第二章 天の虜囚
天の虜囚 1
音が、聞こえた。ピッ、ピッという規則的な音。
少女に脇腹を攻撃されて、その後何故か、頭が轟音に割れたことだけは覚えている。
ノルドは、閉じていた目をゆっくりと開いた。
――知らない、天井。
「おお、目が覚めたか。私の声が聞こえるかね?」
知らない、男の声。返事をするか少し考えてから、
「はい」
と答える。
「エンドルフィンの値、上昇」
今度は、知らない女の声。男がうーんと唸る。
「報告通りだねえ……君、自分の名前はわかるかね?」
「ノルドです」
「どうしてここにいるかは、わかるかね?」
「わかりません」
「では、考えてみてほしい」
白衣を纏い眼鏡をかけた、白髪混じりの男性が、ノルドの顔を覗きこんでいる。起き上がろうとして、気がついた。ノルドはベッドの上に拘束されている――手足ががっちりと固定され、動けない。
理不尽な状況に、急激な反発を覚えた。
「……人の名前を聞く前に、自分が名乗るのが筋ってものじゃないんですか?」
「エンドルフィンの値、更に上昇」
声のした方へ視線をずらすと、亜麻色の髪を後頭部でシニヨンにまとめた女性がいた。彼女も、白衣を着ている。
「あなたがたは医者ですか?」
「ドーパミン遊離促進」
また女性の声。
「あの、俺こっちの人と話してるんです。その独り言みたいなの、やめてくれませんか?」
「ううーん、かなり気が大きくなっているなあ。名乗らなかったことは謝ろう。私はプリュデルマシェという」
「すみません、もう一度」
「プリュデルマシェという」
「彼のことは、ドクターとお呼びになればよろしいかと。私はジゼルと申します」
助け舟を出してくれた女性――ジゼルは、柔和な愛想笑いをノルドに向けている。
「それで、ノルド君。自分がなぜここにいるのか、考えてみてくれたかね?」
そう尋ねながら、名前が長すぎるドクターは、手近な椅子に腰掛けた。
少しだけ首を動かして、辺りを観察する。
ジゼルのそばにはなにやら得体のしれない表示板がいくつもあった。どの板にも数字や図形が書かれているが、ノルドにはすべてが意味不明だ。こんな魔術は見たことがなかった。
部屋の天井は白い。壁も白い。外の景色が見える窓はない。ただ、ドクターの背後には大きな硝子窓があり、その向こうには別の部屋があった。
そして、ノルド自身は手足を拘束されている。さらによく見ると、ノルドが寝かされているベッドには柵があった。
目を覚ます前の最後の記憶は、少女に撃たれた瞬間。
「……天使に捕まって、何か実験されてるとか?」
その答えに、ドクターの表情が険しくなった。
「ジゼル、数値は?」
「エンドルフィン値上昇、計測値は過去最高。ドーパミン遊離も促進。異常値です」
「ありがとう」
ドクターは席を立ち、ノルドに背を向けて窓の前に移動する。
「ノルド君、今日は何年何月何日かね?」
少女と出会ったのは夜だった。その後ここに運ばれたとしたら、少なくとも一日は経過しているだろうか。
「……
「そうか……気を失った次の日か。君は賢明だね」
ドクターが振り返って告げる。
「今日は、九八七年六月十三日だよ」
彼の声には憐憫が含まれていた。
あれから、二週間。メイリベルの町はどうなったのか。図書館は? ショーンは――?
