翼の邂逅 3

 白い階段を降りていく。今までいた書庫とは違って、カツ、カツと硬質な足音が響く。

 左の黒い壁には銀で装飾が施されている。右の青い壁にも似たような装飾があるが、そちらは未知の赤い鉱物でなされていた。

「あれ、これ……ただの模様じゃないな」

 壁に施された装飾は大きく文字を書いている。

 黒い壁には『闇に隠れし我らの母よ その御身を今一度』。青い壁には『に共もら我卒何 よ父のら我すましまに天』――まるで、魔術の呪文のようだ。

 さらに奥へ進んで行くと、開けた円形の部屋に出た。この部屋の壁は、通路と違って全面が純白だった。

「ここに書かれてるのも、呪文みたいだな……」

 部屋の奥の壁に、三行に渡って文字が書かれていた。一行目には赤い文字で『おお我らが父よ』、二行目には緑の文字で『導き給え 豊かなる葦の草原へ』、三行目には銀色の文字で『おお我らが母よ』。

 床には図形が描かれている。色は、黒。大魔術を使った時、集まった魔術元素が地面に描く魔術陣と似ている、気がする。

 頭上を仰ぐと、見上げた天井はものすごく高かった。部屋の隅に梯子があるが、そのてっぺんは豆粒のように小さい。

――ここを登った先に、一体何があるというのだろうか。

 自分で足場を作らなくていいなら不安はない。梯子に手足をかけ、ゆっくりと登っていく。

 右、左、右、左。六年前のあの時のせいか、ノルドには高所恐怖症の気があった。決して振り返ってはいけないと自分に言い聞かせて登り続ける。右、左、右、左――

「はあ、はあ……着いた……」

 息が切れるくらいの高みまで登ってようやくたどり着いた天井には、小さな取っ手があった。どうやら扉になっているらしい。

 緊張から、ごくりと唾を飲み込む。

 ノルドは取っ手に手をかけ――渾身の力で真上に押し上げた。


 飛び込んできた茜色の光に、目が灼けそうになった。

「あれ?」

 息をすると、新鮮な空気が肺の中に満ちる。

 顔を出してみると、穏やかな風が頬をなでた。

「……外?」

 きょろきょろと辺りを見回す。誰もいない。見慣れた石畳が続いている。前方には街区と立入禁止区画を隔てるアーチ型の門。どこからか、母が洗濯桶をかき回したときの水音と似た音が聞こえてきて――

 ノルドは蓋を全開にしたまま、外へ出た。

 目の前にあったのは、メイリベルを覆う『果ての壁』だった。


 結局ノルドは、しっかり蓋を閉めてから登ってきた梯子を降り、白く円い部屋を出て、黒と青の奇妙な通路を引き返し、書庫まで戻った。今は『壁』についてよりも、この隠し通路のこと、ひいては隠し通路の鍵になっていた『無慈悲な女王』の内容が気になってしかたがなくなっていた。全九巻をすべて抱え、図書館の開架スペースへと戻る。地下六階では多少迷ったが、地下五階への上り階段を発見してからは、スムーズに帰還できた。

 図書館のカウンターへ続く扉を開けると、フィアに出迎えられた。

「遅かったですね」

 書庫へ案内してくれた時とは打って変わって、淡白な声。ノルドに怪訝な視線を向ける別の司書がカウンターに座っていた。手に持っていたはずのカンテラがないことについては、何も聞かれなかった。あえて聞かないでくれたのだろう。

「借りるのはその本ですか? では、こちらに記入を」

 フィアに促されるままボールペンで貸出カードに名前を記入し、手続を終えた。持ち帰り用にとフィアが貸してくれた布袋に『無慈悲な女王』九冊を押し込めて、ノルドは図書館をあとにした。


「今日は、赤の月の日か……」

 人のいない狭い路地を選んで抜ける。傾いた陽は壁の向こうに隠れ、藍色に染まった空に赤の月だけがぽっかりと浮かんでいる。銀の月は、見えない。

 ノルドは自宅に帰り着くと、ダイニングテーブルに布袋を置いて中から一巻を取り出し、自室のベッドに寝転がった。

 横になると、忘れていた疲労が一気に襲ってきた。そのまま寝てしまうか悩んだが、好奇心が勝った。眠くなったらそこまでと決め、ノルドは『無慈悲な女王』の一巻を開いた。


――その日生まれた姫の髪は夜空の色。瞳は透き通る琥珀の色。ディアナと名付けられた姫は美しく成長し、世界中の男性を魅了した。一方で、自分の美しさに驕らない彼女に、世界中の女性が憧れを抱いた。


 その後しばらく、少女期のディアナ姫がいかに素晴らしい人物であったかという説明が延々と続いていた。要するに、病気がちな母を支え、王である父を手伝いながら国をより良くするために勉学、芸術、魔術に励み、自分を慕う妹と仲睦まじく過ごしていた、ということだ。

(このディアナ姫ってのが、無慈悲な女王?)

