天の虜囚 7
ヴァネッサは
「うぐっ……!?」
思い切り腹を打って呻き、突然のことに帽子が脱げた。拾おうと慌てて手を伸ばしたが、しゃがみこんだヴァネッサに背中を押さえつけられ、叶わなかった。
「待ち伏せされていたようです」
次の瞬間、頭上で無数の剣やナイフが風を切った。冷や汗が、ノルドの頬を伝う――もしも、ヴァネッサに転ばされていなかったら。
「そのまま伏せていてください」
ヴァネッサはすっと立ち上がり、緑の双眸に火を灯した。
薄青の膜の向こうから、再び短刀が風を切って飛んできた。ヴァネッサはわずかな動きでこれをかわし、同時に騎士を一発、ナイフが飛んできた方向へ撃ち込んだ。しかし、手応えのある音は聞こえてこない。騎士を背に戻し、右手に拳銃を、左手にナイフを構え、近接戦闘に備える。読み通り、敵はヴァネッサに向けて疾走してきた――しかも、同時に三方向から。数は五人。
最初に襲いかかってきた敵は、剣を振りかぶっている。ヴァネッサは剣戟をナイフで弾き、敵の頭に反撃のナイフを突き刺した。
「一体撃破」
直後、後方からの敵に対して振り向きざまに発砲。正確に頭を撃ち抜く。
「二体撃破」
別方向から、武器を持たず身ひとつで猛然と突進してくる二人の男。その一方に対して、最初の敵から抜き取ったナイフをまっすぐに投げつける。ナイフはまるで吸い込まれるがごとく、向かってくる敵の頭に突き刺さった。しかし、高速で走りこんできていた敵は、機能を停止しながらもノルドの身体を砕こうと、肘から倒れこんできた。ヴァネッサはその動きを空いた左手で制しながら、同じく駆けてきたもう一人の額に照準を合わせて撃ち抜く。そして、支えていた男の身体を突き飛ばして衝突させた。
「四体撃破」
男二人は、折れ重なって倒れる。
ヴァネッサの戦闘能力は圧倒的だった。あまりにも鮮やかな戦いぶりに、舞っているのではないかと勘違いするほどに。
視認できた敵の最後の一人が、右手から揺らめくように現れた。狙いを定め、ヴァネッサは拳銃の引鉄を引く。しかし男は突如動きを速め、軽やかに銃弾をかわしてみせた。
「なっ――」
ヴァネッサは、明らかに狼狽した。銃弾をかわした敵は細身の剣を逆手に構え、ノルドの心臓を突き刺そうとしている。
「くそっ!」
立ち上がって剣閃から身体を逸らすも、完全にかわし切ることは叶わず、敵の剣は左肩をえぐった。
(ぐっ……!)
痛みに涙が滲んだ。だがノルドはこらえて歯を食いしばり、左肩に突き刺さった細身剣の刃を右手で思い切り握りしめた。
「ヴァネッサ! こいつは他のやつと違う!」
得物が違う、動き方が違う。今まで倒してきた機械の男たちよりも複雑な挙動をしている。何より、動きが曲線的だ。
ノルドは目配せをする。一瞬ヴァネッサはたじろいだが、すぐさま、敵の頭に銃口を向ける。しかし相手の判断も早く、機械兵士はすぐに剣から手を離し、銃弾の軌道を予測して後方へ跳ねた。
狙いは、まさにこの回避行動にこそあった。
ヴァネッサは、撃たなかった。撃つと見せかけたその姿勢から、強く床を蹴って一気に距離を詰める。ヴァネッサの俊敏な動きは、回避行動を続けようとする敵を追い詰め、あっという間に動きをとらえた。今度こそ、額に狙いを定め、撃ち抜く――
バン、という銃声。チャリン、と薬莢が落ちる。男が、床に倒れる。
銃口から、白煙が細く伸びる。
「付近の敵を撃破しました」
ヴァネッサは拳銃をウエストポーチの中にしまい込むと、深く息をついた。戦いの余韻を残す彼女の姿とは対照的に、あたりは薄暗い静寂に満たされていく。そして油と、煙の臭い。
ノルドは、左肩に突き刺さった剣を抜こうとした。しかし、刀身を握りしめ裂けた手のひらにはまるで力が入らず、剣の柄が鮮血に染まるばかりだった。
「申し訳ありません。痛いと思いますが、我慢を」
駆け寄ってきたヴァネッサが、一気に剣を引き抜いてくれた。肩を強く押さえて止血を試みたが、止まりそうにない。流れる血は上着にまで染み出してきた。中のシャツも変色していることだろう。
「ヴァネッサ、ナイフを取り返してきなよ」
表情を繕ったりはしなかった。戦いに慣れているヴァネッサが、このケガの痛みをわからないはずはないだろう。脂汗をかき、息は切れ、激しく肩が上下する。
だが、それ以上に、無傷の胸が痛かった。
(血を洗い流して、破れた部分を繕っても、この服を返すべき人は……もう、いない)
ノルドは、脱げて床に落ちていた帽子を左手で拾い上げ、そのまま左手でかぶり直した。せめて、ヴァネッサが選んだというこの帽子だけは、血で汚したくなかった。
あたりを見回す。ヴァネッサが倒した敵。どれも、翼は消えずに残っている。全員頭を破壊したら、動かなくなった。この機械の兵士の弱点は頭なのだろう。血は一滴も流れていない。頭の中には脳の代わりに石が詰まっている。
(藍と、深緑色の混ざった石……)
それは、ドクターが最後に託してくれた石と、同じ色だった。
ノルドは、エスカレーターの先に見える研究所の出口を見つめながら、ヴァネッサを待った。
「お待たせしました。行きましょう」
ほんの少しの時間待つと、ヴァネッサが、わずかに疲れの見える声で言った。腰の鞘にナイフを収め、騎士もしっかりと担ぎ直している。
「わかった」
ノルドは短くそう返し、エスカレーターを登る前にもう一度出口を見上げた。
すると、先ほどはなかった光が見えた。
「ヴァネッサ、ここの出入り口って、人が入ったあとはどうなる?」
「自動的に閉まります。一階は非常電源が作動していますから、問題なく動くはずです」
「それなら、おかしい。天井の向こうに星が見える。扉が開いてる」
「――ッ! ノルド、すぐにその場を離れてください!」
ヴァネッサが呼びかけた時には、もう遅かった。上から大きな銃声が聞こえ――ノルドは、その場にくずおれた。
「ノルドっ!」
右の太腿の外側あたりに、鋭い痛みを覚えた。見るとズボンに穴が開いており、そこからズボンが濃く変色していく。
(俺、撃たれた、のか?)
