「生年月日だよ」

確かに二人、パイプ椅子に近寄ったが、まだぼくはあれが店だということに疑問を抱いていた。売買するところを見た訳じゃないし、あの二人は興味で話しかけました、ということだってあり得る。


土樹とぼくは自転車にまたがったままワゴン車に近寄っていく。近くに駐輪場はあった。けれど置きに行った間に取り引きが終わっているかもしれない。そう思うと片時も目が離せなくなった。


つま先で地を蹴りながら自転車を進ませ、手元がはっきりと見えたところでブレーキをかける。ぼくも土樹もまだメガネが必要な視力じゃない。距離は十分取っているように思った。


困ったことと言えば、なにを話してるか聞こえないことだろう。車の往来、人の雑踏。口から出た瞬間に拡散していく言葉は、全くぼくの耳に届くことはない。


向こうから声が届かないならば、こちらの声も届かないだろう。ぼくは声量を落とすことなく土樹に問う。


「あの制服はなに校?」


「まあ、俺たちの制服じゃないことは確かだな」


パイプ椅子の前に立つ二人組は、この時期なのに、ブレザーを着ている。校則なのだろうか、それとも彼らが好きにやっていることなのだろうか。制服の衣替えはいつだったか。ぼくの学校はすでに衣替えが済んでいるが、ほかのところはまだなのかもしれない。


ぼくは目を凝らす。その先にあるブレザーの色をじっくりと凝視した。あれは違う。ぼくたちのものとは少し違う。ブレザーは同じ紺なのだが、向こうのほうがだいぶ明るい。


「高校生かな? 性別は二人とも男性だね、二人ともズボンだし」


近ごろは女子の制服もズボンを選べるようになっている。実際ぼくのところもそうだ。少数だがズボンの女子はいる。けれど、あそこにいる二人は体格が男のものだった。


「高校生……にしては幼くないか? 俺の友達に高校生はかなりいるが、みんながっしりして大人みたいだぞ」


「そりゃあ、土樹の友達だからだよ。土樹の友達ってみんな筋肉質でガッシリして、年齢以上にしっかりして見える。ぼくタイプはほとんどいない」


「じゃあ、俺も大人みたいに見えるってか?」


ジッと土樹を見る。上から下へ。下から上へ。結論。


「見方によっては」


「なんだそれ」


彼らが高校なのか中学なのかはさておき、彼らのやりとりを見逃すことのないようにしっかりと神経を集中させる。


パイプ椅子の男性に話しかけた二人は、おずおずとしていた。顔はしょっちゅう動き、視線を安定させない。話してないほうは右へ左へ、体重をかける足を変えている。


ここから見ていてもわかる気まずさだ。彼らは今、空気が相当大変なことになっているに違いない。なんだか同情したくなってきた。そんなぼくの隣では、土樹が首を傾げている。土樹の性格だと、あの空気になることがないのだろう。あの気まずさを知らないのは幸運だ。できればぼくも一生知らずにいたかった。


もしかしたらこのまま二人が逃げてしまうのかと思ったが、パイプ椅子の男性が笑顔になった途端に空気が変わった。


ああ、と思った。あの男性は土樹と同じだ。


パイプ椅子の男性は二言三言二人組に話しかける。途端に二人は笑顔になって、口を開く回数が多くなった。視点が定まり、体重をかける足も固定される。パイプ椅子の男性のフランクな対応にすっかり警戒心が溶けたようだ。


世間話に花を咲かせているのか、三人とも笑いながら話している。


と、突然男性がパイプ椅子から立ち上がった。パンと股を叩いたかと思うと、それを反動として飛び上がったようだった。二人組より頭一つ分背が高い。ガードレール、パイプ椅子から背丈を推定するとけっこう背が高いほうじゃないか。背が高い人と向き合うと特有の圧迫感があるはずだが、あの人は包容感に変えているようだ。


男性は二人の肩を叩くと、親指を立てた。制服男子は首を縦に振ると、それぞれポケットからなにか取り出した。財布のようだった。


「売るのかな」


言葉に嬉しさがこもっていて、自分で少しびっくりした。


ぼくが言った言葉は、喧騒にかき消されて土樹に届いていないようだった。なにも返ってこないことに少し寂しくて、かなり安心した。


取り出したものはやっぱり財布だった。待ちきれないのか、紙を、多分お札を出している。心弾ませる二人を見て、男性はまた親指を立てた。


男性は二人に背を向けるとパイプ椅子に片膝を乗せた。ワゴン車の扉を開けた。カギはかかっていなかった。すんなりと開いた車内は装飾もなにもなくてやっぱり店には見えない。男性はしばらく車に潜っていたが、やがて小さな箱を持って出てきた。


思わず目を細める。あれはなんだろう。


お菓子が入っていそうな箱だが、材質は紙じゃなさそうだ。アルミかなんかの缶かもしれないと思った。夕日を反射してキラキラ光っていた。


まだ出していない片方の男子が、財布を開いてお金を出した。これで二人共がお札を出していることになる。ここから数字を見ることはできず、色で判断するしかなかったが、おそらく一万円だろう。


一万円を男性に渡すと、男性はお札をジッと眺め、小さく首を横に振った。買取拒否かと思ったが、男性は一万を返したりしなかった。ポケットに手を入れて、お札を折らずに入れられる長細いタイプの財布を取り出す。財布に男子から渡された一万を入れると、またそこから一万を出して男子に手渡した。


