天の虜囚 2
少女がこの部屋に来るのは、午後一時という約束だった。ドクターは椅子に腰掛け、神妙な顔つきでモニターを見つめている。ノルドのほうはというと、どうしてもそわそわしてしまい、部屋の中をうろうろと歩きまわっている。
ようやく、あの時の少女と話ができる。不気味なマスクに隠されていた素顔を見られる。心臓がドキドキとうるさく鼓動する。もうすぐ、午後一時――
コン、コン。
扉が、ノックされた。
「ど、どうぞ!」
「失礼します」
裏返ったノルドの声に招かれて開いたドアの先には――まさしく、あの日の少女がいた。
夏の眩しい草原の色の瞳。陽光のように煌めく金色の髪。可愛らしく整った顔立ち――それなのに、彼女自身は鋭利な刃物のごとき雰囲気を醸し出している。あの夜と同じ黒いロングコートを身にまとっているからか、かたくななその表情のせいか。
ノルドは、彼女の姿に気圧された。たとえ、翼がしまわれていても。
「あ、あの、俺は」
「申し訳ありませんでした」
「……えっ?」
ノルドが二の句を継ぐ前に、少女は突然、深々と頭を下げた。
「先日はご助力いただいたというのに説明もなく、大変失礼いたしました。あなたを天界にお連れしたのは私で、この
「ちょ、ちょっと待って!」
ノルドが止めると、それまで淡々と話し続けていた少女が黙った。だが、頭は下げたままだ。
「えっ……と、なにか勘違いしてるんじゃないか? 謝られるようなことは何もないよ」
そう言っても、少女は頭を上げない。
「あなたが私をここへ呼んだのは、あなたを連れ去った私を糾弾するためではないのですか?」
「ち、違うよ! 俺はただ、君に会いたくて……」
ハッとした。何を口走っているのだろう。
「ノルド君の言うとおりに顔を上げなさい。彼は君を責めてはいないよ」
ドクターがそう言うと、少女はやっと顔を上げた――少女のほうが、ノルドよりわずかに背が低い。
「私の蛮行をお許しいただけるのですか?」
「ば、蛮行? 許すも何も、俺は君にお礼がしたかったんだ。あの時、俺は悪魔に殺されそうになった。そこを助けてくれたのが君じゃないか」
少女はきょとんとしている。礼を言われる理由がわからないと言わんばかりに。
「た、助けてくれて、ありがとう。俺は、君に命を救われました」
「あなたを生かしたのは、それが私の任務だったからです。それより――」
「やっぱりだめかあ」
ノルドの後ろで、ドクターがため息をつく。そして、少女を見て言った。
「せめて名乗るくらいはしなさい」
「了解しました。私は、ヴァネッサと申します」
「ヴァネッサ……」
――少女の名は、ヴァネッサ。反芻するように、その名を口にする。
「俺は、ノルド。よろしく」
「ノルド様のお名前は存じております」
「さ、様って。ノルドでいいよ」
「そういうわけには参りません。ノルド様は人界からの賓客ですし」
「ヴァネッサ、それはよくない。君とノルド君は同い年だ。友人のように接する方が自然だし、ノルド君もそれを望んでいるはずだ」
ドクターは眉間にしわを寄せている。
「わかりました。では、ノルドとお呼びします」
あっけにとられた。
ノルドの言葉にはまるで聞く耳を持たないのに、ドクターにはあっさりと従う。ヴァネッサの態度は、まるで『機械』のようだ。
「ノルド君、ちょっといいかね。実はもう一人お客さんが来ているんだ。その人にも会ってもらえないかね?」
そう言ってドクターは部屋を出た。彼を視線で追うと、通路と集中治療室を隔てる窓の向こうに、女性がひとり立っているのが見えた。額も髪もベールですっぽりと覆ったその姿は、神に仕えるシスターを思わせる。人間よりも神に近しい存在だと思っていた天使が、信仰者であるシスターの装いをしているのが、なんとも不思議に思えた。
「マザー」
ヴァネッサがつぶやく。
「マザー? って、あの人は、ヴァネッサのお母さん?」
「血のつながりはありませんが、母のように思っている人です」
「そうか。ヴァネッサのこと心配して見に来たのかな?」
「いいえ、違います」
ピシャリと否定され、ノルドは言葉に詰まった。
「こんにちは、ノルドさん」
部屋に入ってきたマザーは柔和に微笑み、温かく優しい声で、ノルドにあいさつした。
「いろいろとご迷惑をおかけしてごめんなさい。お詫びになるかはわからないけれど、よかったらヴァネッサと二人で外出してきてはいかが?」
「えっ!?」
予想外の提案に、胸が高鳴った。
――出られる? ここから? しかも、ヴァネッサと二人で?
