双つ月の三界譚 -夢魅せる翼-
遠野朝里
プロローグ
『果ての壁』を登ろうと思ったのは、ノルドが十歳の時だった。
ノルドの生まれ育ったメイリベルの町の西側には、天すらも隠すほど高い壁がそびえ立っている。『果ての壁』と呼ばれるそれは、ノルドが生まれる遥か以前から存在しているらしく、壁の向こうがどうなっているのかは、誰も知らない。
ただ、壁の向こうからは、音が聞こえる――その音は、母が洗濯桶の中の水をかき回すときの音と少し似ていた。
ノルドは、この音がなんなのか知りたくて仕方なかった。知りたくて知りたくて、仕方なかった。
だからノルドは、銀の月が天高く昇る真冬の夜、忍び足で家を抜け出した。あの壁の頂上にたどり着き、果ての向こうを見るために。
「
覚えたての魔術。詠唱に応じて、魔術元素の淡く青い光がノルドの手のひらに集まって氷へと変わり、壁に氷柱を植え付ける。それを足場に、少しずつ壁を登っていく。冬を選んだのは、氷が解けにくい時期だったからだ。
「
繰り返す都度に、氷の足場が右上、左上、右上、順に作られていく。凍えるような冬の夜だから、氷が溶けて滑ることもない。ノルドは、上に作った氷柱を掴んでは登り、壁の頂上を目指す。
一体どこまで登ったのか。どれだけ登っても、頂上などまったく見えない。世界の『果ての壁』は、果てしなく高い。
不安に負けたノルドは、振り返ってしまった。
見慣れた町並みが、豆粒のように小さい。本来なら明るく特徴的な橙色の屋根たちがみんな、夜に覆われている。
ぞくり、と、寒さとは違う何かが、背筋を伝った。
恐怖を振り切ろうと本能的に見上げた冬空は、ただ、闇の一色。登り始めたときに天頂で輝いていた銀の月は、暗い雲に隠されていた。
もはや引き返すことはできない。だが、頂上も見えない。疲れきったノルドの心臓は、凍てついた風に鷲掴みにされた。心中を襲った恐怖が魔術を弱め、何十度目かに作った足場を脆いものにさせた。
体重を預けた氷が砕ける――命綱なんてものはない。
ノルドの体は、暗闇に包まれた地面に向けて真っ逆さまに落ちていった。
(知りたかった)
だが、それはかなわない。自分はこのまま地面に衝突して死ぬのだ。やりきれない思いが胸を埋め尽くす。
ノルドの視線の先には、メイリベルの町があった。住民は皆寝静まり、もう町には明かり一つない。大好きな図書館も、自分の家も、どこにあるのかわからない。退屈な故郷は、もう遥かに遠い。
涙の粒を中空に置き去りにして、身体がどんどん大地に近づいていく。
ノルドは、きつく目を閉じた。
――そして。
「ここは、地獄」
突如聞こえた、知らない声。
死んだ、と思った。壁から落ちて、頭を打って、死んだと思った。
「だけど、死後の世界ではなくてよ」
心の中が、混乱の一色に塗り潰されていく。
おそるおそる目を開くと、まず目に入ったのは、いつの間にか晴れた夜空に再び現れていた、眩しい銀の月。
それから――ノルドを抱きかかえている、女の姿。
「この世界は生き地獄と言うの。地獄だから、悪魔がいるのよ」
凛とした声音。しかし、語る言葉はまるで虚構。
女が背にした銀の月が眩しく、細部まではよく見えない。わかるのは、三色だけ。
長く緩いウェーブを描く髪は、今夜の月の如き銀色。瞳は、青く澄んだ夏の空色。そして、月光に照らされた背中の翼は、漆黒。
「残念だけど、上に連れて行ってあげることはできないの。あなたや私のようなゴミは、地を這うのが似合いだわ」
そう言いながらも、女は飛んでいた。黒い翼は、巨鳥の羽ばたきよりもさらに大きな音を立てている。
ふいに、女がノルドを見つめた。
「あなたの髪の色は、私たちが失くした空のようだわ。瞳は、澄んだ
女はやさしく微笑む。しかしノルドには、その微笑みがひどく悲しげに見えた。
「さあ、帰りましょう……大地へ」
星々を散りばめた夜天に黒い羽根が舞う。
気が付くと、ノルドは見慣れた地面へ降り立っていた。
女の姿は、もうどこにもなかった。
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