「交換……した、よね今」


「多分な」


一万を渡すと、今度は箱の蓋を開けた。蓋の裏は金色で、夕日が反射して目を貫いた。やっぱりあれは紙じゃなかった。


箱の中に手を入れると、中からなにかを取り出して男子校生に渡した。手に隠れてなにを渡しているのかわからなかったが、噂からしたら10円玉だろう。


制服男子は硬貨をしっかりと受け取ると、財布に落とした。もう一人のほうも、概ね同じようなやり取りで一万円を売る。


一万円を交換して、10円を得る。確かにこれで10010円で一万を売ったことになった。


一万円を売り終えると、二人は笑顔でワゴン車から離れていった。


男子校生が十分に見えなくなってから、土樹はゆっくりと体を起こした。腕を組む。


「……ふーむ。なるほどな」


「売ってたね、確かに。ぼくからじゃお金の種類まではわからなかったけど、土樹は見えた?」


「見えた。一万と10円だった。偽札かどうかはわからんが」


当たり前だ。


というかここからの距離でお金の種類を判別できたことだけで驚きだ。


「で、景色写真。確かにあれはお店で、あの人は一万を買ってくれることはわかった。わかったけど、どうする? 売る?」


一応礼儀とまでに訊いてみる。土樹は当然、首を横に振った。


「いや、今日は帰ろう」


「了解」


どんな風にお金が売買されているかわかっただけで十分な収穫だ。ぼくは一応車のナンバーと男性の容姿とその他気になったを簡単にメモ帳に書き込み、帰った。




* * *


一介の中学生であるぼくにとって一万円というのは結構な大金だと思うのだが、今の時代、中学生が一万円以上持っているのは別に変なことじゃないらしい。


買い取り屋の居場所を突き止めた次の日、学校でその話題を振ったら意外なほど食いつきが良かったことに驚いた。


ただ「一万円を買い取ってくれる場所って知ってる?」って訊いただけなのに、


「で、で、で、夢見くんは売ったの?」


この食いつきだ。机に体を被せぼくに顔を寄せている。無理な体制のおかげで、おしりは椅子から離れていた。


売っていて欲しいとばかりに訊いてきたのは後ろの席の草臣くん。


中学生でできた友達で、知り合ってたった3ヶ月で親友の域まで到達できた。席が近いことと、“同じ匂い”がするためによく一緒にいる。ぼくが普段つるむグループの中では、一番近い匂いを持つかもしれない。


多分匂いが近いおかげで、分かり合えるのも早かったのだと思う。土樹と同じ匂いだったら、そう簡単に打ち解けられないだろう。


売ってないよ。そう言うと草臣くんは「なんだ」と言って体を引いた。椅子におしりが乗って、ギッと軋む音がする。


「その様子だと草臣くんは興味あるみたいだね。もしかしてもう売ったりしたの?」


「売りたい。ぜひとも売りたい」


ということは、まだ売っていないということか。


「ねえ、ぼくは噂で聞いただけだからわからないんだけど、草臣くんは場所は知ってる?」


「知ってる」


草臣くんは笑顔で言い切った。


「どこ?」


「ええとね」


口と両手を使って、草臣くんが説明してくれる?が、場所が場所だけに草臣くんもよく行かないところらしい。街道の名前やビルのテナント名も詳しくなかった。「十字架あるでしょ? そこを真っ直ぐ」や「ショーウィンドーに芝刈り機が置いてあるのを目印にして」みたいな情報がほとんどだった。昨日行ってなかったら絶対に着けないに違いない。そうでなくてもぼくは方向音痴なのだ。


「で、車の近くに椅子に座った人がいるから、その人に話しかければいいはず。わかった?」


「うん。なんとなく、あそこかなって予想はついた」


草臣くんの地図は昨日ぼくたちが行った場所とほぼ同じ場所を示している。


昨日土樹は移動屋台と比喩していたが、どうやら移動していないらしい。あそこが定位置なのだろうか。


「でも夢見くんが興味あるなんて意外だな。僕はてっきり興味ないかなって思ってたんだけど」


「ぼくはほとんどないよ。でも興味がある人もいるみたいだから」


主に土樹とか、ほかには名前矛盾とか。夢見 うつつはほとんど興味ございません。


「あーあ、残念だな。興味あるなら今日一緒に行こうと思ったのに」


「行こうと思ったって……今日売るつもりなの?」


「うーん、そろそろね、行こうかと思ってる。なんか、期間限定みたいだよ」


期間限定。その言い方はどうかと思ったが、言いたいことはなんとなくわかる。買い取り屋に時間制限があるってことだ。


儲かる仕組みもまだ見えてこないし、それがなんの意味を持つのかわからない。普通に考えたら10円をバラまく量を押さえるために早めに切り上げるということだろうが、もしかしたらなにか別の理由があるのかもしれない。


「すでに売った人っているのかな?」


「いるよ、神栖くん。ていうか、そこのことを聞いたのは神栖くんからだから。連れてってもらったって言ったほうが正しいかな。詳しく聞きたい?」


にべもなくお願いする。


神栖くんはぼくたちより後ろの席に居た。最初に見つけたのはぼくだったが、草臣くんが呼んでくれるようにお願いする。神栖くんと草臣くんは小学校からの付き合いなので、そっちのほうがいいと考えたからだ。


草臣くんが呼んだとき、なにやら友達と話していた神栖くんだったが、すぐに来てくれた。ぞろぞろと話していた友達と一緒に来てしまったが、大して気にしない。神栖くんも一緒に来た彼らも、同じグループの一員だ。


「なんだよ、草臣。なんか用か?」


「ごめん、用があるのはぼくのほうなんだ」


神栖くんがぼくに目線を移す。「夢見くん?」


「突然で悪いんだけどさ、神栖くんが一万円を売ったってほんと?」


「ああ、そのこと。うん、ほんとだよ。10010円で買ってくれた」


まるで英雄忌憚を話すような感じでそのことを話してくれる神栖くん。けれど、それは遠巻きに昨日見てきたことをなぞるような内容で、得られるものは少なかった。一番の収穫といえば、会話内容がわかったことだろう。



「買ってくれたおじさんが訊くんだ。『ほかに一万円札はないか』って。『あったらもっと売って欲しいな』って子どもみたいに笑うんだ。おれももっと売りたかったんだけどさ、そのときは一枚しか持ってなかったから断っちゃった」


「一枚しか持っていかなかったんだ」


「もちろん。おれも始めてだったからさ、いきなり何万も売れないよ。様子見の一万だったんだ」


様子見で一万を出せるほど神栖くんはお金に余裕があるのか。ちくしょう、うらやましい。偽札の可能性がある以上、ぼくは例え千円だったとしても売る気にならない。


「夢見くん、売るの? 珍しいね」


「……そんな、珍しい?」草臣くんにも目線を向ける。草臣くんは口だけ笑ってみせた。やっぱりそうでしょ、そう言ってるみたいだった。


神栖くんは「なんかさ」と腕を組み、言葉を続ける。


「夢見くんはこういうズル系って言うのかな、そういうのを嫌いな気がするんだ。真面目すぎなのかな」


「ふーん、自覚ないや」


探偵役に回るからかな。名探偵にはなれないけれど。




そのあとは、草臣くんが神栖くんにいくつか質問していたが、特に情報は得られなかった。


話題は授業や先生への悪口と移り、一通り盛り上がったところで休み時間が終わる。


今二人から仕入れた情報をすぐにでも土樹に伝えたかったが、今は学校で授業中だ。席も近いわけじゃないし、ぼくは携帯は持ってきていないのでメールで送ることもできない。小学校のときもそうだったが、中学で携帯の持ち込みを禁止されているためだ。


