第一章 翼の邂逅
翼の邂逅 1
「ノルド、起きた?」
「ん……」
聞き慣れた声に起こされて、ノルドは霞む目をこする。どうやら図書館の読書スペースで居眠りをしてしまっていたらしい。高い天井から吊り下げられたランプの灯が目に入り、視界がチカチカした。
「幸せそうな寝顔だったよ。また六年前の悪魔のお姉さんの夢かな?」
「そうだよ……」
答えながら、声の主を見る。風変わりな鍵型のチャームをつけたペンダントに、ダークブラウンの髪、優しく揺れる赤い瞳。幼なじみのショーンだ。
「君も好きだね。こんな朝早くから図書館に入り浸ってさ」
窓の外から、午前十時を知らせる大鐘の音が響いてきた。九時の開館とほぼ同時に本を読み始めたはずだから、一時間もしないうちに寝てしまったのか。
ショーンは、ノルドが読んでいた本を覗きこむ。
「また『メイリベルの歴史』かい。その本読むの、四回目くらいじゃない? 一体何を調べたいの」
「六回目だよ。いつ誰がなんのために『壁』を作ったのかってこと」
「そんなのわかるわけないじゃない。あの『壁』は僕たちが生まれる前からあるらしいし、本に書いてあるんなら町の人たちだって知ってるはずでしょ? ……なんでその本ばっかり読むの?」
「だいたいどの本にも、この大図書館が最初に作られて、その周りに町ができたこと……あとは年表が載ってるんだけど、この本にだけは『メイリベルからは芸術家がたくさん輩出された』って書いてあってさ。言われてみればそうだなって、だから他にも読みこぼしてるところがないか確認してたんだ」
「で、収穫は?」
「気づいたら寝てた」
「だろうねえ。夜勤で疲れたんじゃないの? 一晩でへこたれるなんて情けないなあ。もう少し体力つけたほうがいいんじゃない?」
「お前には言われたくない」
魔術消防団に所属しているにもかかわらず、ノルドもショーンもどちらかと言えば細身だった。鍛えてもなかなか筋肉になってくれず苦心している。
「ところで、なんか用か?」
「ああ、うん。リエットお嬢さんが呼んでる。今回はすごいよ。指先に傷をつけてから行ってみて」
『メイリベルの歴史』を棚に戻したあと、ノルドは図書館を出た。まずは自宅へ戻り、指先を果物ナイフで軽く切る。ぷくっと血が浮かんだのを確認して、すぐに家を出た。
人気のない狭い路地を選んで進み、塀を越えて、メイリベル町長邸の庭に忍び込む。この家の庭は、石畳だらけのこの町で唯一、土がむき出しになっている場所だった。しかし、花は一輪も咲いていない。この庭に花を植えてもなぜかすぐに枯れてしまうのだと、以前リエットが言っていた。
殺風景な庭から屋敷に近づいて、一階の窓を三回ノック。
すると、真紅の髪の少女が窓を開いた。
「ノルドさん! ……急に呼びだしちゃってごめんなさい」
「いいんだよ。今日はどうしたの?」
メイリベル町長の娘、リエット。無謀な『壁』登りを決行した当時のノルドと同じく十歳だが、あの時のノルドとは違い、思慮深く聡明な少女だ。
「あの、今日もおうちに入れてあげられなくて……ごめんなさい」
「気にしないで。町長さんがリエットと『疫病神』に仲良くしてほしくないって気持ちはわかるからね」
「ノルドさんが疫病神なら、私だって同じだと思うんです。同じ体質だもの」
「体質のことじゃないよ。リエットの両親は生きてるだろ?」
「でも……」
リエットの表情が曇ったのを見て、ノルドは話題を変えた。
「ところで、今日の用事は? また本を借りてきてほしいとか?」
「ううん、違うの。あのね、私、やっと方術が使えるようになったの! この間ノルドさんが借りてきてくれた本がとってもわかりやすくって、できるようになったんだよ。転んで膝をすりむいた時に、試しに呪文を唱えたら、傷が治ったの」
「本当? それならさ」
ノルドは、先ほど自ら切った左手の人差し指をリエットに示した。
「指、ちょっと紙で切っちゃってさ。治してもらえないかな?」
「う、うん。やってみるね」
リエットはノルドの人差し指に自分の右手を近づけて、目を瞑った。緊張しているのか、指先が少し震えている。
「
流れるような句が紡がれると、ノルドの指先が淡く優しい光に包まれた。
「……治った?」
ゆっくりと目を開けたリエットが、おそるおそる尋ねた。ノルドは、自分の左手をまじまじと見つめる――切り傷は、どこにもない。
「すごい! 治ってる!」
ノルドが感嘆の声をあげると、リエットの顔がぱあっと明るくなった。
「やったあ! ……でも、痒くない?」
