天の虜囚 5

 ヴァネッサは一言も説明せずにコメット・モールを駆け抜けて駐車場に滑り入り、車の助手席にノルドを押し込めた。

「シートベルトを締めてください。研究所へ戻ります。健康状態の保証はできません。もしも気分が悪くなったら、足元のゴミ箱に吐いてください」

 ヴァネッサの怪訝な声に、ノルドは頷くしかなかった。

 慣れた動作で車を発進させ、駐車場に入ってきた時の倍以上の速度で、暗い坂を曲がり下っていく。タイヤがキキーッと高い音を発し、摩擦熱でアスファルトが焦げ付く。

 出口が見えると、ヴァネッサは思い切り右足を踏み込んだ。


 ビルの隙間から燃えるように射す夕日の紅。視界が赤く明滅する。他に走っている車の姿はなく、信号機の灯はすべて消えていた。

 ヴァネッサの車は、どんどん速度を増していく。

「できるだけ姿勢を正していてください」

 瞬く間に市街を抜ける。車輪は限界を超えて駆動し、速度を示す針は振り切れている。窓の外は一瞬たりとも同じ景色を留めない。ノルドは耳が痛くなった。なぜこんなに飛ばすのかと思うほどに。だが、ヴァネッサの横顔は雄弁に語る。鉄面皮を鉄仮面で武装したような、険しい表情。

 危機が、すぐそこまで迫っている。

 そう確信した瞬間、激しい衝撃が車を襲った。

「うわぁっ!?」

 振り切れていた速度メーターが反時計回りに動く。急激な減速に前のめりになった体を、シートベルトが固く支えた。

「あと数分で着くというのに」

 市街地を抜けてから五分ほど。どうやらヴァネッサは、小一時間かかった道程をわずか一〇分程度で駆け抜けようとしているらしい。

(これだけ無茶しなきゃならない状況に追い込まれてるのか)

 ノルドは目を閉じた。状況を整理し、今そこに迫る危機の正体を推測しようと思考を巡らせた。

――だが、その思考は音に断たれた。

 窓硝子に、無数の小さな『なにか』が降り注いだ。驚いたノルドが外を見やると、

「……考えるまでもなかった」

 窓の向こう、空飛ぶ黒い翼の男の姿。ヴァネッサが横目に様子を窺う。

「敵の武器は……短機関銃のようですが、この車の防弾に問題はありません」

 襲ってきたのは、やはり悪魔か。しかし、疾走する車についてこられるはずがない――というノルドの考えに反し、男は車に猛追してきた。その姿は消えない。超高速で流れていく風景の中、悪魔は貼り付いたように、視界から消えない。

「なんでこのスピードについてこられるんだよ!?」

「敵を恐れる必要はありません。いずれ――ッ!?」

 ヴァネッサが言い終わらないうちに、車がすさまじい衝撃に襲われた。ノルドが頭上を振り仰ぐと、天井が、いびつな形にへこんでいる。

「敵はもう一人いるようです。天井はどのくらいのダメージを受けていますか」

「めちゃくちゃにへこんでる」

「それならば敵の武器は、恐らくバズーカ砲でしょう。万が一もう一度天井に着弾したら」

 説明しながらも、ヴァネッサは窓の外を窺う。

――ノルドの視界に貼り付いていた悪魔が、いない。

「衝撃に備えてください」

 華麗かつ素早い手つきで、ヴァネッサはハンドルを右に切る。次の瞬間、左側ですさまじい爆発音。車体は大きく右に跳ねて道を逸れ、誰かの家の庭に突っ込んだ。庭木や花を散らしながら、それでもヴァネッサはアクセルを踏み込む。体当たりで塀を叩き壊し、無理やり道に乗り上げるとそのまま右折して突き進む。フロントガラスには大きなヒビが入ってしまっている。左右の窓には土や草花がへばりついていたが、再加速ですべて吹き飛んだ。

「横から襲ってきている敵が持っているのは旧式の短機関銃です。無視して弾切れを待ちます。問題は、上の敵です。あと何発、バズーカの弾があるのかわかりません」

(敵が車の上にいるんじゃ、見えない……)

 ノルドへの説明と、アクセルの踏み込みと、敵の攻撃を読んでのハンドル操作。無数の動作を同時に行うヴァネッサの顔には、隠せぬ疲れが浮かんでいる。

(俺が、やる)