だが。まあ、おそらく大半の生徒が持ってきているに違いない。休み時間ともなれば携帯を出してるクラスメートを何人も見ている。先生に見つからなければのいいだろう。ゲームをしている姿を見ても悪びれている様子は見られない。


小学校時代から土樹を見てきているので知っているが、土樹は携帯を持ってきている。ゲームも漫画も持ってきている。ぼくはそういう類のものを持ってきたことはない。そういうところでは、ぼくは神栖くんが言ったような性格なのかもしれない。


メールも電話もできないとなれば、土樹と直接話すしかないのだけれど、ぼくのほうから話しかけるのは少しはばかられる。


一緒のクラスだけれど、ぼくは学校で土樹とほとんどしゃべらない。


おはよう程度の挨拶は交わすが、それ以外のことで話しかけることはない。


『顔見知りを装う』。そう決めているからだ。


家が近いということも、幼なじみということも隠すようにしている。ただ、訊かれれば素直に答えるので、秘密という大それたものではない。あれ? 話してなかったっけ? てっきり知ってると思ってた。このぐらいの気軽さでいい。


隠すのは、もっとその先。ぼくと土樹が親友であるという、この一つだけだ。


なぜ隠しているかと言えば、“匂いが違う”から。


ぼくは人見知りで内気。放課後や休みの日は読書やゲームをして過ごすことが多い。そのことは内面から滲み出ているようで、ぼくの周りには同じ匂いを持つ人が集まる。一緒にいることが多い神栖くん、草臣くんは同じ匂いを持っているからこそなのだ。


休み時間にクラスを見渡してみれば同じ匂いを持つ者同士が集まっているのを見ることができるだろう。


「類は友を呼ぶ」この諺を作った人は天才に違いない。


匂いが違うからといって別に嫌いというわけでもないのだが、会話もテンションも微妙にずれが生じるのだ。そのずれは学生にいては致命的に大きなもので、平常が取れなくなってしまう。


さて、では土樹といえば。


土樹が放つ匂いはどうかといえば、残念ながらぼくとは違う。正反対なまでに違う。


誰に対しても壁を作らない土樹は年齢性別問わず友達がいる。中学校に入ってまだ数ヶ月なのに、このクラスだけではなく他のクラスにもすでに友達がいるらしい。休み時間は別のクラスにいることも多いし、知らない人が土樹を探しにくることもある。体操着や教科書の貸し借りもしているみたいだ。


学校外にも友人は多く、休日は外にいることがほとんど。たまにぼくにも遊びの誘いが来るが、土樹しか知り合いがいない中でぼくが楽しめると思っているのだろうか。とてもじゃないが行く気にならない。


土樹が人見知りしない性格ということはクラスの人も周知の事実なので、ぼくに話しかけても不思議ではない。もちろん土樹からしてみたら神栖くんとも草臣くんも友達なのだろう。あの二人はどう思っているか知らないが。


誰とも話せる土樹だが、話しが合うのはやっぱり同じ匂いを持つもの同士なのだ。そこは変わらない。


ぼくと土樹が親友を隠す原因は主にそこにある。


土樹のグループにぼくが混じれば、ぼくはノリも会話も合わずにひとり取り残される。ぼくのグループに土樹が混じると、ぼく以外は人見知りして会話を選び、結局は土樹が一方的にしゃべってしまう。


簡単に言えば『浮いてしまう』のだ。なんだこいつは? と直接言わないまでも視線でわかる。そうなってしまうともうなに言ってもダメだ。気まずさは一秒ごとに増していき、空気は毒を混ぜたように全員から明るさを奪っていく。


そんなことを小学校時代から何度か経験してきているぼくたちは、親友であることを隠すようになった。


それがおそらく、小学校も4年になったころ、だ。時期は覚えていないが、5年生と6年生の2年間を使い、仲が悪い振りをしたので間違いないはず。


仲が悪いふりといっても喧嘩をして盛大に別れたわけじゃない。いたって自然に、会話を少なくし、会う回数を減らした。体育もペアにならず、同じグループになることも避けた。帰る時間もずらした。血の滲むような2年間を過ごした結果、小学校を卒業するころには僕と土樹は親友から友達までランクを落とし、中学に上がることには顔見知りまで称号を下げることに成功したのだ。


そこまでして得たこの環境を、壊したくない。



放課後、日が長くなりつつある空を見ながらぼくは一人家路についていた。


結局、土樹と話す機会はなかった。教室移動があっても土樹と隣にならない。給食も駄目。放課後は土樹が部活のため時間が合わない。


部活がいつ終わるのかわからないと電話をかけるわけにはいかない。下手したら没収されてしまう。今日のことは時間を開けてメールで送ることにしよう。なにかあるようなら電話か、直接会いにくるはずだ。


あれから少し、進展があった。草臣くんに「売るなら付き合うよ」と言ったら、「明日売るからそのとき付き合ってよ」と言われた。明日は土曜日。ぼくたちは休みだが、ワゴン車は停まっているだろうか。


「大丈夫じゃないかな。おれが行ったのが日曜だったし」神栖くんがあっさりと疑問を解消する。日曜もやっているとは仕事熱心なことだ。日曜営業土曜休日、なんてなっていなければいいのだが。


