File-2 消せない記憶
……消す?
フィラは呆然と、心の中で男の言葉を復唱した。聞き慣れないはずの、でも胸がざわつく言葉だ。
――消すって、何を?
「私の、すべてを……ですか?」
バルトロの震える声に、フィラははっと身を引き、それからそろそろと細く開いた扉の隙間から隣の部屋を覗き込む。
居間には二人の男が向かい合って座っていた。一人は白髪を上品になでつけた壮年の男――バルトロだ。よく整えられた口ひげの下で、いつもは穏やかな微笑をたたえている唇が強く引き結ばれている。
もう一人は見たことのない金髪の青年だった。年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。長く伸びた真っ直ぐの髪は、首の後ろで素っ気なく一つにまとめられて背中に流れている。着ている服はカイと同じ、聖騎士団の団服だった。縁に鮮やかな青のラインが入った白いロングコートが、薄闇に慣れた瞳にまぶしく映る。横からではよく分からないが、胸の前部にはアシンメトリーにスカイブルーの十字がデザインされているはずだ。間違いなく、光神リラに仕える聖騎士の服装だった。
聖騎士団の団服を着た青年は、どこか億劫そうに頷くとおもむろに立ち上がった。バルトロは表情を強ばらせて、青年を見上げる。
「な、何をするつもりだ……!」
「先ほど言ったとおりです。まずは、一緒に城へ来ていただきます」
気色立つバルトロと対照的に、冷静な声で青年は告げた。バルトロは青年から視線を外し、救いを求めるように周囲を見回す。その視線が、呆然と事の成り行きを見守っていたフィラを捉えた。目を見開いたバルトロの視線を追って、青年がこちらへ振り向く。
とっさに隠れる余裕もなく、フィラはまともにその視線を受け止めてしまった。青年の瞳が、ほんのわずかに見開かれる。フィラも呆然と青年を見つめ返す。
ものすごく、綺麗な人だと思った。野生動物のような生命力にあふれた美ではなく、どちらかといえば大理石の彫刻や鋭い刃物を思わせる、無機物的な美しさだったけれど。涼やかな、けれど射抜くような鋭い視線に、フィラは思わず身をこわばらせる。
そのまま、嵐の合間の凪のような、奇妙な沈黙が場を支配した。呼吸すらはばかられるほどの沈黙。バルトロもまるで思考が停止してしまったように、目を見開いたまま動かない。
一番最初に我に返ったのは、見知らぬ青年だった。
「お前は……」
「逃げなさい! フィラ!」
それを引き金にして、弾かれたように身を起こしたバルトロが叫ぶ。青年は一瞬ためらうような素振りを見せてから、バルトロの額に手のひらをかざした。一瞬の沈黙の後で、バルトロは糸が切れた人形のようにぐったりと椅子に倒れ込む。
「バルトロさん……!」
フィラはとっさに駆け寄ろうと扉を押し開けて、そのまま凍り付いたように動きを止めた。青年の瞳が、もう一度フィラを見たからだ。冷ややかに見据えるその視線は、明らかにフィラを威圧しようとしている。
「どうやって入ってきた?」
やはり威圧するような調子で訊ねられて、フィラはたじろいだ。
「ど、どうって……」
気圧されて一歩後ずさると、青年は迷いのない歩調でこちらへ歩み寄ってきた。
「どこから入ってきた。この家には、彼と私以外の人間はいなかったはずだ」
色素の薄い瞳がフィラを見下ろす。逆光のせいで色まではわからないが、優れた芸術家の手によって石に閉じこめられた神々のような冷たい美貌の中で、瞳だけは強い意志力を宿して、確かに彼が『生きている』のだと感じさせた。
「わ、私……」
フィラは必死で言葉を探し、結局ろくな言葉が見つからずにまともな説明を放棄する。
「とく、特異体質で……それより、バルトロさんに何をしたんですか?」
青年はかすかに瞳を細めた。酷薄な印象がより強くなって、フィラはまたじりじりと後ずさる。青年がフィラを追って居間から工房へ入ると、暗かった天井に明かりが灯った。いつも工房を照らしていたランプの赤みがかった光とは違う、目を射るような白色光だ。けれど今のフィラには、光源を確かめている余裕などない。
「話をしていただけだ」
「嘘ですよね、それ」
せいいっぱい虚勢を張って青年を睨み付けながら、フィラは少しでも扉へ近づこうと、今度は意図的に後ずさる。どうにかここから逃げ出して、誰か助けを呼んでこなくてはと思う。
「嘘ではないが、話の内容が聞かれてはまずいものだったことは確かだ。聞いていたのなら、お前も消すしかない」
青年は言い終わると同時に急に歩調を速めて、フィラの行く手を遮った。本能的に青年に向き直って距離を取ったフィラは、飛行機の骨組みの間で自分が逃げ場を失ってしまっていることに気づく。このまま後退し続けても、背後には壁しかない。
――消すって、やっぱり殺されるってことなんだろうか。
胃の中に氷をつっこまれたような気分だった。足が震える。今すぐに、あの変な『魔法』が発動してくれればいいのに。
「私も……消すって……?」
かすれた声で訊ねる。死とは別の答えが返ってくれば良いと願った。だが、青年は答えない。無言のまま右手を上げる。その手に圧されるように、フィラはまた一歩後ろへ下がった。壁に立てかけられていた木製の翼は、寄りかかると不安定に揺れて、フィラは軽いめまいを覚える。それでも、青年の動きから目を離すことはできない。
青年は、さっきバルトロにそうしたように右手をフィラの額にかざした。
それが、恐怖の限界だった。
「いやっ!」
ほとんど本能的にその手を払いのける。
振り払われた青年は、一瞬呆然としたようだった。
「いやです、嫌です死ぬのはっ!」
めちゃくちゃに両手と持っていたノートを振り回し、バランスを崩してとっさにぶつかった『何か』に片手をついて体重を支えようとした。『何か』は壁に立てかけられた流線型の翼で、もちろん固定などされていなかった。翼はフィラの体重を支えることなくあっさり倒れ、視界が斜め右方向にぐらりと回転し、次いで同じくらいの角度を左斜め前に引っ張られた。目の前が真っ白になり、ついでに左の上腕がリング状に痛かった。
何が起こったのか、とっさに状況が把握できずに、フィラは息を呑んだ。真っ白な視界の中、自分の鼓動だけが耳元で響いている。
ふと目の前の白がため息をつき、遠ざかった。同時に左腕を締め付けていた感覚も消える。
「わかったから、お前の名前と職業と住所を言え」
目の前の真っ白が青年の団服だったことはわかった。左の上腕が痛かったのは青年が掴んでいたからだということもわかった。
と、いうことは?
「おい、聞いてるのか?」
「は……? え……?」
フィラは呆然と青年を見上げながら思う。
殺そうとしていた相手がうっかり転びそうになっていたところを、助ける意味が彼にあるのだろうか。混乱した頭で考えても、もちろん答えは出ない。
「名前、職業、住所」
噛んで含めるような口調で、青年は言った。騎士が職務質問するときの聞き方だと知っていたせいか、青年の態度が命令し慣れた者のそれだったせいか、フィラは思わず居住まいを正して答えてしまう。
「……フィラです。フィラ・ラピズラリ……職業は酒場のお手伝い兼ピアノ弾きで……住所は……住所、は……」
言いかけて、はっと口をつぐむ。
言ってしまって良いのだろうか。自分がここで『消されて』しまって、この人が酒場のみんなにまで手を出したりしたら。記憶のない自分を引き取って寝場所と仕事を与えてくれた人たちに、恩を仇で返すようなことになってしまう。
「住所がないわけじゃないだろう」
口をつぐんでしまったフィラに、青年は訝しげに眉根を寄せた。
「……言えません」
「何故」
目を伏せると、青年のつま先がちょうど視線の先に来る。カイと同じ、つま先に金属片の取り付けられたブーツだ。本当に、この男は聖騎士なのだろうか。だとしたらなぜ守るべき民を『消す』などと言うのか。納得できないし、腑に落ちない。
フィラは目を伏せたまま、低く答える。
「あなたが信用できないから。一緒に住んでいる人に、迷惑を掛けたくありません」
青年は呆れた様子で短くため息をついた。
「今日、新しい領主が来るという話は聞いているな」
「え? は、はい」
話の展開について行けなくて、フィラは思わず顔を上げ、青年の表情を窺う。だが、軽く眉根を寄せた表情からは、苛立ち以外の感情は読み取れない。
「俺がそうだ」
そのままの表情で、青年は傲然と言い放った。
「え、えっ?」
何を言われたのか、頭が理解を拒否している。
「領主に逆らえばどうなるかはわかってるんだろう? どうせカイあたりに調べさせれば分かることなんだ。素直に答えておいた方が身のためだ」
青年はゆっくりと両腕を組み、偉そうな態度で言い放った。なんだか妙に投げやりな調子にも感じられる。でもその理由まで考える余裕はなくて、フィラはぎゅっと両手を握り締める。
「そんなこと……信じられません。カイさんは、今度の領主様は尊敬できる方だって仰ってました」
頑なに相手を睨み付けるフィラに、青年はため息をついて踵を返した。青年が向かった部屋にバルトロがいることを思い出したフィラも、慌ててその後を追う。青年は大股でバルトロに歩み寄り、額に手をかざして何か呪文を唱え始めた。
「ちょ、な、何やってるんですか!?」
「命に別状があるようなことじゃない。いちいち騒ぐな」
駆け寄って青年とバルトロの間に立ちはだかったフィラを、青年は迷惑そうな表情で見下ろす。
「それで、特異体質とはどういうことだ?」
「バルトロさんに何をしたんですか!?」
はぐらかされてなるものかと、フィラも強い調子で聞き返した。自分がそれを聞いたところで何の解決にもならないだろうという、理性の冷ややかな判断には気づかなかったふりをする。今は、勢いを失ってはならないような気がした。どう考えても気がしているだけだけれど。
「質問をしているのは俺だ」
「先に質問したのは私です!」
自分の混乱ぶりと裏腹に、ひどく冷静な青年の態度が腹立たしい。
「機密事項だ。答えられない。特異体質とはどういう意味だ?」
青年は面倒くさそうに答え、ケンカを売る勢いでにらみ付けるフィラを見返す。そこでようやく、フィラは青年の瞳の色を認識した。
青だ。冬のよく晴れた空のような、綺麗で冷たい青。他人を従えることに慣れた者に特有の、一種の強制力を持った――けれどどこかに諦念を含んだような、穏やかな青い瞳だ。
短い睨み合いの後、フィラはその瞳が持つ静かな強制力に屈した。
「……短い距離だけなんですけど、たまに瞬間移動してしまうことがあるんです。自分の意志と関係なく、勝手に」
「で、たまたま移動した先がその部屋だったと?」
青年の視線がフィラを離れ、隣の部屋へ続く扉を見る。
「はい」
視線が外れたことにほっとしながら、フィラは頷いた。彼の視線はどうしてだか、フィラの胸をざわつかせる。胸をなで下ろしながらそっと青年の横顔を伺うと、隣へ続く扉を見ながら、青年は注意して見ればそうとわかるくらい微かに表情を曇らせていた。
「それにしても、まさか結界を超えて入ってくるとはな。その能力が発現したのはいつ頃だ?」
「わかりません。私、記憶がないから」
「記憶が? いつから?」
「二年前からです」
そう答えた瞬間、青年のまとう気配が少し変わったように思えた。
「その前からこの街にいたのか?」
青年は横目でフィラに視線をやりながら訊ねる。何故か疑われているような気分になって、そっちの方が余程うさんくさいくせにとフィラはまた不機嫌になった。
「いえ、二年前にここに来て、それ以前のことを覚えてないんです。町の人たちも、誰も私のこと知らないって」
「なるほどな」
青年は、再び視線を隣の部屋へ向ける。
「カイはそのことを知っているのか?」
「話してはいません……けど」
さっきから、青年がカイの名を気軽に口にするたびに不安が増していた。そんなはずはないと訴える感情と、もしかしたらと考える理性がせめぎ合っている。
「……前の領主には?」
「ここに住むことになったって届けは、出てるはず、です」
途端、青年は忌々しげに舌打ちをした。
「……ラドクリフの野郎、サボりやがったな」
泣く子も黙る前領主の名を呼び捨てにした上、悪態までついた青年をフィラは目を丸くして見上げる。
「何はともあれ、興味深い体質だ」
青年は、今度は体ごとフィラに向き直った。特に背が高いわけでもないのに、まっすぐ見下ろされると妙な威圧感を感じる。青年本人に、自分の持つ威圧感というか、一種の強制力を自覚しているような節があるのが、また腹立たしい。
「命は助けてやる。その代わり研究に協力してもらおう」
「命は……?」
緊張が続いたせいで本格的に膝が震え始めて、バルトロが腰掛けたままの椅子の肘掛けにつかまりながらフィラは呟く。
「お前は俺と左官屋の一連のやり取りを見てしまった。本来なら許されない行為だが、俺としては興味深い研究対象をみすみす無かったことにしてしまうのも、まあ惜しいと言えば惜しい。利害が一致してるだろ」
利害の一致、という言葉が、萎えかけていたフィラの怒りに油を注いだ。実質は脅迫なのに、利害の一致なんてどの面下げて言えるのだろう。
「口止め料は……命だけ、ですか?」
「不満か?」
攻撃的なフィラの視線を軽く受け流して、青年はどこか自棄っぱちに見える微笑を口の端に乗せる。
「その上研究材料にまでされるなら……公平じゃないと思います」
「肝が据わってるな。……そうだな、だったら」
青年はふと言葉を切り、微笑を消して正面玄関から続く扉へ視線をやった。フィラもつられてそちらを見る。
玄関の扉がいささか乱暴に押し開けられる音と、ドアの上方にバルトロがつり下げたカウベルのどこかのどかな音が、会話の途切れた家の中に場違いに響いた。次いでどたどたと遠慮のない足音と規則正しい足音が、同時にこちらへ近づいてきて、扉の前で止まる。
「悪ぃ悪ぃ、遅くなっちまった」
屈託のない大声と共にドアを押し開けて部屋に入ってきたのは、大柄な黒人の男だった。縮れた黒髪は五分刈りで、分厚い聖騎士団団服の上からでもよく鍛えられた筋肉が想像できる、逞しい体格の男だ。
「遅いぞ。何分過ぎたと思ってる」
とがめると言うより、義務だからたしなめているといった調子で青年が答える。
「申し訳ありません、私が酒場に寄っていたもので……え?」
黒人男性の後ろから現れた青年が、フィラを見つけて固まった。フィラも呆然と、あっけにとられた表情で固まっている青年を見つめ返す。
カイだった。黒髪黒眼の東洋系の顔立ちも、やや細身の体格も生真面目な表情も、何もかもひっくるめて間違いなくカイだった。
「だから言っただろう。カイ、俺が新しい領主だと彼女に言ってやってくれ。さっきからそう言ってるのに、まったく信じようとしないんだ」
先ほどまでと比べると心持ち肩の力が抜けた口調で、自称領主がカイに命じる。
「ええ、この方が新しい領主に就任されたジュリアン・レイ様です。しかし、団長」
カイは機械的な早口で言うと、すぐさま青年に視線を振り向けた。
「なぜ彼女がここに……?」
「ヘマするなんて、お前らしくないじゃんか。結界張り忘れたのか?」
心配そうにジュリアンという名らしい青年を見つめる黒人の男を、カイが咎めるように見上げる。
「ランティス、失礼ですよ。さっききちんと手順を踏んで結界を通り抜けてきたばかりじゃないですか」
「いや、嬢ちゃんが入ってきてから慌てて結界張ったのかと」
自信なさそうに頭を掻く男に、自称領主は投げやりにため息をついた。
「馬鹿を言うな。結界を張り忘れていたとしても、誰か入ってきたら気配でわかる。そうなってから結界を張ったって、ここまで入ってこられるわけがないだろう」
「じゃあ何で嬢ちゃんがここにいるんだよ。こんな顔してお前から気配を隠し通せるほど腕が立つのか? この嬢ちゃん」
黒人の男はずかずかとフィラに歩み寄り、物珍しそうに観察を始める。馴れ馴れしいというよりは人懐こいその視線は、決して嫌な感じはしないけれど状況を考えると複雑な気分だ。
「腕が立つかどうかは知らないが、転移して入ってきたそうだ」
「転移? 転移魔法? んな馬鹿な……」
黒人の男はその言葉を聞いた途端、フィラの観察を注視して目を見開いた。
「俺もそう思うが、結界を張っていたにもかかわらず侵入を許した理由が他に考えられないのも事実だ。魔力の残滓は解析できるほどには感じられないが、なくもないしな」
「……信じられんよ」
男は首を振りつつ、半ば無意識らしい動作でフィラの頭に軽く手を置いた。スイカすら上から片手で掴み上げられそうな、大きな手のひらだ。
「だろうな。それより、例の物を検分する。カイは残って、彼女を見張っていてくれ」
「わかりました」
「ランティス、行くぞ」
カイが了承したのを見て、青年はフィラの頭に手を置いたままの男に向かって頷いた。
「おう」
男の手のひらが前髪をかすめて離れ、青年に従って隣の部屋へ向かう。
「信じられないことはもう一つある。彼女にはあれが無い」
「アレ?」
青年は黙って左の側頭部を指し、そのまま二人は隣の部屋へ消えた。なんだか馬鹿にされたような気がして、フィラの機嫌はさらに下降する。
「あの、カイさん。どういうことなんですか? あの人が……バルトロさんを消すって……」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
カイは眉根を寄せ、事務的な調子で答えた。
「あの人が新しい領主様だというのは、本当なんですね?」
「はい」
あくまでも生真面目なカイの回答は、いつもよりずっと強張って聞こえる。
「だったらどうして……聖騎士は民を助けるものじゃないんですか?」
「その通りです。ですが、このことに関してはお答えできません」
カイはやはりにべもなくそう答えた。
「わかりました。もう、いいです」
低い声で答えて、フィラは瞳を伏せる。握った手のひらに爪が食い込む。
燃え上がっていた怒りが、ゆっくりと冷たい失望に変わっていくのを感じた。
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