天の虜囚 6
動かなくなった真っ黒な階段を、音を立てないように降りていく。
研究所のロビーは、非常灯の青い光によって仄暗く照らされていた。出かける前に声をかけた監視員が、受付カウンターに頭を突っ伏して寝ている。現状について尋ねるべく、ノルドは彼に声をかけようとしたが――できなかった。
彼は、眠っていた。目を、恐怖に見開いたまま。
「えっ……」
思わずカウンターに手をつくと、ぬめりのあるおぞましい感触が手のひらを襲った。
ノルドが手をついた場所――監視員の頭の近くには、紫色の水たまりができている。青い光に照らされ淀んだ紫に見えるそれの正体は――真新しい、血。
声が出ない。うまく、息が継げない。
「研究所は敵の襲撃を受けたようです。敵の目的はあなたの始末、あるいは確保。及び、ここのメイン・コンピュータに保存されている、あなたの身体に関するデータの奪取です」
ヴァネッサの言葉で、口の中にひどい苦味が広がった。
(それって、俺のせい……って、こと?)
まず思い浮かんだのは、この研究所で世話になった二人の顔。
「ドクターや、ジゼルさんは……」
「わかりません」
ヴァネッサの口調は、淡々としている。ノルドですら『機械のようだ』と感じるほどに。
ノルドは監視員の冥福を祈り、振り返ってヴァネッサに声をかけた。
「目的地は、ロッカールームってところだよな。武器を取りに行くんだろ? ドクターが『君の荷物はすべていつものロッカーに入れておく』って言ってたもんな」
「はい」
「なら、俺は置いていってくれ。俺じゃ足手まといだ」
「それはできません。敵からあなたを守るために、武器の回収に向かうのです。どこに敵がいるとも知れない状況下で、あなたを一人にすることはできません」
「俺は足を引っ張りたくないんだ。俺のせいで、ヴァネッサが、もし、死んだりしたら……」
「私は絶対に死にません。私の任務は、あなたを守ること。死ねば任務を遂行できません」
それは、詭弁だ。だが、彼女の思いを無碍にするわけにもいかない。心の内を隠して、ノルドは頷いた。
「……わかった、俺も行く。ロッカールームは何階にあるんだ?」
「地下二階です。非常階段を降りればすぐです、行きましょう」
入り口から見て右手奥、非常階段へ続くドアは開け放たれていた。ノルドはすぐに階段を降りようとしたが、ヴァネッサに止められた。
「銃声がします。私が先に行きますので、慎重に降りてきてください」
「じゅうせい?」
ヴァネッサは、悪魔を倒した黒い武器をノルドに示す。
「これが銃です。武器の一種です。様々な種類がありますが、サイレンサーがついていなければ、撃った際に大きな音をたてます」
確かに下の階からは、バン、ガガガ、といった音が断続的に聞こえてくる。地下二階で、誰かが戦っているのだ。
「私はこの自動拳銃の他に、アサルトライフルを一つと、特殊な銃を一つ所持しています。護身用のナイフもあります。おそらく、すべて三番ロッカーに入っています」
多くの武器を持っている。だから自分は強い。安心して欲しい。
それが、装備の内容を明かしたことの言外の意味だろう。
(ロッカーが無事とは限らない、とは言わないか。この状況でも俺に気を遣うなんて)
階段を降りていく。ノルドは小声でヴァネッサに尋ねる。
「なあ、ヴァネッサ。銃っていうのは、どのくらいすごい武器なんだ?」
「強力なものであれば、この世界のあらゆる生物を一撃で倒すことができます」
