黒銀の底 3

「えっ……と、クラウスさんの息子さん?」

「はい。今、父を呼んできますね」

 レックスと名乗った火傷の男の子は、それだけ言うと足早に部屋を出て行った。

「……クラウスさん、子供いたんだ」

 驚いた。驚いたが、呆けている場合ではない。

 天界のときと同じように、眠っている間に知らない場所に連れてこられている。自分の置かれている状況を把握しなければならない。幸いにも自由に動けるので、部屋の様子をしっかりと見て回った。

 壁は、それ自体が白い石の彫刻のごとく洗練されたデザインだ。さらに、爽やかな空色を基調に彩られており、精緻で壮麗な金の装飾がそこかしこにある。床も、シャンデリアの光で煌めく幾何学模様が美しく、敷かれている絨毯の文様も素晴らしいと言わざるを得ない。部屋の設えも、どれもこれもが芸術品のように瀟洒だ。

「やっぱり、どこかの城か……?」

「目が覚めたようで何よりだよ」

 これもやはり美しく飾られた扉を開いて、クラウスが現れた。先ほど会ったレックスは、父親の足を壁代わりに、ノルドを窺っている様子だ。

「レックス、ちゃんとノルドくんに挨拶したか?」

 レックスはクラウスにしがみついたまま黙っており、警戒心をむき出しにしている。

「さっき、挨拶してくれました。しっかりしたお子さんですね」

「そうか、よかった。偉いぞ、レックス」

 父は、息子の頭をやさしく撫でた。ずっと眉根を寄せていたレックスが、ようやく笑顔を浮かべる。

 和やかな親子の姿。ノルドの心に、暖かさと、棘のような痛みとの両方が生まれた。


 ショーンと共に、『果ての壁』を再び調べようと決意したまではよかった。

 しかし、やはり両親を思うと苦しかったのだ。

 だから、思い出さないようにした。

 そうして思い出さないようにしているうちに、いつしか、ノルドは本当に両親のことが思い出せなくなった。両親の死に対する悲しみも消え失せ、『壁』の向こうへの興味だけが強くなった。

 自分がなぜ、『壁』の向こうのことを知りたかったのか。それはただの好奇心などではなく、強い動機に支えられていたものだった。

 忘れていたのだ。忘れて、ひたすらに図書館に入り浸り、ひたすらに『壁』について調べる日々を過ごしていたのだ。

(俺は、親不孝だったな)

 だからこそ、今目の前の親子が、幸せそうにしていることを嬉しく感じるのかもしれない――

「レックス坊ちゃーん!」

 そこに、まるでノルドの感傷を台無しにするかのように、やかましい声が聞こえてきた。

「おみやげ! 買ってきましたよ!」

 勢い良く扉を開けて走りこんできたロジオンは、レックスに向かって細い箱を差し出す。

「俺が見た中では最強のおみやげです! どうぞ!」

「あ、ありがとう!」

 レックスは嬉しそうに受け取ると、早速箱を開いた。

 中身は、一本の透明なボールペンだった。インクは三色で、黒、赤、青。

「わあ……中が見える! すごい!」

「ふふふ、スケルトンタイプです。カッコイイでしょう! 大事に使ってくださいね!」

「うん、ありがとうロジオンさん!」

 ペンを箱から出してカチカチと芯を出し入れするレックスの頭を、ロジオンは思い切りわしゃわしゃと撫でた。レックスは頬を紅潮させ、心から嬉しそうにしている。

 しかし、クラウスの様子はおかしかった。

「よかったな」

 声こそやさしいものの、なぜか愕然とした表情で息子を見下ろしている。

 クラウスが後ろ手に何か隠しているようだったので、こっそり覗き見てみると、大きな手が数本のボールペンを握って震えていた。

(うわ……ロジオンさん絶望的に空気読めてない……)

「それじゃ、俺はここで! レックス坊ちゃん、ノルドとも仲良くしてやってくださいね」

 それだけ言い残すと、ロジオンは嵐のように去っていった。おみやげでは空気が読めなかった割に、親子水入らずにしてあげたいという気持ちは殊勝なものだ。

「父さん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 クラウスは屈み込み、息子を見上げて話す。後ろ手に、ペンを握りしめたまま。

 部下に先を越されてしまったクラウスがあまりに不憫で、ノルドは助け舟を出そうと思案した。

「あのさ、レックスくん。ボールペンが欲しかったの?」

 声をかけられて驚いたのか、レックスはびくっと肩をすくませた。ノルドはそんな彼にできるだけやさしく微笑みかけると、彼は戸惑いながらも口を開いてくれた。

「うん……お母さんが昔使ってたのをもらったんだけど、壊れちゃって……でも、おれ、いや僕、買って欲しいなんて言ってないのに」

「お母さんのペン、大切に使ってたんだろ?」

「うん」

「だからだよ。大切なものが壊れたら、誰だって悲しい。ロジオンさんはレックスくんが悲しんでるのがわかったから、慰めたいと思ったんだ」

 クラウスがこちらを見ているのが、視界の端に映る。

「ノルドくんの言う通り、これはロジオンがお前のために買ってきてくれたものだ。大切にしなさい」

「うん! 父さんも見て。この、中が見えるのがカッコイイ」

 クラウスはまだ自分の土産を隠したまま、部下から息子に贈られたボールペンをまじまじと眺めた。

金剛石ダイヤモンドの軸に、ボール部分は紅玉ルビー……あいつの給料一ヶ月分はしそうだな。馬鹿なやつだ」

 二人がロジオンのボールペンに夢中になっている隙に、ノルドはクラウスが持っていたボールペンを素早く奪い取った。

「それじゃ普段はこっちを使おう!」

「あっ、ちょ、ちょっとノルドくん」

 ペンを奪われたことに気がついたクラウスは、ノルドに何事か言おうとおろおろしていたが、無視した。

 クラウスが持っていた三本のボールペンにも、すべて多色のインクが入っている。違いは、それぞれの軸の色だった。

「レックスくんは、赤と青と緑、どれが好き?」

 三本を示すと、レックスは躊躇わずに、

「赤! 炎の色だから」

 と答えた。

 その言葉には、父親への強い憧憬があった。

 火に炙られた痕が無惨に残っているのに、それでも父の炎が好きだと言う。ノルドは、胸が締め付けられるような心地がした。

「確かに、赤いのが一番かっこいいな。こっちの三本は全部お父さんからだよ」

「えっ、そうなの?」

「そうそう。ロジオンさんがくれたこの立派な奴は大事な時用。で、普段はこっちを使えるようにって、二人で別々に買ってたよ。はい、どうぞ」

 ノルドは、レックスの手に三本のペンを握らせた。彼の左手に包帯がぐるぐると巻かれていたことには気づかなかったふりをして、歯を見せて笑う。

「ありがとう、お兄さん。父さん、ありがとう」

 ようやく、レックスがノルドに笑いかけてくれた。レックスは四本のペンをしっかりと握りしめて、父親に抱きついた。


 不器用な父親と二人だけにしてあげようと、ノルドはそっと部屋を出た。

 回廊も客間と同じく、青と金の装飾できらびやかに輝いている。

「ボールペンは、魔界じゃ作ってないんだ。機械っぽいからって嫌われててな。天使が魔術を嫌うようにな」

 ドアを開けたすぐ横の壁に、ロジオンがもたれかかっていた。

「レックス坊ちゃん、いい子だろ。お父さんっ子でな、クラウス様の仕事が終わるたびにこの宮殿に迎えに来るんだ」

「ここはどこなんです?」

「魔界の首都、エンシノーア。魔界を……いや、もうわかってるか。銀月界を統治するルアヴェール王家の城、『真昼の宮殿』さ。ここに来るまでの間、お前はずっと寝てた。クラウス様が手配した車いすに乗って運ばれてきたんだ」

「ヴァネッサは?」

「別室で会議中。安心しろ、あの子の傷もちゃんと治療した。んで、準備が整うまで、お前は俺がちゃんと面倒を見る。今日は俺の部屋に泊まれ」

「ええーっ……」

「俺だって自分の部屋に呼ぶなら女の子のほうがいい! 黙って従え!」

 仕方なく、ずかずかと歩いていくロジオンを追った。

 『真昼の宮殿』は、どこも煌々とした光に満ちている。だが不思議な事に、それらはすべて魔術の光――雷光だった。どのシャンデリアも、フィアが図書館で貸してくれた雷光カンテラと同じく、呪文の詠唱で作動するものだ。

