ウィンカーの周期と、僕らの願いが叶うことについて

 それを考えたのは、右折待ちの時だ。

 絶え間なく通り過ぎていく対向車の列を前にして、僕は自分の順番が来るのを待っている。前方には更に二台の車が右に曲がるべく待ち構えている。ぼんやりと前方の車を眺める。右側のリアウィンカーがチカチカと点滅しており、前の車が次にどこに行こうとしているのかを指し示している。

 僕は自分の車のコントロールパネルを見る。右を向いた矢印が緑色に光り、消え、それを繰り返している。点滅の周期性は前方の車のそれとは少し異なっており、こちらのほうが少し遅い。最初は足並みを揃えていた二つのウィンカーは、点滅するたびに少しずつずれていく。僕のウィンカーは置いてけぼりにされていく。

 子供のころは不服だった。ウィンカーの点滅がちっとも揃わないことがどうにも気持ち悪かったのだ。同じ車種でさえもそうだった。電装部品の違いによるのか、車の状態によるのかはよくわからないけれど、全く同じ車種の同じ型式でさえ、点滅の周期性は微妙に異なるのだ。

「全部いっしょに光るようにしたほうが良いのに」と、助手席に体を埋めた幼い僕は呟いた。

「どうしてそう思う?」ハンドルを握った父が、僕に尋ねた。その時父は今の僕と同じように右折を待っていた。対向車はまだ途切れなかった。

「だって、みんな揃ったほうがきれいだよ」僕はそう答えた。昔の僕は、例えば電車のシートに刻まれた模様を眺めて、そこから何らかの規則性を見出すのが好きな子供だった。世の中に存在するあらゆる事象はすべからく分かりやすい規則性を有しているべきだと僕は考えていて、だからウィンカーの周期性のズレがあまり気に入らなかったのだ。

「俺はそうは思わんけどな」父がアクセルを踏み、ハンドルを切った。対向車の隙間を縫うようにして、僕らは右に曲がった。「違っているからこそタイミングが揃う、そういうこともあるもんさ」

 よくわかんない、と僕は答えて、腰の位置を前にずらし、助手席にさらに深く沈み込んだ。

 今ならば僕は父の言葉に賛同できる。それはこういった分かりやすい理由からだ。一方のウィンカーの周期をf、他方のウィンカーの周期をf’とし、ウィンカーの点滅を単純な正弦波の合成で考えるならば、二つのウィンカーが同時に光る周期はfとf’の最小公倍数で示される。ウィンカーの周期が異なっているならば、いずれは同時に光るタイミングがある。逆に言うならば、点滅の周期が全く同じウィンカーが二つ並んだ場合、点滅を開始するタイミングが揃わなければ、以降も点滅が揃うことはないのだ。

 同じ周期で点滅するウィンカーは、決して揃わない。初期条件が等しくない限り。

 この事実から学ぶべき教訓が、だから周期のズレはむしろ歓迎されるべきだということなのか、最も重要なのは周期ではなく初期条件なのだということなのか、そのどちらになるのかは僕にもよくわかってはいない。

 対向車が少し途切れる。すかさず最前方の車が右折し、伴って僕は車間を詰める。残る右折待ちは、僕を含めて二台。

 もしかしたら父が伝えたかったのは、ウィンカーの周期に関することばかりではなかったのかもしれない。例えば足音を鳴らす速度であったり、食事中に水を飲むタイミングであったり、瞬きの間隔であったり、その他日常生活に付随するありとあらゆる周期性を伴うものについて、更に言うならば僕らの一生を貫いている何らかの周期についてさえも、父はそう伝えたかったのかもしれない。

 違っているからこそ揃う。即ち、無理に周期を合わせる必要はないのだ、と。

 この見解については、正直なところ拡大解釈であるとの誹りを免れない。あの短いやり取りの中にそこまでの含蓄を持たせられるほど僕らは会話に長けてはいなかったし、それにどちらかというと父はもっと直情的で直截的な人間だった。あまり何も考えずに僕の質問に答えたと考えたほうが、おそらくは事態を正確に捉えている。

 しかし、とある会話に関してどのような解釈を付け加えるのかは、基本的には個人の自由に任されている。

 前の車が右折した。僕は右折レーンの一番前へを進み出る。

 例えばこういうことを考えてみよう。

 世界中に存在する車のウィンカーを、一斉に点けてみる。

 各車のウィンカーはてんでバラバラに点滅し続け、一向にタイミングは揃わない。しかしあらゆる車のウィンカーの周期性が全て異なっていると考えた場合、いずれは揃う時が来る。世界にn台の車が存在しており、それぞれの車のウィンカーの周期をf(1)、f(2)、f(3)、……f(n)であるとすれば、f(1)からf(n)の全ての数字の最小公倍数が全てのウィンカーが同時に光る周期となる。

 僕の頭の中には、壮大な光景が映し出されている。太陽系の惑星が一直線に並んでいる姿だ。惑星の公転が気の遠くなるような周期の末に一直線上に並んだとき、確か神様か何かが現れて、あらゆる生命の願いを叶えてくれるのではなかっただろうか。

 それに準えて考えるならば、全ウィンカーが同時に光るタイミングにおいても、ウィンカーの神様が現れておかしくはない。ウィンカーの神様が、僕らの願いを叶えてくれるのだ。所詮はウィンカーの神様であるから、司っているものなど右折か左折かの二択しかない。僕らは神の威光を受けつつ、僕らの望む右折か、あるいは左折を叶えてもらうわけだ。

 しかし、そこは神の叶える右左折である。単なる右左折で終わるわけがない。いわば、「大いなる右左折」とでも呼ぶべきものになっているに違いないのだ。

 大いなる右左折を行ったあと、僕らの目の前に広がる光景は普段のものとは全く異なったものとなっている。それは僕らが望んだ景色だ。例えば夏休みのプールであり、放課後のグラウンドであり、静かな図書室であり、あの子といった夏祭りであり、昼休みの教室である。車を運転できる年齢になった僕らが確実に失い、忘れてしまったものを、大いなる右左折は取り戻してくれるのだ。

 対向車がやっと途切れる。

 無論、ただの空想だ。だけどこのようなただの空想こそが僕を救うのだと、僕は知っている。道を曲がろうとするたびに願いが叶う可能性があるのなら、僕は今よりも楽しく生きていけるに違いない。

 僕は右へと曲がる。

 そこにはいつも通りの景色がある。

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