「ここにあなたを軟禁し続けるのは申し訳ないもの。外の空気を吸っていらして。ヴァネッサ、いいわね?」
「任務、了解しました」
『任務』――何気なく発されたその一言に、ノルドは肩を落とした。
「でも、デートであることに変わりはないねえ」
ドクターは余計なことをノルドの耳元で囁き、
「お、ドーパミン遊離促進」
とほくそ笑む。
「ちょっと黙っててくれませんか、ドクター!」
すべての検査器具を外したあと、マザーが方術で止血してくれた。マザーの術も、ジゼルの術と同じく涼感のある光だった。天使の方術特有のものなのかもしれない。全身の痛みが失せた上、体が軽くなった気すらする。彼女は相当な術師らしい。
出かける段になって、ノルドはドクターから着替えを渡された。黒いボーダーのシャツに、濃紺のジーンズ。見たことも触ったこともない、軽い素材のジャケット。
ヴァネッサの方も、男物の黒いコートは悪目立ちするからと、荷物も含め、研究所のロッカーに預けて行くよう、マザーから指示された。
コートを抜いだヴァネッサは、白いブラウスに黒いズボンというシンプルな装いだった。だが、腰の鞘にはナイフ、左太腿には、悪魔を倒した白い筒状の武器。胸の下で締められた細いベルトには、縦長の黒いポーチが三つ。左腰にも、青いウエストポーチがある。ウエストポーチだけは、少し洒落たデザインだった。
ヴァネッサはウエストポーチ以外の装備をすべて外し、ドクターに手渡した。
「不安かもしれないけれど、我慢しなさい」
「了解です、マザー」
「君の荷物はすべていつものロッカーに入れておく。場所はわかるね? 鍵を渡しておくよ」
ドクターはヴァネッサに、なにやらカードのようなものを手渡していた。平べったいそれが鍵になるとは、天界の技術はノルドの理解を超えている。
「それでは、どこへ行きましょうか」
ヴァネッサが尋ねるが、ノルドは「うーん」と首をかしげることしかできない。外に何があるかなど、全くわからないのだから。
「ヴァネッサ、ノルドさんは天界をご存じないのよ。あなたが案内しなければならないわ」
マザーに諭され、ヴァネッサも難しい顔をして考え始めた。彼女にも表情はある――ノルドはほっとした。
しばらくの沈黙の後、ヴァネッサがふいに言った。
「では、電子図書館はどうでしょうか」
「図書館!?」
胸が躍った。天界にも図書館があるのなら、ノルドが読んだことのない書物が無数にあるはずだ。『果ての壁』のことだけではなく、天使や悪魔についても新しいことがわかるかもしれない。
「ヴァネッサ、残念ながらノルド君を電子図書館に連れて行く許可は出せない」
「ええっ!?」
ドクターの発言に悲鳴を上げたのはもちろんノルドだ。
「すまない。君に知られてはならないことがここにはたくさんあるんだ」
「了解しました。では、代替案を考えます」
再び考えこむヴァネッサ。ノルドも落胆こそすれ、食い下がることはしなかった。おそらく、ノルドが何を言ったところで、ドクターの言葉は覆らない。逆らっても無駄だということは、この四日間で思い知らされていた。
どうしていいかわからないノルドは、ただ逡巡するヴァネッサを見ていた。
すると、あることに気がついた。
彼女の白いブラウスは、着古されているのか、くたくただ。黒いズボンの左太腿には繕った形跡がある。裾ももはや色褪せており、革靴の色は禿げ始めている。
「あの……服を売ってるところは、見られますか?」
「服? それなら、コメット・モールがいいですわ。室内の市場、という感じなのですけれど……服以外にもいろいろな品がありますから、ノルドさんも楽しめるはずです」
マザーは微笑み、ドクターもうんうんと頷く。どうやら良案だったらしい。
「わかりました。それでは、コメット・モールへ……」
「あ、ちょっと待ちなさい、ヴァネッサ。彼に渡すものがあるでしょう?」
そう言ってマザーが、手提げの紙袋をヴァネッサに渡した。
「わざわざあなたが選んだんじゃないの。お詫びのためにと」
「命令でしたので」
