「その一万、ちょっとでも増やしたくないか?」
「おい、名前矛盾」
そう呼び止められて、ドキッとした。その別称を使うのは久しぶりのはずなのに、土樹の言葉には躊躇が見られない。
ぼくはゆっくりと振り返る。そこには予想通りの、というか15分前まで見ていたのと同じ姿がそこにあった。
砂内中学の制服。夏服なのでブレザーはないが、胸に校章の入ったポロシャツを着ているためどこの学生か一目でわかるようになっている。ちなみにぼくは半袖のワイシャツだ。ポロシャツは親が買ってくれなかった。
「なに? えっと……景色写真」
「どうしたんだよ、言いよどんで」
「あまり胸を張って言える名前じゃないでしょ」
そう言いながら土樹に歩み寄る。別称を呼ぶのは一向に構わないが、場所を考えて欲しいものだ。
放課後の帰り道は、まだ知ってる顔がチラチラ見えるほど人の流れがある。砂内中があちこちから人を集められるほどの人気校じゃないため、通う人はみんなこの辺りに住んでる人なのだ。もちろんその中にはクラスメートだっている。
それなのに別称を叫ぶなんて、良い意味でも悪い意味でも「さすが土樹」としか言えなかった。
「ふむ……それもそうか。なら、場所を変えよう。俺の家でどうだ? 夢見」
本当なら、こうして遊ぶ約束をすること自体間違っている。ぼくと土樹の関係は『小学校が同じだった顔見知り』。放課後二人だけで遊ぶなんて小学校卒業すると同時にした誓いを破る行為に等しい。
演技するように顎に手を当て、そっと辺りを見渡す。クラスメートから指を刺されている気配はない。なら、さっさと決めたほうが良さそうだ。口だけに笑みを浮かべる。
「いいよ。今日は誰とも遊ぶ約束してないから。一緒に遊ぼうか、土樹くん」
* * *
ぼくと土樹の家は近い……というか、同じ公共団地に住んでいる。
それがどこまで知られているかわからないが、並んで帰るのは少しマズい。それくらいと思われるかもしれないが、注意してしすぎることはない。火のないところに煙は立たない。それを参考にするなら、燃えやすいものを最初から除外しておくに限る。土樹が先を行き、充分に見えなくなってから歩きだした。
学校から徒歩5分ほどで、ぼくの家が見えてくる。
五階建ての集合住宅。新築ではないため、外壁はそれなりに汚れている。凸型のそれが平行に三棟並び、ぼくの家は一号棟にある。なぜ凸型かといえば、出っ張りの部分にエレベーターがあるからだ。最近ここに住む人に高齢者が多くなったからということで、最近設置された。なのでそこだけ壁の色が明るい。
エレベーター前に行くと、土樹が待っていた。軽く手を挙げて合図を送る。一応振り返り、それがぼくに向けられていることを確かめた。
「びっくりしたよ、いきなり」
ぼくが来たからか、それまで5階にあったエレベーターを呼ぶ。
「なにがだよ」
「いきなり別称で呼ぶんだもん」
ああ、そのことかと土樹は肩を上下させた。ぼくからは背中しか見えなかったが、どうやら忘れているようではないようなので安心する。別称を使う意味も、それを使うということがどういう意味を持つかも、土樹はちゃんと覚えているようだった。
もし忘れているようならば、その瞬間にぼくたちの関係は終焉を迎えることになるだろう。それはぼくにとっても土樹にとってもあまり良いことではないはずだ。
しかし、それをわかっていながら、それでも別称でぼくを呼んだ土樹には、なんというか、もうため息しかでない。内心かなり呆れながらも、ぼくは声を落として土樹に確認する。
「緊急なの?」
土樹は一秒ほど悩んだ。「ある意味」
呼び止められたときから予想していたことだが、改めて緊急と知ると心臓に来るものがある。けれど、名前矛盾と呼ばれたからには手伝わなくてはいけない。そういう約束だ。
