紫色の鍵 2
「九七九年、七月二九日。妻は毎日身体が痛くて死にそうだと言う。薬を買って与えたが、痛みは一時的にしか治まらないようだ。痩せ細り、ショーンに会いたいと泣く妻が哀れでならない。妻のキャンバスにはもう破滅以外のものは描かれなくなっていた。あの月宮夜のような美しい絵は、今の妻にはもう描けないのだろう」
月宮夜の絵で最初に思い浮かぶのは、図書館の正面玄関に飾られたあの絵だった。
「ショーン、もしかして」
ノルドは、日記を少し遡った。九七九年、六月二十七日――あの絵の出品を取り下げた。
「これって、図書館にあった月宮夜の絵か? ……お父さんは、聖王都ローレライのオークションにかけるつもりだったんじゃないか?」
「どうして知ってるの? ……まあ、いいや。あの絵さ、父さんの一番のお気に入りだったんだ。父さんはこの町で司書をやりながら歴史を研究しててね……家よりも職場にいる時間が長かったから、母さんはあの絵を図書館に寄贈したんだ」
ようやく、わかった。
図書館が燃えたあの日、ショーンの様子がおかしかったのは、灰になってしまったあの月宮夜の絵が、両親の形見だったから――
「続きを……」
「……九七五年、八月五日。息子の友人のノルドくんが、頻繁に壁に近づいているらしい。不安に思うが、ノルドくんは元気そのものだし、息子に暴力を振るったことなどない。彼の様子は、私の『噂は真実である』という説と矛盾する。息子に、ノルドくんの様子を報告してもらうように頼んだ。息子の友人で実証実験を行うなど、非常に心が痛むが、やむを得ない」
長年ノルドが疑問に思っていたことに、答えが出された。どうして彼が、どんなに住民たちから冷たい視線を投げかけられても自分のそばにいてくれたのか――
だが、答えなどどうでもよかった。理由などどうでもよかった。『疫病神』と呼ばれても、ずっと一緒にいてくれた。それだけでよかった。ただ、ショーンが一緒にいてくれさえすれば、孤独な心は慰められた。これ程に素晴らしい友を得た自分は幸せだと思っていた。
なのに、目の前のショーンは、嗚咽を漏らし、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん……ごめん、ノルド」
ショーンの瞳から、とめどなく涙が流れる。
「謝らなくていい」
「僕は、君を利用してたんだ。自分が行けないからって、君に『壁』を調べさせてた。おじさんとおばさんが亡くなって、ショックを受けて調査を諦めようとした時だって、君の悲しみに漬け込んで、君を焚きつけて、『壁』のことを調べさせてたんだ!」
「そんなことはどうでもいいっ!」
気がつくと、ノルドは両手でショーンの肩を掴んでわめいていた。
「ショーンがいなかったら、俺は消防団にだって入れなかった。あの合成魔術は、ショーンがいなかったら使えないんだから」
「君が『壁』へ行かなくなったら、僕には真実に近づく手段がなくなる」
「リエットお嬢さんが俺と同じ体質で悩んでいるって教えてくれたのもショーンだろ。ショーンがいなかったらあの子とも出会えなかった」
「お嬢さんに近づいたのは、父さんの仮説を証明するためだよ」
「ショーンがいなかったら、俺には居場所がなかった」
「ノルド、続きを読んで。その日記は、あと三ヶ月くらい続くんだ」
「嫌だ」
「どうして」
「続く内容はもうわかったからだ。俺を実験台にするのが申し訳ない……それなら、ショーンのお父さんが次に取る行動はなんだ?」
ショーンは口を固く結び、語ろうとしない。
「決まってる、自分で『壁』に近づくんだ。そして狂っていくんだ、お母さんと同じように……わかってるだろ、俺たち家族も七年前、お前の両親の葬式に行った。お前の両親は町の外で野生動物に襲われて死んでたって聞いた」
ノルドは、歯噛みした。それはきっと、
ショーンは俯いて、やはり語らない。
「なあ、ショーン。お前の父さんは……」
今まで一緒にいて一度も見えなかった、ショーンの心中。親友が、何年も必死に隠してきた後ろめたさ、その向こうにあるものを。
「もし『壁』がなかったら、この町の人達……俺と、リエットお嬢さん以外の全員が狂ってしまうってわかってた。今の状況を予見してたんだろ」
勢い良く顔を上げたショーンの目は、驚きに見開かれている。
「お前のそんなわかりやすい顔、はじめて見たよ」
鷲掴みにしてしまっていたショーンの肩から手を離す。ショーンは泣き腫らしてさらに赤くなった目をこすりながら、ようやく口を開いた。
「……そうだよ。だから、この町から逃げようとしたんだ。そして……父さんと母さんは死んだ。僕は、町に逃げ帰った」
ショーンは袖口で涙を拭う。
「この本は誰かに読ませるための文体で書かれてる。お父さんは初めから自分の研究をお前に託すつもりだったんだ」
思わずベッドの上に投げ捨ててしまった日記を、ショーンの手に押し付ける。
「お父さんの形見だろ。誰にも譲るな」
ノルドは、ショーンのベッドに静かに背を向けた。
「君は偉いね、ノルド」
背中に投げかけられた彼の言葉の意味がわからない。だから、正直に言った。
「……俺は、ショーンの父さんとは違う」
「何も、違わなかったよ」
「違う」
銃に撃たれた時に呼び起こされた痛ましい記憶が、再びノルドの心をノックする。
「俺は、ただ自分の興味や好奇心のために調べていただけなんだ。その証拠に、忘れてたんだ……父さんと母さんがどう死んだのか、忘れていたんだ」
「辛いことは、忘れたいのが普通だよ。だから君は、忘れたのかもしれない。だけどそれでも、君を『壁』に向かわせてたのは単純な好奇心なんかじゃない。僕が君の心を操ったんだ……でもね、見ていたからわかるんだ。『壁』を調べている時の君は、本当に必死だった。父さんを思い出した。あの『壁』に立ち向かってくれる君が、どれだけ僕に……希望を与えてくれたか!」
ショーンは真実から目を背けたノルドの弱さを、肯定すると言う。
友人の声は波音のように優しく、ノルドの抱えていた苦しみに打ち寄せ、ノルドの心に強く、響いた。
「僕は、君が羨ましかった。僕も『壁』を、その向こうを見たかった。そうできればと、ずっと思っていたのに……できなかった。ずっと、後ろめたかった。申し訳なかった。謝りたかった……許してもらえるなんて、思ってない」
「怒ってなんかいない。お前は俺の大切な友達だ。本当のことを……その日記を見せてくれて、ありがとう」
ノルドは目尻に浮かぶ涙を拭ってから、ショーンに背で声をかけた。
「悪い。話を聞かなきゃいけない人がいるんだ。いいか、絶対に外に出るなよ」
「……ノルド、何を焦ってるの」
ドアノブに手をかけたノルドの背に訴える声は、もう思いを隠そうとはしていなかった。
「無事に帰ってきてよ。君がいなくなったら、僕は……本当に、たった一人になってしまう」
ノルドは、階下へ降りた。もう、この屋敷には町長も、リエットの母も、下働きの使用人たちもいない。その事実が、ただ狂っていく町を一人で見つめ続けたリエットの心の傷の深さを示している。今すぐに、ショーンとリエットを連れてこの町から逃げ出すべきだ。
だが、その前にどうしても確かめなければならないことがある。
「クラウスさん、ロジオンさん。ちょっといいですか?」
リエットを怖がらせないよう、できるだけ柔らかく声をかける。
「お嬢さん、ごめん。ちょっと待ってて」
リエットの頭をなでてから、
「怖い顔して、どうした?」
ロジオンは心配げだ。庭には、うつろな目を彷徨わせて花に群がる人々がいる。ノルドは彼らに八つ当たりの視線をぶつけた後。クラウスを睨みつけた。
「ショーンの両親を殺したのは、誰ですか? 元・
その問いに、二人は瞠目した。
「ショーンのお父さんの研究が完成して実証されてたら、この町の人たちは誰一人狂わないですんだ。この町を捨てて、逃げられたはずなんだ!」
『壁』の向こうに日が落ち、空が藍色に暮れゆく。
「誰が、誰が邪魔したんだ!」
この憤りを、誰にぶつけたらいいかわからない。ノルドは、ただ叫んだ。
「それを、ノルドが知る必要はありません」
その声に、ノルドは振り返った。
大地に落ちる影の向こうに、見慣れた姿。
裾が擦り切れたロングコート。その中に黒い戦闘服と、足を守る強固なレギンス。
そして、向けられた黒い銃口。
「ヴァネッサ嬢、なぜ君がここに!?」
「任務遂行のためです」
マスクの奥から聞こえる彼女の声は、いつものように抑揚がなかった。
わかっている。だが、ノルドはあえて尋ねた。
「俺を殺しにきたのか」
「はい。マザーからの命令は、機密に触れすぎた人間を始末し、もう一人の重要被験体を保護せよ、というものです」
「つまり、俺を殺して、ショーンを殺して、リエットお嬢さんをさらっていくのか」
「はい」
淡々とした彼女の返事。いつものことだ。いつものこと――
だが。
命を賭してまで自分を守ってくれた彼女が、自分を、その友人もろともに葬ると言っている。ショーンの父の思いも、ショーンの決死の思いも、すべてを。
わからない。はじめて、ヴァネッサの心がわからない。マスクが彼女の心を覆っている――否、わかりたくないのだ。
「……撃てよ」
受け入れがたい現実が、ノルドの理性を焼き焦がしていく。
「撃てよ」
クラウスとロジオンが止めるのを振りほどいて、ヴァネッサに近づいていく。
「それが『任務』なんだろ!? やれよ、殺せよ! ヴァネッサーッ!」
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