言われてみると、傷のあったところが少し痒い。正直に、
「ちょっとだけ」
と答えると、リエットはしゅんとした。
「やっぱり、痒いんだ……方術って、本当は傷を治す術じゃなくて、傷の治りを猛スピードにする術なんだって。だから、痒くなることが多いって……だけど本には、『相手が痒みを覚えるうちは、まだ、一流の方術師とは言えません』って」
残念そうに俯くリエット。ノルドは手を伸ばし、窓から自分を見下ろす少女の頭を撫でた。
「まだリエットは十歳だろ? ちょっとずつ練習していけば、きっともっとうまくなるよ。俺の傷を治してくれてありがとう。実は、結構痛かったんだ」
顔を上げたリエットは一瞬きょとんとしていたが、すぐに笑顔になって、
「えへへ……どういたしまして」
と、照れくさそうに言った。
「ノルドさん、あのね」
「リエット! こんなところで何をしているんだ」
屋敷の中から聞こえてきた男性の声。まずい――ノルドは隠れようとしたが、もう遅かった。
「……また、疫病神と話をしていたのか」
リエットの父――メイリベルの町長が、冷ややかな目でノルドを見下ろす。
「お父様、ノルドさんは疫病神なんかじゃないよ」
「リエット、お前は知らないからそう言えるのだ」
「でも、生まれつき薬が効かないのは、ノルドさんだけじゃなくて私もだよ」
「こいつが疫病神だというのは、体質のことじゃない。とにかく、こいつとはもう話すな。いいな」
「あっ……」
リエットの制止も構わず、町長はわざと音を立てて窓を閉め、乱暴にカーテンを引いた。
この程度のことは日常茶飯事なので、ノルドは意に介さない。さっさと図書館へ戻ろうと、町の南西部にある町長の屋敷から、中心にある図書館へ続く広場通りへ向かう。
細い石畳の道を抜けて広場に出ると、色とりどりのパラソルが立てられているのが目に入る。手作りのアクセサリーを売る店の横で、壮年の女性数人が楽しそうに談笑していた。
だが、彼女たちはノルドの姿を見るやいなや、眉をひそめて声のトーンを下げる。その様子に呼応するように、八百屋の主人も渋い顔をし、肉屋の女将もノルドから目を逸らす。美しい壺や花瓶を並べた露店の職人は、わざと聞こえるように舌打ちをした。
メイリベルの人々は、ノルドをいくつかのあだ名で呼んだ。はじめは、頻繁に『果ての壁』に近づく『問題児』。今も夢に見る六年前のあの夜からは、黒い翼の悪魔が自分を助けてくれたと吹聴する『狼少年』。今は、『疫病神』。
――『果ての壁』に近づくと病気になる。
それは、この町を支配する常識だった。しかし、幼いころノルドは毎日『壁』に張り付いては、向こう側から聞こえるあの音――水が奏でるような不思議な音を聞いていた。
好奇心に加えて冒険心も旺盛なノルドは、やめろと言われれば言われるほど、『壁』の向こうの世界について知りたくなった。病気になる、などという根拠もない噂に怯えるメイリベルの人たちを、臆病だと見下してすらいた。
だが、突然――両親が死んだ。
父が死んだのは四年前。それから一年と経たないうちに、母が死んだ。おそらく、二人とも病死だった。
その頃のことは、あまり覚えていない。立て続けに両親を失って混乱していたのだろうか。何日かは泣いていた覚えがあるが、そのあと自分がどうしていたのか、はっきりとは思い出せなかった。
気が付くと、
『ノルドは親殺しの疫病神だ』
と罵られるようになっていた。
理屈はわかる。
両親が早死にしたのは、ノルドを『壁』から剥がして家に連れ帰るために、『壁』に近づいたから。
両親は『壁』に近づいたから、病気になった。
つまり、両親が死んだのは、ノルドが『壁』に近づいたから――単純明快な三段論法だ。
『壁』に近づくと病気になるなどという噂は、嘘だと思いたかった。だが、両親の早逝は事実。ノルド自身は健康だが、噂を否定する根拠はない。
だから、絶対に見つけなければならないのだ。『果ての壁』の向こうの、真実を。
「ノルド、リエットお嬢さんには会ってきた?」
それに、たとえノルドが疫病神と呼ばれても、幼なじみのショーンはこうやって声をかけてくれる。大通りの真ん中で、町の人達の冷たい視線が刺さろうが、お構いなしだ。
「ああ。あの子はすごいな。もしかして天才か」
「僕もそう思うよ」
魔術よりも遥かに平易な句を紡ぐだけで、たちまちに傷や病気を治す――正確には、リエットが言うように、治癒を促進することで結果的に傷を癒す術。それが、ここ数十年の間に新しく発見された『方術』だった。