足音を立てずに先を行く背が答える。まるで自分に言い聞かせるような口ぶりだ。
「もう、先日のような判断ミスはありません。敵は発見次第すべて倒します」
「判断ミスって、いつそんなこと」
「『うみ』での戦いの時です。敵を見誤りました」
「うみ?」
聞き返した途端、ヴァネッサの肩が緊張でこわばったのを見逃さなかった。
「……ドアを開けたら、すぐ左手がロッカールームです。絶対に油断しないでください」
「わかった」
『うみ』――その単語を、強く記憶に刻んで、ノルドはそれ以上問わなかった。
階段を降り切ると、でこぼこにへこんだ扉があった。『地下二階・A棟』という文字は歪みきっている。
ヴァネッサが慎重に扉を押し開けた先は、暗闇だった。地下一階や非常階段とは異なり、青い非常灯は機能していないようだ。ヴァネッサは手にした黒い拳銃を携え、全身から警戒の糸を巡らせる。ノルドは出来る限り彼女とは異なる方向を見つめ、敵の影がないかを確認する。だが、闇の向こうからは銃声が連続して聞こえるばかりで、何も見えない。
どんなフロアなのか把握することも出来ない真っ暗闇。
この闇に目を慣らせば、見たくないものを多く見ることになるだろう。吐き気をこらえて口をふさぐと、空いていた手をヴァネッサが握り、引いてくれた。
導かれるままに歩いて行くと、前方に青くほのかな光が見えた。二人は早足で光へ近づいていく。
「ここがロッカールームです」
左手の壁に、まるで山に口を開けた横穴のような、狭く細長い空間があった。幸いにも、この部屋の非常灯は機能している。先ほど見えた光はこれだったようだ。
ヴァネッサはノルドの手を引いたまま、ロッカールームへと入っていく。両側に配置された無機質な扉付きの棚には、傷一つない。
不意にヴァネッサが立ち止まる。
「ここで待っていてください。ここなら」
「真っ直ぐな細長い部屋。奥は行き止まり。だから敵は、さっきの入口からしかここへ入って来られない。ヴァネッサが武器の回収を終えるまで、俺は入口方向だけを見張ってればいい」
「そうです。お願いします」
ロッカールームの一番奥へ走っていくヴァネッサを確認してから、ノルドは入口の方へ向き直る。
(武器を回収して、その後はどうするんだ? 戦うのか? ……狙われてるのは、俺)
ロビーにあった、監視員の死体。手のひらに残る不気味な感触。
(俺のせいで、人が……死んだ)
前方から、足音が聞こえてきた。ノルドたちが来たのとは別の通路からだ。ノルドが警戒を強めるのとほぼ同時に、足音が駆け出す。
視界に飛び込んできたのは、男の姿。男は、メイリベルの『壁』の向こう、多色に揺らめく白い水辺で戦った時と同じロングソードを構えている。その刃は、血塗れだ。
ヴァネッサは、まだ来ない。ならばと、ノルドは敵を見据えて右手を高く掲げる。
「太陽が産みし霧の乙女」
非常灯に照らされ、一瞬だけ敵の姿が鮮明になる。
ノルドはその時、初めて悪魔の顔を見た。
男の両目の下には、一つずつ大きな泣きぼくろがある。眉はなく、黒い髪は今のノルドより少し長いかどうか。黒いコートの上からでもわかるほどに、腕は太くたくましい。
しかしよく見ると、彼の眼球は偽物――上から瞳のように黒く塗りつけただけの、丸い磨り硝子だった。視界にノルドの姿をとらえてはいるものの、生気は宿っていない。ほくろだと思ったものは、小さな黒い螺子だった。
(これって……機械!?)