「今、腕の拘束を解くよ。ジゼル、ベッドの背を起こしてくれるかね」
ジゼルが屈み込むと、ノルドが背を預けていた部分が勝手に起き上がり、ベッドは椅子のようになった。
ドクターは、現在ノルドが置かれている状況について話し始めた。ノルドは天使の少女に拉致され、この『
今は、体液と臓器の調査が終わったので、今度はノルドを目覚めさせ、対話による実験を行っている。額にいくつかの器具を取り付け、『機械』というものでデータを採取している――ということらしい。
「つまり、非人道的な人体実験ということなの。ごめんなさいね」
ジゼルがトレイの上に三つのマグカップを載せて運んできた。いつの間に準備していたのだろう。
「はい、ノルド君。君が一番好きなホットドリンクは、それでしょう?」
中には、湯気をたてるカフェラテがたっぷりと入っていた。
驚いたノルドがジゼルの顔を見ると、彼女は意地の悪い笑みを浮かべていた。声に感情がはっきりと現れるドクターとくらべ、ジゼルにはどこか底が知れない雰囲気があった。
(……なんで、俺がカフェラテ好きだって知ってるんだ)
マグカップの中では、コーヒーと牛乳が混ざり合ってクリーム色の水面を作っている。
――『果ての壁』の向こうにあったあの水面は、いったいなんだったのだろうか。ノルドを襲った悪魔や、助けてくれたかと思いきや突如攻撃してきた、あの白翼の少女は何者だったのか。
考えを巡らすうちに、ノルドは違和感に気がついた。ここの医者二人には、翼がない。
「あなた方は人間なんですか?」
「いいえ。さっきドクターが説明したでしょう。あなたは、天使に拉致されたの」
「ジゼル、ノルド君の疑問に思っているのはそこじゃないと思うぞ」
ドクターはノルドに背を向ける。ほどなくして、ドクターの肩甲骨付近から白い光が発し、少しずつ形を成していく。光は翼の形をとり――やがて、本物の白い翼に変わった。
「ああ、なるほど……翼のことでしたか」
驚いた様子もなく、ジゼルはコーヒーをすする。呆気にとられるノルドのカフェオレを指して、
「冷めますよ」
と、こともなげに言う。
「あ、はい、ってそうじゃなくて」
「しまった。おじさんの翼よりお姉さんの翼のほうが絵になったね」
「そうじゃなくって! その翼って、出したり消したりできるんですか?」
「できる。原理はよくわかっていないのだがね。翼を出すと疲れるから、普段は私達も君たち人間と同じように地面を歩いているよ」
話し終えると、ドクターの翼は光の粒となって霧散した。
ノルドを囲む数々の機械の物々しさと、まるで魔術のような翼――この二つになぜだか強烈な齟齬を感じて、ノルドは頭を抱えた。
「あっ、頭を動かすと痛いよ」
額にピリッと痛みが走った。思わず触れると、なにかの管が貼り付け――いや、刺されていた。その管は、ジゼルの正面にある機械に向かって伸びている。
「あなた、本当に医療行為が通じないんですもの。治療には手間取らされました」
ジゼルの指が、ノルドの額に近づく。
「
方術の光が、ノルドの感じた痛みを取り去った。ジゼルの指から零れた光は、リエットの方術とは違ってひんやりとしていた。
「ここであなたに血を流されると困ります。どうかおとなしくしていてください」
落ち着いた声音だが、ノルドはジゼルの言葉に怖れを感じた。逆らうべきではないと感じさせる何かが、ジゼルにはある。その上、今の状況――拉致され、得体の知れない物に囲まれ、実験され。逃げる方法を考えるべきではないのか。足はまだ拘束されている。この二人の監視をくぐって研究所からメイリベルに帰るには――
「エンドルフィンの値上昇」
また、ジゼルの声。肝が冷えた――見透かされている。
「うーん、ちょっとだけ機密に触れるが、話してしまおうか。君に脱走を考えさせないためには、適度に心を折らねばならないようだ」
ドクターの口調は穏やかだが、内容は不穏そのものだ。
「ノルド君。君が集中して物事を考えると、エンドルフィンという脳内物質がたくさん出る。私達はこのモニターで君の脳の状況を観察している。だから君が何かを考えると、私達にはすぐにわかる。君が何かを考えているということさえわかれば、その内容を推測することは可能だ。……君の考えていることを当ててみせよう」
ピッ、ピッという音が少し早まった。ノルドは、自分の左胸にも何か小さな機械が取り付けられていることに気がついた。
この二人は、いつでも、自分を殺せるのではないか?