エレベーターに乗り、五階と四階を押す。ぼくは五階、土樹は四階だ。明確に計ったことはないが、階段を降りるだけなので歩いて一分で行き来できる距離に、お互いの家はある。同じ団地ということで保育園のときからお互いの家に泊まりあったし、鍵を忘れて家に入れないときは親が帰ってくるまで待たせてくれたこともある。親同士も仲がいい。
簡単に言えば仲のいいご近所さん。これに尽きる。
「ぼくは一旦着替えに戻るけど」
「そうか」
エレベーターは四階に着く。土樹は降りなかった。
「…………あの」
ぼくがなにか言い掛けると、土樹は『閉』を押して金属箱を密室にする。エレベーターはそのまま五階へ。
「待つよ」土樹が言った。さいですか。
ぼくの家も土樹のところも両親が共働きなので学校が終わるころにはまだ誰もいない。
鍵がかかっており、誰も居ないとわかっていながらも一応「ただいま」と言ってから靴を脱ぐ。鞄は玄関の近くに置いた。
「すぐ戻ってくるから」
土樹にそう言い残して自分の部屋へ。制服を脱ぎ、動きやすいものに着替える。外用というよりジャージに近い服装だ。どうせ土樹の部屋に行くまでなのだから、階段の昇り降り程度しか外に居ないだろう。その間に人に見られる恐れもあったが、その程度ならどうってことない。同級生がこの棟にいないことは確認済みだ。明日も履く制服のズボンはシワにならないようにハンガーに吊し、汗で湿ったワイシャツは洗濯かごに入れる。
一人待たされるのが嫌で土樹が部屋に入ってくるかと思ったが、そんなことなかった。
土樹は勝手に冷蔵庫からお茶を取り出し、喉を鳴らして飲んでいた。勝手知ったるなんとやら。幼なじみに遠慮はない。
一杯目を目の前で飲み干した土樹はふぅと一息。そしてなんの躊躇もなしに二杯目を注ぎだした。まだ飲むかこのやろう。
「お、もう戻ってきたのかよ。ゆっくりで良かったのに。ちょっと待ってろよ。今飲むから」
「いいよもう、ゆっくり飲んでて」
諦めたように首を振り、土樹のそばに座る。ぼくもお茶を飲もうかと思ったが、どうせすぐ出ることになるのだ。土樹の家で貰うことにしよう。
言葉をそのまま受け取ってくれたのか、土樹はペースをあげることなくお茶を飲む。
「なあ、どうして家によって麦茶の味って違うんだろうな」
「メーカーが違うからでしょ」
「いや、確かお前のとウチのは同じはず」
「……どうして知ってるのか詳しく問い詰めたいけど、水の量が違ったり出過ぎたりするからでしょ」
「ふーん。そんなもんか」
すぐ出ることはわかっているのでテレビも扇風機もつけない。お茶を冷蔵庫に戻した土樹が「暑いな」と言ったので団扇を渡したら、黙ってしまった。それでも暑さが我慢できないようで一応受け取ってはいたが。
団扇が空気を叩く音を聞きながら、ぼくは二台の携帯の電池残量を確認した。
二台ともスライドじゃない、開くタイプの携帯。色はブルーとシルバー。ブルーのほうは傷だらけで、画面に貼っている保護シートも傷付いている。見る分には支障がないのでつけたままにしているが、そろそろ剥がしてもいいかもしれない。背面も側面も、手で触るとザラザラが不快なほど感じる。でこぼこのコンクリート面をなんどもスライディングさせたせいだろう。何度落としたか覚えてないが、これだけ傷付きながらも誤作動なしとはさすがとしか言いようがない。それに対してシルバーの方はまだ持ってから日が浅いため、傷はほとんどない。大きな傷はそれをつけた日にちを覚えているほど、大事に扱っている。両方とも電池は充分だった。
二台の携帯はそれぞれ役割がある。
シルバーは通常の、電話もメールも出来る、いわゆる普通の携帯。これは普段から持ち歩く用だ。そしてブルーは、すでに解約済みの携帯、名前矛盾専用携帯。
ぼくが名前矛盾の名称で動くときは必ずこの携帯を持ち歩くようにしている。電話もメールもできないが、辞書や計算ツールは生きているし、なによりロックがかけられるメモ帳の存在が大きい。
事件解決に重要な情報は全てこの携帯に打ち込み、保存してあるのだ。
