第三章 黒銀の底

黒銀の底 1

 陽は中天にはまだ遠く、それほど時間は経っていないように思えた。

「えーと、『壁』の向こうから聞こえる音はなんなのか。悪魔が存在するかどうか……これは、結論出てるよな。それから、『壁』は何の材料で作られているのか……『壁』はいつ誰が何のために作ったのか、だっけ?」

「それから、俺が狙われる理由。敵の正体。目の前にある虚の狭間って何なのか。天界で魔術を使うと死ぬかもしれないってどういうことか。宝石が毒って、どういうことなのか。そして……『うみ』って何か、です」

「その旺盛な知識欲、心のタンスの奥にそっと隠しておいたほうが幸せだったと思うぞ」

 ロジオンは深くため息をついた。ノルドを背負って歩き始めてからというもの、絶え間なく質問攻めにされ、もはや気疲れの方が勝っているようだった。

 しかし、いかにも口が軽そうに見えたロジオンであったが、むしろその軽薄さではぐらかされ、疑問の答えは得られない。

 不毛な会話をロジオンと繰り返しながら、彼の背に揺られていると、やがて《実虚境界ディラック・ディヴァイド》の向こうに小さな建物が見えてきた。真っ青な壁が異様なその建物は、ポツンとひとつ、黒の中で浮いて見える。

「ノルドくん、ロジオン」

 前を行くクラウスが振り返る。ヴァネッサも少し遅れて振り返る。ロジオンは駆け足でクラウスのそばへ行き、目の前にノルドを降ろした。

「ヴァネッサ嬢は、《虚の狭間クォータ・フィールド》を歩く権限を与えられているね?」

「はい」

「では、ノルドくん。この石を高く掲げてくれ」

 クラウスが手渡したのは、水晶のような小さな石だった。言われたとおりにすると、クラウスは魔術のような二節を唱える。

「外の世界へ誘うは天女、笛と舞が扉を開く」

 すると、手の中の水晶が心地よい音ともに弾け、魔術元素にも似た白い煌めきが降り注いだ。

「これで、ノルドくんも《境界ディヴァイド》を越えることができる。では、行こう」

 クラウスが境界に手を触れると、清澄な音と共に空間が同心円状に揺れた。向こう側の空と雲が揺らめいており、明らかに境界に異変が生じたとわかる。

 そして、クラウスは躊躇わずに境界へ向かって歩いて行き――真っ黒な虚の狭間に、足を踏み入れた。

「今お前にかけたのが、境界を越えるために使う魔術ね。はい俺の勝ちー質問させなかったー」

「それじゃあ、境界は魔術でできてるんですか?」

「お前可愛くないな!」

 結局、ロジオンは答えてくれなかった。

 クラウスの次に境界を越えたヴァネッサに続き、ノルドとロジオンも境界を越える。

「う……っ!?」

 何か得体の知れない感触があるのではないかとノルドは身構えていたのだが、驚くほどに何もなかった。まるで、境界などそこには存在していないようだった。

「うわー、ビビってやんの」

「うるさいです」

「二人とも、じゃれあうのはもう少し落ち着いてからにしなさい」

「はーい、わかりました~」

 クラウスとロジオンは上司と部下というよりも、気心の知れた仲間という印象だ。上からの命令を徹底的に遵守しようとするヴァネッサとは、まるで違っている。

「さて、ここが界層エレベータだ」

 真っ青な建物の入口の前で、クラウスが言う。

「上とか下とかに移動するんですか?」

「よく知ってるね、ノルドくん。上下、といえばそうだろう。これから僕たちは、一番下の次元へ行く。そこは天使たちが魔界と呼ぶ、僕たちの国だ」

 クラウスは真っ青な建物の引き戸を開く。ロジオンの肩の向こうに、内部の様子が見えた。

「あれ、ここ……」

 どこかで、似たような部屋を見た。

 円形の部屋の中心に描かれた、魔術陣のような黒い模様。

 外と同じく真っ青な壁に書かれた、三行に渡る文言。一行目は赤。二行目は緑。三行目は銀。

「此処は父のおわす地なり、葦の草原よりなお高く、昏き底への光は届かぬ……」

「見覚えがあるだろう?」

「……図書館の、地下七階の部屋」

「そうだ。あの部屋は人界……双月界の界層エレベータなんだ」

 クラウスの言葉を咀嚼して、ノルドは思考を巡らせる。

 エレベータは上下に動くもの。ヴァネッサを背負って歩いた場所にあった、メイリベルのものとそっくりな石畳――エレベータは、上下に動くもの。

 ならば、ここは?