 ロジオン曰く、宮殿には出入り口が四つあるのだという。それぞれ東が『春』、南が『夏』、西が『秋』、そして北が『冬』。

「俺の家ってか軍の寮は、北口から出てすぐんとこ。通称、『冬の要塞』って呼ばれてる」

 両開きの重たい扉を開くと、花の香りを乗せた風が舞った。

 扉の先の階段を降りると、そこは虚の狭間クォータ・フィールドではなく、しっかりとした大地だった。しかし、見上げた空には相変わらず銀の月が孤高に浮かんでいるだけ。

 まっすぐに伸びた土の道の両脇には花壇があり、冬に咲く花々が美しいグラデーションを描いている。

「あらあ、ロジオン。お帰り」

「おう、ただいま寮長さん」

 花壇の手入れをしていた白髪まじりの老婆が、ロジオンに挨拶する。

 ノルドは、小声で尋ねた。

「あの、ロジオンさん。悪魔の寿命って……」

「あー、天使よりは長いぞ。お前らと同じくらい」

「そうですか……」

「……見えてきたぞ。あれが『冬の要塞』」

 ロジオンが指差した先には、いくつもの建物が並び立っていた。

 壮麗な宮殿とは違う、少しくすんだ灰色の壁は年月を感じさせる。要塞などと仰々しい名前がついてはいるが、つまるところ、飾り気のない集合住宅だ。

 ロジオンは一号棟の扉を開いて中に入り、奥の階段を上っていく。階段にも通路にも窓はなく、燭台に立てられたロウソクが明かりの役を果たしている――が、灯っているのは普通の火ではなかった。限りなく太陽の光に似た、金色の火。その周りを、赤い燐光が火花のように散っている。

「レックス坊ちゃん、カワイイだろ? ありゃ将来クラウス様よりイケメンになるかもな」

 歩きながら、唐突にロジオンが話しだした。先ほど会ったばかりのレックスの姿が鮮明に思い出される。顔の左半分を覆う火傷の痕。ボールペンを受け取った左手には包帯。

「でも、あの火傷……」

「見た目なんかどうでもいいじゃねえか!」

「数秒前と発言が矛盾してますけど」

「まあ聞け。あの愛らしい顔立ち。クラウス様の奥方は美人だったに違いない! 惜しむらくは、俺はお会いしたことがないということだ……」

「息子さんとはあんなに親しいのに?」

「あー、えっとな。クラウス様は男やもめの二十九歳。奥方は亡くなられたんだ」

「え……」

 そうだ。ふざけた言い回しではあったが、列車の中でロジオンは確かにそう言っていた。

「驚異、超人間びいきの偏執狂」

 冗談めかした言葉とは裏腹に、彼の声は重い。

「あれはなあ、クラウス様の奥方が人間だったから……まあ要するに、陰口ってやつ」

「奥さんが人間? ……どうやって知りあったんですか?」

「クラウス様は元・文明管理部隊ルイツァリ・シチート所属。任務で人界に赴くこともあったんだと。そこで奥方に惚れられちゃったらしくてよ。断って逃げたらしいんだが、なんと奥方はクラウス様を追っかけて魔界まで来ちゃったとかでな……あの性格だから、責任は取るとか言って結婚したらしい」

文明管理部隊ルイツァリ・シチートがなにかわかりませんけど、まあ、それならありえるかも」

「マジで? 今ので納得しちゃう?」

「悪魔や天使が人間に紛れ込んでたって、翼が出てなきゃわかりません。クラウスさんくらいかっこよければ、一目惚れする人もいるんじゃないですか」

「なるほど、経験に基づく発言」

「俺、何も言ってませんけど」

 ロジオンはケラケラと笑った。

「翼が見えなけりゃ、人間も悪魔も天使も変わんねえよな。お前の言う通り、区別つかねえし。だけど、悪魔にも過激派ってのがいてなあ……クラウス様の留守を狙って、奥方と生まれたばかりのレックス坊ちゃんをさらった奴がいたんだ」

「え?」

「そうこう言ってる間に、俺の部屋だ。続きはあとでな」

 ロジオンは懐から鍵を取り出すと、部屋の扉を開いた。

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