しかし、戸惑っている場合ではない。悪魔の――いや、機械の男は、黒い翼を広げたまま、常人ではありえない速度で通路を駆けて来る。
「その御心のままに――ッ!?」
ノルドの眼前に男が迫ったその瞬間、水流の魔術が炸裂する、はずだった。
「ぐっ……かはっ」
空咳が出る。突如全身を襲った激痛に、魔術の詠唱は中断を余儀なくされた。ノルドはうずくまり、痛みをこらえる。
「ノルド!」
背後から、ヴァネッサの声が聞こえた。
(かわさないと、死ぬ)
しかし、ノルドの覚えた恐怖もヴァネッサの叫んだ焦りも、杞憂だった。
敵の頭が、砕けた。どこからか、無数の銃弾が放たれたのだ。男の振りかぶったロングソードが、そのまま床に突き刺さる。
そして、暗闇の中からゆらりと現れた、白い人影。
「ノルドくん、無事でよかった」
聞き覚えのある、やさしい声。明かりに照らされて、彼の輪郭が青く浮かび上がる。
「ドクター!」
数時間ぶりに再会したドクターは、やつれた顔で息を切らしており、まるで数年が経過したように老けこんで見えた。銃を携えているが、ヴァネッサが持っているものとは違って大きい。しかし、なにより――
「ドクター、そのケガ……」
裂かれた白衣と、左脇腹を染める赤色が、戦いの激しさを物語っている。
「ノルドくん、逃げろ。ここはもうダメだ。これを持って逃げてくれ」
ドクターは白衣のポケットから、親指の先ほどの大きさの白く四角い板を取り出し、ノルドの手に握らせた。
「このチップには、君の生体データがすべて記録されている。研究所のメイン・コンピュータはもう掌握されているだろうが、データは盗まれても構わないんだ。大事なのは、我々がデータを失くさないということ……そして、君を生き延びさせること。我々にとって、君は、『救世主』となりうる、存在……絶対に、君を失うわけには、いかない……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐドクターの顔は、どんどん色を失っていく。
「それから、もう一つ……う、ぐぅっ」
白衣のポケットに手を入れて、ドクターは呻く。なぜか、焼けた肉の匂いがする。ドクターの様子を不審に思ったノルドは、彼の手をポケットから引っ張りだした。
その手のひらに握られていたのは、小さな石の破片。その石を中心としてドクターの手のひらには火傷が広がっており、今も音を立てて焼け焦げている。
「この毒石……君なら手にできる、だろう?」
ノルドは、思わず石を取り上げた。
濃い藍色と、深い緑色。二色が複雑に混じりあう、不思議な斑模様。
「失くしても、構わない……だけどこの石の色は、必ず目に焼き付けておいてくれ。きっと、襲撃者の正体の鍵になる」
「はい……」
どんどんかすれていくドクターの声に、ノルドも、同じくかすれた声で応じる。
「
いつの間にか、ロングコートを羽織ったヴァネッサが真後ろにいた。白い銃を左腕に無理やり装備し、斜めがけしたベルトには無骨で大きな濃緑の銃を結びつけて背負っている。
「……可愛い、服だね。似合ってるよ、ヴァネッサ」
「ありがとうございます」
ドクターが無理やり笑顔を作る、その様子が痛々しい。
「そのアサルトライフル……『
「三人、だけ……」
その言葉の意味するところを思うと、勝手に身体がこわばる。ドクターの左脇腹から染み出す真新しい血が、白衣を赤黒く染めていく。
「ノルド、伏せてください!」
ヴァネッサの声にハッと覚醒し、闇の中を見やったが、何も見えない。しかし、ヴァネッサは背負っていた
それでも、敵のほうが一手早かった。
聞こえたのは、前方からの無慈悲な銃声。
「ノルドくん!」
ノルドは突き飛ばされ、背中から倒れた。
そのさなか、ノルドは、ドクターの顔が苦痛に歪むのを見た。まるでその一瞬だけが切り取られたかのようにはっきりと、ドクターの表情が見て取れた。
彼は、ノルドに向かって――微笑んだ。
「ドクターっ!!」
頭上でヴァネッサの