「なあノルド、ちょっと降ろしていいか?」

「え? あ、はい」

 一応返事はした。しかしロジオンは答えを聞く前にノルドを床に降ろし、何故か界層エレベータから出て行った。そして、外から騒がしい声。

「クラウス様ーっ! やっぱ出てますよーっ!」

 その声にクラウスは、ため息をひとつついた。

「ヴァネッサ嬢、部下がすまない。少し待ってもらってもいいだろうか?」

「私に選択権はありません。あなた方に従います」

「……それなら、マスクの準備をして、ノルドくんのそばにいてほしい」

「はい」

 クラウスは、ロジオンを追って駆け足で外へ出て行った。

「ノルド、あなたは行かなくていいのですか」

「え? なんで?」

「あの二人の行動に興味を抱くかと思いました」

「確かに気にはなるけど……でも、俺はヴァネッサのそばにいるよ」

 それはまったく純粋な思いから発した言葉だったのだが、つい、かあっと頬が熱くなってしまった。

「あっ、いやっ、変な意味じゃないんだ、その……」

「では、私も外へ行きます」

「え? ちょっと、ヴァネッサ?」

 ヴァネッサまで界層エレベータを出て行ってしまい、ノルドは足を引きずって三人を追うほかなかった。


「うおーっ! 湧き上がる感動に、俺の頑なな心も震えて滾る!」

「……何言ってるんですか?」

 ロジオンは東の空を見ていた。赤の月が、漆黒の地平線から顔を出している。とはいえ、まだ朝ゆえに、その姿はうっすらとしたものだった。

「いやー、初めて見たけど、本当に真っ赤なんだな」

「……初めて? どういうことですか?」

「魔界には、赤の月がなくてね。僕らには珍しいものなんだ」

 クラウスの答えは、ノルドが知りたいこととは若干異なるものだった。

「……あの、クラウスさん。あの赤い月は、メイリベルで俺が見ていた赤の月と同じものですか?」

「ああ、そうだよ」

 突然、故郷へ繋がる糸が降りてきた。

 ノルドは、天界を完全な異世界だと思っていた。しかし、今見ている月と、メイリベルで見た月は同じだという。

 そのことをどう受け止めていいのか、わからない。

「それじゃあ、ここは……どこなんだ」

「ゆっくり考えればわかるはずだ。君なら」

 クラウスがそう言いながらノルドに向けた微笑みは、何故かどこか悲しげだった。

「ロジオン、また赤月界に来る機会もある。だから今は我慢しろ」

「はーい、承知。さようなら、青い空に白い雲……そして赤の月。また会う日まで……」

 クラウスとロジオンは、界層エレベータの中へ戻っていった。ノルドとヴァネッサだけを外に残すとは、二人が逃げ出すなどとは露ほども思っていないらしい。

「なんだか、頭がごちゃごちゃだ」

 ノルドは、帽子の上から頭を掻く。

「あの悪魔たちは、ひとつも嘘を言っていません」

 それまでずっと黙っていたヴァネッサが、急に口を開いた。

「ノルドに真実を教えるつもりであるというのも、恐らく嘘ではないでしょう。同時に、ノルドの能力を試しています」

「俺の能力?」

「はい。悪魔なりの、データの採取でしょう」

「どこへ行っても、そういう扱いかあ」

 ノルドは大げさにため息をついてみせたが、その拍子に左肩と右肩の傷が痛んだ。

「肩を貸します」

「……ありがとう」

 二人は、再び界層エレベータの中へと戻った。


「ノルドくん、ヴァネッサ嬢。何度も振り回してすまない。陣の中心に来てくれ」

 クラウスに指示されたとおり、二人は陣の中心に立つ。傍らにいたロジオンが背後から、よろめくノルドを支えた。

「では、これから魔界――銀月界へ移動する。身体や心に歪みが生じる可能性がある。慣れていないノルドくんは特に気をつけてくれ。ヴァネッサ嬢、マスクは持ったか?」

「そちらの棚に」

 ヴァネッサが示したのは、部屋の隅にある小さな棚。引き出しのひとつから、クラウスは不気味な形状のマスクを取り出した。顔半分を覆うサイズで、口元には、円形の空気穴のようなものが開いている。

 それには、見覚えがあった。『壁』の外の七色の水面で、ヴァネッサと初めて出会った時、彼女が身に着けていたものだ。


 無骨なマスクを、彼女は手早く装着する。

「準備はいいな? それでは、移動を開始する」

 すうっ、とクラウスは大きく息を吸い込み――

「誓う。決して振り返らぬと」

 一節目に応じて、陣が光りだす。魔術元素にも似た黒い燐光が、足元から少しずつ浮き出してきた。

「告げる。我が目指すは闇の底、くらき泉の国」

 黒い燐光が一気に吹き上がり、陣の中にいる四人を覆い尽くす。

「導きたまえ。母のおわす光なき牢獄へ――!」


    ◆


 詠唱と同時に、何かが、歪んだ。

 指先の感覚が消えた。

 地に足の着いた感覚が消えた。

 何の匂いもしない。

 何の音もしない。

 何も見えない。

 

 心が千々に乱れる。

 自分自身が無限に広がっていく。

 彼我の境界を越えていく。

 無を、混沌を通り抜けて、越えていく。


    ◆


「……ルド。ノルド」

 誰かが名前を呼ぶ声が、ノルドの意識を呼び戻す。

「ノルドくん、大丈夫か?」

「あ、あまり……」

 自分自身は、元に戻っていた。一瞬失ったように思えた五感も無事だ。だが正直、かなり気持ちが悪い。

「おぷっ」

 背後からも、変なうめき声が聞こえる。

「深呼吸するんだ。それから、周りを見てみるといい」

 言われたとおり、ノルドはまず息を整えてから、ゆっくりと目を開いた。

 ヴァネッサは先ほどと変わらず、ノルドの肩を支えてくれていた。クラウスは目の前におり、ロジオンは後ろにいた。

 だが、部屋の様子は一変していた。

「壁が……違う」

 壁も床も天井も、漆黒に塗りつぶされていた。足元の陣は床よりもさらに黒いようで、おぼろげにではあるが浮いて見える。壁に刻まれた三行、三色の呪文の文言も変わっていたが、ぐらぐらする頭には入ってこなかった。

「銀月界に着いたんだー!」

 ロジオンの大声が狭い部屋の中で反響する。「ふっ」と鼻を鳴らしたので、またノルドの問いを潰したと勝ち誇っているのだろう。

「場所を考えろ。ノルドくん、ヴァネッサ嬢、すまない」

「問題ありません」

「大ありですよ……ただでさえしんどいのに、こんな狭い部屋で叫ばないでください。ところで、ここが魔界なんですか?」

「あっ、俺の発言なかったことにされてる!?」

「そうだ。ここから高速幹線鉄道で首都に向かう……鉄道というのは、魔術で動く乗り物の一種でね」

「車みたいなものですか?」

「いや、違うものだ。鉄道は、敷かれた道に沿って走ることしかできない。代わりに、車より速く走ることができる。僕たちが最も頻繁に利用する交通手段なんだ」

「まあ、乗ってみればわかる! 習うより慣れろ! あと、お前の質問考え直してみたんだけど、何個かは答えても大丈夫そうだったから、あとで教えてやろう」

 妙に尊大な態度のロジオンを一瞥してから、ノルドはクラウスに向かって言った。

「聞きたいことはいろいろあります。説明をお願いできますか?」

「わかった、僕で答えられるものは答えよう。ヴァネッサ嬢もそれでいいだろう?」

「私に発言権はありません」

 ヴァネッサの機械的な返答に、クラウスは苦笑する。

「発言してくれて構わない。この銀月界でノルドくんが頼りにできるのは、君だけだ」

 ヴァネッサは、何も答えない。

 確かに、ノルドが頼りにできるのは彼女だけだ。

 では、彼女は誰を頼ればいいのか。今の彼女は今までよりもずっと小さく、寄る辺を失った子犬のように見える。

 クラウスは気分が悪くなっていないのか、慣れた様子で扉を開き、外へ出るようにと促す。まずヴァネッサが出て、再びノルドを背負ったロジオンが続く。


 広がっていたのは、天界で見たそれよりも、さらに異様な景色。

「……え?」

 空には、太陽も雲もなく、ただ銀の月だけが孤高に浮かんでいた。天蓋から垂れ下がる黒い帳は大地に至り、立ち込める暗闇は分厚い。

 すべてが、黒に閉ざされていた。

「夜……? 今の移動に何時間もかかったんですか?」

「いいや、ほんの数秒だよ」

「でも、さっきは銀の月が出てなかったのに」

 ノルドの言葉につられ、三人は頭上を仰ぎ見る。

 銀の月は黒に美しく映えて輝いているが、その様子はメイリベルで見上げた時とはまるで違っている。

 夜空に染み出す白銀の光はなく、ただ銀の球が空に一つ置かれているだけにしか見えない。照り返すはずの月光は、すべて周囲の闇に飲み込まれている。

 ノルドは、息を飲んだ。

 魔界は、ノルドの常識から外れた世界だ。正しく昼と夜が巡る天界よりも遥かに受け入れがたく、度し難い。

 ノルドは、もはや本能的にヴァネッサの方を振り向いた。

 少しだけ開いた唇、神秘の空に揺れる碧眼――ヴァネッサはまるで呆けたように、銀の月を見上げていた。

(ヴァネッサが、こんな顔をするなんて……)

 そこで、はっと思い至った。

 もしかして、のではないか。先ほどクラウスが、魔界には赤の月がないと言っていたはずだ。

 自らが立てた仮説の真偽を確かめるため、ノルドはロジオンに尋ねた。

「……ロジオンさん、『月宮夜』って知ってます?」

「は? なにそれ?」

 やはり、知らない。納得して、ノルドは再び月を見上げた。

「魔界では『月宮夜』のことは秘密なんだよ」

 クラウスが口を挟む。

「あんな美しい景色があると知ったら、銀月界の人々はますます滅入ってしまうからね。同様に、太陽の存在も、朝や昼の存在も知らない……ここ銀月界の空は、すべてが虚の狭間クォータ・フィールドに飲み込まれてしまっているんだ」

 太陽が、ない。朝も昼もない。そう言いながらも、クラウスはノルドに笑顔を向ける。その表情に、ノルドは胸を締め付けられた。

「『月宮夜』は僕も、絵でしか見たことがない。メイリベルの図書館の、あの素晴らしい絵」

「図書館の、絵……!?」

 それは、看過しがたい言葉だった。

 しかし今、クラウスの視線はがあまりにも熱心に、銀の月と、今は見えない赤い月に注がれているものだから、話しかけるのが躊躇われた。

「僕はあの絵が欲しくてね。有給までとってローレライに行ったんだが、直前で出品が取り下げられてしまったんだ。その日のオークションの目玉だったのに……けれど作者の意向だったらしいから、仕方ない」

「ローレライって、あの聖王都ローレライですか?」

「そうだよ。人間の王族と勇者の一族が治める美しい都、ローレライ……」

 ローレライ――大陸中央部に位置する王都。その名をうっとりと口にするクラウスは、心ここにあらずと言った様子だ。

「『双月界行ってきた自慢』はやめてください! ちくしょう!」

「お前もそのうち行けるさ。――あま火明ほあかりよ」

 クラウスの手のひらの上に、人の頭一つ分ほどの炎が灯る。揺らめく金の灯が、彼の表情を鮮明に映し出した。炎に照らされたのは、悲しげな瞳。彼は明かりをヴァネッサに向けると、彼女と何事か話し始めた。

 ロジオンがそこへ割り込む。

「クラウス様、ノルドを早く休ませてあげたいんで、先に行きますね」

「えっ、ちょっと」

「わかった。列車は待たせてあるから、そのまま乗って待っていてくれ」

「承知ー。さあ行くぞノルド!」

「もう、勝手にどうぞ……あーあ、クラウスさんともっと話したかったのに」

「俺じゃ不満だって言うの!? このろくでなし!」

 ロジオンの言葉は、無視した。

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