ヴァネッサはノルドをかばうようにして立ち、出口に向けて騎士を乱射した。
(熱い、痛い……撃たれると、こんなに痛いのか)
左肩、右手、右脚。三箇所からもたらされる痛みで、気を失いそうだ。
(この武器は、危険過ぎる。こんなものがあったら、誰だって簡単に人を殺せてしまう)
ノルドは、『銃』について思考を巡らせることで、必死に意識にすがりつこうとした。
だが、本能は激痛に抗えなかった。視界が、どんどんぼやけていく。何も聞こえない。
傷が、暗く呼びかける。
(俺のそばにいる人は、みんな死んでしまう)
痛みが、ノルドの記憶や感情をもえぐろうと、その刃を深めていく――
◆
――四年前。ノルドは十二歳だった。
真昼のことだった。メイリベルの役所に勤めていた父が、突然「痛い、痛い」と叫びながら外に飛び出したと聞いた。母と二人、父を探して夜半まで町じゅうをさまよい歩いたが、どこにもいなかった。
「母さん、もう探してないのはあそこだけだよ」
ノルドは母の制止を振り切って、『果ての壁』へ向かった。
父は、そこにいた。『壁』に背を預けて、動かなくなっていた。それでも連れて帰らねばと、父を引きずって歩いた。母は泣いていた。あれほどに足取りが重い日はなかった。
その数週間後だった。母が、病気になった。
母は夏になっても「寒い」といい、布団から出られなくなった。真夏の暖炉に火をくべても、母は、「寒い」と繰り返す。やがて母は「寒い、痛い。体中が痛いの。ノルド、助けて」と、涙ながらに訴えるようになった。
そして、三年前のあの日。母は、布団の中で冷たくなっていた。
母を心配してやって来た近所の住人に発見された時には、一週間ひとりで飲まず食わずだったノルドも倒れていた。
母の葬式は、呆けて何もできないノルドの代わりに、町長が執り行ってくれた。
青空の下を行く黒い葬列の中から、囁き声が聞こえる。
「奥さんまで亡くなるなんて『壁』に近づいたからに決まってるわ」
「あの子、しょっちゅう『壁』を見に行ってたそうよ。何度連れ帰っても、やめなかったとか。ご夫婦が立て続けに亡くなったのは、あの子のせいよ」
「ただの問題児かと思っていたが、これでは疫病神だな」
「そうね」
「疫病神ね」
「あいつは疫病神だ」
「親殺しの疫病神だ」
「疫病神だ」
「疫病神だ」
「疫病神だ」
「疫病神だ」
――土を被せられていく、母の棺。
その時、ノルドは確かに誓ったのだ。
二度と、『果ての壁』には、近づかない――と。
◆
(どうして、忘れてたんだ)
意識が、昏い底へと落ちていく。封じていた記憶の底へ落ちていく。
(どうして、俺は、『壁』の向こうを知りたいなんて……)
自分の愚かさに、涙が流れた。
だが――
「ノルド」
やさしく名前を呼ばれた。
「ノルド、恐らく外にも敵がいます」
光が煌めいた。どの魔術元素とも違う、淡くやさしい星のような光が。
「夜の森を逃げれば、敵はゲリラ戦を挑んでくるでしょう。そうなれば応戦は困難です」
誰かに抱きかかえられていた。六年前のあの夜のように。
「ですが空中ならば、敵の数も位置も容易に把握できます」
声の主である少女の背から、白い光が発されている。
「空へ逃げ、救援を待ちます。ヘリオディスの《
かすれた声で、必死な声で、少女の名を呼んだ。
「ヴァネッ……サ……」
「あなたがこんな大ケガをしたのは、私の落ち度です。少し休んでください。絶対にあなたを死なせません。私が守り抜きます」
闇の中で、清澄な光が流星のごとく爆ぜ、純白の羽根が舞い散る。
白い翼の少女は、夜空へと翔け出した。
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