黒銀の底 4
「今帰ったぞー、鼓を鳴らせー」
ぞんざいな詠唱ではあったが、暗かった部屋がやさしい光で満たされた。ロジオンは狭い玄関で靴を脱ぎ、奥へ入っていく。ノルドもそれにならう。
ロジオンの家は、意外にも綺麗に整頓されていた。
最低限の台所と、ダイニングと、寝室。ノルドが暮らしていたメイリベルの家よりもだいぶ狭い。少ない大地に多くの人が住むためには、仕方のないことなのだろう。
「あーっ!? ロスがいねえ!」
ロジオンは部屋の中に入るなり、空の鳥かごを揺すりながら喚きだした。
「ロスって?」
「俺が飼ってたカラス……」
「カ、カラス飼ってたんですか?」
「育ててみると意外と人懐こいんだぞ! くそー、独り暮らしの癒しが……どっから逃げんだよ……」
ロジオンはうなだれているが、彼の前にはもう一つ鳥かごがあった。中には純白の鳥が静かに佇んでいる。
「こっちにもいるじゃないですか」
「ああ、こっちはイカ。うまそうな名前だろ?」
「イカ? ……こんな真っ白な鳥、初めて見ました」
「クジャクバトっていう種類なんだ……はあ、ロス」
ロジオンはがっくりと肩を落としたままだ。
「お前はそっちのこたつに入ってていいぞ……」
ノルドを促す声も、どこか力がない。彼が言った『こたつ』とは、布団がはみ出した不思議なテーブルのことのようだ。ダイニングのほとんどを占領している。ロジオン自身はキッチンに向かい、カフェオレを二つ持ってきた。
「よっこらしょ」
ロジオンは床に座ると、こたつの布団の中に足を突っ込んだので、ノルドもそれを真似た。こたつの中はほのかに温かく、心地よかった。
「さて、お前の質問に答えるって約束したよな。そろそろ俺も実はデキる男なんだというところを見せねばなるまい……歩く図書館と呼ばれるこの俺に、なんでも聞いてくれたまえ」
「図書館では静かにしてください」
「ここは談話スペースなんだよ! 俺だって図書館ファンのひとりだ。マナーくらい守る」
「図書館ファン……ロジオンさんが……?」
「なんだその疑いの目は。まあ、いい。とりあえず、お前の質問に答える前に、前提を確認するぞ。まずは、メイリベルの図書館にあったヘンテコな部屋だが」
「あの部屋は、天界、魔界、俺の住んでた世界……つまり、赤月界、銀月界、あと双月界でしたっけ? その三つの世界をつなぐ、界層エレベータ」
「ぐわーっ! 賢すぎるのもどうかと思うね! 人の発言先読みダメ、絶対!」
「非常に端的な理解を示しただけです」
「くそ……じゃあ、次」
「あ、待ってください」
「なんだ!?」
「どうして天使と悪魔で世界の呼び名が違うんですか?」
「それには歴史的背景からの説明が必要だ……が、歴史についてはお前に直接説明したいという人がいるから、俺からは内緒だ」
ノルドには、その人物が誰なのか、確信に近い予感があった。ノルドが、再会を望んでやまなかったあの女性。
六年前の、女悪魔――
「おい、ぼーっとするな。次行くぞ。えー次は、赤月界で魔術を使うとヤバい理由。まあ簡単にいえば、赤月界には魔術元素がないからだ」
「魔術元素がない? そんなはず……」
「常識にとらわれるな! それならお前、魔術元素がなにでできていて、どこから生まれてるのか知ってるのか?」
ノルドは首を振る。
ノルドの日常において、魔術元素は当然に存在するものであって、その源がなんなのかなど、考えたこともなかった。
「それが実は、銀の月なのさ! 《
――何を言っているのか、理解が追いつかない。
口を開けてぽかんとするノルドに気がついていないのか、ロジオンはまくし立てる。
「ところがだ、今の赤月界には銀の月がない。だから、魔術元素をどこからから持ってこないと、赤月界では魔術が使えない。たとえば、クラウス様のハルバードについてる
「あの……
「あっ、そうか……そりゃ、知らないよな。
「……えっと?」
ノルドは、呆気にとられた。そんな話は聞いたことがない。
「お前が知らないのは当然なんだ。とりあえず置いとけ。ところでお前、赤月界で魔術を使おうとしたよな?」
「一回は使えたんですけど、そのあとは使おうとしても体中が痛くなって無理でした」
「それはな、お前の身体の中の魔術元素だけで、魔術を発動しようとしたからだ」
「はあ……」
