翼の邂逅 2

 天井は低く、明かりは少ない。本の背表紙とわずかな案内板の他に語る者のない静謐な書庫は、古い紙の匂いで満たされていた。

「どうしよう、何から調べよう」

 『壁』を登ったあの夜と同じくらい強い高揚感が、ノルドを支配する。地下一階だけでも、開架スペースの数倍は広そうだ。それが地下十階まであるとなると、一日ですべて回り切るのは不可能だろう。

「まずは階段の位置を確認して、いつでも帰れるようにして……とりあえず地下十階まで行って、各階のジャンルを確認しようっと」

 ノルドはうずく冒険心を抑えきれず、勇み足で書庫の奥へ乗り込んだ。


 しかし、その勇み足も長くは続かなかった。

「非合理的だ!」

 ノルドは今、地下六階にいる。カンテラで目の前の書棚を照らしても、ため息しか出ない。明かりでぼんやりと見える四つの背表紙。タイトルを見るに、それぞれの本のジャンルは文学、芸術、技術、歴史――図書館には、定められた分類に従って蔵書を並べるというルールがある。それなのに、この書庫の本の並びはめちゃくちゃだった。

 フィアは書庫を楽しんでこいと言っていたが、こんな状況でどう楽しめというのか。カンテラの中で光が弾ける音と、ノルドの深いため息だけが、孤独な書庫に虚しく響く。

 仕方なく、ノルドは地下七階への階段を探すことにした。

「どうして階段が階ごとに別の場所にあるんだ? スペース足りないんなら螺旋階段にするとか、迷わない工夫くらいしろよ。てか、この広さでスペース足りないとかありえないか……」

 ブツブツと設計者への文句を呟きながら、文字だらけの迷宮を進み続ける。疲れてきたのか、行き止まりに気が付かず額をぶつけてしまった。十字路まで引き返して進路を変えると、今度は書棚が三叉路を作っている。

「なんだこれ……」

 ノルドは耐え難い疲労感に肩を落とした。

 思わず見た懐中時計は、正午を三〇分ほど過ぎたところを指している。

「まだこんな時間なのか」

 三時間は経過しているだろうと思っていたのに、実際にはまだ一時間半しか経っていなかった。書庫に入ってからは、町のどこにいても聞こえるはずの大鐘の音が聞こえなくなっていたのだ。さらに、暗闇と疲労が、ノルドの時間感覚を狂わせている。

「くそっ」

 ノルドは三叉路のうち、一番右の道を選んだ。また行き止まりではないかという不安もあったが、運良く下階へ続く階段と出会えた。

 頬を叩いて気合を入れ直し、長い階段を下っていく。

 下りきった先には、案内板があった。


 『地下八階』。


 ノルドは、疲れのあまり見間違えたのかと思い、案内板の文字を声に出して読んでみた。


「地下八階」


 ノルドは、探索を諦めた。



 帰りたい――しかし、上階に戻る階段が見つけられない。完全に迷ってしまったノルドは、地下六階と思いたい階層をさまよい歩いていた。

「ここ、本当は何階なんだ?」

 まさか大好きな図書館の中で、六年前に『壁』を登ったあの時と同じくらいの絶望を味わうことになるとは思ってもみなかった。『地下八階』と書かれたあの案内板は、それほどにノルドの心を打ちのめした。

 深い暗闇と本の匂いがノルドを惑わせる。帰りたい、帰りたい。それだけを考えながら、ふらふらとおぼつかない足取りで歩く。

 気が付くと、そこは行き止まりだった。だが、壁面に何やら文字が書いてあるように見え、ノルドはカンテラを掲げてみた。


 刻まれていた文字は――『地下七階』。


 ノルドは、カンテラを取り落としてしまった。

 誰もいない書庫に、硝子の割れる音が響き渡る。フィアが唱えた雷の魔術は消え、辺りは完全な闇に包まれた。

 背筋が凍り、指先が震える。

 ノルドは目の前の壁にもたれかかり、ずるずるとしゃがみこんでしまった。

 地下の迷宮に、ひとり。

 夢うつつの自分の顔を覗きこんでいたショーン。彼が身につけているペンダントの先には、鍵型のチャーム。頭を撫でられてはにかむリエット。ノルドの指先を、方術のあたたかな光が舞う。

 二人の姿が、脳裏をよぎった。

「まずい、これじゃ走馬灯だ」

 気持ちを立て直さなければ――ショーンならこの冒険をなんと言って笑ってくれるだろうか。

「図書館にそんな大迷宮があったなんて知らなかったよ……まあ、面白いからいいけどね」

 弱々しくも友人の口調を真似すると、少しだけ心が安らいだ。

 気持ちと一緒に体力も回復しようと、その場に大の字になる。

 よく見れば、数こそ少ないものの、淡い光を放つランプがいくつか天井から吊り下がっていた。完全な暗闇だと感じていたのは、不安ゆえだったのかもしれない。

(ここは真っ暗闇じゃない。きっと帰れる……もしかしたらこのあたりに面白そうな本があるかもしれないし)

