黒銀の底 5
硝子床の庭園を抜けると、だんだん人通りが多くなってきた。足元は宮殿と似た雰囲気の床になっているが、歩く人々が多いぶん、傷んでいるように見えた。
様々な種類の店がそれぞれの看板を掲げ、軒を連ねている。きらびやかな町に合わせてか、行き交う人々の服装も洒落ている。
しかし、ヴァネッサはいつもの無骨なロングコートを着ているし、ノルドの服に至っては、穴が空いたり切れたりしている。ただ、寝ている間になんらかの処理がなされたのか、血の跡だけは消えていた。これでは、良家の子息が、浮いた格好の二人を連れて歩いているようで、悪目立ちしてしまうのではないか。ノルドは不安を覚えた。
「パティスリーは、駅舎商店街の西館の二階にあるんだ。駅舎商店街は上から下まで吹き抜けになっててね、連絡通路から駅のホームが見えるんだ。すごくきれいだよ。見せたいから、遠回りだけど東館から行こう」
店舗が途切れたところに、手すりによって四つに分かたれた大きな階段があった。黒曜石のようにも見えるその階段は、風情こそ違えど、赤月界で見たエスカレーターと同様のもののようだ。ノルドは、どうにもこのエスカレーターというものには慣れない。
エスカレーターを上り切って二階。室内商店街があった。コメット・モールよりはごちゃごちゃしていて、通路が狭い。
「ここが東館。連絡通路はこっちだよ」
レックスは店々には目もくれず、翻って人混みの中をするすると滑っていってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってレックスくん、速いよ!」
こんな人混み、見たことがない。狭い通路に溢れかえるような人、人、人。
「ノルド、流れに逆らわないように歩けば大丈夫です」
「へ?」
ヴァネッサが後ろからノルドの背中を押し、行く道を誘導する。
すると、急に道が開けた。洪水のようだと思われた人の多さも、そこまでのものではなかった。周りと歩調を合わせれば、流れに乗ってスムーズに歩くことができる。
「こっちこっち!」
ようやく、レックスが手招きしているのが見えた。
東館と西館をつなぐという連絡通路は、先ほど通ってきた商店街の上を横断するように架けられた橋だった。レックスは、宮殿とは逆方向の橋桁のところで佇んでいる。
「ほら、見て!」
駆け寄って橋桁に手をかけ、ノルドは思わず身を乗り出す。
「ホームはね、全部で二十。銀月界のいろんな町に行けるんだ。俺は、カッコいいからエンシノーアが一番好きだけど」
橋からかなり下の方、おそらく地下に当たるであろう階に、たくさんの列車が停まっていた。
レールがきらきらと輝いている。色は、黄。雷の魔術元素だ。
だが、目を引くのはレールの輝きだけではない。
列車より少し上のあたりに張り巡らされた、無数の透明な細い管。時には平行に、時には曲がって、不思議な模様を作り出している。
「架線、きれいでしょ?」
レックスが架線と呼んだ管の中を、青や黄、赤の燐光が高速で絶え間なく走り抜けていく。ランダムに動いているようで、その実、規則的に動いている光――魔術元素の光だ。
架線の中ですれ違った魔術元素たちが混色して列車の中へ入り込むと、その列車は笛を鳴らして出発する。
「ホームから見るとね、黒空に映えてすごいんだ。上から見てもカッコいいけど、下から見るともっとカッコいいよ」
目の前の幻想的な光景に、ノルドは興奮を抑えられなかった。
「すごい、すごい、すごい! 火と水と雷の合成魔術……『秋の畑』から運ばれてきてるんだな。あらかじめ貯めておいた力で、あんな大きなものを動かせるんだ。すごいな……なあ、ヴァネッサ?」
しかし、庭園の時と同じようにヴァネッサは無表情だった。どうやら彼女は、魔術に全く興味がないらしい。
「他にもエンシノーアにはいいところがいっぱいあるんだけど……時間がなくなっちゃうから、早くパティスリーに行こう」
