青色の鍵 3

「心にもないことはやめなさい」

 ノルドの心臓を狙ったはずの弾は、ノルドに覆いかぶさるようにして立ちはだかったクラウスの右脇腹に突き刺さっていた。

「狙いを外している……僕がかばわなくても、君は……ノルドくんを、殺せなかったか」

 脇腹を抑えながら、クラウスはその場に倒れ込んだ。

「クラウス様っ!」

 マスクで顔の下半分が見えなくとも、ロジオンが顔面蒼白であることは容易に窺い知れた。クラウスを助け起こし、焦りつつも的確に応急処置をしようとしている。

 ノルドは、カタカタと音を立てて震えるヴァネッサの銃を下ろさせた。

 ぼろぼろと大粒の涙を零す彼女に、何を言えばいいのかわからない。なぜ、泣いているのかもわからない。

(人に、かばってもらうの、二回目……)

 ドクターとクラウスの姿が重なって見え、ノルドの頭は急速に冷えていった。ヴァネッサはまだ放心している。

 ノルドは、煙を吐かなくなった銃を彼女の手から取り上げた。

「ヴァネッサ、ヴァネッサ」

 呼びかけながら彼女の肩を揺らす。すると、ようやくヴァネッサの瞳に光が灯った。

「……ノルド?」

 ノルドは、思わずヴァネッサを抱きしめて、言った。

「ごめん、俺、まだ死ねない。ヴァネッサや、ドクターや、クラウスさん。エカテリーナさん……いろんな人が救ってくれた俺の命、簡単に捨てられるものじゃない」

「……無事、なんですか。よかった。あなたを守り抜く、それが……」

「もう、いいんだ。もうヴァネッサは、誰にも従わなくていい」

――そう。もう従うべき者は、いなくなったのだ。

 ノルドは、ヴァネッサの肩越しに、新たな襲撃者の姿を認めた。

 黒翼ノーチを模した機械兵士を背後に従えた彼女は、ノルドとヴァネッサに銃を向けている。その様子には、先ほどのヴァネッサのような迷いはない。

 誰にも従わなくていい。目の前の女性の姿が、ノルドにそう言わせたのだ。

「ヴァネッサ、やはり任務を放棄してしまいましたね。やむを得ません。私の独断であなたを処分した……ディートハルト委員長には、そう伝えましょう」

 シスターのような服。マスクで隠された顔。

 ノルドは、紫色に染まるメイリベルに現れたマザーに、ヴァネッサの銃を向けて凄む。

「内通者はあなただったのか、マザーさん!」

 精一杯の虚勢を大声で張り上げ、自分を鼓舞する。

 ノルドには、銃の使い方がわからない。相手の銃の射程もわからない。

 得意な魔術で対抗しようと息を吸ったが、エカテリーナの言葉が思い出された――『銃は、魔術に対抗するために作られた武器』。

「やっぱり、逃げる!」

 ノルドは無理やりにヴァネッサをかばいながら、マザーの銃撃をかわそうとがむしゃらに走った。無数の弾が町長の屋敷の壁に突き刺さる。その攻撃の様子は、ヴァネッサの使っていた『騎士ナイツ』という銃と似ていた。

「ノルドっ、そのおばさんだけはお前とヴァネッサちゃんでなんとかしてくれっ!」

 空高く舞ったロジオンは、町長の家の二階の窓を剣の鞘で砕き、そこに重症のはずのクラウスを放り込んだ。

「電磁力パワーだっ! 身中に伏す雷よ、目覚め、心のままに互いを求めよッ!」

 ロジオンが地面に放った雷光は、マザーの背後に控えていた十人近い機械兵士たちを引き寄せていく。磁石に引き寄せられる金属片のごとくひとまとめにされた兵士たちは、そのまま塀に叩きつけられ、壊した塀の向こうの道に倒れた。ロジオンは剣を引き抜くと、自ら投げ飛ばした敵を追って宙を駆ける。

 すると、庭でたむろしていた住人たちが、物音を訝しんだのか、のそのそと這い出してきた。

「出てきたらダメだ!」

 しかし、叫びは、無数の銃声にかき消された。マザーの放った銃弾が、無防備な彼らに突き刺さる。焦げ付く空に血飛沫が舞い、息を絶やした死体がいくつも地面に転がる。

「邪魔よ」

 凍てついたマザーの声。だが、ノルドは怯まなかった――怯む暇など、ない。

 ノルドはマザーが銃の一部を解体したのを見て、反射的に手を突き出して叫んだ。

御井みいの恵みは、冬になくっ! 葦の船にてく流れよ!」

 蒼い魔術元素が集まり、六つの氷弾と化す。そのうち四つが、銃に新たな弾丸を込めようとしていたマザーの腕に直撃した。肩から紐で下がっていた彼女の銃が宙ぶらりんになるのを見て、ノルドはさらに魔術を紡ぐ。対してマザーは、長いローブの下から別の小さな銃を取り出し、ノルドに向ける。

 だが、この局面はノルドが制した。あらかじめ先ほどの詠唱で地面を走らせておいた水の魔術元素が、マザーの足元で背の高い氷柱を成し、足場を奪った。

(狙い通りだ、これで――!)