今日1日、ぼくはずっと情報収集に努めていた。あまり広くない交友関係をフル活用した。結果、あまり実のある話しは聞けなかった。残念だ。


情報を集めていくうちに、一万円買取屋の噂がかなり広まっていることがわかった。なんでぼくが今まで知らなかったのか恥ずかしく思えるほど。


噂の出所はわからなかったが、ずいぶん短い間に始まったようだ。おそらく一週間まで遡らない。昨日今日の噂なら、広まるのが早すぎる。


10円だが儲かるとなれば「試しに一枚売ってみよう」が意外と多く、売った人は神栖くん以外にもいることがわかった。ただグループが違うので話す機会がない。名前はわかっているので、あとで土樹に頼んでみることにしよう。あいつならグループが違えど話しができる。


家に帰ると、まず忘れない内に情報を解約済み携帯に打ち込んだ。文字数が増えていくことに満足感を覚える。思わず余計な言葉で水増ししてしまいそうだ。いけないいけない。短い言葉で適切な情報を。けれど不用意な省略はさけるように。それでいて簡潔さを心掛ける。


家に置いていた携帯は、今日一通もメールは来ていなかった。もし学校でなにかわかれば土樹がメールを送っているはず。大した情報は得られなかったか、逆に聞きすぎて文字におこすのが面倒くさいのどちらかだ。


後者だったらいいが、学校で達成感に満ちた清々しい顔は見られなかったところを見るとあまり期待できない。


「これだけの情報じゃあね、なにもできやしない」


仕方ない。明日なにかわかることを祈るしかない。




次の日。たっぷり寝坊して携帯を開くと、メールが二件きていた。一件は草臣くんから今日の予定についてだった。集合時間が書いてあり、その下に人数が増えたことが書いてある。件名が『すまんm(_ _)m』なのはぼくに相談せずに勝手に決めてしまったからだろうか。


待ち合わせ時間にまだ余裕があることを確認したあと、ぼくは了解の旨を簡単に書いて返信し、もう一件を開いた。


土樹からだった。件名は無い。内容は簡潔だった。


『景色写真 明日売る』


「明日、ね」


今日ぼくが行くことは伝えてあるので、それを見てからということだろう。わざわざ別称を使うところをみると、やる気は十分なようだ。


昨日、メールに気付いた土樹は部活帰りに電話をしてきたくれた。


十分体を動かしたあとなので声に覇気はなかったが、疲れすぎて落ちている声色でもない。


「帰ってからでも良かったのに」


「いいんだよ、帰ったら帰ったですぐ寝ちまう可能性だってあるし。で、メールを見たんだけどさ」


「うん」


メールに書いたことに補足を加えながら土樹に説明する。相槌が少ないように思えたのは土樹も似たようなものをすでに仕入れていたからで、それを知ってしまうとわざわざ話す必要はないように思われた。


ぼくのあと土樹の報告タイム。“右に同じ”で省略できる内容のあとは、一万円を売った人の名前を次々にあげていった。知らない名前も混じっていたが、出た名前は全部で七つ。


その内二つはぼくも知っていた。今日売ったと知った三人の中に、その二人が混じっていた。けっこう苦労したのに、すでにその半分以上が無駄になってしまっている。


土樹が知らなかった一人とは、なんと神栖くんだった。


「お前のグループは管轄外だ」


「さいで」


ぼくだけが聞いた神栖くん以外、休み時間中にその人たちに話しを聞いてきたらしい。土樹はメモを取らない主義なので夜聞いた情報の正確さは劣るかもしれないが、聞いた人の中でいくつか共通点があった。


共通点その1 場所。


話しを聞いた八人(神栖くん含む)は、みんなぼくたちがワゴン車を見た場所で一万を売っていた。時間はバラバラだったが、一日中あそこにいるらしく、行ってもいなかった、もしくは売れなかったという人はいない。


共通点その2 会話内容。


売った人はみな共通の質問を受けていた。質問の運びや語彙は人によって違っていたが、訊こうとしていた内容は『ほかに一万円札はないのか?』『早く売りに来ないと締め切るぞ?』これだ。もっと売ってくれということらしいが、よくわからない。それと売った人はここ二、三日に集中していた。


共通点その3 人。


一万円を買ってくれた人は、どうやら全員同じ人らしい。男性で、歳は30から40ほど。頭は薄くなりはじめていたらしい。人当たりがよく、印象は二重丸。この辺りに住んでいる人ではないらしく、見たことない人だと言う。


そして次が一番大事なこと。


共通点その4 購入者。


売った人全員、以下の質問をしなかった。


「なんで一万を買うんですか?」


それを知ったとき、ぼくはしばらく呆然とした。なぜそれを訊かないのか理解できない。そりゃあ、ケーキ屋に「なぜケーキを売るんですか?」とはぼくも聞いたことないが、ぼくはその怪しすぎる売買になんの疑問も抱かなかったのかと問いかけたい。


土樹もそう思ってらしく、やんわりと訊いたらしい。答えた女子は「んー」とうなってから、


「私が損するわけじゃないから」



「景色写真、ちょっと愚痴っていい?」


「夢見 うつつになって耐えてくれ」


夢見 うつつでも同じことになるんじゃないかと名前矛盾は思います。


将来、この子が詐欺にあうんじゃないかと不安でたまらない。



以上、この4つが共通点だ。たった八人の共通項だが甘く見ちゃいけない。きっとどこかで役立つだろう。今回調べることは偽札かどうかだけだが、どこでどう転がるかわからない。


それに、これだけ聞いても一番重要なことがわからない。直接的ではなく、周りから固めていくことも考えていかなきゃいけない。



「景色写真がなにか気付いたことはある?」


「噂が広まりすぎててちょっと怖い」


「あ―……やっぱり」


そこに行き着くか。


「たった数日でここまで広まるって普通なのか?」


「さあ。でもそんなもんなのかなって思えば思えてくるでしょ? 誰々が誰々に告白した、なんて噂だったら一時間で学年中に広まるし。口コミの力も侮れない。口コミで知ったお店にわざわざ他県から来るお客だっているぐらいだ。都道府県でさえ越えていくんだから、このぐらいの距離あってないようなもんだよ」


「ほんとにそう思うのか?」


「…………」


返す言葉が見つからない。痛いところをつかれた。


「お前がそういうなら俺はなにも言わない。ただ、俺は言ったからな。この広まり方は変だ」


「……了解。確かに聞いたよ。怪しいかどうか調べるのはぼくの仕事だ」


「わかってるならいいさ。じゃあ、次な。お前明日売りに行くんだよな? もしそれでなにもわからなかったら俺も売りに行くから、ついて来いよ」


「……売るの? 偽札かわからないのに?」


「三日前から売りに出してる人がいたら大丈夫だろ、と土樹 空海が判断した」


「そう判断できてもまだ調査続行なんだ」


「納得できてないからな。実物を見てみないことには話しにならない」


偽札かどうかは、実物を見てみないとわからないか。そんな簡単にわかるものなのだろうか。


ちなみに、購入者の証言によると見た目も手触りも別の一万円と変わらないらしい。偽札と疑う人はいなかった。


実物を見たいと頼んだら、「学校に一万なんて持ってこないよ」と言われて、まだぼくたちは実物を拝んだことが無い。




土樹のメールに『了解』と送ると、すぐに電話が鳴った。相手は土樹だ。


「もしもし?」


「名前矛盾か?」


おっと、いきなりか。ぼくは近くに親がいないことを十分に見てから肯定した。


「いつ行くんだ、その買取屋のところに」


「今から二時間後かな。学校前に集まってからみんなで行く」


「名前矛盾は売るのか?」


「売らないよ。今日は見てるだけ」


「なるほど、友達を売るのか」


くつくつと笑う土樹。なにを言っているんだか。


「ぼくが見て怪しすぎるようならすぐにでも止めるよ。別に実験体に使うわけじゃない。向こうにも今日は手持ちがないから売らないって言ってある。なんの問題もないよ」


「そうか」


「とりあえず今日は買い取る様子を見ることに全力を注ぐことにするよ。一万円を買い取る理由は訊けたらで。明日行くとわかればそのときに訊いてもいいかなって思えてきちゃった。偽札かどうかはわからないかもしれないけど、実物に触るチャンスぐらいならあるかも」


「お、そうか」


「でも、あまり期待しないでよ。一万円札なんてまじまじみる機会なんてないんだから、細部が違うぐらいじゃ絶対に気づかない。せいぜい透かしがあるかないか見るぐらいだよ」


「いざとなったら、その一万を使わせて見ろよ。自販機か銀行ならわかるだろ」


簡単に言ってくれるな。普段あまり発言しないぼくが他人を簡単に動かせると思わないでほしい。


「景色写真は今日は動くの?」


「明日のために英気を養っておくことにするよ」


「いくら売るつもりなのさ」


「一万。そう何万も売る気にならない」


「なるほど」


「じゃ、名前矛盾。健闘を祈る」


プツッと通話が途切れた。


健闘を祈る、ね……。


ぼくは今日、見るだけでなにもしないつもりなんだけどな。


待ち合わせの10分前。軽快に自転車を走らせて学校に行くと、すでに草臣くんたちは集まっていた。草臣くんと、もう一人。同じ匂いを持つ五十鈴くんだ。趣味は読者にゲーム。苦手科目は体育と、あまり行動派ではない五十鈴くんと遊びに行くのはずいぶん久しぶりなことになる。


学校の北口前。草臣くんはそこを集合場所とした。北口は唯一目の前に車道を持つ校門だ。ほかには西口と南口とがあるが、どちらも歩道に続いている。北口指定だからと思って自転車に乗ってきてみると、その考えが正解だったことがわかる。二人とも自転車だ。


挨拶もそこそこにぼくは疑問を口にする。


「今日は五十鈴くんも売るの?」


珍しいね、と続けようとして止めた。今日ぼくが何回も言われたことだ。いくら気の知れた友人に言われようと、あまり良い気分はしなかったことを思い出す。


ぼくの質問に五十鈴くんは頷いてみせた。


「ごめんね、突然混じっちゃって。今日オミくんが売るってメールくれたからさ、だったらって思って一緒に混ぜてもらったんだ。独りじゃなんだか怖くて」


オミくんとは草臣くんのことだ。


「気にしなくていいよ。人数が多いほうが楽しいし」


口ではそういうぼくだったが、心の中では眉をひそめていた。かなり意外だった。いつもなら、五十鈴くんはこういうのに乗ってこないはずなのに……。


笑顔を作っていたはずだったが、心の中の顔がうっかり表に出ていたらしい。五十鈴くんは「今月はちょっと散財しちゃったんだ」と言った。


そういえばつい先日、人気ゲームの新作が発売されたな、なんてことを思い出す。ぼくはゲーム機器の種類が合わないためやったことないが、欲しい人は夜から並んで買うほど人気があるものらしい。


五十鈴くんがそのゲームにはまっていることは知っていた。よく使っている下敷きがそのゲームのキャラクターなのだ。発売されてからまだ日が浅いので、今日は一日中そのゲームに打ち込めるはずなのに、わざわざ10円のために休日に出かけるなんて。


どれだけ金欠なのだろうか。そう思うが、中学生はいつだって金欠だ。タダで10円が貰えるチャンスがあれば食いつくだろう。貰えるなら、夢見うつつだって欲しい。


場所を知っている草臣くんが先頭で走り出す。そのあとに五十鈴くんが続き、最後はぼくだ。五十鈴くんは予め場所を教えられていたようで目的地に着くまで、道のりに関する質問はなかった。


ポツポツと会話をはさみながら目的地に向かう。草臣くんの心が弾んでいるようで自転車のスピードはやや速めだった。信号に掴まる度に悪態が聞こえてきそうでビクビクする。


前に土樹と行ったときより時間をかけないで視界にワゴン車を捉えた。思わず声をあげそうになる。だが、今日は知らないテイで来ているのだ。目の前の五十鈴くんが気づいていないように、ぼくもそう振る舞わなければいけない。


草臣くんが自転車のスピードを緩めた。自転車のまま行くのは気が引けるらしく、駐輪場に自転車を止める。当然無料駐輪場だ。


「あの人だよ」


草臣くんが指を向ける。人差し指はパイプ椅子に座った人をさしており、遠目で見てもその人は土樹と一緒に見た人と同じだった。ここからだと車の後ろ姿を見ているだけなので運転席は見えなかったが、おそらく誰かいることだろう。