「あっ、待ってレックスくん!」
やはりレックスは、すたすたと先に行こうとする。小さな背を、ノルドとヴァネッサは見失わないように追った。
西館に移動して、二階の最奥の角。そこに、レックスが行きたいという喫茶店があった。
パステルカラーを基調とした、なんだかふわふわと可愛らしい印象の店構え。男だけでは非常に入りづらい雰囲気だ。
「ここ、評判いいんだけど、女の人がいないと入れないんだ」
「えっ、なんだそれ。変わった店だね……」
「だからヴァネッサさん、お願いします! 先頭で入ってください!」
「わかりました」
深々と頭を下げるレックスの横をすっと通りすぎて、ヴァネッサはあっさりと店の中に入っていった。
「あ、あんなにあっさり……」
「ヴァネッサはそういう奴だよ。俺たちも行こう」
「……はい」
扉を開くと、店には屋根がなかった。店自体がベランダのように張り出した位置にあるらしい。そのおかげで、西側に浮かぶ銀の月がよく見える。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
品の良いエプロンドレスに身を包んだ女性が応対した。
「三名です」
「三名様ですね。承知いたしました。では、こちらのお席へどうぞ」
ボックス席に案内され、ヴァネッサをまず一番奥に座らせる。すると、レックスはすぐ彼女の隣に陣取った。
「おい……」
思わずノルドがレックスにかけた声は、地の底からひねり出したような低音になってしまった。
「俺とノルドさんが向かい合ってないと、双月界の話をしにくいじゃないか」
「……半分くらい嘘だろう、ませたお坊ちゃま。だいたい、最初に会った時は自分のこと『僕』って言ってたのに、今は『俺』って言ってる。お父さんの前ではいい子いい子して、外では暴れるつもりかな」
「暴れるってわけじゃないけど、まあ、そうかな。うち、母さんいないし、そのぶん俺がいい子じゃないと父さんを困らせちゃうから。宮殿で自分のこと『僕』って言ってるのは、父さんが自分のこと『僕』って言うから合わせてるんだけど、なんか『僕』って弱そうな感じがするし、本当はあまり好きじゃない」
この息子は、父の仕事ぶりを見たことがないだろう。レックスと接している時のクラウスと、機械兵士を一瞬で蹂躙した時のクラウスは、まるで別人だった。
「あ、これメニュー。なに頼むか俺は決めてあるから、二人で見て」
そう言ってレックスは、ノルドとヴァネッサが読みやすいようにメニューを横にして差し出した。
「どれどれ……って、なんだ、これ?」
メニューの文字は、読める。読めるのだが、意味がわからない。
「……ヴァネッサは、どれにする?」
「……でせーる、もんてりまーる……とは」
ヴァネッサのほうもダメそうだ。とりあえず、なんとなく内容が想像できそうなケーキを選ぶしかない。ノルドは、メニューの文字をつらつらと追った。
「あ、俺これにする」
アップルパイ。わかりやすい名前が飛び込んできたところで、一も二もなくそれを選んだ。
「では、私も同じものを」
「わかった。じゃあ、ウェイターさん呼ぶね。注文いいですかー?」
レックスが可愛らしいボーイソプラノで呼びかけると、老年のウェイターがすぐにやってきた。
「お決まりでしょうか?」
「アップルパイを二つ。それと、今月のスペシャリテを一つお願いします」
「スペシャリテはお席にてフランベいたしますが、よろしいですか?」
「はい」
「承りました。では、少々お待ちくださいませ」
ウェイターは伝票に鉛筆で素早く注文を書き取ると、厨房へと持って行った。
そこでノルドは、はあーっと深く息をついた。なんと気疲れする店だろう。こういった雰囲気に慣れていれば気にならないのかもしれないが、メニューに並んだお菓子の名前の数々は、魔術の詠唱よりも難しく感じられた。
「ノルドさんもヴァネッサさんも、帽子とコートは脱いだほうがいいよ」
