天の虜囚 3

 森を抜けると、石畳とは全く様子の違う灰色の道がどこまでも続いていた。森と道の境目に、空色に塗られた大きな鉄の塊がこっそりと置かれている。道の側からは見えないように、木の幹の陰に隠されているようだ。

「これが私の車です。助手席に乗ってください」

 ヴァネッサは車という物体の扉を開き、ノルドに中へ入るよう促した。

「あ、ちょ、ちょっと待って……」

 ノルドは、研究所から歩くうちに息切れを起こしており、中の椅子に座るまで、かなり時間がかかってしまった。

(少し歩いただけで息切れなんて、情けない……)


「では、出発します」

 二人とも車に乗り込み、シートベルトという名の黒いベルトを斜めに締めると、ヴァネッサの青い車が発進した。移動中、ヴァネッサが握る円形の輪や、車を動かす原理について逐一質問してみたが、

「運転中に話しかけられると気が散るので、黙ってください」

 という言葉で好奇心を封殺された。

 所在なく窓の外を眺めてみると、驚くほどのスピードで景色が横に流れていく。

 道で正方形に区切られた土地に点在するのは絢爛な屋敷ばかり。どこまでも続く灰色の広い道も、メイリベルの石畳とはまるで違っている。メイリベルと変わらないのは、よく晴れた空だけだ。

 しかし――最初こそ外の様子を興味深く見つめていたのだが、途中から気分が悪くなってきた。部屋というには狭すぎる鉄の箱が、高速で動きつつわずかに揺れるという、慣れない感覚に目が回る。

「うう……」

 胃の中がぐるぐるしてきて、思わず唸った。

「どうかしましたか」

「なんだか、気持ち悪い……」

「車に酔ったのでしょう。少し窓を開けます」

 ヴァネッサの言葉に応じてか、ノルドの真横の窓が降りていく。外からの風が音を立ててノルドの頬を叩き、喉に飛び込んでくる。

「あー、気持ちいいー……かも」

「多少うるさいかもしれませんが、このままヘリオディスを目指しましょう」


 さらに車を走らせ、ノルドの車酔いも幾分か和らいで来た頃、遠くにいくつもの塔が見えてきた。『果ての壁』ほどではないにせよ、窓が規則的に並んだ白や灰色の高い塔、城ほどもありそうな建築物群がどれも、青空に突き刺さろうとしている。

「すごいな……」

 口をついて出た言葉は本音だ。だが、その光景に、ノルドは恐怖も感じていた。

「あれがヘリオディスの街です」

「行くの、楽しみだなあ」

 それは、半分以上嘘だ。ヘリオディスの町並みは、ノルドの心を不安でいっぱいにさせた。

 