 敵の姿は見えない。しかし、天井のへこんだ形から、敵が車の頭上より少し後方の空中から攻撃してきていることはわかる。

 わからないのは、高度。敵が、どの程度の高さを飛んでいるかがわからない。この状況で相手を確実に捉えるためには、こちらも相応の高さをもって迎撃する他ない。

 そして、敵を倒す方法。車は高速で移動している。追ってくる敵もまた、高速で移動している――このスピードの中に突如として水壁が現れれば、敵は確実に衝突し、相当のダメージを受けるだろう。

 ノルドは、両の手のひらを天井に突き当てた。

御井みいの恵みは、春に生まれ」

 壁が薄くては突き抜けられる。高さが足りなくても、厚さが足りなくても負ける。

「夏に我らを癒し」

 狙うべき敵がいる空中の画を頭の中に描きながら、一言一句正確に、呪文を詠唱する。

「秋に実りを与え」

 しかしなぜか、魔術元素の集まりが悪い。それでも少しずつ、瑠璃色の燐光が腕に絡みつく。魔術元素を決して離すまいと、必死に集中を続ける。あらゆる事象を、音を、意識の外に置く。

「そして冬を越え、雪は溶けても」

 隣で戦うヴァネッサを守る――そのために自分にできることがあるなら。

(絶対に壊されない盾、いや)

 記憶にこびりついた光景が、強烈なイメージとなって炸裂する。

 遥か天高くそびえ立つ、ノルド自身が破ることのかなわなかった――『果ての壁』を。

「岩戸に籠りて心を閉ざす!」

 最後の句を叫ぶと、車の天井に青い魔術陣が描かれた。体中に纏わりついた水の魔術元素が、ノルドの腕の上を滑り、手のひらを伝って外へすり抜け、夕焼けの空に向かって飛び散る。

 ノルドの手のひらを下辺の中心として、巨大な壁が形作られていく。その様子が、なぜかノルドには見えた。

(まだだ、まだ行ける!)

 悪魔が異変に気がついて高度を上げても、もはや手遅れだった。

 夕陽を乱反射して輝く水壁はどんどん高さを増し、頭上を滑空する悪魔よりも遥か高みまで肥大化した。

 そして、伸ばした手の先に感じた、確かな手応え。

 壁を煌めかせていた光が砕け、夕立となって大地に降り注ぐ。

「や、やっ……た。ヴァネッサ、上の敵は倒した。手応えがあった」

「なっ……」

 全身が嫌な汗をかいている。緊張などしている暇もなかったというのに。何故か全身がぶるぶると震え、体中が痛い。

「なんて、ことを」

「え?」

「……一体撃破。残るは左方の敵ですが、やむを得ません。そちらの窓を開けます。敵の目的はおそらくノルドの確保、あるいは始末です。ですから、敵はそちらからあなたを襲うでしょう。そこを――」

 先刻見たのと同様に、窓が下がり開いていく。ヴァネッサはウエストポーチから黒い塊――おそらく武器だ――を取り出して、ガチャンと音を鳴らした。

「始末します」

 ヴァネッサはノルドの頭を抱きかかえるようにして引き寄せ、右手の武器を構えた。

 直後、バン、と破裂音。

 ノルドからは何も見えない。だが、ヴァネッサの言うとおり、高速で疾駆する悪魔はノルドの真後ろに迫っていた。開かれた窓の縁にしがみつき、無理やり侵入してこようとしている。

 悪魔の手のひらが、帽子ごとノルドの頭を掴んだ。

「うぐっ……!」

 振り払おうとしても、びくともしない。頭蓋に激痛が走る。頭を砕くつもりなのか、ヴァネッサから引き剥がそうというのか。あまりの痛みに、ギリギリと歯を鳴らす。

「大丈夫です」

 だがそんな痛みの渦中にあっても、かすかにやさしい声が聞こえた。

「あなたは――」

 ヴァネッサは、ノルドの頭を抱える左腕に力を込め、自分の胸元に押し付ける。いつの間にか彼女はシートベルトを外し、運転席から身を乗り出していた。

「私が守り抜きます」

 ノルドの膝の上に武器を置いたヴァネッサは、その拳で男の顔面を思い切り殴りつけた。

「……!」

 男は一切声をあげない。だが確かに怯み、ノルドへの拘束も弱まった。ヴァネッサは、その一瞬を逃さない。ノルドを支えていた腕を離し、ノルドの膝上から取り上げた黒い武器を両手で構えて狙いを定め、三度、音を鳴らした。その攻撃で男の頭が吹き飛ぶ。しかし、血飛沫の一滴も飛ばなかった。

