藍と緑の鍵 1

 息を切らして走った先は、『果ての壁』に続く道だった。背後を振り返ると、やはり敵が追ってきている。しかし、銃を持っている者はいなかった。出来る限り人通りが少ない道を選んで、ノルドはロジオンを探す。

 マザー=ジゼルが現れたのは、予想の範疇ではあった。それまで毎日やってきていたジゼルが、マザーの現れた日だけは休みだったからだ。

 だが、それだけで確信に足るとは到底言えなかった。可能性の一つとしてありえただけだった。

 ノルドが内通者と疑っていたのは、別の人物だった。

 理由など、考えたくもない。ただ、状況がそう告げているのだ。

 この町を襲った首謀者は、ジゼルではない。彼女は傀儡に過ぎない。

 これは、黒翼ノーチに罪を着せようと、白翼ヴァイスが仕組んだ茶番などではない。裏で糸を引いていたのはやはり、世界すべてを恨んでいる石翼リトスなのだ。


 赤の月が見下ろす石畳を、ノルドは必死に駆けた。やがて見慣れた『壁』が視界に入ると、何かに躓いてその場に転んだ。転んだ拍子に帽子が脱げる。

 背後を振り返ると、ロングソードを構えた機械兵士が、ノルドの真後ろに迫っていた。

「やらせねえよっ!」

 ノルドの横を、風が通り過ぎる。一直線に駆け抜けてきたロジオンは、ノルドを追ってきていた数人を、一瞬のうちに切り伏せた。

「こんなところまで来るんじゃねえよ。敵は全部片付けてやるから、可愛いお嬢さんたちと屋敷で留守番してろ。クラウス様も心配だし……」

 ロジオンはいつもと変わらない調子で、ノルドの頭を思い切り撫でた。いつの間にか帽子が脱げていたらしく、直に彼の手が頭に触れた。彼の手は、冷たい。

「とぼけないでくださいよ。彼女いない暦一〇一〇年って、本当なんですか?」

「は? お前こんな時に何を……」

「十四歳のときの恋人に、千年会えないんですか? もう会えないのに、あなたはその人だけを想っているんですか?」

「あのなあ。本当だったらロマンチックだけど、そんな馬鹿げた話――」

「あなたは、ロマンチストですよ。だって、ただ単に敵を襲うためだけに作った機械兵士の弱点を、自分たちと同じ場所にするんだから」

 これにはさすがに態度を変えるだろうと思ったが、彼はノルドの頭から手を離しただけだった。

 宵闇に紛れて、彼の顔はよく見えない。

「今回の件の首謀者は白翼ヴァイス。俺を狙った奴らが黒翼ノーチの姿をしていたのはカモフラージュで、そいつらが石翼リトスの手で作られたように見えるのもカモフラージュ……そう判断されるはずだった。させようとした」

 ノルドはドクターからもらい、エカテリーナによって羽根の形に変えられた石を彼に示した。

「……これは、赤月界の研究所を襲った機械兵士の体から漏れ出たものです」

「その石が贋作どもを動かす魔術の源だってことは、銀月界にも報告がきてる」

「……それは、知りませんでした。でも重要なのは、ドクターが託してくれたこの石が、本物の宝石だってことです。この件に、白翼ヴァイス黒翼ノーチ以外が絡んでいることは明らかだ」

