黒銀の底 2

 ノルドを背負ったロジオンは、界層エレベータの裏側に回りこむ。遠くに見えた明かりに向かって、彼はまっすぐに歩いて行く。

「よく見えないだろうが、さっきの建物の壁の色は……」

「黒ですよね?」

「お前ほんとに可愛くない!」

 ノルドは、ロジオンの存在を無視して思考を巡らせる。

「……天界が青い壁……赤の月がある。魔界が黒い壁で、銀の月がある」

 円形の不思議な部屋。自然と思い出される、メイリベル大図書館の書庫、地下七階。

 円形の部屋へ続く階段は、奇妙な色をしていた。黒い壁には銀の文字、青い壁には赤い文字が刻まれていたはずだ。

「じゃあ『俺のいた世界』の界層エレベータの壁、白か。《境界ディヴァイド》は……『無慈悲な女王』ですり抜けたとあの壁と同じ原理かもしれない。それなら『果ての壁』も……痛っ!」

 ロジオンに背を思い切りつねられ、思考はそこで途絶した。

「独り言すげーな、お前。ってか、本当に頭イカれてるんだなぁ」

「は? どういう意味ですか」

 いつもの調子ではあったが、ロジオンの発した言葉は失礼極まりないものだった。ノルドも、ついカチンと来てしまう。

「誠に申し訳ございませんが、言葉通りの意味なんだよねえ」

 一息置いてから、彼は続けた。

「ノルド、お前は何もかも理解しすぎ、分析しすぎ、何より受容しすぎ。ここ数日でどんだけのことがあったよ? この意味不明な景色にどうして動揺しないでいられる? 車、銃。機械の兵士。翼を持った奴ら……全部お前のいた世界にはないものだろ。自分は素っ頓狂な夢の世界に迷い込んだだけで、目が覚めたら家のベッドにいるはずだーとか、思わねえの?」

 大地も、空も、同じ漆黒だ。ロジオンは、一面の黒の中をかき分けて進んでいく。

 自分の足で歩いていないノルドは、自分が大地の上にいるのか、それとも空中にいるのかわからなくなってきた――ふわふわと浮かんでいるような錯覚すらある。

 襲ってきた急激な不安は、ノルドにロジオンの肩を強く掴ませた。

「そうだろ? それが当たり前の反応だ。お前は『当たり前』をどっかに置き忘れてきてる……めちゃくちゃな夢に魅せられて、正気を失っちまったのさ」

 今までとは打って変わって重い調子で話すロジオン。ノルドが、この数日で遭遇した出来事を思い返すと、彼の指摘は鋭く、的を射ている。

「とまあ、お前がいるのは、この程度の揺さぶりをかけられただけで揺らぐような、脆くてヨワヨワな足場なわけよ。気を張っても限界が来るから、無理すんなよ。お兄さんとの約束な」

 再び軽い調子に戻ったロジオンは、赤橙の優しい明かりに照らされた段を登った。ここは、虚の狭間クォータ・フィールドではなく、界層エレベータのような人工物のようだ。

 数メートルほどの細長い台の横に、何やら不思議な形の建物がある。その建物を指差すと、ロジオンが妙に張り切って説明し始めた。

「これが高速幹線鉄道。その中でも最速を誇る列車『ルナゲート33号』! 先頭車両の形状を変えることにより、過去のルナゲートシリーズで不安視されていた空気抵抗の問題を解決した、いわば男たちのロマンを乗せて走る最新最高の――」

「わかりません」

「えっ、そんな。あと少しで終わりだったのに……まあいいや。乗るぞー」

 ノルドが建物だと思ったものこそが『列車』で、その先に伸びるトロッコのレールのようなものが『鉄道』らしい。

 プシュー、と煙を吐くような音とともに開いた縦長の入口から乗り込むと、自動的に部屋に光が灯った。象牙色の革が張られた立派な椅子が、右側には二つずつ、左側には一つずつ並び、前を向いて列をなしている。

