翼の邂逅 4

 街と『果ての壁』付近を隔てるアーチ型の門をくぐる。せわしなく首を振って辺りを見回すと、煙が上がっている場所はすぐに見つかった。走る。胸が高鳴る。息が上がる。それでも、走る。耳は馬鹿になったままらしく、いつもの水のような音は聞こえなかった。

 幼い頃から求め続けた答えが自分を待っているのかと思うと、駆ける足を止められない。書庫の探索と図書館の消火で疲れきっているはずなのに、熱狂に支配された心はただひたすらにノルドを走らせる。

「あった……」

 大穴が、あった。『果ての壁』に、大穴が空いていた。歪だが、人一人は通れそうな大きさだ。ドクンドクンと、心臓がうるさいほどに跳ねて主張する。

「……よし」

 一歩踏み出し、二歩踏み出し、穴を通り抜ける。

――わずかに塩の香りをはらんだ風が、吹き抜けた。

 足元は、岸壁とまでは言えない高さの岩場。

 無人の空間は遥かに遠く、彼方に水平な線を描く。

 遮るもののない夜空は満天に星を散りばめ、赤の月を優雅に煌めかせる。

 眼下には限りなく白に近い青、限りなく青に近い光、限りなく光に近い七色が横たわっている。遠くに赤い月影を映して揺れていることから、液体なのだろう。水のような多色の液体が、寄せては此方の岩に打ち付け、また彼方へと帰ってゆく。

「虹みたいな色……銀の月にも似てる」

 水面では様々な色が揺らめいていて、一時として同じ色を保たない。今日は出ていない銀の月も、日によって黄色だったり白だったり、赤みがかったり蒼白かったりする。

「まあそんなことはどうでもいいんだ!」

 ノルドが夢に見た、ノルドに夢を見せた、求めてやまなかった答えがそこにあった。ほうと感嘆のため息をつく。吹きつける塩辛い風を思い切り吸い込んで、ゆっくりと吐く。ドクンドクンと鼓動をやめない心臓を抑えつけると、だんだんと聴力が回復してきた。岩場に寄せる水の量が多ければ音が大きくなる。少なければ小さくなる。水が寄せれば音が近づく。返せば遠ざかる。ひときわ大量の水が岩場に打ち付けると、水しぶきが大きく弾けた。

 ノルドは、足元の岩場を慎重に降りていった。足場がない場所では、自分で氷の板を作った。

 七色の水辺に恐る恐る足をつけると、ちゃぷ、という音がした。色は異なれど、中身はただの水のように思えた。思い切って両脚を浸からせると、ふくらはぎの中ほどの深さ。ざぶざぶと音を立てて歩きまわってみた。

「ははは、すごいぞ! やったぞ! 俺は壁を越えたんだ!」

 笑いながら、走りまわってみた。

「なーんだ、簡単だったんだ。『壁』をぶち壊すだけでよかったんだ!」

 以前試した時には、何をしても壁は壊れなかったのに――そんなことも忘れてしまうほど気が大きくなったノルドは、走りだした。行けるだけ行ってみようという気持ちで、どんどん突き進んでいく。七色の水に押し戻されつつも、足を止められない。だんだんと水が深くなり、膝までが浸かったところで、ノルドは異様な光景に目を丸くした。

「えっ?」

 大きな、鳥がいる。

 夜の闇に紛れ、はっきりとした姿はわからないが、ノルドの見つめる先には確かに巨大な鳥がいる。聞こえてくる羽音は巨鳥のそれだ。

 ノルドは少しずつ鳥に近づいていく。そして、気づく。

「……黒い、翼……」

 目の前にいたのは、鳥ではない。

――黒い翼を背に負った、黒髪の男。

 大きく翼をはためかせ、水面すれすれを飛んでいる。

「やっぱり……夢じゃ、なかった」

 六年前のあの夜がよみがえる――銀の月を背にした、黒い翼の女性。自らを悪魔と称した彼女の姿が、今目の前にいる男の姿と重なる。ノルドはごくりと生唾を飲み込み、男を見つめる。男の黒い瞳もまた、ノルドを見つめていた。

「あ、あの、俺、ノルドって言います! 昔、悪魔の女の人に助けられたことがあって。あなたも、もしかして、悪魔ですか?」

 懸命に男に話しかけるも、男の方は言葉を発さない。それどころか、一度大きく羽ばたいて天高く昇り、高みからノルドを見下ろした。

「お、俺の話、聞いてもらえませんか」

 ノルドは頭を掻きながら次の言葉を探していた――しかし、そんな悠長なことをしている場合ではなかった。

 一際大きな羽音がしたと思ったら、男が猛スピードでノルドに向かって突っ込んできていたのだ。

 ノルドは、何もできなかった。足は膝まで水に浸かっていて動けない。

 男が右手に持っている何かが、赤い月光を反射して輝いた。本能が危険を察知し、心中に警鐘を鳴らす。

(俺、もしかして死ぬ?)

 霧雨の中で涙を流すショーンの顔、病床で苦しむ母のやせ細った腕、倒れていた父の姿が脳裏をよぎった。

(これは多分、本当に、走馬灯)

 死を意識してノルドは一人、無音の世界に放り込まれた。

 疫病神でも、夢見た場所で死ねるなら幸せか――

 後悔と諦めをごまかす痛みが胸に満ちた、まさにその瞬間。

 頭上で、激しい炸裂音。目の前で七色の水が弾けた。衝撃で吹き飛ばされたノルドは、思いっきり水を飲んだ。危うく溺れそうになるほどに。

「な、なんだっ、いったい、何が……」

 空気を求め慌てて水面から顔を上げ、立ち上がる。上空から聞こえた音の正体を確かめようと、もはや無意識に、ノルドは天を仰ぎ見た。


 そこにいたのは、赤の月を背にして羽ばたく少女。

 肩の上で綺麗に切り揃えられた髪は陽のような金色。瞳は風が薫る夏の草原の色。そして、月が放つ真紅の光に照らされてもその色を美しく魅せる――純白の翼。

「……天使」

 悪魔と同様、神話の中にしか出てこないはずの存在がそこにいた。少女は黒いロングコートを着こみ、不気味な形状のマスクで顔の下半分をすっぽりと覆っている。さらに、一見して得体の知れない金属の塊を肩の上に両手で構えている。

 彼女が羽ばたく度、夜天に白い羽根が舞う。

 ノルドの心にはもう、夜空に浮かぶ彼女の姿しか映らなかった。


 永遠とも思えるような静寂を破ったのは、悪魔の男だった。男はノルドを無視し、黒い翼を一度大きく羽ばたかせ、空中の少女に向け突進した。ノルドの背後で羽音と風が巻き起こり、全身に水しぶきを浴びる。それでようやく、頭が冷えた。

 天使の少女と、悪魔の男が、戦っている。

 少女はいつの間にか右手に白い金属を、左手にはナイフを構えていた。男の得物は、先ほどノルドを狙った刃――相当の刃渡りを持つ長剣だ。あんな剣で切られたらひとたまりもない。しかし少女は、左手のナイフで男の剣をうまくかわしている。

 刃と刃がぶつかり合う音が響く。剣を交えるたびに二人の羽根が舞い散り、落ちてきた白と黒の羽根が七色の水面に浮かぶ。状況がつかめないながらも、ノルドは心の中で少女を応援する。

(いけっ、そこだ!)

 奇しくもノルドがそう念じた瞬間に、少女のナイフが男の剣を弾いた。男がよろめいた隙を逃さず、少女は右手に構えた白い金属を男に向ける。バン、と激しい音が鳴り、少女が持つ金属の塊の先端から煙が生じた。男は大きく後ろにのけぞる。

(あれも武器? なんだ、あれ)

 男が落下していく。少女はその様子を見届けると、金属の武器をロングコートの中へしまいこんだようだった。

 しかし、男は水面に足がつく前に羽ばたき、少女に向かって再び突進した。落下はフェイント――武器を構え直す時間は与えられず、少女はナイフ一本での応戦を余儀なくされた。

 それでも少女は、圧倒的にリーチがある男の剣を華麗にさばき続ける。男の刃は、一太刀たりとも少女に届かない。二人の動きが素早すぎて理解が追いつかないが、ノルドには少女のほうが圧しているように見えた。

 だが、少女に疲れが見え始めた。一方で、男の攻撃が緩む気配はなく――ついに男の剣が、彼女の左足を裂いた。

「ぐっ……」

 痛みに漏らされた声が、ノルドの耳に届いた。その瞬間、悪寒が、ノルドの全身を苛んだ――このままでは、少女が負ける。このままでは、少女が殺される。それはなぜか、不安ではなく確信だった。

 ――では、少女が勝つにはどうしたら良いのか。どうしたら、どうしたら――必死に思考を巡らせると、不気味なほどに頭が冷えていく。心臓が大きく一度跳ね、全身を揺さぶり――ノルドの全感覚を彼方へと攫った。


 空高くから地上を見つめているような、不思議な感覚だった。

 すべてが、鮮明に見えた。天使と悪魔の戦い、圧されているのは少女だ。彼らの戦いをよく眺めてみると、少女はナイフでひたすらに剣をかわすだけで、そのナイフを攻撃には使っていない。となると、少女のナイフは、相手の攻撃をかわすための、いわば盾代わりのもの。敵を倒すには、右手に別の武器を持たなければならない。しかし少女の最初の攻撃は男に通じなかった。それでも少女が逃げずに応戦しているのは、男を倒す別の武器を持っていて、その武器を使う瞬間をうかがっているから――だが、男は疲れ知らず。ダメージもない。一方で少女は左足から血を流し、息を切らしている。少女は殺される――

 だが、気がついた。この場にいるに。そのもう一人は、正常な判断能力を失っている。彼女が勝つにはどうしたらいいか、問うまでもないというのに。


 急に視界が元の狭さに戻り、広がっていた感覚が自分の体に収まった。二人の戦いもやはり速くて目が追いつかない。しかし、少女が勝利する方法は得た。あとは、出した答えの通りに行動するだけだ。

御井みいの恵みは、冬になく――」

 手を突き出して、気付かれないよう小声で詠唱する。ノルドの周りで蒼い魔術元素が輝く。同じ呪文でも、図書館で作った目印とは違う。今までの人生で作ったことがないような巨大な氷塊を作り、先端を限界まで尖らせて槍と成すのだ。そして、

「葦の船にてく流れよ!」

 呪文を叫ぶ。ノルドが作り出した氷槍は風を切り、男めがけて飛んでゆく。しかし男は背後からの奇襲に気が付き、振り返り剣で氷を切り裂いた。

 それで、十分だった。

 男が少女に背を向けたその一瞬で、少女は右手に白い金属を構え直し、音を炸裂させた。少女の武器から煙が上がる。男は屈んで脇腹を押さえたが、勝負はもう決していた。男の体から激しい水の奔流が無数に巻き起こり、あらゆる角度から男の全身を打ち付ける。

 やがて動かなくなった男は、バチバチと雷を発しながら、今度こそ水面に墜落した。

「やった!」

 ノルドは再び天を仰ぐ。塩辛い風に、少女のロングコートの裾がはためいていた。少女はナイフをベルトにつけた鞘に戻し、ゆっくりと降下し始める。

 ノルドは、少女から目を離さずに、彼女に向かって歩いて行く。

「あ、あの!」

 声をかけると、少女は降下を止めた。白い翼を優しくはためかせ、ノルドの少し上から彼を見下ろしている。

 奇妙なマスクの下の表情はわからない。だがそれゆえか、少女の緑色の瞳がより輝いて見えた。夏の草原のように煌めく、眩しい瞳――吸い込まれそうだ。

「君、君ってさ」

 少女はノルドから視線を外すと、右手の白い金属を見つめた。つられてノルドも彼女の武器を見た。

 ゆるい『く』の字型を描くそれがなんなのか、ノルドには全くわからない。ただその白い物体が、必殺の武器であるということしか。

「もしかして」

 少女がなにやら武器をいじると、武器がさらに折れ曲がる。彼女はその曲がった部分に何かを詰めているようだ。

「君って、天使?」

 少女は、ノルドの問いには答えなかった。代わりに、男を倒した必殺の武器の切っ先をノルドに向け、直後、


 バン、と音がした。


「――え?」

 脇腹をするどい痛みがかすめると同時に、ノルドの頭の中で爆音が弾けた。『果ての壁』に穴が空いた時のあの音よりも、さらに大きな――

 頭が、揺れる。めまいがする。足がふらつき、立っていられない。毛細血管が切れたのか、鼻血が出た。


 ノルドは、七色の水面に倒れた。

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