といっても、警察が羨む極秘情報落を書き込んでいるものでもなかったので、もし壊れたり落としたりしてもぼくは痛くも痒くもない。公開されて困るような個人情報はすでに削除済みだ。
別称を呼ばれて解決した事件の情報は、送信ボックスにまだそのまま残っている。普段はメモ帳に打ち込むのだが、事件ともなると情報の整理に長文を打つこともあるため、メモ帳程度の文字数では到底収まりきらない。なので打てる文字数が多いメールのほうに情報を追加している。清書すると情報が落ちすぎたり、あとから見返したときに文字以上の情報を受け取れなくなるからだ。
メモ帳に入りきれなくなるのは事件と名の付くものだけなので現在並んでいるのは三つ。今回はここに追加されるべきものなのか、今はまだわからない。どちらにせよ、最初はメモ帳に打ち込むことになるだろう。
50あるメモ帳の欄は、ほとんど使われている。
どんなものがあったっけと思って画面にある文字だけ読んでみると、これがなかなか面白かった。やはり人間は忘れる生き物らしく、メモ帳の保存されていた内容の大半を、ぼくはすっかり忘れてしまっていた。約7割と言ったところだろうか。残りはやはりというかなんというか、最近起こったものばかりで、しかしそれでもうろ覚えだ。
当時は絶対に忘れることないだろうと思っていたことでさえ、忘れてしまっている。それだけ名前矛盾として活動したということであり、生きた証でもあるのだけれど、若干の感傷がないわけでもない。名前矛盾の過去を取り戻すという意味でも、いま一度過去のぼくと対面したいという衝動にかられるが、おそらくこの中にはぼくが解決できなかった、盛大に間違ったものも含まれていることだろう。
これから問題に立ち向かうというのに、余計なことをして士気を下げたくない。これは一思いに消去すべきだろう。惜しみながらも、もう使うことないであろう情報を消去して空きを作っていると、土樹の吸飲タイムが終わった。
「よし、帰るか」
と、土樹が言った一分後。ぼくたちは土樹の家の前にいた。
「お邪魔します」と言いながら土樹の家にあがる。了承も許可もどちらの声も返ってこない。ぼくと土樹しかいないのだから当然だ。それを知っている土樹はただいますら言わなかった。さっきぼくの家に来たときもお邪魔しますなんて言わなかった。そういうところが、ぼくと違うところだ。
ぼくと土樹は見事なまでに正反対。これを知るだけで、安心できる。
「まあ座っててくれよ。俺は着替えてくる。適当にくつろいで待ってろ」
そう言われたので、自分の家のようにくつろぐことにする。冷蔵庫からお茶を出すと、二人分テーブルの上に並べておいた。
一口飲む。なるほど。土樹の言う通り、お茶の味が違う気がする。聞いた話だと、確か同じメーカーの商品を使っているはずなのに。濃い薄いで語れる話ではないのが、また不思議なところだ。
「っと、そんなことより……充電器充電器」
部屋をキョロキョロと見渡す。間取りも作りも同じ部屋。コンセントの位置もだいたいわかるのでそこを中心に探していると、テレビの近くにささったままになっている充電器を見つけた。
「借りるね」と一応断っておく。
解約済みの携帯に接続した。ぼくも土樹も同じ会社の携帯を使っているのでできる芸当だ。他人の電気なのでやりすぎは問題だが、ちょっとぐらいなら大丈夫だろう。
テレビを点けてチャンネルを回していると、土樹が戻ってきた。格好はラフ……ではなかった。これから出る予定でもあるのだろうか。確かに、時間にしてもまだ遊ぶ時間は十分ある。このあと誰かと遊ぶ約束をしていたとしても、なんも不思議ではない。
土樹はテーブルに置かれたお茶を見ると、誰のかも訊かずに一気に飲み干した。
用意しておいてなんだが、まさか飲む干すとは思わなかった。さっきぼくの家で飲まなかったっけなと思ったが、わざわざ訊くような真似はしない。
まるでビールを飲み干したサラリーマンのように唸ると、コップをテーブルに叩き付けた。
「ふ―」と土樹が息を吐く。視線が下がり、テーブルに残っているもうひとつのお茶に向けられる。取られてはたまらないので、口をつけてアピールした。
三杯飲んでまだ飲み足らないとは、土樹はいつから水分を採っていないのだろうか。
お茶の持ち主がわかると、土樹は口を尖らせてお茶を汲みに行った。戻ってくるころには、子どもっぽく拗ねた顔はどこへやら、その顔は真剣なものに変わっていた。
「さて、名前矛盾」
お茶を片手にぼくに向き合う。
「なに?」
「今お前の貯金はいくつある?」
変な質問に、ぼくの眉間にしわが寄る。
予想していた反応らしく、土樹は笑いながら言葉を加えた。
「お前の貯金、現金でもいいや、とにかくお前の全財産はどのくらいある? もっと言えば、一万円は何枚くらいある?」
おかしな訊き方だった。ぼくを別称で呼ぶということはぼくの助けを必要としているときだ。そこで貯金を訊いてきたということは、急にお金が必要になったのかと思った。でも、土樹の顔に焦りや急ぎは見られない。なかったらなかったでいいや、そうも取れるような顔だ。
疑っても仕方ないので素直に答えた。
「一万円以上はある。でもそれがどうしたのさ? 借りたいの、ぼくから」
「いいや」
あっさりと土樹は否定する。
「その一万、ちょっとでも増やしたくないか?」
「……言ってる意味がわからない。ギャンブルにでも行こうって話しなら、ぼくは降りるよ」
「違うよ、違う。全然違う」
土樹は首を横に振る。そして、ぼくに顔を近づけて言った。
「一万円札を買い取ってくれるところがあるんだ。プラス10円、すなわち10010円でな」
* * *
土樹から教えてもらった場所は、ここから少し離れた場所にあった。自転車で15分ほどだが、途中で坂道が2つもある。どちらも急じゃなく立ち漕ぎしなくてもなんとか登れる坂なのだがその分長い。
目的地の近くにはバス停があるはずだが、収入のない中学校だ、なるべく余計なお金は使いたくない。
自転車にまたがってペダルを漕ぐと、気持ちいい風が頬に当たった。放課後ということで、日はだいぶ傾いていたせいもあるだろう、だいぶ涼しい。まあ、だからといって汗をかかないというわけじゃない。坂をひとつ超える辺りには、日頃の運動不足もたたって股がつらくなっていた。
ちなみに、あれからぼくは一度部屋に戻って、着替え直している。ぼくだってお年頃だ。オシャレがなんなのかいまいちよく分かっていないが、変な格好で出歩くことをよしとは出来ない。
「あのさ正直、ぼくはよく状況が掴めていないんだけど、それはどうなの?」
併走できるほど広い道に出るのを待って、土樹に訊いた。
「どうって?」
「怪しいことこの上ない」
ピシャリと言い切ると、土樹は「俺もだ」と肯定する。
「でも、興味はあるだろ?」
そりゃあるけどさ。
「なんでぼくを誘うのさ、景色写真」
ただ一万円を売るだけなら、別にぼくを誘う理由はない。ぼく以外にも気軽に誘える友人はいるはずだ。
なのになぜぼくなのか。そしてなぜ名前矛盾と別称を使うのか。別称を使うときは助けを求めるときだ。まさか手持ちに一万がないから一緒に足してくれなんて言わないだろうな。
質問に答えずに土樹は自転車を走らせる。横顔をみる限り、ふざけた理由で連れ出したわけじゃなさそうだ。
自転車に乗りながら、ぼくは辺りに気を配る。部活に入っていないクラスメートも多い。こんなとこ見られたら後々面倒だ。
言い訳を考えておいたほうがいいかもしれない。
元々ぼくの役割はいろいろと考えることなのだが、こういったことに頭をつかいたくない。
「その噂を聞いた友達……服和くんだっけ? と一緒に行けばいいじゃん。確か服和くんと同じ部活だったよね? 今日こうやって土樹がいるってことは服和くんも休みでしょ」
土樹は「噂じゃねえ、真実だ」と言ってから、黙った。その前で、ちょうど信号が赤に変わる。並んで止まったとき、また土樹が口を開いた。
「偽札の可能性があるんだ」
土樹の顔は、久々のスリルを楽しんでいるようだった。