 天界、と呼ばれる知らない土地の、知らない都。


 やはり正方形に区切られた街には、背が高く大きな建物が整然と立ち並ぶ。平屋や二階建ての家々が自由に並び、複雑な路地を作っているメイリベルとは違う。

 道には、本来なら気ままに生えるはずの木々が、等間隔に植わっている。住人たちが軒先で自由に花を育て、そこから伸びた石壁に蔦が這うメイリベルとは違う。

 中央に白線が描かれた灰色の道は完全に平らで、大きさも高さも少しずつ異なる石で道が作られているメイリベルとは違う。

 何もかもが、生まれ育った故郷と違う――ここは、まるで異世界だ。

 そしてノルドは、ふと気づいた。

 自分は今まで一度も、メイリベルから外へ出たことがなかったのだと。



 街に入ってしばらく経った頃。

「そろそろコメット・モールに到着します」

「えっ、本当?」

「はい」

 フロントガラスの向こう。建物の入り口に立つ男性が、赤く光る棒を振っていた。ヴァネッサの車は彼の誘導に従って塔の中へと入っていく。

 何度も折れ曲がりながら坂を登り、『三階』と書かれた柱を過ぎたところで止まると――車は、突如後進しはじめた。

「うわっ、えっ!? な、なんだ!?」

 焦ったノルドは思わず椅子の背もたれにしがみついた。

「バックで駐車するだけです。バックは、あらゆる車に当然に搭載されている機能です」

「そ、そうなんだ。すごいね」

「人界には車がありませんので、知らなくて当然です」

 彼女の声で説かれると、なぜか安心できた。その言葉に嘘が全く感じられないからか。

 車が止まると、絶えず鳴っていた重低音が消えた。ヴァネッサはスッと車を降りる。一方で、ノルドはおろおろしていた。

 結局、ヴァネッサが外からドアを開けてくれたのだが、呆れとも不機嫌ともつかない視線が刺さった。それでも、

「ドアノブはこれです」

 と、指をさしてしっかり教えてくれた。


 立体駐車場という暗く無機質な場所から出ると、そこには、全く趣を異にする空間が広がっていた。

 明るく優しい光で満たされた広い通路に整然と並ぶ、数えきれないほどの店舗。どこからか聞こえてくる、美しいピアノの旋律。

 コメット・モールに踏み入れた靴が、硬い音を鳴らした。

「ほわあ……」

 室内の市場、と説明されてはいたものの、ノルドの想像とは違っていた。てっきり、色とりどりのパラソルが思い思いに立つメイリベルの広場通りのように、雑然としているのだと思っていたのだ。

「お尋ねするのを忘れていたのですが」

 数歩先を行くヴァネッサが振り返って問う。

「ノルドが見たい服とは、どのようなものですか」

「あ、えっと、女の子用の服なんだけど」

「レディースなら、一つ上の階ですが」

 ヴァネッサは、何故かほんの少しだけ眉をひそめた。

「どうしたの?」

「調査不足を反省しています。あなたに女装趣味があったとは把握していませんでした」

「は!?」

「それ以外に、あなたがレディースの服を購入する理由がありません」

 ヴァネッサから軽蔑の意図は全く感じられない。しかしそれでも、ノルドは周囲が凍てつくような恥ずかしさに襲われた。危うく自分の女装を想像してしまいそうになり――とにかく、事実ではない。

「違うよ! 俺じゃなくて、君の、」

 しかし、その時。

「きゃーっ! やめてくださいまし!」

 ノルドの言葉をかき消す悲鳴が、フロア内に響いた。

「なんなんですの、あなたは! わたくし、知らない人について行きあそばしてはならないと、お母様から言われておりますですの!」

 その声を聞いたヴァネッサが、さっと顔色を変えた。

「ノルド、失礼します」

 ヴァネッサは突然ノルドの手をぐっと握ると、声のした方へ弾けるように駆け出した。

「ちょっ、ヴァネッサ!?」

 駿足についていけないノルドの足はもつれ、

「わああっ!」

 その場で盛大に転んでしまい、受け身を取ることもできなかった。打ち付けた膝が痛み、起き上がれない。

「痛っ…ぐ……ヴァネッサ、ごめん」

「申し訳ありません、ノルド」

 抑揚はなくとも、焦りを滲ませた声音でヴァネッサが謝ると、

「ヴァネッサ!? ヴァネッサですの!?」

 先ほどの悲鳴の主がこちらへ走ってきて、ヴァネッサの腰に、縋るように抱きついた。

「ヴァネッサーっ! お助けくださいまし!」

「キャロライン様、どうなさったのですか」

 ヴァネッサに抱きついてきたのは、明るく豊かな金髪をツーサイドテールに結い、大きな瞳を最高級の紅玉ルビーのごとく輝かせた、人形と見まごうほどに可憐な、幼い女の子だった。

 その女の子が、後ろからトボトボと歩いてくる紫紺色の髪の男を指さす。

「あの人が、私をさらいなさろうとしているのです!」

「い、いや、違うっつーの! ひとりでしょぼん……って感じで女の子がデパートの椅子に座ってたら、なんかあったのかと思うじゃん? 迷子かと思うじゃん? 俺、不安に怯える子供を慰めるのは、大人の務めだと思うわけ!」

 深い樹海のような色の目をした男は、いちいちオーバーな身振り手振りを加えて喋る。彼が体を揺らすたび、うなじのあたりで一本に縛られた長髪が尻尾のように揺れた。まるで役所務めのようなスーツを着ているのに、ネクタイもせず襟をたてているその男の風貌は、正直、十分怪しかった。

