File-3 ピアノ弾きのラピズラリ

「ピアノ弾きのフィラ・ラピズラリ、だって?」

 手帳を片手に部屋中の物品をリスト化しながら、ランティス・セルバリウスは眉根を寄せた。リスト化しやすいように、部屋中に置かれた飛行機の部品はジュリアンの魔術で片側にどけてある。部屋を照らすのは、ジュリアンが呼び出した安定魔力光の無機的な白い光だ。

「知ってるのか」

 ランティスの倍くらいの速さでリストを書き連ねていたジュリアンは、思わず手を止めて向かいにいるランティスを見つめた。まさかそういう反応が返ってくるとは思わなかったからだ。

「二年前、ピアニスト、フィラ・ラピズラリ……ね。ああ、知ってるぜ。まあ、まず間違いねえとは思うが」

 ランティスは意味ありげな調子で言葉を切った。

「記憶喪失……ってのもまあ、あり得ねえ話じゃないかもな」

「どういう意味だ」

「二年前、親代わりのピアノの師匠を亡くしてるんだよ。その一ヶ月後かなんか……その辺で行方をくらませてたんだったかな。まあ、その師匠ってのがちと法律的に存在しない連中の方まで顔が広いもんで、あまり探されてはいなかったらしいが」

「……なるほどな」

 その説明の間にリストを完成させたジュリアンが、ぱたりと音を立てて手帳を閉じる。

「彼女が自分で記憶を封じた可能性もあると考えられるわけか」

 つらいことがあった人間が、自分で自分の記憶を封じる例は確かにある。フィラがそうだとは言い切れないが、可能性は高いはずだった。

「ああ、時期的に一致してっからな。……思い出させんのか?」

「……いや。このままで良いだろう」

 ランティスが何か言いたげに身じろぎするのを遮って、ジュリアンは静かに目を伏せる。

「どうせ、魔法はいずれ解ける」

「それまで時間をやるって? ……お優しいことで」

 ランティスは大げさに肩をすくめながら、手近にあった四気筒エンジンを載せた台車に手をかける。

「……優しい、ね。さて、どうなんだろうな」

 自嘲の笑みを浮かべながら、ジュリアンは低く呟いた。

「どうした?」

 台車を魔法陣に押し込んだランティスが半分心配そうに、半分興味深そうに顔を覗き込んでくる。

「別に」

 短く答えて瞳を閉じた。記憶を封じた理由がそうだったとしても、転移の魔術を彼女が使えることの理由にはならない。

「とにかく、彼女の身の上を調べさせてもらう必要があるだろう。……内密にな」

「……疑ってんのか」

「それが俺の……するべきことだ」

 力んでしまったことが、友人でもあるランティスには恐らく伝わってしまっただろう。舌打ちしたい気分になったが、ランティスは気付かないふりをしてくれた。

「よくわかんねえが、なんか上手くいきそうだよな、この飛行機」

 四気筒エンジンに視線を落としながら、ランティスは軽い調子で言う。

「ラドクリフがほとんど仕事をしていないことは知っていたが、これほど進んでいたとは意外だった。あと二月も遅れていたら、彼は空を飛んでいたかもしれないな」

 その気遣いに感謝しながら、ジュリアンも会話を合わせる。

「そんなことやっちまったら追放だってのにな……」

 ランティスはため息をつき、製図机の上に登って天井からつり下げられたプロペラを取り外した。

「ランティス、今気づいたんだが」

 あらかた片づけ終わった部屋の中を見回しながら、ジュリアンは埃に汚れた手をはたく。

「フィラ・ラピズラリが自分で記憶を封じたと考えた場合、一つ問題がある」

「あ?」

 天井から外し終えたプロペラやら模型飛行機やらを製図机の上に並べていたランティスは、手を止めてこちらへと視線を上げた。

「無意識に魔術を使う可能性があるのはある一定以上の魔力を持った者だけだが、彼女の魔力は強くない。というか、無い」

 たぶん驚くだろうな、と思いながら爆弾を投下する。ランティスは期待に違わずあんぐりと口を開け、目を見開いた。

「……は? マジかよ? だって、転移するんだろ?」

 声までひっくり返っている。

「それでも、魔力はない」

 両腕を組みながら、ジュリアンは重々しく答える。さっき彼女の魔力を走査したから、確信はあった。だからこそあんな条件を突きつけたのだ。

「……変じゃねえか?」

「あり得ないと言い換えても良いな」

「だよな……」

 考え込むランティスに、ジュリアンはどこか重たい気持ちで頷いた。

「調査は出来るだけ急がせよう」


 居間にいるフィラとカイの間には、何とも重苦しい沈黙が漂っていた。隣の部屋から聞こえていた物音がやんでしまって、沈黙はますます重さを増すばかりだ。カイは暖炉の前で右足に重心をかけて両腕を組んで立ち、難しい表情のままさっきから微動だにしない。バルトロも目を覚まさない。