ノルドに覆いかぶさるようにして倒れているドクターの背には穴が開いており、そこから、鮮紅がにじむ。脇腹からの流血とは比較にならない量の赤が、医師の証である白衣を侵食していく。
「ドクター、しっかりしてください!」
ノルドはドクターを助け起こした。だが、顔を見ればわかった――もはや、彼を救うことはできないのだと。
「俺をかばったんですよね? どうして、どうしてそこまで」
ドクターは喚くノルドの手を取り、やさしく語りかける。
「もうすぐ寿命を迎える私が、君とヴァネッサという次世代を……救世主を、助けられ……た。これで、いい……」
「寿命? 何言ってるんですか、あなたはまだそんな歳には見えません! それに、『救世主』って――」
「私は、もう四十二……老衰一歩、手前さ。あとは、ヴァネッサに、聞いてくれ……」
「ノルドは私が必ず守ります。どうかご安心ください。」
ドクターがホッとした表情を浮かべた直後、その口から血がこぼれた。
目の前で、人が死ぬ――何も知らない、わからない場所で目覚めた時、一番やさしくしてくれた人が、目の前で死ぬ。
ノルドの手が、肩が震える。焼けつくように喉が痛い。零れる涙が止まらない。たった四日間の付き合いでしかなかったのに。
「泣くな、ノルドくん……君の生存が、私の任務、いや……望みなんだ、げほっ、ごぼっ……」
ドクターが咳き込むたびに、ノルドの落とした涙に血が混ざる。
「ヴァネッサを、頼むね」
絞り出した、最期の言葉。
ドクターの手のひらから力が抜ける。ノルドを見つめていた目は、まばたきをやめた。
(嘘だ)
腕の中の、確かな死の感触。
(嘘だ、こんなの)
認めたくない――その思いが、ドクターの焼けただれた手を強く握らせる。
「脱出しましょう。ここにもう用はありません」
抑揚のない言葉が、冷気すら孕んで響いた。ロングコートの裾をなびかせ、ヴァネッサは事切れたドクターの横を通り過ぎていく。ノルドは、涙に濡れた視線で、彼女の背を追うことしかできない。立ち上がれないのだ。
ヴァネッサはロッカールームの入口付近で立ち止まり、
今度は右を向いて、再び撃つ。撃つ度に彼女の身体が少し後ろにのけぞり、金色の小さな筒が床に落ちて、高い音を鳴らす。
「三体撃破」
見知った人物の亡骸を前にしてもなお、淡々と戦い続けるヴァネッサ――ノルドは、叫ばずにはいられなかった。
「なんなんだよ……なんなんだよ、これ! どうしてドクターが死ななきゃならない!? なんで俺のために人が死ぬんだよ!」
「ドクターも《
青い光が、冷徹な戦士の影を長く伸ばす。再びの発砲音。
「四体撃破」
「人の死を悲しむ時間もないっていうのか!」
あたりの様子をもう一度確認したヴァネッサは、嘆くノルドのそばへやってきた。
「視認できる敵はすべて倒しました。今のうちに脱出しましょう」
しかし何を言われても、ノルドの身体は動かなかった。ただひたすらに、全身が燃えるような怒りと悲しみに震えるばかりだった。
するとヴァネッサが突然、ノルドからドクターの遺体を奪い取った。
「何を……!」
ドクターをその場に捨て置かれてはたまらないと、ノルドはヴァネッサに掴みかかろうとした。
しかし、ヴァネッサがドクターを無碍に扱うことはなかった。ヴァネッサはしゃがみこみ、ドクターの遺体をゆっくりと床に横たえると、彼の両手を胸の上で重ね、白濁の始まった瞳を閉じさせた。彼女自身も目を閉じて、胸に手を当てる。
ノルドは、宙を掻いた手をおろして、ドクターの顔を見た。脇腹と背中に重傷を負っての失血死――その苦しみは相当なものであったはずなのに、ドクターは、安らかに微笑みながら眠りについていた。
「ノルド、あなたを守り抜きます。ここであなたを死なせては、それこそ彼の死が無駄なものになってしまいます」
立ち上がったヴァネッサは、ノルドに手を差し出す。
彼女の顔に浮かんでいたのは、ただ、悔恨の一色。
「ごめん……」
ノルドは袖口で涙を拭うと、彼女の手は取ることはせずに、自力で立ち上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます