青色の鍵 1
「処分はありません。通常任務にお戻りなさい」
赤月界に戻ったヴァネッサは、この部屋で、長官であるマザーから、冷たくそう告げられた。
「ですが、その浮かれた服は着替えなさい。いつ別命が下っても良いよう、戦闘に出られる装備を」
ヴァネッサの帰還は、
寮へ帰る道すがら、マザーの冷たい視線が思い出される。日頃から、マザーはあらゆる部下たちに対して冷淡だ。ノルドの前で見せたあの姿は、精巧な仮面以外のなにものでもない。それでも、マザーは母として慕うべき存在なのだ。
灰色の歩道を、ヴァネッサは一人歩く。
街路樹が等間隔に植わっている。アスファルトの上を、決められたルールに従って車が行き交う。高いビルディングたちは整然と立っている。
ヘリオディスは、機能的な街だ。メイリベルのような風情や、エンシノーアのような華やかさはない。ヴァネッサは、自らも無駄のないこの街のようにありたいと思っている。
寮に着く。オートロックの共有玄関から入り、自室へと帰り着いた。
二日ほどしか空けていなかったのに、生活に必要な最低限の設備しかないこの狭く殺風景な部屋が、懐かしく感じられた。
部屋のポストに、荷物が届いている。『ANGELY』と書かれた紙袋だ。中身は、ピンクのモヘアニットに白いシフォンスカート、それに萌黄色のワンピースだった。
袋の奥には、手紙が入っている。白く美しい封筒に、赤い封蝋。筆跡もまた流麗かつ読みやすい。
『キャロラインのこと、ありがとうございました。遠慮せず受け取ってください。 アンナより』
紙袋の中身は、ノルドたちとコメット・モールで買い物をしたとき、ヴァネッサが選ばなかった、キャロラインとロジオンのコーディネートだった。
――これを着ることは、ない。
ヴァネッサは、アンナから届けられた服を紙袋に戻すと、クローゼットから別の服と装備を取り出した。
動きを阻害しないように作られた、身体にぴったりと吸い付く戦闘用のスーツ。魔術を遮断する効果のある脚甲。そして、愛用の古いロングコート。このコートは、確か父か母どちらかの遺品だったはずだが、感傷で使っているわけではない。弾倉をいくつも持ち歩いたり、ナイフを隠したりできるよう、様々なカスタムが施されているからだ。両親の記憶などない。
着替えを終えると、ほどなくして電子端末が鳴った――メイリベルの鐘の音が短く二回。電文連絡だ。
『通常業務に戻ってください』
事務方からだ。ヴァネッサはコートの中に黒いオートマチック拳銃の『
ヴァネッサの通常任務は、
M監視室には、無数のモニターが置かれている。それらに映るメイリベルの様子を確認し、レポートをまとめること。通常業務は、それだけだった。
過酷な訓練とくらべ、メイリベルの住民たちの生活を覗き見るだけの生活は、楽だった。だが生真面目なヴァネッサは、この簡単な仕事にも熱心に取り組んだ。メイリベルをより深く理解しようと、彼女はまず自分の電子端末の設定を変えた。白銀の大鐘の音を録音し、それぞれ電話、電文連絡、アラームに。緊急の連絡は、緊急時の鐘と同じように。アラームは常に一時間おきだ。こうすることで、メイリベルの置かれている状況をより深く理解しようとした。
非常時の任務は、二つある。
一つは、『秩序の維持』。双月界の人々が《秩序》を破ろうとした時――すなわち、
もう一つは、『メイリベルにおける非常事態の収拾』。今回の任務はこちらだった。
メイリベルの住民の中で、『最重要被験体』とされていた少年、ノルドの保護。そして、襲ってきた
ヴァネッサは、ホルスターから『
無数のモニターを前にして、ヴァネッサは、これまでを省みた。自らの戦闘スタイル。今までに起こった出来事。
敵は、悪魔――
二発目に撃ったのは、水の魔術弾。これにより、機械兵士の回路をショートさせ、なんとか勝利することができた。だが、勝利に至るまでに、ノルドの助けを借りてしまった。不甲斐ない。
機械兵士を分析して明らかになったことだが、機械兵士の頭には
事態に介入してきた
――銃が通じない相手が現れたとき、どうやって戦うべきなのだろう。
結局、思索はヴァネッサに何の答えももたらさなかった。
通常任務に戻る。
メイリベルに密かに設置された監視カメラで、町を見張る。
そこには、映しだされているのは、混沌だ。
広場通りは無人。しかし、ある路地裏には、互いに争いあった人々の死体がいくつも転がっている。『果ての壁』付近や、『夢の海』では、
このただ中に、ノルドは向かった。彼は、この変わり果てた故郷の様子を見てなにを思うのだろうか。
ころころと表情を変えるノルド。アンナの叱責を引き受けてくれたノルド。気を失った自分を運んでくれたノルド。エカテリーナに言葉で牙を剥いたノルド。
故郷を思い、涙を流したノルド。
(任務に集中しなければ)
メイリベルの監視において、特に重要とされている地点は四つ。
一つは、界層エレベータ。他の三つは、重要被験体が住むノルドの家と町長の屋敷、そして、隠蔽された『夢の海』の存在に近づきつつあるショーンの家だ。
まずヴァネッサは町長の屋敷をクローズアップし、音声受信スイッチをオンにした。そこがもっとも、ノルドがいる可能性が低い――無意識のうちに、そう思ったからだ。
だが、その選択ゆえに、聞いてしまったのだ。ノルドとショーンの会話の、一部始終を。
胸の奥に汚泥がまとわりついた。
ヴァネッサはしばらく呆けていたが、不意に、電子端末が鐘の音を鳴らす。マザーからの連絡だ。
『機密に触れすぎた人間を始末し、もう一人の重要被験体を保護せよ』
ヴァネッサは、すぐに界層エレベータ・Mへ向かうべく、本部にある転送装置を使用した。これを使えば、各地の界層エレベータ付近へ一瞬で移動できる。赤月界の上層部が隠匿している技術のひとつだ。
自宅に置いてあるアサルトライフル『
そして今、ヴァネッサは夕闇に包まれたメイリベルにいる。
目の前に、標的であるノルドがいる。彼に、『
ノルドは、
「……撃てよ」
彼は銃口を向けられているというのに、二人の
「撃てよ」
なぜか、構えた銃が震えて音を立てる。こんなことは、今まで一度もなかった。
「それが『任務』なんだろ!?」
今までは救ってきた彼の命を、今度は奪う。
ただ、それだけなのに。
「やれよ、殺せよ! ヴァネッサーッ!!」
「ああああああああっ!」
叫びとともに、白い翼の少女は引鉄を――
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