天の虜囚 4

 ノルドはキャロラインと話しながら、レディースのフロアへ向かった。前を行くヴァネッサとロジオンは一言も言葉を交わしていない。

「キャロルちゃんとヴァネッサは、どうやって知り合ったの?」

「ふふふ、聞いて驚くといいですわ。知り合ったのは、偶然でございます! ぴょんちゃんと公園ではぐれた時、ぴょんちゃんを連れて来てくれたのがヴァネッサなんですの!」

「ベンチに置かれていたぬいぐるみと、公園の外で泣いていたキャロライン様のご様子を照らし合わせれば、当然に導き出される結論でした」

「それ以来、ぴょんちゃんは家で留守番させておりますの!」

「へえ……」

 ヴァネッサの心根が少し見えた気がして、ノルドは嬉しくなった。

「そっちの無表情な嬢ちゃんもいいとこあるんじゃねえか」

「キャロライン様が泣いておられたので」

「そうだとしても、届けるかどうかは見つけた人しだいだよ」

 ヴァネッサは口をつぐみ、少しだけ、ほんの少しだけ俯いた。褒められたことに対してどう返していいのかわからないようだ。そんな彼女を見てついつい頬を緩めていると、ロジオンが突然ノルドの肩を抱いた。

「青春か?」

 馴れ馴れしい男に、ノルドはむすっとした表情で返答に代えた。


「ヴァネッサにお似合いそうな服なら、ここがいいと思いますですの!」

 キャロラインに案内された四階の店は、フロアの角に位置していた。白い文字で『ANGELY』と書かれたガラス窓の向こうに、様々なコーディネートを施された実物大の人形が並べられている。どれも清楚な印象だ。

「もしかして、キャロルちゃんのと同じブランド?」

「よ、よくわかり申しましたわね」

 キャロラインが着ている赤いチェックのスカートは膝丈ほどで、白いブラウスの上には薄桃色のケープ。サイズこそ違うが、店内にはかなり似た意匠の服が飾られていた。

 改めて見てみると、緩くウェーブを描くキャロラインの金髪は、よく手入れされていて美しい。左右のサイドテールを結う赤のリボンも可愛らしくデザインされている。

 ヴァネッサの髪も綺麗だが、彼女の髪型ははさみでざくざくと切ってそのまま何もしていない、という感じだ。後ろで長髪を結っているロジオンのほうがまだ洒落っ気がある。

 ヴァネッサは着飾ることに関心がない。それがわかっていても、ノルドは見てみたかった。美しい彼女が、綺麗な服を着ているところを。

「お、あれ可愛くねえ? ほら、ヴァネッサちゃん見てみ」

「ちょっと、ロジオンさん!」

 ロジオンがヴァネッサを連れて店に入っていき、ノルドとキャロラインも慌てて後を追う。

「この萌黄色のワンピース、似合うと思うんだよな。首元の黄玉トパーズのビジューもキラキラしてて、ぐっとさわやかな雰囲気になりそう」

「そのイミテーションのビジューは中心のものがオーバルカットになっておりまして……」

 説明しようと近づいてきた女性店員を遮り、ロジオンが声を低めて言った。

「待ってくれ店員さん、実は俺たち、これからファッションバトルをするんだ」

「は、はあ?」

「この子に似合うと思う服を三人でそれぞれ見立てて、最終的にはこの子にどれがいいか選んでもらう。店員さんが『これなんて合わせると素敵ですよ!』とか助け舟を出してくれちゃったら、勝負になんねえんだ……俺たちが乗ってるのは泥舟かもしれねえが、どうか決着がつくまで待ってくれねえか」

 ロジオンの妙に芝居がかった口調に呆れた様子の店員は、

「わかりました」

 と一言告げると、さっと距離を取った。

「え、ちょっと、なんですかそれ。俺はそんなつもりじゃ」

「まあまあ、思い出作りしようぜ。思春期の少年」

「はあ?」

「わたくしはこれと……あとこれがよいと思いましてよ!」

 キャロラインはロジオンの案にあっさりと乗ったようだ。彼女が選んだのは、ピンクのモヘアニットに、白のシフォンスカート。とはいえ、細かいことがノルドにわかるはずもない。ただ、ヴァネッサが着るのが想像できないくらいに、甘く可愛らしいデザインだ。

「さあ、ノルドも選びなさいましてよ」

「そ、そう言われても」

 明るい店内に飾られた服はどれもキラキラと眩しい。女性ものの服を選んだことは、もちろん、なかった。

「うーん……」

 それでも決めなければならないと、ノルドは店内をうろうろする。店員の怪訝な視線が刺さっているので、できるだけ早く決めたい。

「……あ」

 そこへ、すっと馴染むように視界に入ってきた服があった。

「じゃあ、俺はこれで!」

 すると、キャロラインが横槍を入れてきた。

「ディスプレイされたマネキンをそのままお選ぶなんて、ずるくってよ!」

「え、そうなの!?」

「いや、今のはキャロルちゃんの言いがかりだ」

「むぅーっ、ちょっとした冗談でございましたのに」

 ロジオンは店員に言って、三人が選んだ服をそれぞれ棚の上に並べてもらった。

「さあ、ヴァネッサちゃん。どれがいいか選んで」

「……」

「ヴァネッサ、選んでくださいまし! これは真剣勝負……ヴァネッサが一番お好むものを自分で選ぶのですわよ!」

「わかりました」

 キャロラインの言葉にしか従わないヴァネッサに、ロジオンは苦笑しつつ肩を落とす。

 ノルドは、他の二人の様子は意に介さず、ただヴァネッサだけを見ていた。三種類のコーディネートを見比べる彼女の瞳は真剣だ。

 しかし、ノルドには自信、いや確信があった。ヴァネッサが、ノルドのコーディネートを選ぶと。

「では――」

 それを、ヴァネッサは手のひらで指す。

「こちらをお願いします」

「……っしゃぁ!」

 ノルドは、渾身のガッツポーズを決めた。

 青色の、ハイウエストプリーツスカート。ライトブルーのブラウスはやさしい風合いで、袖がパフスリーブになっている。襟元には深く落ち着いた紺色のリボンタイが締められており、タイの結び目には、濃い青を湛えるブローチが留められていた。

 これらを選んだ理由は、単純だ。

 青い車、青いウエストポーチ、ノルドの水色の髪を惜しんだこと――

 ヴァネッサは、青色が好きなのだ。

「えーっ!」

「だめだ、キャロルちゃん。俺達は勝負に負けたんだ……」

 そう言いつつも、ロジオンはニヤついた視線をノルドに送ってくる。

「むぅーっ! ですがっ、ですが、これだけは言わせてくださいまし!」

 キャロラインはずかずかと服に近づくと、リボンタイを留めるブローチをやたらと力んで指さした。

蒼玉サファイアのイミテーションなんて、ヴァネッサにはお似合いません! こちらの紅玉ルビーか、ピンクの蛋白玉オパールがいいと思い申し上げますの!」

「イ、イミテーション……? 偽物ってことか?」

「はい。毒を身につけることはできませんので。この街で売られている宝石はいずれも、硝子に特殊な加工を施したものです。美しい物が高価であることに変わりはありませんが」