『魔術』――特定の呪文の詠唱に応じて空気中の魔術元素を反応させ、自然現象を起こす術――は、勉強次第で誰でも扱えるようになる。しかし方術は、ごく一部の才能ある人々にしか習得できない特殊な技術なのだ。
「よかったね。これでケガやら病気やらの心配をしなくてすむじゃない」
「だからって不摂生していいわけでもないけどな」
「はは、確かに」
方術はその習得者の少なさゆえに、汎用性の高い医療技術に代替できるものではないと考えられている。しかし、ノルドとリエットにとって方術はどうしても必要なものだった――二人の傷や病気は、医学的な治療では治せないのだ。
小さな傷やちょっとした風邪くらいなら自然に治癒する。しかし、いざ薬や手術が必要な大怪我、大病となると、全く治せない。しかもこれは、二人の生まれつきの体質だった。
「ノルドにも方術の適性があればよかったんだけどねえ」
「ひ、人にはそれぞれ向き不向きってもんがあるんだよ」
ノルドも方術を習得しようと勉強したことはあったが、徒労に終わった。そのときのことを思い出して大きなため息をつくと、ショーンは意地悪く笑った。
二人から目を逸らす住民たちに気がつかないふりをしながら、ノルドは図書館へ向かう。ショーンも、何故かついてくる。
「今のテーマはなんだっけ? いつ誰が何のために『壁』を作ったのか、ってことだっけ」
「ああ。さっき言ったばっかりだろ」
「そうそう。だから言おうと思ったんだ。町の人はみんな『壁』があるのは当たり前だって言うでしょ? ってことは、普通に読める本には、それ以上のことは書いてないんじゃないかって」
「つまり、俺が図書館で黙々と調べてもダメってことか」
「『メイリベルの歴史』にも、大したことは書いてなかったんでしょ? もうノルド一人じゃ手詰まりに思えるんだ。だからさ、司書さんに聞いてみなよ。いるでしょ、聖王都から引っ越してきた司書さん。あの人ならノルドの頼みでも聞いてくれるんじゃないかな」
「フィアさんか……そうしてみる。ありがとな、ショーン」
「どういたしまして。良い報告を期待してるよ。僕は帰って昼寝でもするかな。夜勤明けはしんどいしね」
広場通りに建つ『白銀の大鐘』――図書館と並ぶ、メイリベルのもう一つの象徴だ――の前で、ひらひらと手を振るショーンと別れ、ノルドは再びメイリベル大図書館の扉を開いた。
図書館の正面玄関を抜け、広いロビーに出る。壁には、『赤の月』と『銀の月』がわずかに重なりあった夜空を描いた、大きな絵画が飾られている。この絵は、双つの月が重なる日『月宮夜』を、高名な画家が写生したものらしい。二色の月が織りなす幻想的な星空のグラデーションを描いた、素晴らしい絵だ。見つめていると、夜に吸い込まれそうな気さえしてくる。
この絵を眺めて、心を清め落ち着かせてからまっすぐ本棚へと向かうのがノルドの常なのだが、今日は司書がいるカウンターの方へと向かった。
目的の人物がひとりでいるのを認めると、ノルドは躊躇わず話しかける。
「こんにちは、フィアさん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「今日はなんですか?」
栗色のショートカットに銀縁眼鏡が理知的な女性司書――フィアは、抑揚のない口調で尋ね返した。
「前に俺が借りた本より詳しいことが書いてある本ってありますか?」
「それは、閉架になっている本が読みたいということですか?」
「閉架? ってなんですか?」
「えっ」
フィアは思わず顔を上げて、ぽかんとした表情でノルドを見た。
「閉架、知らないんですか?」
「初めて聞きました」
「呆れた。君ですら知らないんですか」
フィアは大きなため息をひとつ。
「図書館で、誰でも自由に本を読めるようにしておくこと。それが開架です。閉架は……簡単に言えば、マニアックな人以外興味がなさそうな本を書庫にしまっておいて、利用者から要望があった時だけ、司書が出してくることです」
「えっと……ということは、閉架っていうところに俺が探してるような本があるかもしれないってことですか?」
「まあ、だいたい。書庫っていう方が正確です。しかし、君みたいな図書館の住人でも、閉架のことを知らないなんて……」
フィアは立ち上がると、あたりをきょろきょろと見回してからカウンターを開け、ノルドを中に入れた。
「この町の人たちは好奇心がなさすぎる」
フィアは机の引き出しから鍵とカンテラを取り出し、カウンター奥の扉を開いて、中へ入っていった。ノルドも彼女に続く。