 うんざりするくらいに長い日常描写が続くも、眠気に耐えながら読み進めていくと、ディアナ姫の気分転換の方法が書かれていた。


――いかに心強き姫であっても、憂う日はあった。姫はそんなとき……


「なんだ、この字?」

 姫はそんなとき、の次に書かれた文字が読めない。知らない字なのだ。

「うーん……しまい、とかかな?」

 その字は、ディアナ姫が辛い時や悲しい時によく行く場所を示しているらしい。やむなくそこは飛ばして、次の行を読み進めようとした、その時だった。

 窓の外から聞こえてきた、けたたましい鐘の音。火急を告げる響きに、消防団員であるノルドは条件反射で起き上がって窓を開けた。

 街の中心が、真っ赤に燃えている。

「……嘘だ」

 燃えているのは――図書館だった。


 急ぎ防火服を着込み、ノルドは図書館まで全速力で走った。すでに消防団員全員が集まっている。蒼い魔術元素の光に包まれた彼らの足元には、同じく蒼く輝く魔術陣が形成されている。誰もが必死に水の魔術を詠唱し、燃え盛る図書館に向けて激流を放っているが、焼け石に水とはまさにこのことだ。いかに強固な石造りの図書館であっても、建物全体が炎に包まれてしまっては、もはや崩壊を免れない。中の本など、灰すら残らないだろう。火花を散らし轟音を立てて燃え盛る炎は、天に昇った赤の月よりも更に赤い。時たま、爆発音も聞こえてくる。

 炎はただ無慈悲に、街を真っ赤に照らす。

「あああ……ああああああっ!」

 くずおれて号泣していたのは、フィアだった。いつも落ち着いた様子の彼女が取り乱す様子を見ても、ノルドはただ呆然としていた。愛しい図書館が燃えているというのに、動けずにいた。

「おい、ショーン! 急げっ!」

 耳慣れた怒声は消防団長のものか。気が付くと、ノルドと同じく防火服を着込んだショーンが隣にいた。

「ノルド、行こう!」

 ショーンは無理矢理にノルドの手を引いて、広場通りにある『白銀の大鐘』に向かって駆け出した。

「なんとかしてくれ、ショーン!」

「ショーン、頼むぞ!」

 消防団員たちは、ショーンに向かってだけ叫ぶ。ノルドを見ているのは、ショーン本人だけだ。

「しっかりしてよ、ノルド! 僕一人じゃ鎮火の大魔術は使えない。図書館がこれ以上焼けてもいいの!?」

 ショーンはノルドの肩を揺さぶる。図書館がこれ以上焼けてもいいの――その言葉で、ノルドは現実を認識した。ぼやけていた視界がはっきりしてきて、図書館から散るおびただしい数の火花が見えた。

 ショーンに手を引かれて、鐘楼を駆け上がっていく。

 大鐘のある最上階にたどり着くと、ショーンは、ノルドの手を離した。

 鐘楼から見える図書館は、燃え盛る山のようだった。風のない夜だからか、町へ燃え広がることはなさそうだ。ただひたすらに、炎は夜空を真っ赤に焦がす。

「さあ、準備して」

 ショーンの顔は、ひどく青ざめていた。炎に照らされていてもわかるくらいに。

「八つの坂を巡る風の乙女、刀を握りてここに留まり、続く我が声を聞け」

 燃える図書館に正対したショーンが呪文の詠唱を始める。流れるように紡がれる呪文に反応して、翠の光――風の魔術元素が、ショーンの周囲に集まり、足元には淡く翠に輝く魔術陣が形成されていく。

「太陽が産みし霧の乙女、御心を鎮めここに留まり、続く我が声を聞け」

 わずかに遅れて、ノルドも術を結ぶ。同じく自身を中心として蒼い燐光が集まり、蒼色に輝く魔術陣が描かれていく。二人を包む二色の魔術元素が混ざり合う――そして二人は天に手をかざし、語気を強め声を揃えた。

「死者を悼む巫女よ、御霊みたまを招き生者を慰めよ」

 蒼と翠の光はいっそう強くなり、渦巻いて風となる。

「心を解き放て、泣けない者たちの代わりに――悲嘆の泉が枯れるまで」

 足元の魔術陣が揺らめきながら変形し、融合していく。二人を焦点とした巨大な楕円の陣が形を成し、燦然と輝く――

「そして願わくば、この地に生命長久の祈りを!」

 二人の声に呼応して、魔術陣が蒼と翠の光を交互に放った。辺りが目も眩むほどの輝きに包まれると、ショーンの呼び声に応じて激しい風が巻き起こり、ノルドの呼び声に応じて水が滝のように降り注ぐ。二人が発動させた風と水の合成魔術は、図書館を激烈な嵐の檻に閉じ込めた。

 ノルドは掲げる手を広げ、指先にまで力を込める。周囲に集まる魔術元素を離すまいと集中した。流れる汗も、図書館が燃えたことに対する落胆も、大魔術の行使に伴う疲れも意中から捨て去り、この惨事を一刻も早く終わらせることだけを思う。

 消防団員たちの必死の助力もあり、少しずつ火の勢いが弱まっていく。轟音がやがて鎮まり、夜を焦がしていた恐るべき炎が消えていく。

 やがて、図書館を覆っていた嵐も、穏やかな霧雨に変わった。

 疲労を自覚したノルドは、膝から崩れ落ちた。隣のショーンは、その場にうずくまっている。

「……ショーン」

 なんとか立ち上がって、ノルドは友人の名を呼ぶ。ショーンは、差し出した手をとってくれた。

 だが、彼の表情は暗く、滂沱の涙に濡れていた。

「ショーン、火は消えた。もう大丈夫だ」

 だが、ショーンは立ち上がらない。彼の隣にしゃがみこむと、ショーンはかすれた声を出した。

「燃えてしまった、あの絵が、僕の、」

 しかし、ショーンの言葉を最後まで聞くことはかなわなかった。


 突如、彼の声をかき消して響いた――鼓膜を打ち破りそうなほどの、爆音が。


 それは、轟音と形容してもなお足りないほど強烈な音の爆発。脳髄までが揺さぶられる。音に震わされた空気が家々の窓を叩き割り、硝子の砕ける音がそこかしこから聞こえる。

 ノルドは正気を取り戻そうと頭を強く振る。鐘楼から身を乗り出して地上を窺うと、その場にいたほとんどの人が、耳を塞ぎ、その場にうずくまっている。気絶している者もいるようだ。先ほど号泣していたフィアも、倒れているのが遠くに見えた。

 耐えられたのは、ノルドとショーンだけだったらしい――大鐘のそばにいたのに、なぜなのか。激しい魔術の行使で、一時的に神経が馬鹿になっているのだろうか。

「ショーン、大丈夫か……?」

 返事は、なかった。

 ショーンは、遠くを見つめていた――銀の月が沈みゆく西の空を、見つめていた。ノルドが彼と同じく西を見つめると、やはりそこには、メイリベルの町を覆う『果ての壁』の偉容。

 だが、いつもと違っているところがひとつだけあった。

 『果ての壁』の方角から、煙が上がっている。

「……何が起こったのか、確認しないと」

 ノルドは、職務に忠実であろうとした。だが、それは口実にすぎない。

 轟音。『果ての壁』の近くから上がる煙。

 そこに見える、大きな――穴。

 駆け出そうとしたまさにその時、ショーンが後ろからノルドの腕を掴んだ。

「だめだ、ノルド。行っちゃだめだ」

「何言ってるんだショーン。俺たちが動かなかったら他に誰も」

「だめなんだっ!」

 頬に涙の痕を残したまま、ショーンは怒気をはらんだ叫びをあげた。こんなふうに怒鳴る彼を、ノルドは今まで一度も見たことがなかった。

「だめなんだ」

 ギリギリと腕を締め付ける手のひら。ショーンの態度には面食らったが、ノルドはその手を取って、彼を諭す。

「落ち着けよ。お前、変だぞ。俺が先に行くから、お前はあとから来い」

「だめだ、ノルド。絶対にだめだ。行っちゃだめなんだ」

 なおも食い下がろうとするショーン。焦れたノルドはショーンの手を振りほどき、彼を軽く突き飛ばして、走り出した。

「だめだ、『果ての壁』に行かないで! もし、もしも――」

 ショーンの声は、闇に溶けた。


(俺、笑っちゃってたのかな)

 轟音は、ノルドに我を忘れるほどの歓喜をもたらした。暴れだした好奇心がノルドを走らせる。

(知りたい、知りたい、知りたい……!)

 あの穴の向こうには、ノルドが求めてやまなかった答えがあるはずなのだ。

「……『果ての壁』が、壊れた……!」

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