「宝石が毒って――」

「お客様、ぜひご試着を。サイズ違いもございますので、合わなければお持ちします」

「わかりました」

「フィッティングルームはこちらになります。どうぞ」

 ノルドが宝石について尋ねようとした矢先、ヴァネッサは店員に連れられて試着室へ消えてしまった。

「やるじゃねえの少年! じゃ、優勝者には景品な」

 ロジオンが満面の笑みでノルドに声をかけ、背広の裏ポケットからなにやら取り出した。

「なんですか、これ。なんか生暖かいんですけど」

 手渡されたのは、小さな黄玉トパーズがあしらわれた、金色のネクタイピンだった。

「俺、ネクタイって窮屈で嫌いでさぁ。使いドコロないからお前にやる。ジャケットの襟にでもつけといてくれよ」

「あっ、ちょっと!」

 そう言うとロジオンは、ノルドのジャケットの襟にネクタイピンを強引につけた。

「なんだか、いやらしいですわ」

「キャロルちゃん、俺にそういった意図は一切合切これっぽっちもないわけだけど、そのコメントは七歳にしてはませすぎてない?」

 二人の言い合いにはついていけない。ノルドはネクタイピンをそのままに、そっと二人から離れた。

 すると、店の外に女性がいるのが目に入った。

 女性は、シュシュでまとめられた長い黒髪を肩から前に垂らしている。白く丈の長いスプリングコートに、首に巻いた薄緑のストールの組み合わせは非常に品が良い。だがその赤い瞳は焦燥に淀み、ひどく焦った表情でせわしなくあたりを見回している。その様子が異様で、思わずノルドは女性に声をかけようとしたのだが――

「ああ、キャロル!」

 女性は店の中に駆け込んできて、キャロラインの前にしゃがみこんだ。

「お、お母様……」

「どうしてこんなところにいるの。階まで違うじゃない! 迷子センターであなたの名前を呼んでもらおうと思ったのだけれど、誘拐の危険があるからって断られて、ああ……」

 キャロラインの母は、明らかに恐慌状態だった。そこへ、

「試着、終了しました」

 試着室の扉を開いて、ヴァネッサが現れた。ノルドが選んだ服は、思った以上に彼女に似合っていた。モノトーンから爽やかな青へ着替えたからか、印象がまるで違う。おそらく、彼女本来の可愛らしさが引き出されているのだろう。先ほどまでよりも少し幼く見え――

「ヴァネッサさん!?」

 突如、キャロラインの母が大声をあげた、立ち上がってヴァネッサを睨みつけるその視線は怒気にまみれており、そばにいた店員をも怯ませた。

「アンナ……様」

 ノルドは、ヴァネッサが言葉に詰まるところを初めて見た。

「あなた、キャロルを見つけていたのなら、どうして私に連絡しなかったのですか!? あなたの携帯には私の連絡先も入っているでしょう!」

「申し訳ありません」

「やっぱりいつも通りなのね。そうやって謝ればいいと思っているのでしょう」

 まくしたてようとするアンナのコートの裾を、キャロラインが掴んだ。

「お母様、おやめになられて! たまたまお会いしたヴァネッサに、わたくしのわがままを聞いてもらっただけでございますわ。ひとりでコメット・モールを見て回ってみたくて、お母様のところを離れたのは、わたくしですわ。」

「キャロル、あなたは黙っていてちょうだい」

「ですが、ですが! ヴァネッサはわたくしに会ったとき最初に、お母様は一緒ではないのかと尋ね申し上げましたもの。悪いのはわたくしです、ヴァネッサをお責めにならないで」

「キャロル!」

 ぴしゃりと放たれた言葉に、キャロラインは怯み、黙ってしまった。

「ヴァネッサさん。あなた、今回はどういう『任務』なの? どうしてキャロルを私のもとに送り届けるという選択ができなかったの。常識を持って行動すれば、すぐにわかることでしょう」

「申し訳ありません」

「それをやめてと言ってるのよ! わからない? 私はキャロルを連れ回した理由を聞いているの。……あなたって、本当に『機械』みたい。どうしてキャロルはあなたに懐くのかしら」

 アンナの叱責は一方的だった。しかも彼女はヴァネッサの行動ではなく、ヴァネッサそのものを否定している――メイリベルの住人たちと同じだ。彼らも、ノルドそのものを否定する。両親を亡くしたノルドの心のうちを思いやることなど、ない。

「そんなふうにめかしこんで、さぞ楽しかったでしょう。私がどんな気持ちでキャロルを探していたかも、あなたにはわからないんでしょうね……」

 ヴァネッサは、甘んじて責めを受けている――止めなければ。

 だが、いつも助けられる側だったノルドはどうしていいかわからなかった。ノルドは、縋るような思いでロジオンがいる方向へ視線を逸らしたが――

(え……?)

 ロジオンの姿は、いつの間にか消えていた。

(そんな……薄情な人には見えなかったのに、俺の勘違いだったのか?)