「それで?」

 そこまで言って、ノルドは続きを口にするか、迷った。

 だが、言わなければならない。目の前の彼を真に信じるならば――

「こちらは、この町で拾いました。黒い羽根の中に、埋まっていました。あなたが散らした羽根の中に」

 それは、先ほど町長の屋敷の庭で拾った石細工の羽根。

「俺を疑ってるのかよ!?」

 ノルドが彼の目を真っ直ぐに見つめると、ロジオンはため息混じりに答えた。

「……ならヴァネッサちゃんに言って、俺を背中から撃てばいいんじゃないかぁ?」

 彼の口ぶりは、今の会話も普段の冗談の延長だと言わんばかりだ。

「あなたは……話のわかる人だ。だから、黙らずにこうして話してるんです」

 向かい合う彼が、足元の小石を蹴り飛ばすのが見えた。

 不意に、鐘の音が聞こえた。

 白銀の大鐘が、午後五時を告げている。

「……ふーん」

 夕暮れは夜空へと変わり、星の瞬きが空に満ちる。西側を『壁』に覆われたメイリベルの夜は早い。太陽も銀の月も、『壁』の向こうに消えた。

「俺の甘酸っぱい初恋の相手は、戦争で……真世界の黄昏カタストロフィ・ワンで死んじまった。やったのは、白翼ヴァイス黒翼ノーチか、下手したら無翼フォールンかもわかんねえ。なにせ、翼が見えなかったからな」

 彼は細身の剣を逆手に持ち――石畳の上に落ちていたノルドの帽子に思い切り突き刺した。

「名探偵が確信したのはいつなわけ?」

 まるで変わることのない彼の口調と、底冷えするような視線の温度差に、背筋が凍りつく。それでもロジオンの目を見て話さねばと思い、彼の瞳を見つめる。

 ロジオンの瞳の色が、変わっていく。深い緑の樹海に、夜空の藍色が流されていく。

「エカテリーナさんが、言ったんです」

 藍と緑の二色の瞳が、ノルドを睨みつける。ノルドは、声を張りあげて言った。

「今の世界じゃもう、イカは獲れないって!」

「なるほどな!」

 ロジオンは手にした剣を一振りし、穴の開いた帽子をノルドの胸に投げつける。そして勢い良く翼を広げる。

 夜天に、黒い羽根が無数に散る。

 ベールを捨てた彼の翼は、まるで最高級の彫刻のように優美だった。緩やかに混じり合った藍と緑の二色が、宵闇の中で淡く清澄な輝きを放っている。

――これが、人をやめた証だというのか。

 輝く翼は、あまりにも美しかった。

「イカ、好物だったのさ。イカ焼きもイカ飯も、刺身もな。海の幸の味を知らないなんて、戦後生まれはかわいそうだなぁ……」

 殺気を放つロジオンに対し、ノルドは反射的に手を向けた。

御井みいの恵みは――」

「遅いっ!」

 風が吹き抜けたかと思うと、次の瞬間にはもう、首元に白刃がそっと寄り添っていた。

「俺たちの仲間になれ、ノルド。そうすれば命だけは助けてやる……なーんてな。正直お前は仲間になってくれるかとも思ったんだけど、見込みが甘かったわ。ヴァネッサちゃんやショーンを裏切って、俺につくわけねえわなあ」

「な、なら……俺たちの仲間になってくださいよ。そのほうが、レックスくんは喜びますよ」

「子供を盾に取るとは卑怯な奴! 成敗してくれる!」

「正体隠してスパイしてた人と、どっちが卑怯ですか……」

 悪態に悪態で返すも、冷や汗が頬を伝う。この状況を打開する策はない。ノルドの命の行方は、ロジオンの気分次第だ。

「レックス坊ちゃん、見ただろ」

 ロジオンの声音が低くなる。奥底に、深く暗い憎しみを秘めた声だ。

真世界の黄昏カタストロフィ・ワンは、石翼リトスに責任を押し付けて終わったはずなのに、なんだよあれは。俺たちが戦争の膿を全部引っ被っていなくなってやったっていうのに、千年近く経った今も、大地に残った奴らは戦争をやめてなかった。白翼ヴァイス黒翼ノーチは未だに水面下で争い合って、力を失った無翼フォールンを一方的に支配してる……がっくり来たぜ、これには。もし、世界が俺たちを受け入れてくれるくらいに成熟してたら、境界をぶち壊してまでメイリベルを奇襲する必要はなかった。『三界の終焉カタストロフィ・スリー』を実行する必要はなかった」