「えー、本日は銀月界高速幹線鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございますー。当列車は『ルナゲート33号』。界層エレベータ・M発、エンシノーア行きでーございます。本日はクラウス様による貸切でございますので、どうぞお好きな席におかけくださいませー」

「はあ……」

 呆けた返答しか出ない。ころころ変わるロジオンの態度になかなか合わせることができなかった。彼がノルドにユーモアと忠告を与えようとしてくれていることは理解できるのだが、素直に礼を言おうという気持ちには、全くならない。

「よっ、と。足、大丈夫か?」

 ロジオンは右側の窓際にノルドを座らせると、自分はひとつ前の席に座り、背もたれの向こうから顔を覗かせた。

「どうせなら、可愛い女の子の隣がいいだろ?」

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら言うロジオン。その表情は、昨日の昼にドクターが見せたものとそっくりだった。

「そうですね」

 胸をチクリと刺す痛みを悟られないように、柔和に返す。

「青春の勝算はどうなのよ、少年?」

「あると思いますか?」

「うーん、お前次第かなー……」

「アドバイスになってませんよ」

「そんなこと言われても俺、彼女いない歴が千飛んで十年だからな……」

「は? ロジオンさん何歳ですか?」

「花も恥じらう二十四歳。クラウス様は男やもめの二十九歳」

「すまない、待たせたね」

 あとからやってきたクラウスはノルドの隣に座ろうとする。しかし、すぐにロジオンが止めた。

「クラウス様、ちょっとの気遣いが疲れ切った心を癒し、そして掴むんですよ!」

「そ、そうか。そうだな」

 クラウスはロジオンの隣にそそくさと席を変えた。

 しかし、後から来たヴァネッサはノルドの隣には座らず、左側の席に腰かけ、ノルドとは椅子一つと通路を挟む形になってしまった。

「うわあーっ! 目に飛び込んできた悲しい光景は俺の心をも傷つけた……」

(ああ、今すぐこの人を黙らせたい)

 わざとらしく頭を抱えるロジオンから目を背け、ヴァネッサをちらと見やる。彼女は、窓の外を見つめているようだった。

 鉄道が一度揺れ、ゆっくりと動き出す。しかし、窓の外の景色は黒の一色から変わらない。それでも、ヴァネッサは一心にただ外を見つめている。

「ヴァネッサ、あのさ」

 何とはなしに彼女の名を呼ぶと、ヴァネッサが振り向いた。しかし、何を話すかは考えていなかった。言葉が出てこず、ノルドは口を魚のようにぱくぱくさせた。目も泳いでいる。

「ノルド、睡眠をとるべきです」

 先にヴァネッサの方から声をかけられてしまった。そういえば、何時間眠っていないのだろう。

 どんな状況でも、彼女はノルドを気遣ってくれる。

 しかし、凛と張り詰めていた瞳は、今は不安に揺れている。手の火傷は大丈夫なのだろうか。今は消えているが、翼の傷は痛まないのだろうか。なんと声をかけ、何を話せば彼女の助けになれるのだろう。ただ無責任に「大丈夫だ」と言えるほど、ノルドは無神経ではなかった。

 逡巡していると、またヴァネッサが口を開いた。

「あなたの前に座っている二人。そのうちのクラウスという人物は、天界でも有名です。噂通りの人物ならば、彼があなたに危害を加えることはないでしょう」

「噂とな!? ヴァネッサちゃん、クラウス様は天界でなんて言われてんの?」

 再び背もたれからロジオンが顔を出す。この男に話しかけられると、疲れが二倍にも三倍にも感じられる。クラウスも座席から身を半分乗り出し、不安げな表情でヴァネッサを見ていた。

「クラウス殿は、名家の当主でありながら、人間好きの変わり者だと」

「ああ……」

 前の座席の二人が揃って納得の声をあげた。

「しょうがないわー。いやそれはしょうがない」

 ロジオンはうんうんと一人頷く。

「ヴァネッサちゃんは優しいねえ。本当は『驚異! 超人間狂いの偏執狂現る』でしょ?」

 クラウスはロジオンを睨みつけたあと、再びヴァネッサに視線を送る。戦っているときの凛々しい顔立ちはどこへやら、まるで子供のようにしょぼんとしている。ヴァネッサは彼の表情に戸惑ったようだったが、ロジオンの問いに正直に答えた。