 アンナの叱責はまだ続いている。だが、何度も同じ話題を蒸し返しているだけだ。ヴァネッサが謝るたびに、アンナが怒る。

 ヴァネッサは言い訳しないだろう。実際のところ、すべてキャロラインの言う通りなのだ。はなからヴァネッサを疑ってかかっているアンナに本当のことを言っても、さらに怒りを買うだけだ。

 こんな場面は、何度もあった。

 ヴァネッサの位置に立つのは自分。アンナの位置に立つのはメイリベルに住む大人。

 だから、わかる。きっと、今のヴァネッサの心の中には、ノルドと同じ痛みが広がっているはずだ。

 けれど、ひとつだけ違うところがある。


『まあまあ、そう怒らないで。僕もその場に居合わせたけど、ノルドは本当のことしか言ってませんよ』


 それは、必ず助けてくれたショーンの存在。柔らかな笑顔で、少しずつ相手の怒りをおさめ、毒気を抜いて。

――では、今。ノルドが立っている位置は。

「……あの!」

 ノルドの声に、アンナが振り返った。

「あなたは、キャロルちゃんのお母さんですよね。俺は、ノルドと言います。キャロルちゃんを連れ回して、本当にすみませんでした」

 深々と頭を下げると、アンナは困惑しながらノルドを見た。

「俺も、二人と一緒にいました。すぐにお母さんを探さなかったのは、俺たちの落ち度です。あまりにもキャロルちゃんが楽しそうにしていたから、判断を誤りました」

「……キャロルが悪いと言うの」

「もちろん悪いのは俺たちです。でも、お母さんは、キャロルちゃんの話を信じてあげないんですか?」

「……どういうことですか?」

「ヴァネッサはキャロルちゃんに会って最初に『アンナ様はどうされたのですか。一緒に来ておられるはずでは』と聞きました。アンナ様というのは、あなたのことですよね」

「……そうです」

「キャロルちゃんも、あなたにそう言ったはずです。ヴァネッサは、最初にあなたのことを尋ねたと。俺は、キャロルちゃんとは今日初対面です。ちょっとおてんばなところもありますが、とても聡明な娘さんだと思いました。……そんな娘さんの言葉を、信じられないんですか?」