「わかりました」
ヴァネッサはすぐに従った。コートの下の服は、赤月界で買った服のままだ。ノルドの服と違って、傷んでいる部分も汚れている部分もない。
「可愛い服だなあ。ヴァネッサさん、寒くないんならコートは着ないほうがいいよ。そのほうが絶対いい」
「レックスくん。君はそういうの、どこで習うんだい?」
「ロジオンさんかな。俺、あの人みたいになりたいから。ところでノルドさんは帽子脱がないの?」
「……俺のこれは、髪の毛だ」
「へえ、ふーん」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるレックス。ロジオンから悪い影響を受けているのは間違いない。
「ていうか、そこは『お父さんみたいになりたい』じゃないのか?」
「ロジオンさんのほうが、楽しい人だから。父さんは真面目すぎるし、心配症だし、なんかちょっと天然だし……それに、父さんは俺に魔術を教えてくれないんだ。ロジオンさんも、父さんから言われてるみたいで、魔術だけは教えてくれない」
魔術を教えてくれない、というのは、クラウスの人間性とは関係ないように思える。だが、レックスにとってどうしても譲れない何かがそこにあるのだろう。
「どうして?」
「炎は、だめだって」
レックスが、ようやく子供らしい顔を見せた。落ち込んで、すねている。
きっと、『果ての壁』に行くなと言われた時の幼いノルドも、こんな顔をしていたのだろう。
「火なんか、怖くない。火傷した時のことなんて覚えてないし……本当は、父さんとここに来て、火を怖がってなんかいないって、父さんに見せたかったんだ」
そこへ、髭面で恰幅のいい男性が現れた。彼はなぜかフライパンと皿、グラス一杯の酒を持っている。
「お待たせしました。今月のスペシャリテ、クレープ・シュゼットでございます。これからリキュールをかけてフランベいたしますので、お待ちください」
「やった! あ、あの、注文したの俺です」
「では、失礼して……」
この店のパティシエらしい男性はレックスの目の前に皿を置くと、フライパンを少しだけ高く持ち上げてリキュールをかけ――
「
一瞬のことだった。フライパンの下、左手からわき出す炎は赤い。しかし、フライパンから上がった炎は、濃い青色ををしていた。
その様子に、レックスは瞳を輝かせた。
「はい、できあがりですよ。ナイフとフォークで上手に食べてくださいね」
「ありがとうございます!」
レックスは、心からの笑みを浮かべている。フランベで起こった炎にもまるでひるんでいない。
むしろ、驚いたのはノルドとヴァネッサだった。
「二人のアップルパイも来てから食べるよ」
「先に食べていて構いません。温かいうちのほうがいいでしょう」
ノルドは、また、少しだけ驚いた。
今日、ヴァネッサがノルドよりも先に発言したのは、これが初めてだったのだ。
「うーん、じゃあ、お言葉に甘えて。いただきます!」
レックスは、クレープ・シュゼット――クレープの上にカラメルソースをかけ、オレンジピールやオレンジジュース、そしてリキュールで甘く作り上げたお菓子をナイフとフォークできれいに切り分けて食べ始める。
(やっぱり、お父さんみたいになりたいんじゃないか)
魔術には、五種類がある。炎以外にも、ノルドが得意な水、ショーンの風、そして雷と、音。
にも関わらず、レックスは炎にこだわっている。それが、父親への憧憬以外のなんだというのだろうか。
それからほどなくして、アップルパイが運ばれてきた。
焼きたてのアップルパイから漂ってくる甘い香りが食欲をそそる。
「いただきます」
「……いただき、ます」
三人は、各々の菓子を食べ、食後には紅茶を注文した。
ノルドは、ゆったりとした時の流れに身を委ね、長らく得られていなかった安堵に浸った。
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