よくわからず、首をかしげることしかできない。
「つまりだ。お前は銀の月が存在する双月界で、空気の中に混じった魔術元素を吸ってた。吸った魔術元素は、内臓にへばりつく。その状態で、赤月界で魔術を使おうと詠唱する。するとだ。発動しかかった魔術は、魔術元素のある場所……つまりお前の身体の中から、魔術元素を絞り出そうとする。一回は使えたっていうのは、お前の身体の中にあるぶんだけで、発動に必要な魔術元素が足りてたからだ。それ以降は、足りなかった。だけどな、ないもんは出ねえけど、魔術の詠唱はそれを許さない。身体の中に魔術元素があるはずだって、無理やり引っ張りだそうとする。すると、魔術元素の代わりにめっちゃ血が出る。痛え。最悪死ぬ。わかったか?」
「わかったような、わからないような……」
「今のでわかれ!」
ロジオンはそう言いながら立ち上がると、本棚から大きなハードカバーの本を取り出して、ドンっとノルドの目の前に置いた。いかめしく分厚いその本の表紙には、『魔術大全』と刻まれている。
「魔術は本来危険なものなんだ。使うやつの安全なんか考えちゃいねえ。なにせもともと、武器として作られたんだからな」
こたつに入り直したロジオンは、水の魔術のページを開いた。
「俺から説明できる最後。宝石が毒って、どういうことか? まあ、そのままの意味なんだけどな。まずな、大前提として、基本的に宝石は毒だ。天使と悪魔にとっちゃ、宝石は毒だ……重要だから、二回言ったんだからな。うっかりじゃないからな」
「はあ……」
「細かいこと言うと、本当は宝石になる前の原石のことなんだが、わかりにくいから宝石って言葉で説明するぞ。宝石に一番弱いのが、天使。触ったらめっちゃ火傷する。悪魔も、天使ほどには弱くないが、直に触ると痛い。宝石に触っても大丈夫なのは、人間だけだ」
ジャケットのポケットの中には、藍と緑の混じりあった石がある。
ノルドに石を手渡そうとしたドクターの手のひらが、みるみるうちに焼けていったのを思い出す――ということは、これは、宝石だったのか。
ノルドはその石を、ギュッと握りしめた。
「……でも綺麗だから、装飾品としてイミテーションを作るんですか?」
「そうだな。硝子を元にして本物そっくりに作り変えたイミテーションなら、アクセサリーにできる。でもあれは超一流の魔術師しか作れないから、高いんだ……おっ、説明しやすい流れになった」
「どのへんが?」
「まあいいから聞け。宝石のイミテーションは、特殊な魔術で作られる。今開いてるそのページ、水の上級魔術の解説なんだけど、この辺読んでみろ」
ロジオンは、ページ下部の注釈を指さす。
「えっと……『この魔術の行使に必要となるのは、
「そうそう、天青石。俺たち悪魔のほとんどが知らない、青空の色をした宝石だ」
「え……っと、この魔術の行使には、天青石っていう宝石の、元素が、必要……」
つながってきた。それなら、銀の月から放たれるという魔術元素の正体は――
「そう! 魔術元素の正体は、銀の月からぶちまけられる宝石の粉末なのさ!」
ロジオンはなぜか片膝立ちの姿勢を取り、さらに拳を握りしめてガッツポーズをした。
「イミテーションを作るときは、作りたい石の魔術元素を硝子に定着させる必要があるわけだ……まあ、お前には信じられないかもしれないが」
イミテーションのことは、今聞きたい話からずれてしまう。ノルドはロジオンが語り出す前に、話に問いを割りこませる。
「じゃあ天使が短命なのは、世界中に毒が満ちたからですか?」
「今の話、ほんの数秒で納得しちゃう!? 『そんな馬鹿なことが……』的反応はなし!?」
「そんな馬鹿なことが……天使が短命なのは、悪魔がばらまいた魔術元素のせいなんですね」
「お前の心ばかりのサービスが、俺の心をむしろえぐる! ……そうです。その通りですうー」
ふてくされ、ぬるくなったカフェオレを一気に飲み干したロジオンの様子は気に留めない。自分の論理の間違いに気がついてしまい、それどころではなかったのだ。
「でもよく考えたら、赤月界には銀の月がないですよね。それなのに、どうして天使が魔術元素のせいで短命になったんですか?」
「そ、それは……だなあ……」
「また、『説明したい人がいる』ですか?」
「そうだ。お前、やっぱ物分かりよすぎるな……」
話は一度そこで途切れた。その隙を窺っていたかのように、真っ白なハトが鳥かごの中でバサバサと暴れだした。
「ああやべえ、何日も餌やってなかったから怒ってるな。悪い、ちょっと待っててくれ」
ロジオンは慌ただしくハトに水やら餌やらをやり始めた。
話し相手を失ったノルドは、目の前に開かれた本を眺める。せっかく目の前に知らない魔術があるのだ。しかも得意な水の魔術。いくつか覚えてみることにした。
(湖におわす猛き神よ。白蛇伴いて我が前に現れいでよ)
魔術は全部で五種類。炎、水、風、雷、そして音だ。どれも、術者の詠唱に応じて発動する。魔術元素の存在を強く意識し、魔術の発動に心を集中させ、定められた句を唱える。それだけで、空気中に存在する魔術元素を反応させ、炎を巻き起こしたり、雨を降らせたりすることができる。
魔術を学べば、誰でも簡単に超常現象を起こすことができる。ただ、その威力は術者の体力や集中力、そして才能に依存する。特に才能が必要とされるのは、音の魔術だ。これに関しては、『誰でも扱える』の例外で、方術のように、一部の適性ある者にしか扱えない。
(汝の力もて弓を引き、万物を守り抜く水の矢を射よ……)
なぜ魔術が存在するのかなど、今まで一度も考えたことがなかった。なぜ『果ての壁』が存在するのかということについては、常日頃から疑問に思っていたというのに。
呪文を覚えるのに夢中になっていると、突如背後からパァンという小気味よい音がした。同時に背中がヒリヒリ痛んだので、真後ろにいたロジオンに背中を叩かれたのだとわかった。
「何するんですか!?」
「いや、お前呼んでも返事しないから……やむを得なかったのだ……」
暗い表情を演出するロジオン。ノルドは自然と大きなため息をついた。
そこへ突然、呼び鈴の音が響いた。
「ロジオンさーん!」
「あれ? レックス坊ちゃんだ。ちょっと待ってろ」
慌ただしく戸を開けると、そこには、レックスと――ヴァネッサがいた。
「レックス坊ちゃん、どうしたんです? 綺麗なお姉さん連れて」
「へへ、いいでしょ。ところでノルドさんいる? 俺、ノルドさんと一緒におやつ食べに行きたくって」
「おやつぅ? 坊ちゃん、甘党なとこクラウス様とそっくりだよな」
「それで、ノルドさんを連れていきたいなら、このお姉さんも一緒にいたほうがいいって、父さんが」
レックスはヴァネッサを示して言う。
「ま、まさかクラウス様がそんな打算を……じゃあ俺も一緒に行くから、ちょっと待ってろよ」
「ええっ!」
声を上げたのは、もちろんノルドだ。先日のコメット・モールでのデートも、この男と出会ったことで台無しになったのだ。ロジオンとはもう一緒に行動したくない。
「あ、それはだめ。ロジオンさん、父さんと主上に呼ばれてるから」
「え!?」
「なんか、大人の話し合いだって。宮殿のいつもの部屋に来てって、父さんが言ってた」
「……マジか。でも、クラウス様は坊ちゃんに、ノルドとヴァネッサちゃんと一緒なら、出かけていいって言ったんだな? 間違いないな?」
「うん」
「わかった。おい、ノルド」
「え、はい?」
「そのネクタイピン、絶対外すなよ。坊ちゃんを頼む」
ロジオンは神妙な様子でそう言うと、三人を自室から出すと、急いで扉の鍵を閉め、階段を走り降りていった。
「ノルド、行きましょう」
ヴァネッサが、目の前にいる。その声は変わらぬ調子だ。
「うん」
今までなら、ほっとするところだ。
しかし、今のノルドは緊張していた。
ヴァネッサに対してではない。クラウスの息子、レックスに対してだ。
ロジオンの慌てた様子。クラウスもロジオンも抜きで、レックスを出かけさせることについて示した、明らかな危惧。
レックスは、半分人間。半分悪魔。
それならおそらく――彼の立場は、メイリベルでのノルドと、同じ。違いは、圧倒的な庇護者の有無だ。
「俺さ、ノルドさんに聞きたいことがいっぱいあるんだ! 宮殿から出てすぐの『夏の駅舎』に、おいしいパティスリーがあるから。お小遣いは父さんからもらってるし心配しないで」
「よし、楽しみにしてる」
だが、無邪気に笑う彼に、「やめよう」とは言えなかった。
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