 不安定な足場に囚われたマザーは、姿勢を崩した。

 とどめの一発と、ノルドは切っ先の鋭利な氷刃を宙に作る。しかしマザーの銃口もまた、ノルドを狙い続けている。地面に墜落しそうになってもなお、マザーの銃口は正確にノルドを狙っている。

 だが、マザーはノルドを撃つことができなかった。

 マザーは拳銃を取り落とし、そのまま石畳に落ちた。どこからか飛んできたナイフが、マザーの手首に突き刺さったのだ。

「ヴァネッサ!?」

 正気を取り戻したヴァネッサは、ノルドから銃を奪い取ると、乾いた音を二つ鳴らした。

 両脚の太腿を撃ちぬかれたマザーは、もはや立ち上がれない。ヴァネッサはマザーの右手首に刺さったナイフを取り戻し、まだ無事なもう一方の手にも突き立てた。

「ぐぁぁっ!」

 悲鳴が上がるが、ヴァネッサはマザーの左手に突き立てたナイフを両手で握り、決して離そうとしなかった。


 ――勝負は決した。


「はぁ、はぁ……はぁ、はぁっ」

 ヴァネッサが肩で息をしている。ひどく汗をかいている。

 ノルドは息をつき、あたりを見回す。

 目に入るのは、先ほど飛び去ったロジオンが散らした黒い羽根と、無残に命を奪われた人々。弾丸に撃ちぬかれた死体はグロテスクで、とても見ていられなかった。

 しかしその中に、キラリと光るなにかがあった。

 ノルドは思わずそれに駆け寄り、それを――黒い羽根の中に一枚だけ混ざっていた、藍と緑の二色が緩く美しいグラデーションを描いた、石細工の羽根を――拾ってしまった。

「なぜ……なぜ、三界すべてを裏切るような真似をしたのですか」

 ノルドの後ろで、裏切った上官を詰問するヴァネッサの声には、かつてない悲痛が漂う。

「わから……ないの。愚かな子!」

 息も絶え絶えなはずなのに、マザーは憎しみを込めた声で毒づく。

「友人を殺してまで守らなければならない『秩序』って何? あの日、天界を恨みながら死んでいった彼女を、忘れることはなかった。誓ったのよ、この世界に復讐してやるって……」

「それであなたは、石翼リトスと手を組んだんだ」

 ノルドの声は、自然と悲しげになる。この人もまた、ヴァネッサと同じように、友と殺しあったのか。その深い絶望を理解できないほど、ノルドは鈍感にはなれなかった。

「……本当の名前かどうかは、わからない。だけど……俺は、あなたの名前にひとつ心当たりがある。ヴァネッサ、マザーのベールを外してくれ」

「わかりました」

 ヴァネッサは、マザーの頭を覆い隠していたベールを、少し躊躇ってから剥ぎとった。

――現れたのは、亜麻色の髪。

「やっぱり、そうか……無駄が多いと思ったんだ。俺の情報を得るためなら、研究所ラボを襲って奪うより、はじめから研究所ラボに内通者を潜入させていたほうが安全で確実だ……石翼リトスは、もう俺の情報を完全に把握している。そうだろ、

「……ふ、ふふ……これは……やられたわね」

 マザー――否、ジゼルは、声音を改めた。

秩序の守人ヴェルト・リッターの中には、変装が得意な人もいるって聞いたから」

「そうよ。私の、訓練生時代のすべての評価はA。変装は、Sだった。だけどねぇ……このヴァネッサは、変装と潜入、方術適性以外すべてSだったのよ。彼女は、次のマザーに内定していたわ」

 精神が、もっと強靭であったならね。

 そう語るジゼルの目は、怒りに焦げていた。

「でもあなたは、忘れて楽になったのよね……! しかもあなたは、キャロライン様に気に入られたという、ただそれだけの理由で、あらゆる処分を逃れ、優遇され! 捨て置かれた者たちもいるというのに、不公平極まりない……!」

「……そう、ですね。私などにキャロライン様が情を寄せてくださる。この身にはあまりにも……しかし、そもそもこの三界は、公平ではないのだと知りました。無翼フォールンに生まれたか、白翼ヴァイスに生まれたか、黒翼ノーチに生まれたかだけで、差が生じます。一方は管理され見下され搾取され、自分たちの不幸に気が付かないままに一生を終え、一方は無意味な優越感に浸りながら一生を終えます。いつか死ぬ、公平なのはその点だけです」

「そう、ね……あらゆる点が、不公平。ヴァネッサ……あなたの世界と私の世界は違う。あなたの大切な世界にいる者と、私の大切な世界にいる者は違う。私は、私の世界は、すべてが天界によって蹂躙された。許せなかった……だけど、復讐を遂げるには、時間が足りない……寿命が、足りない……だから私は、長命を約束してもらった……」

 しかし、マザーが搾り出そうとした声は、突如上空から襲ってきた新手によって潰された。

 大きな爆発は石畳と共にノルドをも吹き飛ばしたが、ヴァネッサは敵の気配を察知していたのか、難を逃れていた。

「相変わらず俺狙いか!? ……いや、今度は、リエットお嬢さんもか」

「ノルド!」

 ヴァネッサが自分を呼ぶ声が聞こえた。

「ヴァネッサ、敵はもう一人いる!」

 ノルドはそれだけを彼女に伝え、彼女がリエットを守ってくれることを祈りながら、方向もわからないままに駆け出した。

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