「そう思ってるんなら、話し合って解決すればいいじゃないですか」

 本性を剥き出しにしたロジオンの瞳が、ノルドを射抜く。

「お前、自分が躓いたものが何なのか気づいたか?」

 重く響く彼の言葉に、ノルドの視線が石畳を彷徨う。

 目の前にあったのは、人の死体だった。

 血にまみれた左胸、無残に砕けた顔。栗色のショートカット、特徴的な銀縁眼鏡――フレームはひどく歪んでいる。

「話し合って解決できるのは、お互いがまともで、理性的で、合理的な判断ができる時だけだ。お前みたいな賢明な奴にだって、気持ちばっかり先行して正しい判断ができなくなること、あるだろ? 今みたいにな」

(フィア、さん――)

 胃の中のものがすべて外へ出ようと逆流しはじめる。しかし冷ややかな彼の声に応えようと、必死に息を継いだ。

「確かめようと……思ってたんですか? 黒翼ノーチたちの中に入り込んで、彼らが話し合いを試みるに足る相手なのかどうかを……」

 瞳を二色に揺らす男は、答えない。

「でも、彼らは、あなたの眼鏡にかなうくらいまでには、成長していなかった……だから、戦いを選ぶんですね」

「……お前は、頭がよすぎる!」

 声を荒らげるロジオンの手が動こうとしていた。

 このまま首を斬られれば、死ぬ。だがノルドは、一心に彼の目を見つめ続けた。


 その時だった。

 彼ら二人の間を、一筋の炎が駆け抜けた。ロジオンは攻撃よりも回避を優先し、後方へと跳ねる。張り詰めていた糸が切れ、石畳に倒れこんだノルドは、誰かに背を支えられた。

 炎は、息絶えたフィアの身体を巻き込みながら、少しずつその火勢を弱めていく。金色の炎は、無惨な姿をやさしく灰へと変え、空に散らした。

「一番鈍そうなあんたの下につけたのは好都合だったよ」

 火花の爆ぜる音の中、ただ黙る彼を一瞥して、ロジオンはマスクを投げ捨てた。

「クラウス様!」

 彼は剣を構え、クラウスに向かって振り下ろした。

「ノルドくん、下がっていろ!」

 クラウスは手にしたハルバードでロジオンの剣を受けると、クラウスの足元の石畳が音を立ててひび割れ、砕けた。その様子だけで、ロジオンの驚異的な腕力が十分に見て取れる。

「くっ……ロジオン、今までの仕事……お前はずっと手を抜いていたのか?」

「いつも本気でしたよ。手抜きしてるのをあなたにバレないために必死だったんでね!」

「なるほど……なっ!」

 斧槍が剣を押し返す。クラウスはノルドを遠くへ突き飛ばし、自らはよろめいたロジオンに追撃を加えようと翼を広げた。羽根で風の流れを読み、人間にはできない加速で距離を詰める。