「私達に殺されると思っているのかね?」
冷や汗が頬を伝った。それなのに、全身がカッと燃えるように熱い。嫌な熱さだ。
「安心してくれ。それだけは決してない。君を絶対に守り切る――それが私達の仕事なんだ」
目の前にいる医者は天使などではなく、悪魔なのではないか。六年前に助けてくれた銀髪の女悪魔とは違う――神話に出てくる、概念としての悪魔。
「ほかには、そうだなあ。今頃、メイリベルはどうなっているだろう。ショーン君はどうしているだろう。リエットお嬢さん、フィアさんはどうしているだろう。帰りたい。ここから逃げるにはどうしたらいいだろうか……こんなところかね?」
ドクターは、ノルドの震える手をとった。
「我々に協力してはくれないかね?」
問いかけるドクターの目は優しい。しかし、ドクターの要求はノルドにとっては脅迫以外のなにものでもない。どうしてショーンたちのことまで知っているのか。自分が今取るべき最善の手段はどれなのか。
「エンドルフィンの値、さらに上昇」
脱走は不可能。考えても無駄。頭がくらくらする。
「わかりました。……その代わり、」
それならばせめてもと、自分の望みを告げてみることにした。
「あの時の女の子に会わせてもらえませんか?」
三日が過ぎた。外の様子はわからないが、壁にかけられた時計の針が六周したので、間違いない。
検査に来るドクターやジゼルと話すことがなかったので、せめてベッドから出られるようにと、ドクターが頭に繋がれた管を延長してくれたが、まだノルドはまともに歩くことができなかった。いつの間にか切られていた脇腹が痛む。仕方なく、体力の回復も兼ねて、部屋の中を歩き回っている。
他には、ドクター、ジゼルとの雑談しかやることがない。なにせ彼らは、この場所がどこなのか、ノルドがなぜ連れ去られたのか、なぜノルドは彼らに守られるのか、何一つ説明してくれなかった。うまく誘導しようとしても、かわされてしまう。
「検査とか、しないんですか?」
諦めてこんなことを尋ねてみても、
「お上の指示待ちなんだ」
という答えだけが返ってくる。徹底した秘密主義の彼らから何かを聞き出そうという気は失せてしまった。
それ以外に気になったことと言えば、
「方術でしか傷が治らないなんて馬鹿な話、この目で見るまで信じられなかったわ」
ということだ。ジゼルは自分の外科技術がノルドにまるで通じなかったことが悔しいらしい。ドクターもその点は同様に思っているようだった。生まれながらの体質とはいえ、ノルドは申し訳なく思った。
そして、目覚めて四日目の朝――外が見えないので、朝という実感はないが――を迎えた。
ドンドン、という大きなノックの音のあと、ドアがひとりでに開く。今日はドクターひとりだ。その手には、二人分の朝食が乗せられたトレイがあった。
「おはよう、ノルド君。朗報だよ、ジゼルが休みだ」
「おはようございます、ドクター。それなら、のんびりできますね」
「ははは、彼女は真面目すぎるからね。私もピリピリしてしまって、正直疲れる時があるんだ」
二人で朝食のテーブルにつくと、自然と「いただきます」の声が揃った。
ほかほかと湯気を立てるオムレツ、もっちりとした食感のパン。温野菜がたっぷり入ったミネストローネ――やわらかく煮たキャベツを口に運ぶと、トマトの風味と相まって甘く感じられた。
(実験体っていうより、客としてもてなされてるような気がしてきたな)
「あっ、へんほるふぃん上昇」
「口に食べ物を入れたまま喋るのはどうかと思うんですが……」
「はは、すまないね。職業病かねえ」
ドクターは食事時でも仕事を忘れない。朝から晩まで、一日中ノルドと一緒にいる。冷静に記録を取る一方で、ノルドには優しく語りかけ、要望があれば親切に対応してくれた。驚くほど勤勉な彼に、尊敬の念すら覚えるほどだ。
「そうそう、間違えたよ」
「何をですか?」
「ジゼルが休んだことじゃなくて、君のお願いが通ったことが朗報だったんだ。言ってたろう? あの子に会いたいって」
「えっ!?」
「あ、ドーパミン遊離促進。ふふん、やっぱりかあ」
モニターを見ながら、ドクターはニヤニヤと目を三日月形に細める。
「な、何がやっぱりなんです?」
「あの子が可愛いってことさ。ただ、会って喋ったら、どう思うかねえ……」
なぜか、ドクターの表情が急に暗くなった。彼の顔に憂いが浮かぶところを見るのは、初めてだった。
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