「驚異と、超と、現る、はついていません」

「そうか……つまり、人間狂いの偏執狂……」

「ある面においてはそれが事実だからこそ、あなたが派遣されてきたのではないのですか?」

「うーん、それは一理あるかもしれないけれど……」

 ヴァネッサの問いに対し、クラウスも何事か答えているようだったが、ノルドにはもう聞き取れなかった。列車の揺れが何故だか無性に心地良く、眠気を誘うのだ。

 ぼんやりとした視界の中に、クラウスのどこか満足気な表情が映り込む。同時にノルドも、不思議な満足感を得ていた。

 ヴァネッサが、クラウスを気遣った――そのことが、とても嬉しかった。

 まぶたが急激に重たくなっていく。

 ヴァネッサが眠ったほうがいいというなら、そうしよう。

 そう思った瞬間、ノルドの意識は深い眠りに落ちた。


   ◆


――三年前。

 母の葬式が終わったあと、十三歳のノルドは家に閉じこもっていた。

 一度だけ食料を買うために外へ出た。

 石を投げられた。血が流れても薬は効かない。

 腐りかけの野菜を渡された。腹を下しても薬は効かない。

 心が重たくなっていく。身体が沈んでいく。

 このメイリベルで、日常からはじき出されたのは自分だけ。

 毎日同じように響く白銀の大鐘の音が、ノルドを冒す呪詛となる。

 孤独という泥濘に、ノルドを引きずり込んでいく。


 そうやって過ごして、十日ほど経った頃だろうか。


 心地よいノックの音がした。誰かが、ノルドの部屋の窓硝子をそっと鳴らしている。

 こんなやさしい音を聞いたのは、いつぶりだろう。ノルドは、固まった泥を削ぎ落とすように、ベッドから這い出した。

「……ショーン」

 同い年の幼なじみ。三歳のとき、家族でメイリベルに引っ越してきた。六歳からは、毎日図書館で開かれる子供勉強会にも一緒に行った。家族ぐるみの付き合いをずっとしていた。一番の、友達だ。

 それでも、不安だった。

 もしも、ショーンにまで嫌われてしまっていたら。

 乾いた泥で軋む窓を開けたら、絶縁の言葉が家の中に飛び込んでくるのではないか。


 だが、ショーンがその手に持っていたのは、二人分の弁当箱だった。


 ショーンを家に招き入れ、向かいあってダイニングテーブルにつく。

「このお弁当、僕が作ったんだ。簡単なものしか作れなかったけど……」

 メインは、サンドイッチだ。中身たっぷりのたまごサンド。ハムとチーズ。トマトとレタスと厚切りベーコン。他には、パリッと焼いたウインナーに、みずみずしい野菜のサラダ。

