天の虜囚 10
ノルドは、自分で尋ねておきながら、その答えに驚いてしまった。正直、意外だった――ヴァネッサが大切に思う人とは、どんな人物なのだろう。
「名前はなんて?」
「わかりません。マザーに、忘れるように命令されたので」
厚い雲が昇る朝日を覆い隠し、ヴァネッサの横顔に影をかける。
「どうしてそんな命令を?」
「その人のことを思い出すと、私の任務遂行に支障が出たためだそうです。あまり覚えていませんが」
ヴァネッサは淡々と話す。彼女の単調な喋り方は今に始まったことではないのに、なぜだかノルドの心は不安にざらつく。
「私はその人の四肢を再起不能になるまで傷つけ、動きの一切を封じてから、生かさず殺さず、拷問にかけたはずです」
ノルドは、絶句した。たとえそれがヴァネッサの口から語られた言葉だとしても、その言葉を信じることができない――信じたくない。
ヴァネッサにかけるべき言葉は見つからず、ただ、
「……なんで?」
と、苦し紛れに問うのが精一杯だった。
「
変わらず、ヴァネッサは淡々と答えた。
「人の命を、そんなに粗末に扱うなんて……」
「優秀な者、あるいは長寿の者を選び取り、次代に発展の芽を遺すことは、天使全員が負う義務です。無能な者は淘汰され、病弱な者は早逝します。これはやむを得ないことです。天使の平均寿命は、あなた方の、三分の二。三十代で老年期と呼ばれます」
「えっ……」
「見つけたぞー!」
背後から騒々しい声が聞こえた。ヴァネッサは即座に立ち上がると、小さな白い銃――先ほどの機械兵士との戦闘では一度も使わなかったものだ――を構える。ノルドも立ち上がろうとしたが、蘇ってきた足の痛みに阻まれた。
しかし、ノルドたちに走り寄ろうとするロジオンの肩を、クラウスが掴んだ。
「待て、ロジオン。あの白い銃に撃たれたら即死だ。あれは毒と魔術を放つ銃だと聞いただろう」
「っとと、そうでした。かーなり口酸っぱくして言われましたよね、
ロジオンは数歩後ずさる。彼の隣に立ったクラウスが、遠くから叫んだ。
「ノルドくん! 僕たちには、君を保護する準備がある! どうか僕たちと共に来て欲しい!」
ヴァネッサは銃口をクラウスに向けている。相対するクラウスは、先ほど追手を薙ぎ払ったハルバードを手にしている。
「ヴァネッサ、ダメだ。あの二人には勝てない」
たとえヴァネッサが発砲しても、銃弾は阻まれてしまうだろう。
すると、ヴァネッサは突然、
「悪魔に囚われるくらいならば」
大きく口を開き、そして、
「ヴァネッサ、何を!?」
自らの口の中に銃口を突き入れ、引鉄に指をかけ。
「やめなさいっ!」
荒々しい叱咤――発したのは、クラウスだった。
彼の声はまるで何かの魔術のようにヴァネッサの動きを止め、ノルドをも畏怖させた。
「ヴァネッサ嬢。君は素晴らしく有能だ。だからこそ、今回のことを失態と考えているんだろう。けれど、思い出してほしい。君の『任務』はなんだ? ここで君が死んでどうなる。僕たちは何の障害もなく、躊躇いもなく、ノルドくんを連れて行くぞ」
クラウスは堂々とした歩みで、少しずつヴァネッサに近づいていく。
「ここで君が死ぬ。何とも戦わずに。何も守らずに。それでは、ただの犬死にだ」
白い銃口が、ヴァネッサの口の中でカタカタと音を立てている。
震えているのだ。ヴァネッサが。
「銃を、下ろしなさい」
たしなめるその声音は、とても、とてもやさしかった。かつて誰かからかけられたことがあるような、愛情に満ち満ちた、そんな音色。
クラウスの瞳に宿る炎は、冬の暖炉のように暖かく揺らめいている。
「ヴァネッサ!」
ノルドは足を引きずりながらも、ヴァネッサの隣に立った。彼女の指を、ゆっくりと白い銃から外していく。
「ヴァネッサ……ごめん。でも、ありがとう」
体の底からからこみ上げてくる熱さが、ノルドの喉をちりちりと炙り、震わせた。
「俺のせいで、ヴァネッサにつらい思い、させた。本当に、ごめん……だけど、守ってくれて、ありがとう。任務ですからって言うだろうけど、俺はとても感謝してる。だからヴァネッサ、死んだりしないでくれ。お願いだ」
「……」
白い銃を取り上げても、ヴァネッサは何も言わなかった。ただ静かに、俯いた。彼女の美しいかんばせに浮かぶ苦悩の色は、もはやノルドでなくとも容易に見て取れるほどに濃い。
戦い、痛み。懊悩。そして――裏切り。
自ら『機械』であろうとしていたヴァネッサの中の歯車は欠け、もう、今にも壊れてしまいそうに見えた。
「君は、秩序の守人としては完璧だ。完璧すぎる。僕たちに捕まるとわかったら、即座に自害しようとする……僕は、それが恐ろしい。君はまだ子供なのに」
「……天界では、十五で、成人に」
「そうだね。『
「……今、なんて?」
聞き慣れない言葉の連続に、ノルドは思わず尋ねてしまった。
「後で説明してやるよ。お前は知るべきだ。知ることを選んじまったからにはな」
らしからぬ真剣な口調で、ロジオンがそう答えた。
クラウスはハルバードをロジオンに預けると、透明な硝子の前へと歩いていく。彼の背中には、やましさが欠片もない。
そして、ようやく気がついた。空で見た黒い翼が、今はない。
(
「まさか
「俺はいいです。それより、ヴァネッサの怪我を治療してあげてください。彼女は翼を撃たれ、手には火傷を負っています」
「もちろんヴァネッサ嬢も治療する。安心してくれ」
クラウスは、ノルドに手を貸そうとした。しかしノルドは彼の手を取らず、自力で歩こうとする。無理をしてよろめいたノルドは、その場に転んでしまった。
「……俺はあなたたちを信用してません。俺がこの世界で信用しているのは、ヴァネッサだけです」
「『この世界』か……君は、ここが異世界だと思っているんだな」
「天界、違いますか?」
「そうだ……が、そう呼ぶのは……君の知っている言葉で言えば、天使だけだ。僕たちは、天使の言葉で言えば、『魔界』から来た『悪魔』ということになる」
「じゃあ、
「あの黒い地面は、『
「何言ってんですか。境界は、単純明快一刀両断に説明できるじゃないですか」
軽い口調に戻ったロジオンが横槍を入れてくる。
「境界っつーのは、」
――彼の告げた言葉は、ノルドにかつてない衝撃を与えるものだった。
「『果ての壁』」
「……え?」
「天界や魔界では『壁』が見えないんだ。人界では、『うみ』を――」
「ロジオン!」
唐突にクラウスが怒鳴る。
「……すみません」
「やっぱり、教えられないこともあるんですね」
「今は、だ。時が来れば教える」
「だから天使より自分たちを信用しろって?」
「そうだ。だが、ヴァネッサ嬢よりも僕たちを信用しろとは言わない」
一応沈黙し、逡巡するふりをする。
助けは期待できない。また追手がやってくるかもしれない。
もう、この二人についていく以外の選択肢はないのだ。
「クラウスさん、でしたよね。翼は出し入れ可能なんですか?」
「ああ。信じられないかもしれないが。見せたほうがいいだろうか?」
「いえ、もう見たのでいいです。それと、もう一つ聞きたいことがあるんですが」
「答えられることならば、答えよう」
「あなたの知り合いに、銀髪で、青い目の人はいますか?」
この問いにクラウスは驚いたようだった。
「一人、知っている。彼女は君を待っている」
彼女――ノルドは、女性とは言っていない。
「……わかりました。一緒に行きます」
ヴァネッサとロジオンが同時にノルドの方を向いた。二人とも驚愕していたようだが、ヴァネッサは暗く俯き、ロジオンは上司に詰め寄った。
「今の会話で何か重大な心の交流が!? わかりやすく説明してください!」
「交流は特にない。事実の確認が取れただけだ」
ノルドの心は決まったが、気がかりなのはヴァネッサのことだ。彼女はどうするのか。
「エンシノーアへ行けば、『
「元よりそのつもりだ」
「では、私もノルドと共に行きます」
「君が自ら申し出てくれるとはありがたいよ」
ヴァネッサが一緒に来てくれる。そのことに、ノルドはほっと胸を撫で下ろした。彼女は決してクラウスの目を見ようとはしなかったが、それは無理からぬことだろう。
「では、行こう。北東の境界を越えて『界層エレベータ』に向かう。ロジオン、ノルドくんを運んでやってくれ」
「途中の選手交代はありますか?」
「なしだ。行くぞ」
クラウスは、ゆっくりと歩き始めた。その歩幅は、疲れ切ったヴァネッサに合わせているように見える。
彼は、信用できるかもしれない――できればそうしたいと願いながら、ノルドは、ぶつぶつと愚痴を垂れるロジオンの背に体を預けた。
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