File-1 邂逅

 いったい何をどうしてこんな事態になってしまったのだろう。

 目の前の青年から視線を外せないまま、フィラ・ラピズラリは混乱していた。

 逃げ出さなければ、殺されてしまうのかもしれない。でも、逃げ出せるはずがない。様々な工具と木製の骨組みだけの飛行機やその部品で埋まった薄暗い半地下室は、広いけれど動ける範囲はひどく狭い。ましてや、目の前の青年にうまく壁際へ追いつめられてしまったこの状況では。

 どうしようもない状態の中で、魅入られたように青年から目をそらすことができない。

 こんな時に場違いだけれど、とても綺麗な人だ。いつもこの部屋に灯っているランプの明かりではない、不自然なほど白く明るい光に照らされた、淡い色の金髪。逆光のせいで色がよくわからない、何の感情も表さない凪いだ瞳。陶器のようにきめの細かい肌。小柄なフィラより頭一つ分高いくらいの背丈は決して大きくはないけれど、均整が取れていてどこかつくりものじみた印象を与える。

「私も……消すって……?」

 かすれた声で、フィラは訊ねた。こちらを見下ろす青年の顔には、どんな表情も浮かんではいない。これだけ綺麗なら、笑っていれば物語の中の王子様みたいに見えるかもしれないけれど、この状況ではただ冷たい印象を増すだけだ。立っているだけで精一杯なくらい、怖い。膝に力が入りきらなくて、地面がふわふわしているような心許ない感じがする。

 そんなフィラを見つめたまま、青年は無言で右手を上げた。

 胃が冷たく縮み上がって、フィラはまた一歩後ずさる。背中が取り外されて壁際に立てかけられていた飛行機の翼に当たり、固定されていない翼がぐらりと揺れた。

 どうしてこんな事になってしまったんだろう。――どうして。

 混乱した思考を必死に回転させて、フィラは答えを探し出そうとした。


 ――忘れ物を、届けに来たのだ。

 評判の悪い前領主が数日前に退去して、今日は新しい領主が来ることになっていた。

 フィラが住み込みで手伝いをしながらピアノ弾きをしている小さな酒場でも、皆がそのことを噂しあっていた。特にその時は、前領主と次の領主とのつなぎ役でもある聖騎士のカイが来ていたので、皆カイからどうにかして情報を引き出そうと盛り上がっていた。

 カイはその細身と実際より若く見える顔立ちに反して、とても冷静で礼儀正しく、前の領主の素行を徹底的に調べ上げて中央へ報告する厳しさも持った人物だった。ユリンへ来て数週間も経たないうちに町の人々からの信頼を勝ち得たカイはもちろん人気があったし、頼りにもされていた。そのカイが次の領主の情報を持って酒場へやって来たと聞いては、皆放っておけるはずがない。普段ならまだ働いているはずの者まで集まってきて、カイの座ったテーブルを囲んで質問攻めにしているのを、フィラも輪の外で立ち働きながら聞いていた。カイの短い黒髪が、人垣の間から見え隠れしている。

「今度の領主様って、どんな方なんですか?」

 花屋の娘のソニアが、浮かれた調子で訊ねた。以前城に花を搬入しに行った父親が、理不尽な理由で足蹴にされたことがあるとかで前領主が大嫌いだった彼女は、その代わり前領主の素行を調査しに来たカイには、多大なる敬意と好意を寄せていた。

「立派な方ですよ。私は尊敬しています」

 カイはいつもの、もうちょっと肩の力を抜いても良いのにと思えてしまうほど真面目な調子で答える。

「あの、お若い方なんですよね?」

 ソニアが身を乗り出して、遠くからでも目を引く彼女の黄金の巻き毛が揺れた。

「ええ。ですが、経験不足を補って余りある実力をお持ちだと私は考えています。臣下の意見にも、いつも真摯に耳を傾けて下さいますし……」

 カイはその勢いに少し身を引きながらも、やはり生真面目な調子で答えている。

「違う違う、騎士様。こいつが聞きたいのは、今度の領主様が容姿に優れた方か、すばらしい武芸を見せて下さる方かどうかってことで」

 夕方になると町外れからわざわざやってくる猟師見習いのレックスが、笑みを含んだ声でカイの言葉を遮った。どっと笑い出した人々の向こうで、ソニアが何か抗議の声を上げたが、カウンターの側に立っているフィラまでは言葉が届かない。

「そうですね……」

 人々が笑いを収めたところで、カイは静かに答え始めた。

「容姿は大変整っていると思います。それが評判になるくらいですから。剣の腕も一流ですし……特に魔術は、私など及びもつかない実力をお持ちです」

「まあ……」

 ソニアが嬉しそうにため息をつき、またからかうような微笑があちらこちらから立ちのぼる。

「それで、お人柄はどうなんだい? あたしはそっちの方が気になるね。立派にこの街を治めてくれそうな方なのか」

 フィラの親代わりでもある酒場の女将のエディスが料理を片手に人混みをすり抜けながら訊ねると、周囲から同意の声が上がった。

「それはもちろんです! 責任感が強く、自分の任務に忠実な、立派な方です」

 滅多に調子を変えることのないカイの声が、急に強くなる。本気でそう思っているのがそれだけで伝わってくるようだった。

「カイ様がそう言うなら間違いないわよね!」

 強くなったカイの声に、弾むような調子のソニアの高い声が応える。

「違いない。これは楽しみだ!」

 酒場の向かいにある楽器屋の主人が陽気にそう言って、ジョッキの麦酒エールを飲み干した。

「無茶な呑み方してると、ぽっくり逝っちまうよ」

 女将は手に持ったトレイで楽器屋を軽くはたく真似をして、それからふと何かに気づいたらしく身をかがめる。もう一度立ち上がったとき、エディスは一冊のノートを手にしていた。彼女はそれをトレイの下に重ねて持つと、周り中の空になった皿を回収しながらフィラの方へ歩いてくる。

「フィラ、悪いけど、これバルトロに届けてくれるかい?」

 エディスはフィラの前で、トレイの下から鍵付きのノートを差し出して言った。年季の入った革表紙のノートには、フィラも見覚えがある。この『踊る小豚亭』の常連でもある、教会の裏手に住む左官屋のバルトロが愛用しているノートだ。

「はい……今からですか?」

「もうすぐ暗くなるからね」

 本当はカイの話をもっと聞いていたかったのだけれど、あまり遅くなっても良くないだろう。

 フィラは苦笑を浮かべながら手を伸ばして、エディスが差し出したノートを受け取った。革の表紙を見ただけで、バルトロがいつも大切に手入れして持ち歩いているノートだとわかる。

 バルトロはいつもこの酒場に夕食を食べに来ては、閉店までノートを開いて何か書き込んでいるのが常だった。今日は急な用事が入ったとかで、カイが来てすぐに店を出て行ってしまったけれど。

 ――ということは、今家にいるのだろうか?

 店の奥に入り、扉の脇に掛かっていた外套を羽織りながらフィラは首をかしげる。

 もしも留守だったら、ちゃんと郵便受けに入れてこよう。

 留守かもしれないことを言い訳に、エディスの頼みを後回しにしたがっている自分を戒めるように、フィラは思い切って裏口の扉を開いた。裏庭から吹き込んできた風の冷たさに一瞬身をすくめてから、ノートを抱え直し、外へ出て扉を閉める。標高の高いこの町では、夏が近づいた今になっても夕方の風は少し冷たい。

 西の空は残照に赤く染まっているけれど、天頂にはもう夜が来ていた。

 ――カイさんが帰ってしまわない内に、早く行って戻って話の続きを聞こう。

 フィラはそう思うと、裏庭の木戸を静かに閉めて、石畳の上を早足で歩き始めた。


 そうだ。確かに、一刻も早くバルトロの家にたどり着きたいと思ってはいた。

 記憶にある道筋を、思考は足よりも早く辿っていく。

 裏通りのすり減った石畳の上を大通りと平行に進んで、石段を一つ降りる。石橋のアーチをくぐって急な坂道を登り、いつも野良猫が数匹たむろしている狭い路地を抜け、いつも開けっ放しになっている教会裏のアーチをくぐる。教会の裏庭の隅にある石段を降りれば、バルトロの家の地下室へ続く裏口はすぐ目の前だ。

 扉の向こうの地下室は、バルトロの個人的な工房になっている。工具の類が一見雑多に、その実しっかり分類整理されて並べられた、天井の高い部屋。石の壁はむき出しで、飛行機の製図や想像図や、空を写した写真や試作品の翼がそちらこちらに貼り付けられている。

 天井からは様々な形のプロペラや小型の模型飛行機が吊り下がり、部屋の中央にはバルトロ自作の四気筒エンジンが、まるで祭壇のように鎮座している。

 酒場が空いている時間に直接裏口から遊びに行くと、バルトロはほとんどいつでもその工房にいて、刻まれたしわをより深くする独特の笑顔と共にフィラを迎えてくれる。そして彼は言うのだ。

 ――よく来たね、フィラ。私が飛行機を作っていることは誰にも言っていないね? よしよし、良い子だ。

 そこまで考えたところで、フィラは足と思考を止めた。

 とっくに引き離されていたはずの思考に、体が追いついていた。まだ半分残っていたはずの道程を、一気に飛び越えて。

「うわ」

 さっきまで頭の中で思い描いていた通りの、バルトロの工房が目の前に広がっている。

「……また、やっちゃった……?」

 想像の中と違うのは、フィラの声に答えるバルトロがここにはいないことと、天井に吊されたランプの柔らかな光が灯っていないことだ。しかし、留守ではないらしい。工房から居間へと続く扉から細く漏れる光に、フィラはほっと息を吐いた。

 自由に出入りして良いと言われてはいるけれど、バルトロは仕事中に声をかけられるのが嫌いだからと、足音を忍ばせて扉へ近づく。すると扉の向こうから、低い男性の声が聞こえてきた。バルトロの年月にかすれた声とは違う、若いけれど、深みのある声だ。

 声は、ため息混じりにこう言った。

「条件を受け入れられないなら、消すしかないですね。申し訳ありませんが」

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