五十鈴くんは最初誰を言っているのかわからないようだったが、草臣くんがパイプ椅子に座っている人だと言うと驚きながらも、どこか納得しているように首を振る。


「ゲームだったら間違いなく一番最初に話しかける人だね。ああいう人が一番怪しいんだけど、間違いなく重要なことを話してくれる」


ぼくは苦笑いしか返せない。


暇そうに欠伸をしている男性に、草臣くんが「こんにちは」と挨拶する。


挨拶が自分に向けられて居ることに気付いたのか、おじさんはぼくたち3人を見た。満面の笑みを浮かべる。


「お―、いらっしゃい。よく来たね」


皮肉なことに、コンビニなんかで聞く口ばかりのものじゃない、心のこもった優しい声だった。


パイプ椅子に座っていた人は聞いていたように警戒心を抱かせない、優しそうなおじさんだった。座っているおじさんは、薄くなりはじめた天頂部を恥ずかしがることなくぼくたち見せている。口髭はないが、顎髭は少し濃い。剃ったように見えても、顎の辺りは剃り残した髭が見えていた。


ずっと日差しの下にいるためか、肌は焼けている。けれど今居る場所が日陰なので真っ黒というわけではなかった。


「あの、一万円売りたいんですけど」


余計な世間話は一切なく、草臣くんが本題を告げる。


おじさんは「あいわかった!」と言わんばかりに手で膝を叩くとパイプ椅子から立ち上がって車のドアを開けた。


二人の顔が緊張と興奮でにやける。ぼくはと言えば、そんな暇はないとおじさんが車に潜った隙に運転席を盗み見ていた。やっぱり一人、運転席に座っている。帽子をアイマスク変わりにして寝ているようだったが、前来たときも今も顔が見えないので同じ人かどうかわからない。なにか特徴がないかと探していると、おじさんが車から出てきた。


「ありがとな―、助かるよ」


おじさんの手には四角い缶があった。片手で持てそうなそれを、大事そうに両手で持っている。高さは親指程度だろうか。正方形に近い缶は、なにか入っているらしくガシャガシャと音がした。


落としたかぶつけたか知らないが、蓋も側面もべこべこだ。錆びた音をさせながらおじさんが蓋を開けると、中には10円玉が底を隠すほど入れられていた。


それを見て、草臣くんが「おー」と声を出す。おじさんはニカッと笑って、フライパンを返すように10円玉を揺すってみせた。


10円が小躍りし、底を掻く音がした。正直、止めて欲しかった。ぼくはこの音が嫌いだ。金属と金属がこすり会う音は、鳥肌が立つほど嫌い。耳を塞ぎたくなる衝動にかられる。できるだけ音から離れようと一歩後退したところで、おじさんは揺するのを止めた。


「さて、暑いのに待たせるのも辛いだろう。さっそくだが、一万円札を見せてくれるかな?」


いよいよか。ぼくは目をつむり小さく「今からぼくは名前矛盾だ」と宣言する。


おやすみ、夢見うつつ。選手交代だ。


目を開け、息を吐く。取引の様子を見逃さないよう全神経を目元に集中させた。



草臣くんは財布から出した一万円札を一枚、おじさんに渡した。縦に三つ折りせんが入っていた。ぽち袋にでも入っていたような跡があるそれをおじさんに渡すと、おじさんはジッとお札を凝視しだした。


お札の中央を片手で掴み、なにかを見ている。透かしを見ているのだろうか。折り目が気に入らないのだろうか。理由はわからなかったが、凝視は数秒で終わった。


おじさんは見せ付けるように息を吐き、首を左右に二回ずつ振る。残念そうな空気に、なにかあったのかと草臣くんの顔が不安に染まった。五十鈴くんの顔も険しい。


買取拒否か?


そう思う直後、さっきまでの暗い表情はどこへやら、おじさんは笑顔になっていた。「ありがとう」と言って、一万を持っていない方の腕で尻ポケットから財布を取り出した。お札専用の、小銭が入らないお財布だ。見るからに安物の、二つ折りにできないタイプ。中はしきりによって三つに区切られており、草臣くんの一万円をぼくから見て一番左のポケットに入れた。その隣から別の一万円を出すと草臣くんに渡す。それから、缶に入った10円を一枚、草臣くんに渡した。


買取成立。


草臣くんは安心したように息を吐いた。10円を握りしめたあと、小銭入れに落とす。お母さんのお手伝いをしてお駄賃を貰った少年のような晴れやかな笑顔だった。


「ありがとうございました」


「いやいや、こちらこそありがとうね。 ところで……もうほかに売ってくれる一万はないかな?」


草臣くんは首を横に振る。そりゃそうだろう。一枚ずつ交換するなんて効率が悪すぎる。


「あ、俺あります」と五十鈴くんが挙手をしたのはそのときだった。


「ほんとかい? 助かるよ」


破顔するおじさんにつられて、五十鈴くんも笑顔になる。


五十鈴くんは三万円、売った。そのときも手順は草臣くんのときと同じで、五十鈴から三万円受け取るとおじさんはお札を確認し、残念そうな表情を浮かべる。次に笑顔になり、お礼を言ってから自分の財布を開き、五十鈴くんの三万円を入れたあと、別のポケットからお札を三枚、五十鈴くんに手渡す。それから10円を三枚渡して、取引成立だ。


三万円売った五十鈴くんはもうないだろうと思ったらしく、おじさんなぼくに視線を向ける。ぼくは黙って首を振り、一万がないことを示した。


「そうか……。もしあったらぜひ売ってくれよ。ぐずぐずしてると締め切っちゃうからな」


草臣くんと五十鈴くんは頷いて、ぼくは頷かなかった。


五十鈴くんはそそくさとお札を財布に戻す。見せびらかすように一万円を出しているのは落ち着かないのだろう。おじさんと別れたあとでガラの悪い人に絡まれたりしたらたまらない。


結局、ぼくは四枚交換されたお札を見たが、偽札かどうかわからなかった。見た目だけで言えば、本物だった気がする。草臣くんたちに渡されたお札は使い込まれたように見えたし、ピン札でもなかった。