「……あの」

 フィラが意を決して口を開いたところで、タイミング悪く隣の部屋に通じる扉が開けられた。

「団長、終わりましたか?」

 カイが明らかにほっとした様子で組んでいた腕をほどき、姿勢を正す。

「ああ。とりあえず、飛行機械に関連すると考えられるものはすべてリスト化した。今夜中には回収させてもらう」

 扉を開けて入ってきた金髪の青年は、儀礼用の白手袋をはめながら頷いた。

「それでは……」

 カイは困惑したような視線をフィラとバルトロに向ける。ジュリアンとその後ろから現れたランティスも感情の読み取れない視線をフィラに向けるので、フィラは落ち着かない気分で身じろぎした。

「ともかく、口止めだけして今日は帰ってもらった方が良いだろうな。着任早々騒ぎを起こしたくもない」

 ジュリアンがやや投げやりな口調で決定を下し、カイに向き直る。

「カイ、送っていってくれ。もうだいぶ暗い」

「はい」

 すぐさま頷いたカイの視線に、一瞬不満げな光が過ぎったのに気づいてしまって、フィラは思わず一歩踏み出した。

「結構です。私、一人で帰れます」

 ジュリアンが視線だけをこちらに向ける。その視線に促されるように、フィラは必死で別の理由をひねり出した。

「それに……それに、バルトロさんの所へ行った私をカイさんが送るって変じゃないですか」

「それもそうだな」

 あっさりと納得したジュリアンは、たぶんフィラと同じくカイのわずかなためらいに気づいていたのだろう。

「だ、だから、良いです。それより、バルトロさんをお城へ連れて行くって……」

 さっきまで敵対していたはずのジュリアンと微妙に結託している状態が居心地悪くて、フィラはさっきの話を蒸し返した。

「城で話をする必要がある。その後のことは彼自身が決めるだろう」

 ジュリアンは言いながらバルトロに歩み寄り、その額に手をかざした。続いて唱えられた呪文に、バルトロがふっと瞳を開く。ジュリアンが数歩身を引くと、バルトロも操り人形のようにふらりと立ち上がった。足取りの定かでないバルトロを、いつの間にか近くに来ていたランティスが脇から支える。

 そのまま三人がバルトロを連れて引き上げ始めたので、フィラも続いて裏口から外へ出た。裏口へ続く散らかっていたはずの工房はすっかり片付けられていて、足音の響き方まで虚ろになってしまったみたいだった。

「あの……!」

 裏口を出てすぐの石段を登ったところで、フィラは思い切って声を上げる。先を行く四人が立ち止まり、ジュリアンが一瞬間をおいてから振り返る。

「フィラ・ラピズラリ」

「は、はい」

 改めてフルネームで呼ばれ、フィラは手放すタイミングを逸したままのノートを両手で抱きしめながら背筋を伸ばした。

「お前が案じる必要はない。結論がどうであれ、バルトロ・グレンデスには三日後には一度ここへ戻ってもらうが、その後のことは彼自身が決めたことに私たちも従う。それと、重ねて言うが今日のことは他言無用だ。他人を巻き込みたくないならな。――行くぞ」

 ジュリアンに促されて、カイとランティスが夢遊病者のような足取りのバルトロを連れて歩き始める。

 フィラは思わず一歩踏み出し、呼びかけようと口を開いていた。

『領主様』なんて絶対呼びたくない。でも、名前で呼ぶなんて挑戦的なことは絶対に無理だ。

「……だ、団長!」

 思い立って呼んでみた呼び名は、さっきカイが使っていたものだった。

「何だ」

 まだ何かあるのかとうんざりした様子で振り向くジュリアンに、フィラはできるだけきっぱりと宣言する。

「私、あなたのこと信用なんてしませんから! いくら、カイさんの言うことでも……!」

「別に、俺を信用する必要はないさ」

 再びこちらに背を向けながら、ふとジュリアンの横顔に陰が差す。苦しげに眉根を寄せた表情は、怒っているふうではなく、なぜか寂しげなものに見えた。錯覚だろうかと思う間もなく、ジュリアンは台詞の続きを口にする。

「お前は余計なことさえ口にしなければそれで良い」

 風に乗って届いたつぶやきは、ひどく冷淡な声音だった。


 三日後、戻ってきた左官屋は、飛びたいという願いも、新しい領主と何を話していたのかも覚えていなかった。

 工房の飛行機や図面もあの後すべて撤去されていたから、バルトロが注いだ夢の痕跡はどこにも残っていない。

 ただ一つ、フィラがあのまま持ち帰ったノートを除いては。

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