 ノルドを押さえつけていた手のひらから、力が完全に抜ける。路面に落ちて動かなくなった男の姿は、瞬く間に見えなくなった。

 襲撃を、退けた――安堵が、ノルドの心を満たしていく。

「ありがとう、ヴァネッサ」

「これが私の任務です。しかし、ノルドを囮にしてしまい、申し訳ありませんでした」

「そのくらい、どうってことないよ」

 そうは言いつつも、今の攻防でノルドは疲れきってしまった。男に頭を掴まれた痛みと恐怖はまだ残っている。

「……それより、その」

 だが同時に、その頭は今もまだヴァネッサの胸に押し付けられている。服の上からではわからなかったが、ものすごく柔らかく、たぶん大きい。

「あ、ヴァネッサ、その、胸、あの、当たって」

 どきまぎして、片言になってしまう。ようやく気づいたのか、ヴァネッサは腕を離してくれた。

「申し訳ありません。息苦しかったでしょう」

「い!? や、違うって! そ、その……思いっきり、女の子の胸に頭を、ふにゃっと……」

「何か問題がありましたか」

 ノルドの動揺をなんでもないことのように流し、ヴァネッサは車のハンドルを握り直した。

「あ、あるだろ! 不可抗力とはいえ! 女の子の胸に頭押し付けて! 正直、その、感触を楽しんで、癒されてしまいました! 本当にすみません!」

 ヴァネッサには、直接的な表現でしか意図が伝わらない。頬が熱くなるのを感じながら一息に告げたものの、反応が怖くて、目をきつく閉じる――ヴァネッサは、なかなか返答をくれなかった。

「……ご、ごめんなさい」

 もう一度謝ると、ようやく返事があった。

「いえ。その癒しによって、身体の痛みは多少なりとも引きましたか」

「……え?」

 全く予想だにしなかった反応に、恐る恐る片目ずつ開いてみる。

 そこには、ぽかんとした様子の、ヴァネッサの横顔があった。

「ま、まだ少し痛むけど、もう大丈夫……」

「本当ですか」

「本当だよ!」

「それなら、良いのですが」

 何度も確認するヴァネッサに違和感を覚えた――が、次の彼女の言葉で、すべてが吹き飛んでしまった。

「しかし、驚きました。私の性的魅力に関する評価は最低ランクでしたので」

「え、えっ!?」

「私の、潜入任務やハニートラップ等への適性は皆無であると言われています。ですから、そのような感想が得られるとは思いませんでした」

「お、怒ってないの?」

「質問の意味がわかりません。私が自らノルドの頭を胸部に押し付けて息苦しい思いをさせたのに、なぜあなたが怒ることになるのですか」

 返す言葉が見つけられなかった。ヴァネッサの価値観は、どのようにして形成されたのだろう。

 半壊した青い車は、夕暮れの下を走っていく。


 やがて、昼に出発した森が見えてきた。車は舗装された道を逸れ、木々に阻まれて進めなくなるところまで、強引に分け入る。

「ここで降りて研究所ラボに向かいます」

 車を停めたヴァネッサは、何も言わず外から助手席のドアを開けてくれた。ノルドはできるだけ素早く車を降り、彼女について歩く。

 早足で森の中を進む。鳥だろうか、不気味な鳴き声が遠くに聞こえる。陽が落ちてゆくほどに森の闇は深くなり、闇は不安となって胸に広がる。

 ヴァネッサが、息を切らしていた。額には玉のような汗が浮かんでいる。その上、ふと見えた彼女の右手の甲は、血塗れだった。

 完全に陽が落ちると、あたりは粘つくような漆黒と、風にざわつく木々の不穏な声に包まれた。

 ノルドは、自分がどこを歩いているのか全くわからなかった。だがヴァネッサは位置を正確に把握しているようで、周囲を窺いながらも迷わずに進んでいく。

 歩き続け、ようやく暗闇に目が慣れてきた頃、ヴァネッサが草むらに手をつく。すると地面が開き、研究所ラボへの入り口がぽっかりと口を開けた。

「行きましょう。まずはロッカールームへ」

 研究所ラボへ続くエスカレーターの向こうからは、煙の臭いが漂ってくる。

「……わかった」

 二人は、夜の森よりもなお深い暗闇の中へと足を踏み入れた。

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