真昼の月の物語

深海いわし

第一部 晴雨の章

第一話 飛べなかった飛行機の話

File-0 Cry For The Moon

 果てしない草原を割り開くように通されたひとすじの道を走ってきたブルーグレーの高級車は、街を一望できる小高い丘の上で動きを止めた。

 たった一人で車を運転してきた青年は、首の後ろで一つにまとめた癖のない金髪と純白のロングコートを翻して優雅に大地に降り立つ。袖と裾に深い青のラインが入り、胸元にスカイブルーの十字をあしらったデザインのロングコートは、光神リラに仕える聖騎士の証だ。光を表す白、空を表す青、誓いを表す十字。それは彼が物心ついた頃からずっと背負ってきたものでもあった。

 青年はコートの内ポケットから紙巻き煙草を取り出し、ジッポライターで火をつけてから煙を吸い込んで空を見上げる。

 一人で行く、と言った青年を、長年世話をしてきてくれた部下は止めようとした。もう子どもでもないのに、一人にしたら危ないとでも思われているのだろうか。思い当たる節はなくもなかったが、どうしても一人でこの空が見たくて、我が儘を通した。

 抜けるように青い、よく晴れた空だ。六月の柔らかな日差しが草原の緑と、はるか眼下に見えるユリンの街並みを色鮮やかに照らし出している。真っ白な壁に木組みを覗かせた、色とりどりの瓦を乗せた小さな家々。城下を見下ろすロマネスク様式の領主の城。遙か遠くに見える『大地の果て』と呼ばれる文字通り大地を切り落としたようなどこまでも続く崖。

 緩やかに吹き付ける風が草原を海鳴りのようにざわめかせ、その間断のない響きの中に時折遠くで鳥の鳴く声や虫の羽音が混ざる。

 泣きたくなる程に平穏で美しい世界だ。

 美しく平和な、守るべき世界。そこにこれから自分がもたらすもののことを思うと、喉の奥がざらつくような苦みを覚える。――いや、きっと慣れない煙草を吸っているせいだ。今さら何かを想う資格など、自分にはない。

 とりとめもなくそんなことを考えながらぼんやりと青空に視線を巡らせていた青年は、ふとある一点に目をとめる。青空を映したような碧眼が見つめるのは、中空に浮かぶ真昼の月だ。澄み渡る青空に白く浮かび上がる、これから満ちていく半分の月。

 青年はどこか痛みをこらえるように目を細め、それから緩慢な動きで煙草を持っていない方の右手を月に伸ばした。自らの視界から月を隠すように伸ばした手を、そのまま月をつかみ取ろうとするように握り、それからまたゆっくりと下ろすと、もうそこに月の姿はない。

 月のない青空から、何かを掴んでいるわけもない右手へと視線を落として、青年は静かに笑みを浮かべた。自らの心の虚を、切り刻むような笑みを。

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