天の虜囚 9

 黒い翼のクラウスが、同じく黒い翼の男たちを容赦無く殲滅したその光景を、ノルドは遠く離れた場所から見つめていた。クラウスとロジオンが戦闘に集中し始めた頃合いを見計らい、密かにその場を離脱したのだ。

 ヴァネッサは一度も羽ばたかず、ただ向かい風を読んで体の角度を変える。風切羽で空を切り、少しずつ高度を下げていく。

 見上げると金色の燃える草原が、見下ろすと夜の暗黒が、どこまでも広がっていた。

「このまま身を隠します。彼らは敵を殲滅するでしょうが、私たちの味方ではありません」

「敵の敵は味方ってわけじゃないんだな」

 ヴァネッサは、それ以上語らなかった。

 大地が近づいてくるにつれ、地面の様子が鮮明になる。このあたりには、ただ枯れかけた草と、露出した地肌があるばかり。この物寂しい荒地のどこに身を隠すというのだろう。

 足が大地に着くと、ヴァネッサの翼は瞬く間に光となり霧散した。そして、ノルドを抱えたまま、その場に倒れた。

「うぐ……ヴァネッサ、大丈夫か?」

 返事はない。ノルドはヴァネッサの下から這い出して、気を失った彼女の体を起こそうと手を取る。

「熱っ!」

 ヴァネッサの左の手のひらが、真っ赤に腫れ上がっていた。明らかな、火傷の痕。

「なんだこれ!? 俺が気を失っている間に何かあったのか?」

 ヴァネッサは苦しげな表情を浮かべ、時々は呻き声すら上げる。

(どうして俺には方術が使えないんだ。方術さえ使えればヴァネッサの手も羽根も治せるのにっ……)

 何もできない――無力感に打ちひしがれながらも、ノルドはヴァネッサを背負って歩くと決めた。

 どこへ向かえばいいのかはわからない。他の天使たちが助けに来てくれるのを待つしかない。傷はひどく痛んだが、これまでヴァネッサがずっと自分を守り続けてくれたことを思えば、安い代償だ。

 ノルドは帽子をかぶり直し、ヴァネッサを背負うと、彼女が向かっていた方角へと歩き始めた。


「はあ、はあっ……」

 ヴァネッサは、重たかった。彼女の背負ったいくつもの武器が重かった。歩く度に、背中でかちゃかちゃと音がする。

 彼女はノルドを守るため、これほどの重量を身に纏って戦い、さらにはノルド自身さえもその腕に抱え、空を舞ったのだ。

(生き延びなくちゃダメだ……ヴァネッサだけでも)

 ノルドは、歩き続けた。ただひたすらに歩き続けた。疲労と痛みで、倒れそうになる。それでも、歩き続けた。せめて倒れるなら前のめりでありたいと、歩き続けた。


 どれほど歩いただろうか。ふと踏み出した一歩の感触が、違った。

 足元にあったのは、薄汚れた石畳だった。

 渦巻いた既視感に、ノルドは慌てて顔を上げた。疲労と痛みのせいで歩みは遅いままだが、それでも進んでいくと、やがて土はなくなり――

 姿を現したのは、でこぼこした白い石畳。

(同じだ……メイリベルの石畳と……)

 石畳の上を歩き続けていると、遠くに朝日が見えてきた。夜明けだ。どうやらヴァネッサは、東を目指していたらしい。


 しかし、見えてきたのは、得体の知れない色彩。


 昇る朝日と、。空だけが朝を迎え、大地は未だ夜のまま、であるかのような。

 更に進むと、石畳が途切れていた。

 そこから先の大地は、真っ黒だった。

 空は薄く朝焼けを灯し始めたというのに、大地はどこまでも、黒が続いている。

 ちぎれた雲間から覗く陽光が、ノルドの目を灼く。しかし、大地をあけぼのに染めることはない。彼方から日が昇る様を題材にとった絵画は、地平線を眩く彩ったものばかりだ。ならばどう例えても、眼前の光景は夜明けではない。

 それでも、空だけは夜明けを告げている。

「ん……うっ……」

 黒い大地の手前で立ち止まったちょうどその時、ヴァネッサが目を覚ました。

「ヴァネッサ!」

 慌ててヴァネッサを降ろし、石畳の上に座らせる。するとヴァネッサもノルドと同じく、異様な光景に瞠目した。

「ここがどこかはわからないけど、できるかぎり逃げてきたんだ」

「……ここは、『実虚境界ディラック・ディヴァイド』です」

 そう口にしたヴァネッサは、慌てた様子で口元を押さえた。実虚境界――それはおそらく、ノルドが触れてはいけない秘密なのだ。

 ノルドは、黒い地面に足を踏み入れようとしてみたが、できなかった。見えない何か、完全に透明な硝子のような感触に遮られ、それ以上進むことができなかったのだ。

「なんだ、これ」

 わざとらしくヴァネッサの方を振り向いてみたが、彼女はやはり答えてくれない。

 この先には、進めない。仕方なく、ヴァネッサの隣に腰を下ろした。石畳の感触が、なんだか懐かしい。

 透明な硝子の向こうの黒い大地は不気味だが、少しずつ光を増す暁の空は美しい。空を見つめるヴァネッサの横顔を、眩しい朝の光が照らした。

「不思議な眺めだなあ。メイリベルの夜明けと、全然違う。面白い」

「そうですか」

「ずっとメイリベルにいたら見られなかった景色だよ。ショーンは、元気でやってるかな」

 彼は、この異様な、しかしどこか幻想的でもある夜明けを見たらどんな感想を抱くだろう。

 ショーンの姿を思い浮かべる。ノルドの探究に協力してくれた時、仕事をしている時――なんでもない日常の中、常に彼の姿があった。記憶の中の彼は、いつも鍵型のペンダントを首から下げていた。紫色の鍵を指先で弄ぶのが、ショーンの癖だった。

「……図書館が燃えた時、なんで泣いてたんだろう……なんであの時ショーンは俺を止めたんだろう? いつも『壁』の調査に協力してくれてたのに、あの時は怒鳴ってまで止めようと……」

 ノルドは一人でぶつぶつと呟いていたが、唐突に隣にヴァネッサがいるのを思い出した。彼女の視線は自分に注がれていた。恥ずかしさから気詰まりする。

「ご、ごめん、俺、独り言が癖で、その……」

「疑問点を整理するには有効な手段だと思います」

「そ、そうかな?」

「はい。あなたの疑問の大半はショーンさんのことで占められているのですね」

「他のことは、考えてもわからないし」

「私に問わないのですか」

 その申し出は意外なものだった。

「聞いたら、答えてくれるの?」

「答えられる範囲でならば、回答します」

「うーん……じゃあ……もう、逃げないの?」

「はい。私たちが逃げ切れる可能性は、極めて低いと言わざるを得ません」

「救援が来るって言う話は……」

「申し訳ありません。それは、私の希望的観測でした」

「……いや、違うよ、ヴァネッサ。ヴァネッサの考えは間違ってなかった」

 ノルドは、これまでのことを思い返し、ひとつひとつ丁寧に口にする。

「俺たちは出かけて、コメット・モールで時間を潰した。その後、ヴァネッサに連絡が入って、研究所ラボに戻った。途中、敵に襲われた。撃退したけど、戻ったらもう研究所は襲われていた。俺たちが出るときには、待ち伏せされてた。どれもこれも、タイミングがよすぎる――。それから、あの監視員。死んでた……いきなり頭を撃たれたんだろうけど……もし、戦って死んだなら……ドクターみたいに武器を持ってなきゃおかしい。それってつまり、相手にまったく抵抗していないってことだ」

 今までに起こった出来事を整理し、結論を導く。

「内通者がいた。そいつが、救援を阻んだ」

 ヴァネッサは、頷いた。ひどく悲しげに。

「多分、俺たちの行動は全部読まれてた。まず、車を襲った奴。あの飛行速度は異常だ。空で追ってきた奴らよりずっと速かった……まるで、車襲撃担当って感じだ」

「車を追ってきた敵は、超高速戦闘を想定して製作された機械兵士でしょう」

「ヴァネッサは、内通者は誰だと?」

「わかりません。研究所ラボのメンバーは、全員が私と同じく秩序の守人ヴェルト・リッターです。その身分も保証されています」

「そういえばさ、秩序の守人ヴェルト・リッターって何?」

「内容は機密に触れます。 名称自体は、もはや機密ではありませんが」

 アンナやドクターが、その言葉を口にしたのを覚えている。彼らが話したということは、ヴァネッサにとっても秘密にすべきことではなくなったということか。

(多分、天界の自警団みたいなものなんだろうけど……)

 しかし、彼女自身の口から聞いてみたくて、ノルドは考えを巡らす。『話すべきである』と彼女自身が納得すれば、案外様々なことに答えてくれるのではないか。

「なあ、ヴァネッサ。冥土の土産って知ってるだろ?」

「めいどの……家事労働を行う住み込みの女性使用人が、暇をもらって町へ繰り出した際に購入した、主人やその子女への贈り物のことですか?」

「えっ」

 予想外の答えに、ノルドは思わず目をぱちくりさせた。

「私はなにかおかしなことを言いましたか」

「あ、ああ……うん、かなりおかしい。そのメイドじゃない。冥土は、死んだら行くところだ。そこへの土産になるのは、死の直前で叶えられたら、悔いなく死ねるようなものかな……」

「あなたは、もう自分が助からないと思っているのですか」

「多分ね。だから、俺が誰かに秘密を漏らしたりすることはない。死人に口なしだ」

「あなたは死にません。私が守ります」

「……秩序の守人ヴェルト・リッターの中に内通者がいるのに、まだ命令を守るのか?」

「それは……」

 ヴァネッサの顔にありありと落胆が刻まれる。だが、やがていつもの無表情に戻った。

「もう朝だ。ヘリオディスを出た時はまだ夕方だったのに……ヴァネッサがこれだけ傷ついてるのに、助けの一人も来ないのか」

「マザーは、私を見捨てたのでしょうか」

 囁くように漏れた言葉。

 マザー――研究所ラボに現れ、ヴァネッサの荷物を預かった女性。

「……あの人が、秩序の守人ヴェルト・リッターのリーダーなのか?」

 ヴァネッサは俯き、口を真一文字に引き結んだ。それ以降は何を聞いても、一切答えてくれなかった。

言えなかった。確信はなくとも、マザーこそ、ノルドが今一番に疑っている人物なのだ、とは。

 ノルドは質問の方向性を変え、ヴァネッサ個人について聞くことにした。

「あのさ……ヴァネッサには、命令より大切なものはないの?」

 彼女にとっては、愚にもつかない問いかも知れない。それでも、聞いてみたかった。

「例えばさ、家族とか……友達とか」 

「家族は、いません。両親は私が子供の頃に二人とも他界しました。友達、は……」

 ヴァネッサは、俯いていた顔をゆっくりと上げる。草原色の瞳が、夜明けに白む空をさまよう。そして、彼女が口にした答えは――

「います。ノルドにとってのショーンさんのように、とても、とても大切な人が……」

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