「それなのに、キャー! 不審者! キモいですわ! って言われちゃったわけ。ひどくね? いつから世界はこんな世知辛くなっちゃったわけ? 俺の善意はブタ箱行きか?」

「そこまでは言ってさしあげておりませんことよ!」

 ノルドは女の子と男の会話に飲まれていたが、ヴァネッサはそうではないらしく。

「キャロライン様は私が保護しますので、ご安心ください」

「そうは言っても、君だって子供でしょーに」

「既に成人しています。十六ですので」

「あ、そっか……十五で成人だもんな」

 男はうーんと考えるような表情で、顎に手を当てた。

 十五歳でもう成人扱い――二十歳のメイリベルとは規則が違うらしい。

 ヴァネッサは男に尋ねる。

「あなたのお名前を伺ってもよいでしょうか」

「お嬢ちゃん、無表情なのマジ怖いよ?」

 しかし、ノルドから見たヴァネッサの横顔は到底無表情などではなかった。どう見ても、とてつもなく怒っている。

「お名前を伺ってもよいでしょうか」

「……通りすがりの、気のいいお兄さん」

「お名前を」

「すみません、ロジオンです!」

 ロジオンと名乗った男は、深々と頭を下げた。

「そのお嬢ちゃんを誘拐しようとか、そういうつもりは毛頭ありませんでした。迷子かと思って心配だったから、声をかけただけなんです。本当です。信じてください」

「……」

「ヴァネッサ、多分本当だと思うよ……」

 ロジオンの言葉からは、多少の悪ふざけこそあれど、悪意が全く感じられなかった。純粋にキャロラインを心配しているように思える。

「そうですか。ノルドがそう言うなら、おそらくそうなのでしょう」

「え?」

 ヴァネッサが簡単にノルドの意見を容れたことが、ノルドには意外でならなかった。

「ヴァ、ヴァネッサぁ……」

「キャロライン様、アンナ様はどうされたのですか。一緒に来ておられるはずでは」

「お母様は、迷子でございます!」

「……キャロラインちゃん。君、歳はいくつ?」

 ノルドは努めて優しく尋ねるも、彼女はきゅっとヴァネッサのズボンを握りしめ、怯えた表情を浮かべた。

 しかし、嘘で繕った表情で、ノルドをごまかすことはできない。

「そうやって怯えてる振りしてもダメだよ。俺より大きいロジオンさんにあんなガミガミ言えるのに、俺みたいなのに怯むなんてこと、ないよね? ヴァネッサは騙せても、俺は騙せないよ」

「ノルド、そのような物言いは……」

 ヴァネッサの厳しい声を遮ったのは、他ならぬキャロラインだった。

「気に入りましてよ! ノルド!」

 キャロラインはヴァネッサから手を離すと、挑発的な視線でノルドを見上げた。真紅の瞳には、瞬く星のごとき光が宿っている。

「わたくしはキャロライン! 七歳ですわ。キャロルとお呼びいただいてよくってよ」

「キャロライン様、そのような」

「じゃあ、キャロルちゃん」

 今度はノルドがヴァネッサの言葉を遮る。彼女には悪いが、今は間に入らないでもらったほうがよさそうだ。

「君のお父さんかお母さんは、偉い人かな?」

「さすがですわね。わたくしの父ディートハルトは、『天使管理委員会』の委員長であらせられあそばしてよ」

「げえっ、マジかよ!? 天界のトップじゃねえか!」

 声を上げたのはロジオンだ。

 ようやく、合点がいった。

 ヴァネッサが焦って走った理由。様付けして呼ぶ理由。ロジオンに激しく噛み付いた理由――それは、キャロラインが、天界の姫に当たる人物だからだ。

 そしてキャロラインはおそらく、六年前のノルドと同じように、少しやんちゃしたい年頃。母親を撒き、ひとりでコメット・モールを見て回っていたが、疲れて椅子に腰掛けたところ、ロジオンに声をかけられたのだろう。

「ノルド。キャロライン様に無礼を働くことは許されません」

「無礼ではありませんのですわ、ヴァネッサ。わたくしがよいと感じあそばされば、それでよろしくってよ。それにどちらかと言えば、ノルドにはキャロルとお呼ばれしたいのでございます」

「わかりました」

 キャロラインにあっさり従ったヴァネッサに驚いたのは、ロジオンだ。

「えっと、ヴァネッサちゃん、だよね? 君、マジでそれでいいの?」

「何か問題がありましたか」

「あー、うん。問題っていうか、俺的には、疑問がアリアリなわけだけど……君的にオッケーなら、まあ、いいか……」

 ノルドからは、ロジオンは極めて一般的な感性と常識の持ち主に見える。彼の反応こそがまともであり――ヴァネッサのほうが、どこかおかしいように見えた。

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