偽札かどうかはわからなかったが、会話内容はピタリと一致した。確かに、ほかに一万を売った人と同じようなことを言ってきた。


10円を渡すとき、おじさんは損を心配している様子は見られなかった。一万円の取引させる数を自分から増やそうとして、さらにはリピーターにしようとしている。


いったいなにがしたいのか? 目的はなんなのか? 慈善活動にしては疑問が残る。もっとはっきりとした理由があるはずなんだ。それはいったい――


「――って、だめだだめだだめだ。忘れるな、名前矛盾」


小声で囁く。余計なことは考えるな。ぼくの目的を思い出せ。名探偵を気取るな。ぼくは名探偵にはなりえない。


深呼吸を二回。唾を飲み込み、さらにもう一回。大丈夫。これで大丈夫。


目的を再確認。土樹が一万を売って、損をしないようにしなくちゃいけない。


よし。OK。


これまでに見たことと売った人の証言から、取引内容はだいたいわかった。怪しいところはいくつもある。けれど、取引の手順は簡単で怪しむべき点は少ない。あとは偽札かどうかだけ。


このまま帰ろうかとも思ったが、やり残したことを一つだけ思い出す。


明日もまた土樹とここに来ることになっているが、手間はできるだけ省いたほうがいい。


あと一つだけ、目的から逸れない程度で、少しだけ踏み込んでみることにした。


「売りたいんですけど、なんか怖くて……。ほら、こんなこと言うのはアレですけど、おじさんいかにも怪しいし」


ぼくの言葉に、三人は驚いた顔になる。おじさんは目を見開いていたが、すぐに大口を上げて笑い出した。


「そりゃそうだ。確かに怪しいわな」


「ええ、ぼくにはよくわからなくて。なんで一万を一万以上で買うのかなって。その理由が」


知りたくて。その言葉は続けられなかった。そのときのおじさんの表情が、今でもぼくは忘れられない。


笑顔だった。確かに笑顔だった。けれど口元と目元が歪み、一瞬見えた汚い笑顔。あの一瞬が、脳裏に焼き付いて離れない。


背筋が凍るような笑顔は、ぼくだけしか気づいていないようで、二人はおじさんをただ見ていた。


「一万を買う理由か……。そうだね、ほんとは教えたくないんだけどね。でも、教えないと君は売らなそうでしょ?」


喉がひくついて声が出なかった。首を縦に振る。大人の男性に対する純粋な恐怖だった。


「だよね、なんだか君はそう見えるんだ。うーん……そうだね。ほんとは教えたくないんだけど。まあ、いいか。教えても、君たちみたいな人なら特に問題ないと思うし」


おじさんは10円の入った缶の蓋を閉め、車に潜っていく。次に出てきたとき、手に持っていたのはノートパソコンだった。缶は車に置いてきたらしく、持っていない。


「誰にも言っちゃダメだよ。これはここだけの秘密だ。いいね。おじさんたちが一万を買う理由。それはね……」


ノートパソコンの画面を見せる。画面はExcelが開かれており、そこには番号が打ち込まれていた。


「一万円に書いてある通し番号。そのなかから特定の番号を探したいからなんだ」


Excelにある番号。それはお札にかかれている通し番号だった。


「特定の番号ですか……」


草臣くんが呟く。おじさんは「ああ」とExcelの一番下の番号を指差した。


「これはさっき、君たちが来る前に売ってくれた番号だよ。あとで君たちが売った番号もここに入れるんだけど、今やってみようか」


例を見せるように、おじさんが財布から一万円を抜き取る。しきりでわけられたブロックの一番左。さっき入れた場所で間違いない。おじさんは慣れた手付きで四枚全て入力した。これで、四段数字の列が増えたことになる。入力し終わった画面を見せてくれたのだが、さっきの番号を覚えていたわけではなかったので、ほんとに増えたかどうかわからない。


おじさんは満足げに一万円の端を揃えて、財布に戻す。


「君たちは知ってるかい? この通し番号の数字によっては、高値で取引されていることに」


おじさんの言葉に、ぼく以外の二人が反応する。


「例えばこの番号が全て同じだった場合、これは一万円だけど一万円以上で売れる。コレクターがいてね、珍しいお札だから買い取ってくれるんだ」


「でも」


五十鈴くんが言って、慌てて口を塞ぐ。話しを切ってしまったことを申し訳なく思っているようだったが、おじさんは続きを促した。


「でも、それってあまりに確率低いような……」


「そうだよ。君は鋭いね」


おじさんが誉めた。五十鈴くんは、ははは、と困ったように笑う。


「確かにぞろ目を見つけるのは大変だ。ぞろ目の場合は目立つから、御守りにしてる人がいてもおかしくない。だから、おじさんたちは考えたんだ。ほかの数字も価値をつけれないかって」


価値がないのなら、付ければいい。そうしたら売れる。いかにも自然で合理的な考え方だ。


おじさんは少し溜めを作り、ぼくたち全員の顔を見た。特にぼくの顔に時間を割いたが、答えが出ないことを見越したのか、おじさんは答えを言った。


「生年月日だよ」


お札の左上と右下には、必ずアルファベットと数字が書かれている。ますアルファベットが二文字、次に数字が6つ。そしてアルファベットが一文字。計9個の文字列。


おじさんはパソコンを腿の上に置いて説明してくれた。


「アルファベットは抜きにして、数字を見てくれ。この6つの数字は、生年月日と、そして年齢だ。おじさんは11月8日生まれの42歳。数字にすると110842。この数字になる。別に数字だけじゃ意味を持たない。だから、ここにある一文を付け足すんだ。


『誕生日プレゼントにいかがですか?』


つまり、誕生日に生年月日と年齢の入ったお札をプレゼントする。世界に一枚のお札だ。なによりの記念になる。さらに、6桁の数字の前にあるアルファベット。それが相手のイニシャルだったりしてみろ。感動だ。後ろのアルファベットが送り主の名前のイニシャルともなれば奇跡に近い。もちろん、数字だけでも全然構わない。アルファベットに意味を持たせるかどうかはその人次第だからね。どうだい? わかったかな。おじさんが一万円を買う理由が。おじさんたちはね、探してるんだよ。ぞろ目か、今注文が入っている数字のお札を」


五十鈴くんがなにかわかったように大きく頷く。


「だからさっき売ったときに残念そうな顔をしたんですね」


「あはは、見られちゃったかい? 悪いね。実はそうなんだ。君たちの売ってくれた番号は、おじさんたちの探していたものじゃなかった。だからもし一万円があったら持ってきてくれるかな。人助けだと思ってさ」

 