「ノルドさん!」

 呼び声に振り向くと、走ってくるヴァネッサとリエットの姿があった。

「ヴァネッサ! それにリエットお嬢さん、どうして……」

「クラウスさんが、窓から飛び出して行って……追いかけようとしたら、この人が……」

「彼女を戦場に一人でおいておくわけにはいかなかったので。町長の屋敷の付近にいた機械兵士はすべて殲滅しました。ショーンさんは安全です、ご安心を」

 ヴァネッサが早口でまくしたてる様子は、それまでの彼女と比べると奇妙だった。だが、納得はできる。彼女は、真の敵の出現に焦っているのだ。

「ロジオン殿が石翼リトスだというのは、本当ですか」

「……翼を見れば、一目でわかるよ」

 ノルドの言葉を受けたヴァネッサは、ロジオンを探す。クラウスと剣を交える彼の姿、その翼を見て、彼女の目は戦慄に見開かれた。

 リエットが痛ましい声で叫んだ。

「クラウスさん、戦ったら死んじゃいます! 私の方術じゃ、血が止められなくて……」

「クラウス殿を救出しなければ」

「そうはいかないわ」

 ノルドとヴァネッサが同時に振り向くと、背後に女性が立っていた。髪を覆っていた厚いベールはないが、ズタズタになったローブは、脚から流れ出す血で濃く変色している。

 影のように静かに現れたジゼルは、いつの間にかリエットの喉元にナイフを突きつけている。

「甘かったわね。私は方術適性もAなのよ。ノルドくん、ヴァネッサ。動いたらこの子を殺すわ」

 ジゼルの声が、ノルドを脅した。だが、その脅しはヴァネッサには通じない。ヴァネッサは銃に別の弾を込めると、彼女に向ける。

「銃を下ろしなさい、ヴァネッサ。これは命令よ」

 今度は、マザーの声だった。

 ヴァネッサの身体はすくむ。だが、彼女は強い意志で言い返した。

「あなたはマザーではありません」

「私はマザーよ。銃を下ろしなさい」

 ヴァネッサの手は、震えている。命令に従おうとしているのか、逆らおうとしているのか。

「銃を下ろしなさ――」

「ジゼルさんっ!」

 ノルドは大声で、目の前の女性の持つ名のうち、自分が知るものを叫ぶ。その声でヴァネッサははっと我に返り、銃を両手で構え直した。もうその手は震えていない。

「あなたは、マザーだった。自ら変装して身分を偽り、研究所員ジゼルとして忍び込んだ。マザー自身が身分を保証しているから、ジゼルは自由に動き回れる。襲撃の日に休暇をとっていたジゼルは、内通者の疑いをかけられる。そしてその内通者を、秘密裏にマザーが始末した――そういう筋書きにすれば、あなたは架空の自分を殺し、今の地位に留まることができる!」

 目の前の女性は、刃物のように鋭い視線でノルドを睨みつけた。

「ああ、気持ち悪い子ね。今も激しくドーパミン遊離を起こしているのかしら……」

 マザーの声のまま、ジゼルが言った。

「重要被験体ノルド、リエット。もうあなたたちはいらない。データは手に入れた。あとはもう、私の延命の役に立ってもらうだけ」

「あんた、自分の野望のためなら他の奴を踏み台にしても構わないんだな。そういう奴はお断りだ」

「……えっ?」

 ジゼルの背後で囁いたのは、クラウスと戦っていたはずのロジオンだった。

「自分は他人を踏み台にしてもいい。だけど自分が踏み台にされたら怒るんだろ? お嬢さん」

 ロジオンはジゼルからリエットを奪い取ると、彼女の脇腹を一突きにした。

「な……にを……」

血にまみれた刃を引き抜くと、ロジオンはリエットを抱いてそのまま宙へ飛び去った。

「ヴァネッサちゃんに絶好のチャンスをやったのさ。今だ、撃てっ!」

 不可解なロジオンの言動に、銃口は躊躇った。ヴァネッサは撃たないと判断したのか、ジゼルは脇腹の傷を方術で治療しようとする。傷を塞いだら、彼女はまたこちらを攻撃してくる――その確信が、ノルドを叫ばせた。

「太陽が産みし霧の乙女、その御心みこころのままに激流を奔らせ、我が進軍をたすく武神となれ!」

 ノルドが集めた魔術元素は水流となってジゼルを襲った。脇腹を押さえてうずくまる彼女は、銃弾よりも遥かに動きの遅い魔術を避けることができなかった。

「あなたは、もうジゼルさんじゃない! マザーでもないっ! ただの裏切り者だ!」

 自分に言い聞かせるように、そしてヴァネッサに聞こえるように、叫んだ。

 そしてその声は、届いた。

「守るべきなのは、命令じゃない……私が守りたいものは、『秩序』。誰もが虐げられることない、真の意味の秩序がある世界です!」

 ヴァネッサは、ノルドの叫びに応じ、引鉄を引いた。

 『白蜂ベスパ』から放たれた柘榴石ガーネットの毒石弾は、うずくまる内通者の肩に直撃した。

「……が……ぐっ……!」

 もはや彼女の口からは、鮮血しか吐き出されない。放っておいてもそのまま死に至るだろう。真の名もわからない内通者は石畳に倒れこみ、自ら吐き出した血だまりの中で痙攣している。

「……今まで、ありがとうございました。マザー」

 ヴァネッサは、銃口を――下ろさないままに、呟いた。

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