「……」

 アンナは、黙りこくってしまった。何やら思いつめたような表情で、うつむいている。

「お母様、ヴァネッサを責めないで。ヴァネッサはわたくしのことを一番に考えてくれたから、わたくしの言う通りにしただけです。悪いのはわたくしです。ごめんなさい」

「……そう」

 深いため息をついて、アンナはヴァネッサを見やった。

「ごめんなさい、ヴァネッサさん。キャロルを見失って不安で、あなたに当たってしまいました」

 アンナが、ヴァネッサに頭を下げた。ヴァネッサは、わずかにだが瞠目し、アンナに駆け寄る。

「お許しくださるのですか」

「許しを乞うべきは私の方です。取り乱してしまって……キャロルと一緒にいてくれて、ありがとう」

 本心からそう言っているのかは、ノルドにはわからなかった。ただ、アンナの表情からは険が落ち、安堵が滲んでいた。

「ねえ、お母様。ヴァネッサがあんな可愛い服を着てなさるのよ! あのヴァネッサが! よく見て差し上げて」

 ノルドもキャロラインの声に釣られ、ヴァネッサを見つめた。

 ふんわりとした新品のブラウスの袖から覗く、白くたおやかな手。スカートの丈は膝より少し短く、すらりとした長い脚を際立たせる。

「素敵ですわ!」

 はしゃぐキャロラインはヴァネッサの手をとり、ノルドとアンナの前に引きずってくる。

「ノルド、お褒め差し上げますわ。素晴らしいコーディネートですわ」

「そ、そうだ、ね。ありがとう、キャロルちゃん」

――見惚れた。

 襟元のリボンと蒼玉サファイアのイミテーションが、彼女の輝く美貌を増して見せる。

「とってもお似合いですわ、ヴァネッサ!」

「そうでしょうか。このような機能性を考慮しない洒落た服は、着たことがありません」

「……うん、似合ってるよ」

 ノルドのその言葉を聞いたヴァネッサは、なぜかノルドから目を逸らした。蒼玉のブローチの輝きが、店内の明かりを反射して揺らめく。

「……ヴァネッサさん。ご自分でも、鏡を見てみてはどうかしら」

「はい」

 先ほどとは打って変わって、アンナの声は慈愛とやさしさと、そして悔恨に満ちていた。

 それもそうだろう――今、目の前にいるのは、戦士の鎧を脱いだ、ただ一人の少女だ。その少女に、大人気なくも八つ当たりをしてしまったのだから。

 とはいえ、ヴァネッサの一挙手一投足は、変わらない。滑らかにきびきびと動く。試着室の姿見を見つめる表情も、やはり仏頂面だ。

「……機械って、便利ですよね」

「え?」

 ノルドはアンナに話しかけた。しかしそれは同時に、独り言でもあった。

「エスカレーターは階段よりずっと楽で……車は馬車よりも速くて、しかも馬みたいに機嫌を損ねたりすることはない。ヴァネッサは、自分からそういうふうに、機械のようであろうとしてるんじゃないかって」

「……どうして、そう思えるの?」

「本心を隠すために表情を取り繕ったりすることって、誰にでもあるじゃないですか。だけど、ヴァネッサには嘘がない。いつだって本音がむき出しです。……本人は隠しているつもりなのかもしれません。機械のように振る舞うべきだと、ヴァネッサは思ってるんだ」

「……それなら、とても悲しいわ。彼女は人らしくありたくない、ということになってしまうもの」

「ヴァネッサがどうしてそうやって生きようとするのか、俺にはわかりません。でも……キャロルちゃんがヴァネッサに懐いてるのは、ヴァネッサの素直さややさしさ、なにより誠実さを感じているからだと思います」

 キャロラインは、ヴァネッサの周りをうろうろしながら、靴を見ていた。ヴァネッサが履いている、足首までを覆う黒くごついブーツは、今の服とは合っていなかった。

「お母様! ヴァネッサにお似合いそうな靴を一緒に――」

 しかし、明るさを取り戻したキャロラインの声に被さって、音が、鳴った。


 ゴォーン、ゴォーンと響き、

 わずかに鼓膜を鼓膜を揺らす、その音は。


(……メイリベルの、鐘の音?)


 ノルドは反射的に身を竦めた。ただの鐘の音ではない。響いたのは、緊急を告げる鐘の音だったのだ。

 驚愕と戦慄。燃える図書館。脳裏に、涙を流す友人の顔がよぎる。うずくまり、泣いていたショーン――彼は今、どうしているのだろう。

 音の出処は、試着室の奥の棚に置かれていた青いウエストポーチ。ヴァネッサが先ほどまで身に着けていたものだ。

 ヴァネッサは慌てた様子でウエストポーチの中から機械の板のようなものを取り出し、耳に当てた。

「ヴァネッサです。……はい。了解しました」

 誰かと会話でもしているのだろうか。彼女は板をしまい込むと、ウエストポーチを身につけて試着室から飛び出した。

「店員さん、今すぐ値札を切って! 支払いは私がしますから!」

「は、はい!」

 アンナの大声に、店員は慌てて応じる。

「奥様、申し訳ありません。急ぎの用が」

「わかっています」

「ヴァネッサ、また仕事なんですの?」

「はい」

 キャロラインが寂しげに尋ねても、ヴァネッサの返事ははっきりしたものだった。着替えで生まれた柔らかい雰囲気は完全に消え、再び厳しい戦士としての顔を覗かせている。

「そう……今度は、いつお会いになれますか?」

「キャロル、ヴァネッサさんを困らせてはだめよ。……ヴァネッサさん、娘があなたに会いたがったら、私からあなたに連絡してもいいですか?」

 その言葉を聞いたヴァネッサの表情。その顔を見たアンナの表情。顔を見合わせた二人の様子を見てようやく、ノルドの意識は燃える図書館からこの店の中へと帰ってきた。

「私などにはもったいないお言葉、恐縮です」

 ヴァネッサは恭しく頭を垂れる。彼女の声にこれほどの感情がこもっていたのは、初めてだった。

「行って。《秩序の守人ヴェルト・リッター》よ」

「はい」

 力強くそう返したヴァネッサは、ノルドの手を引いて駆け出した。

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