ばしく揚がった芋虫が数匹、並んで刺さっている。「蚕の唐揚げ」

「ほんの数十年前まではな、食虫は一般的ではなかったのだよ」

「へぇ、こんなに旨いのに」

 少年は唐揚げを綺麗に平らげ、再び単語帳へと視線を戻した。手帳サイズのそれには、ほぼ世界共通語と化した中国語の例文がびっしりと並んでいる。

 受験勉強を邪魔をするのも悪いな、と老人は外に出て、公園のベンチに腰掛けて子供たちが遊ぶ姿をぼんやりと眺めていた。体内にエンジンでも内蔵しているのではないかと思えるほどに動き回る子供たちは、見ていて飽きない。数年前に退職し、空いた時間をボケ防止のために使おうと参加し始めたボランティアだったが、いつの間にかこの施設を訪れる時間は老人の生活の中で最も大切な時間となっていた。

 やがて辺りが暗くなり、子供たちは室内に戻って帰り支度を始めた。先ほどまで子供たちと一緒に遊んでいた少年の恋人が老人に気づき、歩み寄ってくる。

「こんにちは。あいつは中でちゃんと勉強してましたか?」

「ああ、単語帳と睨めっこしてたよ。お前さんは大丈夫か? 同じところを受けると聞いたが」

「問題ないですよ、あいつと違って僕はA判定貰ってるんで」

「A判定は危ないのAだとも言う、油断せんようにな」

「分かってますって」と、彼は朗らかに笑う。

 少年が施設の入り口から姿を現した。恋人はそれに気付くとすぐに駆け寄り、二言三言なにやら話したと思うと、二人並んで歩き始めた。

 少年たちが老人の方を向き、軽く会釈をした。老人は鷹揚に手を振り返した。

 二人の少年は、仲睦まじげに手をつないだ。少しずつ遠ざかっていく彼らの姿を、老人は眺めていた。

 

 ***


 少し散歩をしよう、と老人は思い立った。

 街の中心部に向かう。そこからは巨大な柱がこの街を覆うドームの天蓋へと向かって伸びている。ドームの頂上には展望台があり、専門家が研究に使うにはかなり時代遅れとなった天体望遠鏡を、比較的自由に使うことができる。

 途中すれ違ったコンビニを呼び止めて、老人はコーヒーと合成たばこを注文する。

コンビニエンス・ロボットは巨大なワゴンを思わせるその図体から腕を伸ばし、老人に注文の商品を手渡す。老人は手の甲に植え付けられたICチップをかざし、会計を済ませる。

 エレベーターへと向かう道すがら、大きな公園の横を通り過ぎる。その中の空き地では、髪を赤や黄色や虹色やら、鮮やかに染めた若者たちが缶ビールを片手にどんちゃん騒ぎをしている。それを見て老人は顔をしかめる。

 理想的な街にしてやろう。

 かつてはそんなことを思っていたっけな、と老人は昔に思いを馳せる。

 あらゆる国家から独立した新しい街を、一から作り上げる。その計画を耳にしたとき、当時まだ20代の学生だった彼はすぐさまプロジェクトメンバーに応募した。人生をかけるに値する仕事が見つかった、俺はこのプロジェクトを成功に導くために生まれてきたのだとすら感じた。その熱意が見込まれたのか彼はメンバーに選出され、この新天地を改造する権利を得た。

 始めは良かった。自分以上に優秀なメンバーに囲まれて、人々が生活していくために最も効率的な街を作るためにはどうすればよいか、日夜議論を続けた。設備も制度も、あらゆる国のあらゆる仕組みから長所を取り入れ、短所は改善し、次第に「理想的な街」が完成に近づいていくのを間近で感じることができたのは、本当に幸運なことであったと老人は思っている。

 しかし街がどれほど理想的であっても、そこに住む人々は理想的ではなかった。街が完成して、運営が一部民間に引き渡され、一般の人々の居住が許されるようになったとき、集まってきたのは金や権利にものを言わせてこの街の居住権を勝ち取った人々で、彼らは決まって一様に独善的で、利己的で、排他的であった。多国籍の人々が集まるこの町で彼らは結局身内といえる少数の人たちと数多のグループを形成し、自らの集団がどれほど多くの利益を享受できるかにばかり心血を注ぐようになった。街には険悪な空気が漂いはじめ、お世辞にも住みよいとは言えなくなった。

 次第にこの街の評判は下落していき、気付けば他の街と大差ない環境へと落ち込んでいった。当初の理想を取り戻そうと老人は手を尽くしたが全て徒労に終わり、失意のうちに老人は定年を迎え、退職した。

 「変わらんのだよ」と老人は呟く。「どれほど恵まれた環境にあろうと、そこに暮らす人々は変わらない」

 老人は中心部の柱へと辿り着き、その中にあるエレベータに乗り込む。一見何の変哲もないように見えるが、身体にほとんど負担を与えることなく1000m近い高さまで登ることのできる優れものだ。

 行先に待つ月面展望台からは、地球がよく見える。望遠鏡を通せば、下へと向かって生えている東京タワーを眺めることもできるだろう。タイミングが合えば、の話だが。

 変わったこともある。食料の問題から虫を食べるようになり、同性愛に向けられていた偏見と差別は影を潜め、人類は月に住み始めた。しかしそれらもいつの間にかただの「当たり前」と化し、人々は数十年前までと同じく至極常識的な世界の中で生きている。公園にたむろするヤンキーも、コンビニで買い食いする高校生も、手を繋ぐ若いカップルも、昔話を好む年寄りも、何一つ変わってはいない。

 俺の人生は、結局そういうことを実感するためのものだったのではないだろうか、と老人は思う。状況の変化に人々は平気で対応するのだ。ちょうど逆さまな東京タワーを逆さまに眺めるように。両方が同じだけ変化すれば、両者は相対的には変化しなかったことと同じになる。

 展望台へとたどり着くまでの時間を潰すため、老人は合成たばこに火を着け、吸う。そしてニコチンもタールも含有しないクリーンな煙を吐き出す。

 少し前までは、この展望台に登ることも出来なかった。地球は自分に見切りをつけて出て行った老人を睨み付けるような顔をしていたし、徐々にせせこましくなっていく月面は月面で老人にとって見るに堪えないものだった。

 平気になったのは何故だろう。老人は考える。諦めたのだろうか。あるいは受け入れたのだろうか。理想的にはならなかったこの街を、ここに暮らす人々を、そしてそれらを許せなかった俺自身を。

 それは結局、俺も「変わらない」ものの中に取り込まれたってことなんだろう。

 エレベーターの扉が開き、老人は歩み出る。展望台は閑散としている。頭上には、ガラス張りの天井越しに星空が広がっており、その中に一つ、大きな青い星が浮かんでいる。窓の近くまで歩み寄れば、眼下に広がる月面の街を見渡すことができるだろう。

 老人はそのどちらを見るでもなく、近くにあった長椅子の上へとごろりと寝転ぶ。

 景色なぞどうでもいい、と老人は思う。

 地球上のどの建物よりも高いこの場所で、俺は駄々っ子のようにひっくり返っている。

 この行為はどうにもならないこの世界への諦めであり、そしてささやかな反逆である。どこまでいっても無意味であり、何一つ得られるものはない。

 しかしこうやって寝転がっていると、何故だか俺はむやみに笑いがこみ上げてくるのだ。

 展望台の中で、老人は静かに笑う。

 

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