第四章 二色の鍵

紫色の鍵 1

 地下七階から、ノルドは梯子を登る。

 天井の扉を開けた先、一面に広がる青い空。その青さは、まさしく懐かしい故郷のものだった。

 しかし一歩外へ出ると、そこには見たこともない光景が広がっていた。

 『果ての壁』に、人が群がっている。

 見覚えのある顔が、何人も、うめき声を上げながら、『壁』に縋り付いているのだ。

「みんな、あれほど、『壁』に近づくなって言ってたのに……」

「中毒者の典型的な症状だ。もっと重度の者は、おそらく海に飛び込んでいるだろう」

 背後から、くぐもったクラウスの声が聞こえた。彼は、銀月界から持ち込んだマスクをしていた。地下から這い出してきたロジオンも同様だった。

「顔を見られないようにした方がいい。彼らは、君になにをするかわからない」

 クラウスは、顔を隠せるようにノルドの帽子を目深にかぶせた。

 町へ戻る道すがら、つばの向こうに、倒れ伏している人々が散見された。息をしているようには、見えなかった。


 奇妙な静けさの中を通り抜けていく。真昼だというのに、誰も広場通りに店を出していない。故郷に帰ってきたはずなのに、まるで未知の土地に来てしまったかのようだ。

「クラウス様、月齢はどうなってるんです?」

「今が、午後三時……午後五時近くになれば、銀の月は境界、いや、『果ての壁』の陰に隠れてしまう。そうすれば我々はこの町に泊まらなければならなくなる……が、そのほうが良いだろう。ここにノルドくんを一人で置いていくことはできない」

 呆然としながら、ノルドは二人の後ろをついていく。無人の通りを進んでいくと、いつの間にか町長の屋敷にたどり着いていた。

 そこでの光景もまた、ノルドを驚愕させた。

 どんな花を植えても枯れてしまうはずの花壇に、虚ろな目をした人々が群がっていて――そこには、赤と白の花が咲き乱れている。

「近づくなよ」

 ロジオンはノルドの服を掴んで背を引く。エカテリーナの幻術でも見た、毒を産む花だ。

「誰かいませんかー!?」

 叫びながら、ロジオンは町長邸の扉を叩いた。しかし数度繰り返しても、何の返答もない。

「……もしかしたら、こっちなら」

 ノルドは、庭を見下ろす窓に近づく。花に群がる人々がノルドたちに気がつく様子はない。

 いつもそうしていたように、控えめに窓をノックした。

 すると、窓の向こうに、赤毛の少女が現れた。

「リエットお嬢さん、ただいま」

 ノルドが精一杯の笑顔を向けると、リエットは号泣しながら玄関の方へ走っていった。彼女を追うと、わずかに開かれた玄関の扉から、リエットが顔をのぞかせた。

「入って、ください、ぐすっ……」

 ノルドたちは静かに屋敷の中へ入り、扉の鍵をしっかりと閉めた。

 リエットは、もはや我慢がならない様子でノルドに抱きつき、そのままぼろぼろと涙を流した。

「きゅ、急に……町の人達がおかしくなって……っ! みんな『壁』の方に行って……でも、ショーンさんが、絶対に『壁』には行っちゃダメだって……家の中にいろって……ショーンさんも、様子がおかしくて……『絶対に僕をここから出さないでくれ』って言うの……だから、二階のお客さん用の部屋に、ショーンさんを……閉じ込めて……」

「クラウスさん、お嬢さんを頼みます」

 ノルドはそれだけ告げると、弾けるように二階へと駆け上がった。


「ショーン!」

 客間のドアを勢い良く開くと、白いベッドの上に、ショーンがいた。

「やあ、ノルド……二週間も会わないなんて、初めてのことだね」

 ショーンの頬は痩せこけ、目は落ち窪んでいる。羽毛布団の上に載せられた手は、驚くほどに細い。

「ショーン、お前……なんでそんなに痩せたんだ」

「ノルドこそどうしたのさ。お互いここまで痩せてはいなかったよね……ところで、君が手に持ってるのはなに? お土産?」

 ショーンに言われて、手に持った袋のことを思い出した。

「ああ、土産だよ」

 中からマスクを取り出し、服が入ったままの袋を手近な棚の上に置いた。

「これは毒から身を守るためのマスクなんだ。三人分もらってこようと思ったんだけど……」

「一つしかないね……三人って、誰?」

「お前と、リエットお嬢さんと、フィアさん」

「じゃあそのマスクはきっと、僕のためのものだね。お嬢さんにマスクは必要ないから。ありがとう、ノルド」

 まるで、今何が起こっているのかわかっていると言わんばかりの言葉だった。

「フィアさんは?」

 ショーンは答えず、ぎこちない手つきでマスクを装着した。

「なあ、ショーン。フィアさんは……」

「ノルド。これを、読んで欲しいんだ」

 ノルドの言葉を遮って、ショーンは、枕の下から、一冊の本を取り出した。

 鍵のかかった日記帳――彼の胸に光る薄紫のチャームが鍵穴に差し込まれ、カチャリと音を立てる。

「それ、飾りじゃなかったのか」

「うん。綺麗でしょ? 紫水晶アメジストなんだ」

 立派な装丁の日記帳をノルドに手渡すと、ショーンは布団の上にだらりと手を下ろす。

「それは、僕の父さんの日記。君が知りたかったこと、いろいろわかると思うよ」

 言われるがまま、ノルドは、最初のページを開いた。

 日付は、新世暦九七八年十月。今から九年前だ。

「妻とこの町に来て七年になる。息子は健康に育っている。妻の絵はますます美しく、私には見えない世界を描きだすようになった。町に来たばかりの頃、物珍しさに『果ての壁』ばかり描いていたのが嘘のようだ……ショーンのお母さん、画家だったのか」

「そうだよ。聖王都でも一番の売れっ子画家さ。僕の家にはひっきりなしに画商が来ていたよ。当時の僕にはよくわかってなかったけどね」

 母について話す赤い瞳は、うつろに彼方を見つめている。

「そこからしばらくは大したこと書いてないから、次の年の……六月くらいまで飛ばして」

 何ページかを一度にめくり、九七九年六月のページを開く。

「九七九年六月一日。妻が息子に暴力を振るっている……?」

「そうそう、そのあたりを読んで」

 ノルドはショーンの顔を見やったが、彼の顔にはもう表情が浮かんでいない。声だけが以前と同じ調子だった。

「……妻が息子に暴力を振るっている。いい絵が描けないと騒いでは癇癪を起こし、息子に八つ当たりしているようだ。息子を殴ったあと、妻はいつも外に出かけていく。一体どこへ行っているのだろうか」

 次のページをめくると、日付が飛んでいた。毎日つけていたわけではないらしい。

「六月五日、息子のために薬を買って、傷に塗った。妻にこれに癇癪を起こし、薬を全て捨てた。妻は、『血を流してるショーンは芸術品なんだから勝手に傷つけないで』と怒鳴った」

「その言葉、覚えてるよ」

 ショーンの声がいつもと同じ調子であることに、ノルドはひどい寒気を覚えた。

「六月十日。薬を買ってもすべて妻に捨てられてしまう。息子の傷を治すため方術の勉強を始めたが、私には全く適性がなかった。やむを得ず方術師を町に呼んだ。幸い、妻の絵に高い値段がついていたおかげで、彼に長期滞在してもらうだけの金額を払うことができた」

「あの人は、いい人だったよ」

 急にショーンの声から生気が消えた。この方術師になにが起こるのか、知っているのだろう。

「六月二十三日……雇っていた方術師が殺された」

 日記を読む声が震えてしまう。この先を読んではいけない、そんな気持ちに囚われた。ノルドが口ごもると、

「続けて」

 と、ショーンが無機質な声で促す。ノルドはもう、ショーンの顔を見ることが出来なかった。

「……やはり、妻の仕業だった。妻は、『私の芸術を理解出来ないみたいだったから、彼自身を作品にして理解を求めた』と言った。私はその場で嘔吐した。妻が作った『芸術』について、私には書き記す勇気がない。ただあの時妻を否定していたら、私も作品にされてしまっていただろう。それでは息子を守る者がいなくなる。妻の作品にされてしまった恩人の姿が蘇ってきて眠れなかった」

 ページに書かれた文字には、わずかに滲んだ部分があった。ショーンの父は凄惨な殺人現場を思い返して、あるいは変貌する以前の妻を想って、涙したのだろうか。書きぶりから察するに、この日の内容だけは当日ではなく後日に書かれたもののようだ。ショーンは何も言わない。

「六月二十五日。妻を自宅の一室に軟禁した」

 最愛の妻が狂い、愛する息子を傷つける。その心痛はいかばかりだったか。想像などできるはずもない。この手記に救いはないのかと思い、読み進めたその次の文章は――

「幸いにも息子には理解ある友人がいるようで安心した」

 丁寧な文字で綴られたその一文に、ノルドは言葉を失った。

「その日さ」

 ショーンの声は、震えていた。

「君が、僕に声をかけてくれたんだよ。覚えてないかもしれないけどさ。落ち込んでるみたいだけど何かあったの? って。君は表情から相手の心を読むの、昔から得意だったよね。僕、父さんにも苦しいのを隠してたのに、君だけは」

 何も映していなかったはずのうつろな瞳から、涙が流れていた。

「続きを、読んで」

「……六月二十七日。妻がどうしてこうなってしまったのか、原因を突き止めたい。自由でありながらも優しく善良な人間だった妻を取り戻し、息子の心に安らぎを与えたい。そのために、あの絵の出品を取り下げた。あの絵には、かつてない額がつくはずだった。だが、あれは家族が幸せだった頃の象徴だ」

「父さん……」

 ノルドは、ショーンの呟きを聞かなかったふりをして、続けた。

「七月一日。妻はこの町に来て数年経った頃から急激におかしくなった。この町には何かあるのか? 七月十日。妻が方術師を殺した件は、私以外誰も知らないらしい。もしや隠蔽されたのだろうか。ひょっとすると、このような猟奇的な事件は他にも起こっているのではないか。七月十四日。妻がおかしくなったのは『壁』に近づいたからではないだろうか。『壁』に近づくと病になるなどという噂は眉唾ものだと思っていたが、真実なのだろうか。『壁』とはなんなのだろうか。『壁』の向こうには何があるのだろうか。妻は『壁』の向こうに何を求めたのだろう」

 ショーンの父の日記は、疑問にあふれていた。ノルドがかつて抱いていた『壁』の向こうへの憧憬よりもはるかに切実に、答えを欲していた。

「七月二十日。町長に頼まれていた『メイリベルの歴史』……を、書き終わった。今の段階ではまだ、この町に芸術家が多いことを強調するくらいしかできず、悔しい。妻はこの町に来てから更に素晴らしい絵を描くようになった。妻以外にも、この町には素晴らしい陶芸家や装飾品の職人などがいる。この町には確実に芸術に訴える何かがある、次の本を書く時までには必ず確証を手に入れてみせる」

 『メイリベルの歴史』。それは、ノルドが図書館で繰り返し読んでいた本だ。その著者がショーンの父だったなんて、知らなかった。こんなにも切実な思いで綴った本だったなんて、知らなかった。

「君は、気づいてくれたよね。父さんが、『メイリベルからは多くの芸術家が輩出された』ってちゃんと書いていたことに……嬉しかった、すごく。本当だよ」

 ショーンは微笑んでいる。その微笑みに、心臓が握りつぶされそうだった。

「続きを読んで、ノルド」

 彼はは、ノルドをまっすぐに見つめてそう言った。うつろだったはずの紅玉ルビー色の瞳に、わずかながらも光を灯して――ノルドは、友人の言うとおりにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る