扉の先は、窓がなく薄暗い通路だった。
「ここに入るの、ほとんど私だけなのよ。よそ者で新人だからって、私ひとりで掃除させられてるの。こんな大迷宮、ひとりで回れるわけないのに」
外面を捨てた口調でぶつぶつと愚痴を言うフィアは、どこか楽しそうだった。
彼女は、蔵書数世界一とも言われるこのメイリベル大図書館で働きたいがために、王都から引っ越してきた変わり者だ。そんな彼女だからか、『果ての壁』にも、その噂にも、あまり興味を示さない。もちろん、疫病神にもだ。
とはいえ、状況によってはわざとノルドから目を逸らしたり、邪険に扱ったりなど、周りの目を意識した行動を取るしたたかさもしっかりと持ち合わせていた。
「ノルドくんが今まで調べたかったこと。最初は、『壁』の向こうから聞こえる音は何なのか。次は、悪魔が存在するかどうか。その次が、『壁』は何の材料でできているのか。で、今は、『壁』はいつ誰が何のために作ったのか、だったね。悪魔の件だけは、ちょっとこの子頭おかしいのかなって思ったけれど」
悪魔の存在は、この目で確かめた事実だ。しかし、反論したところで信じてもらえないことはもうわかっている。
「他の三つは、この町に住んでいれば不思議に思うことじゃないかなって。この町の人たち、好奇心がなさすぎる」
不意に、フィアが立ち止まり振り返った。
「ここが書庫。ようこそ、メイリベル大図書館の深淵へ」
見れば、通路はここで終わっていた。突き当たりには古びた扉。逸るノルドがドアノブに手をかけようとすると、
「ちょっと待って」
と遮られた。
「鼓を鳴らせ」
カンテラが、彼女の呪文に応じて作動、発光した。
「中は暗いからサービス。魔術式雷光カンテラ、無料」
フィアは光の灯ったカンテラをノルドに差し出した。光が硝子箱の中でパチパチと爆ぜ、二人の周囲を明るく照らす。
「中には誰もいないわ。迷わないよう、気をつけて」
「迷わないようって……そんなに広いんですか?」
「広いわ。地下十階まであるわよ」
「冗談ですよね?」
「本当よ。あまり長時間いると、自分が今何階にいるのか、どこにいるのか全然わからなくなることもある……ここは、世界一巨大な図書館なの」
フィアはうっとりと語る。
「本当は饒舌ですよね、フィアさんって。表情も豊かだし」
「……君ねぇ。言葉を選んでも、うるさくて気分の上下が激しい女だという本音は隠せないよ」
「えっ、いや、俺は本当に」
正直な気持ちを伝えただけだったのだが――戸惑うノルドを見て、フィアは吹き出した。
「ふふっ、ごめんごめん。君が必要以上に……いや、必要なことか。君が常に人の顔色を窺って生きてることはわかるし、そうしなきゃいけないのもわかる。けれど、あまり本音を看破されると困るな。一応、外では無愛想キャラで通してるんだから」
言葉とは裏腹に、彼女の表情は嬉しそうだ。
「それじゃ、楽しんできて。どうせ誰も入らないから、鍵は開けておくよ」
そう言って、開架へ戻っていく背を見送った。
フィアは故郷である聖王都ローレライを離れ、憧れの大図書館へやってきた。それなのに、図書の町の住民たちは本に興味を示さない。一番の常連でも、書庫の存在を知らない。表には出さなくとも、内心では寂しさを感じていたのだろう。
ノルドは振り返り、扉を見つめた。
(この先に、俺の探してる答えがある……そんな気がする)
控えめにパチパチと音をたてるカンテラを片手に、ドアノブをひねり、扉を開く。
現れたのは、地下へ続く階段。今しがた通ってきた通路よりさらに暗い。
「……よし」
意を決し、地下へと進む。一段降りるごとに、古い木の板で作られた階段が軋んだ音をたてた。壊れやしないか不安になるほどだ。
慎重に降りきると、また扉があった。図書館のどの扉とも違う異様な風体だ。ドアノブには繊細な模様が織り込まれた布製のカバーがかけられており、扉自体にも装飾が施されている。カンテラを近づけてよく見てみると、扉には複雑な銀色の文様が描かれているようだ。
芸術品のごとき姿のその扉に、『地下一階』と刻まれた木の案内板が、画鋲で無造作に貼り付けられている。
文様をひと通り眺めたあと、ドアノブを握る。布越しでありながらひんやりとした感触があり、ノルドの心臓が騒ぎ出す。
一度大きく深呼吸――そして、開く。
書庫の扉は古めかしい音を立てて、ノルドを迎えた。
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