「もう……困った子ね。ノルドさん、この子からのプレゼントです。どうぞ、受け取ってくださいな」
マザーの言葉に従い、ヴァネッサは、紙袋をノルドに手渡した。
「あ、ありがとう」
ためらいつつもノルドが中身を取り出し、白く薄い包装紙を解くと、中には青灰色のキャスケット帽が入っていた。帽子のつばの左後ろにはシンプルな銀色のピンズが付けられている。
「うわあ、なんかいい帽子だ……でもなんで、帽子?」
「あっ!」
ドクターが突然声を上げた。
「すまない、ノルド君……これを見てくれ」
慌てた様子のドクターは、手鏡をノルドの前に掲げた。よくわからないままに覗き込んだ鏡の中には、
「か、髪がない!?」
ほぼ丸坊主のノルドが、映っていた。
「検査のために剃毛したんだ……本当にすまない」
頭を下げ沈痛な声で言うドクターに、ノルドは何も言えなかった。ただ、変わり果てた自分の頭を見て、呆然とするほかなかった。髪は少し伸び始めてはいるものの、以前のような長さはなかった。
なにより、貧弱な体格のノルドに坊主頭は似合わなかった。
「あなたの髪はきれいな空色だったのに、もったいなかったですね」
「……へ?」
それがヴァネッサの言葉だと気がつくのに、少し時間がかかった。彼女が自分自身の感想を口にするとは思わなかったのだ。
「ではノルド、コメット・モールへ向かうということでよろしいですか?」
「あ……えっと、うん。それでいい」
「わかりました。行きましょう」
すたすたと歩いて行くヴァネッサについて部屋を出る。
ドクターとマザーが、笑顔で手を振っていた。
促されるまま、ノルドはヴァネッサの後ろについて歩く。
研究所の出口にたどり着くまで、ノルドは所内の設備ひとつひとつについて説明を求めた。どの質問にもヴァネッサは丁寧に答えてくれたのだろうが、やはり天界の技術をノルドが理解するのは無理だった。ノルドが把握した限りでは、二人は、地下十階にあった集中治療室から、エレベーターという箱に乗って一階のロビーまで移動し、研究所内を見張っている監視員に出かける旨を告げ、地上へ続くエスカレーターの前に立っている、ということらしい。
エスカレーターという名の黒い階段は、二人が近づくと勝手に動き出した。ノルドからすれば、不気味極まりない。
「あとは、これに乗っているだけで地上に出られます」
ヴァネッサはすっとエスカレーターに乗る。しかしノルドはひとりでに動く階段に尻込みし、足を踏み出しかねていた。ヴァネッサの背中が遠ざかっていく。
このままでは置いて行かれる。怯えながらソロソロと足先を乗せようとすると、ヴァネッサが振り返った。
「何をしているのですか?」
距離があるからか、今までよりも大きな声で問いかけられた。よく響き、よく通る、美しい声で。
「どうやって乗ったらいいの? これ……」
「どうと言われましても」
ノルドが立ち往生していると、ヴァネッサは突然、エスカレーターの動きに逆らって駆け下りてきた。
「あまり手間をかけさせないでください」
ヴァネッサは、ノルドの両脇腹を手のひらでがしっと掴み、そのまま真上に持ち上げた。
「わあああ!?」
そして、ノルドの足がエスカレーターに乗る位置に来たことを確認すると、その場にゆっくりと下ろした。
「次からは自分で踏み出してください」
踵を返す直前、ヴァネッサの眉間に一本だけシワが刻まれていたのが見えた。表情は乏しくとも、その変化は意外とわかりやすいのかもしれない。
しかし、彼女の表情よりもなによりも、
(女の子に持ち上げられるなんて……)
情けない。
ノルドは深いため息をついたが、そのため息は急に吹き抜けた風にかき消された。見上げると、天井が開いており、青空がかいま見えた。
天井に出口がある構造――メイリベルの図書館の地下で見た、不思議な部屋が思い出される。
「外……」
ぽつりとそうつぶやいた時、ノルドの胸に不安が去来した。
天界などという地名は聞いたことがない。
――ここは、どこなのだろう。
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