「偽札のほうは噂だがな。でも、そんな噂が出る理由はなんとなくわかるだろ? だって一万は一万の価値しかない。それを10円だけだが高く買ってくれるんだ。そこになにかないわけがない」
まあね。ぼくは首を振る。
「調べて欲しいんだ、その一万が偽札か、もし偽札じゃないんならそこにどんなメリットがあるのか。もし俺が売った場合、得をするのか損をするのか。どうだ、名前矛盾。興味はわいてきたか?」
「なるほどね」
興味がどうかは答えずに、ひとりで納得した。まだ青にならない信号をいいことに解約携帯のメモ帳に『偽札』と打ち込む。
確かに、これを友達と調べるのは少し無理がある。スリルを楽しむにはちょっとやり過ぎだ。よほどの信頼関係と、よほど興味がないとモチベーションが続かない。
「さて、じゃあまずは知りたいことを明確にしようか。一番知りたいことはなに?」
殺人事件なら犯人を探し出せばいい。迷路に迷い込んだら出口を探し出せばいい。ゴールがわかればそこに行き着く手順も自ずと見えてくる。さっきの土樹の目的はバラバラだ。
偽札なのか、メリットはなにか、損をするかなんて一度に調べられない。
「俺が損をするかどうか。これが一番だな。一万売って損をしたらシャレにならない。一万なんてめったに使わない大金だぞ。お年玉ぐらいしか見ないもん、『無くなりました』じゃ笑えねえ」
「それだけ?」
「それだけかどうかっと言われるといろいろ付け足したいことはあるが、最優先することはそれだ。最悪、一万円を渡して一万円が返ってくるだけでもいい。10円なんて、正直そこまで求めてないしな」
「一円を笑うものは一円に泣くって言うけどね」
「じゃあ10円を笑ったらどうなるんだ?」
「さあね。試してみるべきかもしれない。今回のことから新しいことわざが生まれるかもしれないね」
「ことわざなんて、毎日生まれるさ」
「ほー」
「ただ、定着しないだけだ」
ごもっとも。
先ほど打ち込んだ偽札の文字の下に『目的、損をしないか』と打ち込む。これで目的がはっきりした。
「損をしないとわかったら売るの?」
「そりゃ売るよな」
「了解」
ぼくが協力するとわかって土樹が笑顔になる。うんうんと首を降った。
「そうと決まれば名前を決めなきゃな。そうだな……『一万円買収事件』でどうだ?」
どうだ、と言われても。
「そもそもこれは事件なの?」
「そうか、なら『一万円買収に関する疑惑』……いやでもそれじゃ語呂が悪いな。もっとズバッとわかるような……偽札と決めつけるのもどうかと思うし……いやでもやっぱり……」
「青だよ、景色写真」
二つめの坂を登ると、大きな十字路が見える。左に曲がると業務用スーパーがあり、右に曲がってしばらく進むと駅に着くはずだ。
お母さんがよく業務用スーパーで買い物するので、車ではよく見る場所だが自転車で来たのは久しぶりだった。
土樹は十字路を左右どちらも曲がらずにまっすぐ進んでいく。その先になにがあるのか、ぼくはよく知らない。確かレンタルビデオ店が一つあったはずだが、それ以外はよくわからない。この辺りは駅前に比べて遊べる場所がないためほとんど来ないのだ。業務用スーパーの広すぎる駐車場や私立大学がこの辺りにあるため、買い物できる場所も少ない。
十字路を進むと、また十字路に当たった。今度は右に曲がる。
二車線を左に見ながらしばらく行くと、「この辺りだ」と土樹が言った。歩道を自転車で進んでいるため、土樹の背中しか見えない。
この辺りと言っても、それらしき店は見当たらない。土樹も自転車を止めない。
まず肝心の店がなかった。看板はあちこちに見えるが、どこかの会社の名前だ。聞き慣れた名前はない。
「というか、まず名前を聞いてなかったね。なんて名前?」
「土樹 空海」
自転車じゃなければ蹴りを入れてるところだ。
「なんていう名前の店が買い取ってくれるの?」
「さあ、知らね」
「ちょっと待って、じゃあ土樹はなにを目印に探してるの?」
「車だ」
車?
「まあ、ついてこい。写真をもらってるから大丈夫だ」
写真……? 思わず撮りたくなるほど特徴のある車なのだろうか。
「ああ、あったあった。あれだ」
土樹が自転車を止めた場所から少し先に、白いワゴン車が止まっていた。いたって普通のワゴン車。まさかあれじゃないだろうなと思っても、あれ以外車はない。
となれば、あれがそうなのだろう。
自転車を止めた土樹の手には携帯が握られている。見ているのは写メールだった。それを白いワゴン車と見比べている。
ナンバーを比べたのだろか、携帯をしまっても「違う」と言ってくれない。
ワゴン車は歩道に乗り上げるようにして止まっていた。抜け道のため歩道が切れている部分に、ガードレールの続きみたいに止まっている。
ワゴン車のスライドドアの近くにパイプ椅子に座った男性の姿があった。腕と足を組んで眠っているように見える。運転席にも一人座っていたが、イスを倒して顔を帽子で隠しているところを見ると、どうやらこちらも眠っているらしい。
通行人はパイプ椅子に座った男性を「なんだこいつは」と盗み見ながら通り過ぎている。冷たい視線に気が付いているのかただ知らないだけなのか、パイプ椅子の男性はどこ吹く風と言った感じで自分の世界に入っていた。
今ぼくたちがいる場所からだと表情までは読み取ることができない。土樹は近寄ることなく、遠巻きに観察しているのだ。ガードレールに片足を置いてバランスを保っている。ぼくはハンドルに体を預けていたが、我慢できなかった。
「ねえ、ほんとにあそこなの? 間違いじゃなくて」
「間違いない。あれだ。あのワゴン車のおじさんが一万を買い取ってくれる。はずだ」
「だとしたら、やっぱりかなり」
胡散臭い。そう言おうとして、周りを考えて口を閉じた。言葉を変える。
「店じゃないんだ」
「移動屋台ってやつだな。お前も見たことあるだろ? クレープ屋とか」
「あるけど、こんなのは始めてみた」
ぼくの知っている移動屋台は、看板があり、カウンターがあり、あるところにはテーブルとイスがあった。だがここはどうだろう。テーブルやイスはない、カウンターらしきものも見当たらない。さらに言えば、看板がない。
「ぼくには、ただ駐車している車に見える」
土樹に言われなければ、そこが店だなんて気づかない。
「それが一般的だ。俺だって気付かんだろうさ」
「服和くんはどうやって気付いたのさ」
「さあ、あいつも聞いた話しだって言ってたからな」
そう言って、土樹は黙った。補足はないらしい。そうなってくると、新たな疑問が浮かんでくる。
あれはただの路駐じゃないのか?
ぼくに指摘されたことで土樹も不安になってきたようだ。ワゴン車を観察しながら誰か客はいないかと頭を動かしている。
いっそのこと土樹が客になったらどうかと提案したかったが、もし偽札だったら悪いので止めておく。
「言いたかないけど、間違った、もしくは服和くんが嘘を教えた、なんてことは?」
「あるかもしれんが」
あるのか。
「そうだった場合、服和のしたかったことがわからない。俺を騙してなにをしたかったんだ?」
「最近、服和くんに恨まれるようなことは? 部活でいざこざがあったとか、CDを借りたまま返してないとか」
「なにもないはずだ。今日も昨日と変わらなかった」
演技じゃないの?