 そう自分に言い聞かせ、ノルドは横になったまま、左側の書棚の一番下の段を見てみた。

 そこには、『無慈悲な女王』というタイトルの小説が並んでいた。

「聞いたことないな。まあ俺、小説はあんまり読まないしな……」

 ハードカバーで、全九巻。長編のようだ。この書庫にしては珍しく、一巻から九巻まで順に並んでいるようだったが――一冊だけ欠けているようで、わずかに隙間があった。

「七巻がないな……」

 口にした、七という数字。強烈な違和感が襲う。

「七、巻?」

 地下六階のはずの場所に、地下七階の案内板。地下六階からの下り階段は、地下八階へ続いていた。

 欠けた七巻。欠けた地下七階。

 ノルドは思わず身を起こした。無限とも思えるほどに広いこの書庫が、

「探してみろ」

 と言っているような気さえした。

 好奇心が、目的を凌駕した。『壁』のことは、ノルドの頭からはすっかり消え去ってしまっていた。


「御井の恵みは、冬になく」

 ノルドが床に手をかざし呪文を唱えると、床から氷柱が生えた。こうやって、通ってきた道に目印を作りながら歩けば、自分がどこを通ったのか間違えずにすむ。ノルドの魔術の腕前は、六年前よりもはるかに上がっており、今では数時間溶けない氷を作ることもできた。この目印も、そう簡単には溶けないはずだ。なぜもっと早くこの方法を思いつかなかったのだろう。

 借りたカンテラを割ってしまったことも時間も忘れ、ノルドは『無慈悲な女王』の七巻探しに没頭した。いつの間にか暗闇に目が慣れて、明かりがなくても本のタイトルが読めるようになっていた。

「どこの人かは知らないけれど女王様、今だけは俺に慈悲をください」

 右、左、右、左。無我夢中で進んだ道の先。床に落ちていた何かが、天井からの弱々しい明かりを反射してキラリと光った。

 その輝きに、ノルドは思わず、疲れを忘れて走り寄った。

 落ちていたのは、髪の毛。

 六年前、闇空を飛んでいた悪魔の髪と同じ、銀色の――

 ノルドは、その場の書棚をしらみ潰しに調べた。『全世界鉱脈図』、『勇者伝記』、『五元素及び音・波動魔術の大系』、『毒石図鑑』、『赤の月と銀の月・その月齢』、『月宮夜絵画集』、『イミテーション・ジュエルの作り方』――

 そして、『無慈悲な女王』。

「あった……!」

 背表紙には、間違いなく『七巻』と刻まれていた。ノルドは迷いなくその本を書棚から引き抜いて抱きしめ、氷の目印にそって走った。息を切らして戻った行き止まりの壁には、ちゃんと地下七階の案内板がかかっている。迷わなかったことに、ほっと胸を撫で下ろした。

 弾んだ息を整えてからしゃがみこみ――書棚の最下段、六巻と八巻の間に、『無慈悲な女王』の七巻を差し込んだ。


 しばらく、そのまま待ってみた。

「……何も起こらないな」

 書庫は、静寂に支配されたまま。あたりを見回しても、何も変化はない。相変わらずの静けさと薄暗さ。

「あーあ、なんかあるんじゃないかと思ったんだけどな……」

 たとえば、本棚が動いて隠された階段が現れるといったギミックを期待したのだが、それは妄想にすぎなかったらしい。歯抜けの本を順に並べ直したくらいで、そんな不思議なことが起こるはずもなかった。思い込みで突っ走った自分の愚かさがむなしくなったが、それ以上に、書庫に騙されあざ笑われたかのようで、ノルドは激しい憤りを感じた。

「ちくしょうッ!」

 怒りに任せて、地下七階と書かれた案内板がかけられた壁に、八つ当たりの拳を見舞った。

――見舞った、はずが。

「うわあぁっ!?」

 全体重をかけた全力の拳は、ノルドの体ごと壁をすり抜けた。勢いあまって転び、思い切り腹を打つ。

「ぐ、いてて……なんだ、なんだなんだ?」

 上体を起こすと、目の前には明らかに先程までいた書庫とは雰囲気を異にする通路が――明るく、長く、真っ直ぐで、奇妙で、静かな――通路があった。

 左側の壁は黒く、右側の壁は真っ青に塗られている。床と天井は白かった。通路自体が、書庫とは違う石で作られているように見える。

 振り返ってみると、壁があった。上半身だけがこの奇妙な通路に入り込んでいて、下半身は見えない。まるで腰から下が壁にめり込んでいるような、あるいは腰から上が壁から生えているような、そんな状態になっていた。

「な、なんだこれ!?」

 あわてて飛び起きて通路に立つ。ノルドの体には何の異常もない。

「この壁……どうなってるんだ?」

 逡巡してから、そっと壁に手を伸ばす。

「……すり抜ける」

 踏み出すと、ノルドの体はやはり壁をすり抜けた。そこには、先程までいた書庫が確かにある。壁には、地下七階を示す案内板。

 ためしに、『無慈悲な女王』の七巻を書棚から取り出して小脇に抱え、壁を殴ってみた。

「痛え!」

 右手の甲がじんじんと痛む。痛む手をおさえながらしゃがみこみ、『無慈悲な女王』の七巻を書棚の最下段に収め直した。そして、壁へ手を伸ばす。

 伸ばした腕が、壁の中にめり込んでいく。だが、そこに何かがあるという感触はない。地下七階と書かれた案内板がかけられた壁は見えるが、そこには何もないと確信できる。

 ノルドは吸い込まれるように壁をくぐった。白と黒と青に塗られた三色の不思議な通路を進んでいく。まっすぐ歩き続けていくと、下階に続く階段があった。

「この先が、地下七階……?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る