「……おいしい」

 ショーンが作ってきてくれた弁当は、輝くほどに彩り鮮やかだった。

「ノルド、何を我慢してるの?」

 食べ終えた頃、唐突にショーンが尋ねた。

「……何のことだ? 俺は、何も我慢なんてしてない」

「してるよ。どうして、町の人たちに怒らないの?」

「俺は、『疫病神』だから。仕方ないんだ」

「本当にそう思ってるの?」

「……父さんも母さんも死んじゃった。俺が、『壁』に近づいたから。父さんと母さんを『壁』に近づかせちゃったから」

「僕、それ、おかしいと思うんだ」

「……おかしくないよ」

「おかしいよ!」

 テーブルを叩き、ショーンは恐ろしい剣幕で立ち上がった。彼の胸元で、鍵型のチャームが大きく揺れる。紫色のその鍵を見たのは、初めてだった。

「じゃあ、なんで、ノルドは無事なの?」

「……え?」

「君は今、ひどく滅入ってるだけだ。食欲はある。健康なんだよ。一番『壁』に近づいた回数が多いのは君なのに!」

 脳天に、雷が落ちたような衝撃だった。

 確かに、その通りだ。ショーンの言う通り、ノルドは健康そのものなのだ。

「おじさんとおばさんが亡くなったのは、『壁』のせいじゃないって証明するんだ。僕も手伝う」

「……本当に?」

「うん。ノルドは何も悪くない。そのことを町の人たちに思い知らせたいんだ……見てられないよ。ノルドが、石を投げられるなんて」

「あり……がとう」

 声が、なかなか出せなかった。

「でも、お前は……『壁』に近づいちゃ、だめ、だからな。お前まで町の人に嫌な思いをさせられる必要はない」

「……やっぱり、我慢してたんだね」

 ショーンは、静かに椅子に座り直す。

「嫌な思い、してたんじゃないか……でも、簡単に町の人たちの心は変えられない。できるだけ、僕も一緒に行動する。少しくらいは、ノルドを守れるかも」

 幼なじみは、笑顔でそう言ってくれた。

――嬉しくて涙が出るなんて、いつ以来だろう。

「……でも、その前に傷を治さないとね」

「傷? 前に石をぶつけられた時のは、自然に治って……」

「心の傷のほうだよ! 大丈夫、ノルドの傷は方術なら治せるでしょ。プロを呼んでるから安心して」

「ショ、ショーン? 何言ってるんだ?」

「ノルドさん!」

 背後から、ノルドを呼ぶ声がした――リエットが、ノルドの家に来るなど有り得ない。あの町長が許すはずがない。

 リエットはノルドの横に立つと、ノルドの胸元に指を向ける。

「かゆくなーる、かゆくなーる」

「え、え!?」

HealingヒーリングHealingヒーリング……Healing Plusヒーリング・プラス、ほら、かゆいでしょ?」

「か、かゆくなるってわかってるならちょっと待ってくれよ、リエットお嬢さん!?」

 方術の光は暖かくやさしい。それなのに、全身のかゆみが止まらない。どんどんかゆくなっていき、そして――


    ◆


「あ、お目覚めになられましたよ」

 目の前には知らない男と、ノルドの顔を覗き込む男の子がいた。

「えっ、えっ、あの」

 ついさっきまで『列車』に乗っていたはずだ。状況が飲み込めず、ぶんぶんと左右に首を振ってあたりを見渡した。

 天井から吊り下げられた品の良いシャンデリアに、きっちりとしつらえられた家具。どこかの王宮か、豪奢な屋敷の客間のようだ。天界のような無機質な印象はない。

 ノルド自身はというと、車椅子に座らされていた。

「左肩と右脚の傷を治療しました。立てますか?」

 促されるまま、ノルドは立ち上がってみる。痛みは、嘘のように消えていた。

「痛く、ないです」

「それはよかった。かゆみもしばらくすれば治まりますから。では、私は次の仕事がありますのでこれで。お礼は私ではなくクラウス様に」

 おそらく方術師と思われる男は、部屋のドアをそっと閉めて出ていった。

(方術をかけられてたから、あんな変な夢を見たのか……)

 残されたノルドは、見知らぬ男の子と二人きりになった。

「ノルドさん……ですよね」

「あ、えっと、はい。君は……」

 この男の子が何者かということよりも、ノルドはまず男の子の異様な風体に驚いた。

 歳は、キャロラインと同じくらいに見える。ふわふわのダークブロンド、大きな蜂蜜色の瞳。白いシャツにサスペンダー付きの短パン、さらには白いタイツを履いた姿は、いかにも名家のお坊ちゃまという印象だ。

 しかし他にも、否応なく目を引く特徴が、彼にはあった。

 火傷だ。

 顔の左半分を覆うほどに大きな火傷の痕。その痛ましさは、一度見ただけのノルドの目をも焼いた。

「俺、いや僕は、レックスと言います。父がお世話になりました」

「父? ……って?」

「クラウスです」

「え?」

「おれ……僕は、クラウスの息子です」

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