一万売買終了後、寄り道することなく帰宅することになった。お昼という時間ではなかったし、今ここにいるのは10円が惜しい者たち。外で食べる余裕はない。どこかで一万を使ってくれることを期待していたぼくは残念で仕方がなかった。


帰ってからすぐ解約済み携帯に仕入れたばかりの情報を入れ、同時に頭の中を整理する。立ち漕ぎしてでかいた汗を乾かす間に、帰ったことを土樹にメールした。すぐまた電話かメールが来るかと思い携帯を見つめていたが、インターホンが鳴った。


「いるか―? いるよな―?」


「…………」


土樹を招き入れ、今日あったことを報告する。特に一万円を買う理由を説明すると、土樹は一旦納得し、次に首を傾げた。


「それは、なるほど、なのか?」


「どういう意味かな? 景色写真」


口元がにやけているのが自分でわかる。敢えて言わせようとすることを楽しんでいた。ぼくだけ働いたのだ、罰は当たらないはず。


土樹はわざとらしく咳払いしてから話し出す。


「まず、一万円を買う理由だが無駄が多すぎる」


「無駄って?」


「欲しい番号が欲しかったらその番号だけ買い取ればいい。わざわざ別の番号を買う必要ない」


「わからないよ。今は注文が無いだけでこれからのことを考えて買っているのかも」


「じゃあなんで一万円を買うのに一万円札を出すんだ? 渡した一万が注文の番号なこともあるだろう。俺だったら渡すのは五千円か千円にする。そうなれば手元に一万は残ったままになる。……そういえば、そいつはパソコンに番号が打ち込んであったんだったな。そこに売ったやつの住所か電話番号ってのは? あるんだったらあとで電話して、なんてことも考えられるが……」


ぼくの表情からなにか読み取れたのか、土樹はみなまで言わなかった。


もしそれを入力する必要があるのなら、ぼくは草臣くんたちの手を引いて逃げたに違いない。


「ふーん。じゃあ、その番号はなんのために打ち込むんだ? 名前矛盾は知ってるのか?」


「うん」


「じゃあさっさと教えてくれよ。理由ってのは?」


それぐらい、簡単に答えが出るじゃないか。最後まで土樹に推理させたかったが、頭を使うのはぼくの仕事だ。ぼくはおじさんに聞いた内容をそのまま説明する。


「番号は、無駄なお金を出さないようにするため。少し考えればわかるけど、この一万円売買には抜け道が存在する。一万を売って、一万と10円を受け取る。その一万を売れば、また一万と10円が貰えて、また一万を売れば……。この繰り返しで、ずっと10円が手には入っちゃう。これを防ぐための番号だよ。一度手元に来たお札が入って来ないように、番号は必要なんだって」


「なるほど。そこは納得できた。それなら番号は絶対必要だな」


「まあね」


ぼくが言ったズルを神栖くんや草臣くんたちがそれをしなかったのは、良心が働いたのかただ気付かなかったのかわからない。友達を信じるなら前者と言うべきだろうか。


土樹が聞いた中でも無限に10円を得ようとした人はいなかったはずだ。


みんな優しい。


「じゃあ、話しを戻すぞ」


土樹は咳払いをする。


「もしそのおじさんの話しがほんとで、生年月日が印字された一万円を買いたいなら、多少選別があってもいいはずだ。生年月日で一番大きな数は12月31日生まれの99歳。すなわち番号は123199まででいいはずだ。それ以上は除外して考えるべきだが、無差別に買ってるのはおかしい」


「なるほど」


どうやら土樹は100歳以上を考慮していないようだ。9月30日生まれの100歳だったら番号は930100。100歳以上ならまだまだ大きくなる。123199より遥かに大きい数まで買い取る必要があるはずだが、どちらにせよ買い取る幅に制限があってもいいという考えを否定する材料にはならない。


「買い取ってくれる期間が決まっているのもおかしいな。欲しい番号があるんだったら、それが見つかるまでいるのが普通だ。途中で消えちゃダメだろ」


「口だけって可能性があるかもしれないよ。終わりを決めれば焦りが生まれるからね。常駐しないってわかれば売る人は増えるでしょ。あとは何年も続く閉店セールって例もある。終わり終わりと言いながら、実は終わらないのかもしれない」


2つの可能性を上げたことで、土樹はなにも言えなくなった。けど、ぼくの意見もやっぱり可能性の域を出ない。真実は訊いてみるしかないだろう。


目的の番号がほかの場所にある可能性だってある。ここに止まり続ける理由があれば別だが、移動しながら番号を探すのもアリだ。


土樹はさっきのやりとりを忘れたように表情を変える。


「で、一番重要なことだが、その渡された一万円。それは偽札だったのか?」


土樹がズイッと身を乗り出して訊く。


やっぱりそこを訊くか。


もしわかっていたら伝えているはず。それなのに、結果を伝えていないのだからいろいろ悟って欲しいものだ。


「ああ、うん……そうね。偽札かどうかね……ああ……えーと」


一瞬だったがぼくが見た一万円。それは……。


「ぼくが触ったわけじゃないから正確にはわからないけど、見た目は本物だったような気がする。ほんとは銀行に預けてみろって言いたかったんだけどね。さすがに言えなかった。買い物も食事もしないでそのまま帰ってきたから正確にはわからないな」


「なんだよ、言えば良かったじゃんか。それは偽札じゃないのか? 銀行で確かめて見ようぜって」


そりゃあ、土樹だから言えることだ。


「ぼくも売ったなら言えるけどね、今回ぼくは遠慮してたんだよ? こいつは偽札だと怪しんでだから売らなかったなんて思われなくないじゃんか。ぼくたちの友人や絆にひびが入ったらどうしてくれるんだ」


「いや、思ってるんだろ?」


否定はしない。


「一万円が偽札じゃないとすると、残る候補のはあと一つだな」


「候補?」


そんなものあったっけ? ぼくが問うと、土樹は驚愕の表情を浮かべた。


「おいおいおい、まさか名前矛盾ともあろう奴が気付いていないわけじゃなかろうな。

一万円が偽札じゃないのなら、残る偽札候補は、いや偽金候補はあと一つしかないだろう」


土樹は左手に『1』を、右手で『0』を作る。


「渡された10円玉。それが偽物なんだ」

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