疑問はいくらでも浮かんでくるが、なにも知らないぼくがそこを聞くのは面白くないだろう。服和くんは土樹の友達だ。土樹を信じることにしよう。
「しばらく待ってみる? それとも土樹が直接話しかける?」
「まだその勇気はないな。もう少し待とうか」
土樹が自転車を移動させ、日陰に体を隠す。
あとは待つだけか。時間がかかるなと思っていると、土樹がポンと手を打った。
「ただ待つのは暇だよな。だったらこうしよう。もしあれが一万円買取車じゃない場合、あの車はなんだ?」
もう一度状況を確認する。
ワゴン車は一台。色は白。運転席寝ている人以外、中には誰もいないと思われる。が、ドアは閉められ中の様子を見ることはできない以上可能性の域を出ない。
止まっている場所は大通りに続く抜け道。ワゴン車は歩道に乗り上げるようにして止まっている。ワゴン車に背を向けるようにしてパイプ椅子がひとつおかれ、男性が腕と足組みして座っている。
看板、カウンターのようにあれが“店”を指し示すものはなにひとつ置かれておらず、車にもペイント、装飾の類は見られない。もしかしたら内装を見ればなにか変わるかもしれないが、中は見えない。
以上。これから導かれる結論はただ一つ。
「考えるまでもないじゃない、路駐だよ。それ以外考えられない」
面白くないと言わんばかりに土樹が噛みつく。
「じゃあ、あの椅子に座っている奴はなんて説明する? 駐車してる奴が降りて、椅子を出して座ってるって、明らかにおかしいだろ」
「わからないよ。例えば、あの人が冷房を嫌いだとしたら?」
土樹は質問の意味がわからず眉根を寄せる。ぼくは運転席を指差した。
「あの寝てる人、窓も扉も閉めてるってことは、冷房をつけている可能性が高い。今の時期、夕方で日が当たっていないってことを考えても車の中は暑いだろう。始めは、あの人も一緒に車内にいたんじゃないかな。あそこにいる理由はなんでもいい。待ち合わせでも、ガス欠でもそんなことは関係ない。考えることは“ここを動けない”ってことだ」
“動けない”のか“動かない”のかもしかしたら“動きたくない”のか、候補はいろいろあったら言わんとしていることは同じだったので省略する。
「動けないから眠るって選択肢は、別に不思議じゃない。特に運転は疲れるって聞くからね。ラジオにしても楽しむには限界がある。というわけで、あの人は眠ってしまった。けれど、そこで問題が起きたんだ。助手席に座っていた人は、冷房が大の苦手だった」
物語を語るようにぼくは感情を込める。土樹は頷きもしないまま、それを聞いていた。
「おそらく口論になっただろう。パイプ椅子の人は冷房を止めろ、そんなことしたら暑いだろなどと言って怒った。けれど今の時期、冷房をつけずに車内にいるのは酷だ。結局冷房はつけられた。さて、困ったのは助手席の男だ。車内は嫌いな冷房がかかっている。窓を開けたいが、そんなことをしたらまた喧嘩が始まってしまうだろう。ここは大通りの近くだから、騒音もけっこうなものだ。考えた末、助手席の男は外に出ることにした」
「ちょっと待てよ。もし冷房が嫌いなら、ここまで来るのにはどうしたんだ? その暑い車内でここまで来たのかよ」
土樹はぼくの顔を見る。質問を終えたら、またすぐ顔をワゴン車へと向けてしまったので、横顔に向かって反論した。
「ここに来るまでは、きっと窓を開けてきたんだろうね。動いているときなら車に風が入って涼しくなるはずだ。けど、止まったらそうは行かない。結果、今の状況が生まれたんだ。どうだい?」
「ふん、確かに納得できるな」
「だろ?」
「だが、どうやらそれは間違いらしい」
土樹が人差し指でぼくの目線を誘導する。
「客が来たみたいだ。やっぱりあれは店だ」
指の先に、パイプ椅子の男性に話しかける制服が二つ、だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます