黒銀の底 10
「いかがだったかしら、ヴァネッサさん。私の幻術ショーは。先ほどの無礼のお詫びくらいには、なりまして?」
ヴァネッサは息を飲み、一呼吸おいてから答えを返す。
「素晴らしいというほか、ありません」
「お褒めにあずかり光栄です。先ほどの暴言の数々、許していただければ幸いですわ」
「では、ノルドさん。あなたから私に問いたいことは?」
ノルドにはもう、新しいことを聞く気力がなかった。彼女に伝えられたことを整理しながら、震える声で話す。
「俺の身体を研究すれば、
「そうね。その通りよ」
風が舞い、藍と緑の小さな石の羽根が、ノルドの手元にひらりと落ちる。どうやら、エカテリーナはこの羽根を返してくれるらしい。
「……でも、ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「何かしら」
羽根を見たら、気づいてしまったのだ。どうしても聞かなければならないことがあると。
「……メイリベルは今、どうなっているんですか?」
顔を上げて尋ねた。エカテリーナは、ノルドを見つめている。鋭さと悲哀がないまぜになった瞳で、見つめ――そして、ため息をひとつ。
「帰りたい? 故郷に」
「故郷が恋しいというわけじゃないんです。心配な……友だちがいるんです」
「……そうね。そうでしょうね」
エカテリーナはその青い瞳に悲しみを滲ませながら立ち上がった。
「わかりました。では、すぐに特別列車を用意させます。ヴァネッサさんのことも、赤月界にお帰ししなければなりませんし」
「はい。本部から私を帰投させる旨、命令がありますので」
「え……」
ノルドの眉は自然と八の字を描いた。
ヴァネッサが、自分のそばからいなくなる――?
彼女と初めて言葉を交わしてから二日しか経っていないはずなのに、彼女が自分のそばを離れるということに、抗いがたい恐怖と不安を覚えた。
「私は、ノルドの護衛の任を外されました。おそらく、
「そんな!」
立ち上がってヴァネッサの言に非難の声を上げたのは、クラウスだった。ヴァネッサは所在なげに彼を見やった。
「エカテリーナ様、会食にお招きいただいたこと、光栄に思います」
「いつかまたご一緒しましょう」
「ありがとうございます」
使用人の一人が、預かっていたらしいロングコートをヴァネッサに着せる。同時に、彼女が身につけていた銃火器類もすべて返された。
「では、会食はお開きと致しましょう。クラウス、ロジオン。責任を持って、ノルドさんをメイリベルに送り届けるように」
「はっ」
「承知しました!」
ヴァネッサは裾の擦り切れたロングコートを翻して足早に広間を後にする。次いで、クラウスとロジオンも出て行く。
広間にエカテリーナと二人だけになったとき、ノルドは何の気なしに尋ねた。
「あの、エカテリーナさん」
「どうかなさって?」
「イカっていうのは、銀月界の料理ですか?」
「まあ。ずいぶんと『無慈悲な女王』を読み込んだのね。姉はあれが好きだったわ。でも残念。イカはもう獲れないのよ」
「獲れない?」
「それよりも、お伝えしたいことがあるの。こちらへいらして」
ゆったりとしつつも、有無を言わさぬ強い言葉。言われたとおりに、エカテリーナのそばへ行く。
「いくつも、ヒントを散りばめてはいたけれど……ここへ来てくれて、ありがとう。あの書庫の扉を開ける者を、私の姉の存在に気がつく者を、千年待っていました。あなたたちメイリベルの人々から知識欲と好奇心を奪う白銀の大鐘の音色にも負けない、強い心を持った者を」
彼女は黒手袋に覆われた指先で、ノルドの額に触れた。
「あなたに一つ、大切なことを教えます。もしも、あなたの故郷で、あなたの命が危機に晒されるようなことがあれば、『果ての壁』に触れて。そして……」
額に、線のような熱が走った。すると、ある言葉がノルドの記憶に強く、強く刻まれた。
「この呪文を詠うのよ」
手土産に、ヴァネッサが使っているものと同じ奇妙な形状のマスクを一つと、メイリベルでの普段着とよく似た着替えをもらった。ノルドは渡された服に着替えた後、ドクターの形見となってしまった服を持って帰るための袋ももらった。
マスクについては三つ欲しいとごねたのだが、
「一つで十分よ」
と、エカテリーナは取り合ってくれなかった。
そして、ヴァネッサと共に、クラウスとロジオンに案内されて、宮殿に隠されていた地下駅舎へと案内された。
クラウスが説明する。
「ここは、各地の界層エレベータへ向かうためのホームでね。許可された者しか使えないんだ」
ヴァネッサが乗るのは、界層エレベータ・H行きだという。Hはおそらく、ヘリオディス。ノルドが乗るのは、界層エレベータ・M行き。メイリベル行きだ。
一つのホームをはさむようにして、二本の列車がやってきた。双眸のごとき雷光のライトが、地下のホームを細く照らし交わる。
「ノルド、あなたを守るという任務を完遂することができず、申し訳ありません。代わりにこれをお渡しします」
ヴァネッサが取り出したのは、先端が翠に彩られた。金色の小さな筒だった。
「これは、風の魔術元素が込められた弾丸です。これを握っていれば、あなた一人でも水と風の合成魔術を行使することができます。機械兵士の弱点のひとつは、水です。もしも再び襲われるようなことがあれば、これを使用し、嵐の魔術で撃退してください」
嵐の魔術――本来ならば、ショーンと共にしか使えない、あの水と風の合成魔術だ。
ヴァネッサは、ひどく苦しげな顔をしている。彼女はきっと、思い浮かべているのだ。燃え盛る図書館を。
二人の手が離れる。ノルドの手は無意識に彼女を追ったが、再び手が差し出されることはなかった。
ヘリオディス行きの列車の扉が開く。
「ヴァネッサ!」
思わず、列車に乗り込むヴァネッサの背に声をかけた。
「ありがとう。今まで。俺のこと、守ってくれて、ありがとう」
ノルドは無意識に、帽子のつばに触れた。彼女がくれた、青灰色の帽子。
「……どう、いたしまして」
ぎこちない言葉に、涙が出そうだった。
――任務ですから。
そう言われると、思っていたのに。
扉が、音を立てて閉まる。
ヴァネッサを乗せた列車は、雷光を輝かせると、闇の彼方へと出発した。
「さあ、ノルドくん。僕たちも行こう」
「……はい」
クラウスに促され、ノルドは反対のホームの列車に乗り込む。来た時と同じ『ルナゲート33号』だ。
「青春は、甘いばっかりじゃねえもんだ……」
ノルドの頭を、ロジオンがぽんぽんとやさしく叩いた。
そして、列車に揺られること数時間。
あっという間のようで、とても長い時間のような、そんな時間をノルドは無言で過ごした。疲れきった頭は、何も考えてはくれなかった。
気が付くと、もう界層エレベータ・Mの駅に着いていた。
「いつ休み取れるんですかー?」
もはや耳慣れた声がする。クラウスはそれを諌めているようだったが、二人の会話はほとんど聞こえない。覚えているのは、
「次元移動をするには条件があるんだ。空に銀の月がある時間帯でなければ、銀月界か双月界へ行くことはできない。赤月界から双月界に行くときは、赤の月がある時間でなければダメなんだ。逆も然りでね。だから、あの時君を助けたのはヴァネッサ嬢だったんだよ」
という、クラウスの丁寧な説明だけだった。
頭のなかで反芻されたその言葉に応えるように、ノルドは呟く。
「月だけが、三つの世界を見下ろしてる……『月宮夜』は、三つに分けられた世界がひとつになる瞬間なんだ。クラウスさんが図書館にあったあの絵を気に入るのも当然ですね」
クラウスの視線を感じた。だが、暗い
「俺はショーンのおかげで今まで暮らしてこられた。ヴァネッサのおかげで機械兵士に殺されないで済んだ。クラウスさんとロジオンさんのおかげで今も生きてる……そもそもエカテリーナさんのおかげで、六年前に死なないで済んだんだし」
黒い壁の界層エレベータに入ると、クラウスが部屋の奥の床石を外した。その下から、薄寒い階段が姿を現す。クラウス、ノルド、ロジオンの順で地下に降りていく。降りながら、ノルドはクラウスに尋ねた。
「ここは、双月界だとメイリベルのある場所ですか?」
「そうだ。遠く離れた場所に移動する魔術なんて便利なものは……あるにはあるが、普通は扱えなくてね」
「界層エレベータで、『違う次元』の『同じ場所』に移動するってことで、合ってますか?」
「ああ、そうだよ」
「だから、今、地下に降りてるんですね。メイリベルの界層エレベータは地下深くにある」
ぎゅっと、持たされたマスクを握り締めた。
『果ての壁』は、『夢の海』から吹いてくる毒の風を防ぐものだった。
ならば、『壁』に穴が開いてしまった今、メイリベルはどうなっているのか。
エカテリーナは、おそらくメイリベルの現状を把握している。その彼女が、
「マスクは一つで足りる」
と言った。つまり、渡せる相手は、もう一人しか残っていないということだ。ノルドががマスクを渡したいと思った三人の中で、一番会いたいのは――図書館のランプの優しい光を照り返して、紫色の鍵が揺れた。
クラウスともロジオンとも話すことがなく、しばらく無言で降りていく。硬質な足音だけが、無風の空間に響く。
やがて、円形の部屋にたどり着いた。床は黒く、壁と天井は白い。
(ここは、地下七階)
ここで魔術を詠唱すれば、メイリベルの書庫の奥にあったあの部屋に出る。きっと外側の図書館が燃え尽きても、界層エレベータだけは無事なのだろう。
図書館を燃やしたのはヴァネッサだ。彼女が自らそう言ったのだから、間違いない。
では、『壁』を壊したのは何者なのだろうか。
クラウスが、目を閉じた。ロジオンも目を閉じている。だがノルドは、目を見開いていた。
「おお我らが母よ、導き
足元の黒い魔術陣が輝き、やや紫がかった光があたりを包む。その色は、夜空に浮かぶ赤の月の光と似ていた。赤紫の燐光が白や黒と混じり、視界がうねる。頭が痛む。内臓が反乱する。眩しすぎる光に目が焼けそうになったが、それでもノルドは目を閉じなかった。
そして、ノルドは見た。歪んだ視界が元に戻った瞬間、部屋の色が変わる様を。
高い天井。部屋の隅の梯子。壁には、縦三行に渡り書かれた呪文。一行目は、天界の赤い月を示す色で『おお我らが父よ』、二行目にはおそらく大地を示す緑色で『導き給え 豊かなる葦の草原へ』、三行目には魔界の銀の月を示す色で『おお我らが母よ』とあった。
ここは、メイリベル大図書館の書庫――その、地下七階に間違いなかった。
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