File-3 黒い爪の魔女

 止まっていた時間が動き出したのは、礼拝堂の扉が閉まった後だった。フィラは糸が切れたように力なくその場に座り込む。

 ひどく混乱していた。そして同じくらいひどく、怯えていた。

「……どう……しよう……ど……したら……」

 抑えられない動揺に視界が歪む。

 もうおしまいだと思う。今度こそ最後だ。年貢の納め時だ。もうごまかせない。ごまかしようがない。

 だってわかってしまった。パーティの夜にジュリアンの手を振り払えなかったのも、微笑の陰に滅多に見えない彼自身の感情を垣間見て胸が締め付けられるような感覚に襲われるのも、血塗れのその手を握ってしまったのも、全てたった一つの感情の故だった。

 その感情につける名前を知ってしまったからには、もう後戻りなんて出来るはずがない。

 ――こんな所に居合わせてはいけなかったんだ。

 力なく膝に落ちていた指先に力が入る。スカートに深く寄った皺の間に、はたりと雫が落ちた。

 ――そんな資格もないくせに、何の覚悟も持ち合わせてはいないくせに、人の弱みを覗いてしまうから罰が当たったんだ。

 怖い。怖くてたまらない。

 震えながら、フィラはただその場にうずくまって思う。

 ――これから自分は、どうなってしまうのだろう。何も知らず、何も思い出せず、何一つ与えるものを持たず、与えられた平穏を受け入れる余裕すらないのに。

 それなのに。

 ――かわいそうに――

 ふいに耳元で声が聞こえた。遠くで唸る風のようにかすれた低い女の声。全身をぞわりとした悪寒が走り抜ける。

「お前は、選んではいけない道を選んでしまったのですね」

 今度の声はすぐ前から聞こえた。弾かれたように顔を上げると、目の前に闇のように黒く霞む衣装を纏った女性が立っていた。

「だ……れ……?」

 恐怖に身をすくませながら、フィラはそれでもなんとか声を絞り出す。

「私の名は、『風』」

 立ち上がって逃げ出そうにも足に力が入らず動けないフィラを、彼女は愛おしそうに、しかし深い憎悪を込めて見下ろす。

「そう、私は風。憎悪という名の母から生まれ、絶望のゆりかごで育った、もはや大空を自由に吹き渡ることもない……風」

 女性は低く囁きかけながら、気怠い仕草で右手を持ち上げた。黒く染め抜かれたかぎ爪が、なまめかしさすら感じさせる動作でフィラの顎に伸びる。頭の中では割れんばかりに警鐘が打ち鳴らされているのに、恐怖に身がすくんで身動きがとれない。

「愚かな娘。お前はこの運命とは、何の関係も持ってはいなかったというのに」

 かがみ込みながら告げられた言葉に滲む感情が侮蔑なのか哀れみなのか、フィラにはわからない。

「何の運命も背負わずに生まれてきたのに、お前はなぜ選んでしまったのですか?」

「どういう……意味……?」

 フィラの必死の問いに女性は答えず、冷たく柔らかな指先が頬に触れる。夢のように頼りない感覚。かぎ爪のナイフのような感触はそれとは裏腹に焼け付くような痛みを与え、底無しの暗さをたたえた瞳が射貫くようにフィラの瞳をのぞき込む。

 柔らかな唇が何か秘密を囁きかけようとするように――あるいは口づけを求めるように、そっと開かれる。

 ――フィラ――

 その声が彼女のものなのか、それとも別の誰かのものだったのか、フィラにはわからなかった。判別をつける暇もないほど唐突に、視界が白く弾けた。


 視覚よりも先に聴覚が戻って、耳障りな音に頭が痛んだ。激しいノイズが混ざっているみたいだ。まるで、嵐の夜のテレビのように。

 ――テレビ?

 ――テレビって、何?

 ――わからない。わからない。何もわからない。上も、下も、右も左も、白も黒も青も赤も何も。

 ノイズの向こう側では、誰かが何かを訴えている。必死になって、大声を張り上げて。何も聞き取れはしないのに、それを彼女も知っているはずなのに。

 大量の虫の羽音のようにノイズだけが増幅し、音量を増す。巨大な響きはうねりながらフィラの聴覚を翻弄し、意味のある言葉を聞き取ろうとする努力を嘲笑う。大きすぎる音のうねりに平衡感覚を失って倒れ込んだ先には、見慣れた屋根裏の寝藁がある。少し湿っているけれど、よく馴染んだ安心できる匂い。

 また瞬間移動したのだと、それだけ何とか判断を下して、フィラは寝藁にもぐり込む。

 ここならばあの黒い爪の魔女も追っては来られないだろう。

 そう思っても恐怖は消えない。

 ――だって、怖いのは魔女じゃない。

 怖いのは自分自身だ。自分自身の中の感情。どうしようもなくジュリアンに惹かれていく、制御できない感情の奔流。

 かわいそうに、と、魔女は言った。

 ――そうだ。魔女の言うことは正しい。これはきっと、選んではいけない道だったんだ。

 ふつっと、ノイズが途切れた。糸を断ち切られたマリオネットのように、フィラは夢すらもないほどの深い深い眠りに落ちていった。


 目が覚めたのは夜になってからだった。寝藁から身を起こし、窓の外の暗さを確認しながら、夢だったのだろうかと考える。部屋の様子はいつもと全く変わらず現実感と生活感に満ちあふれているし、城へ持っていったはずのトートバッグも扉の前に投げ出されている。散歩にでも出かけたのか、ティナの姿は見あたらない。まるでいつも通りの、見慣れた屋根裏部屋の光景。けれど今は、この風景こそが夢のように感じられる。ジュリアンに抱き寄せられた感覚も頬に触れた女性の冷たい指先の感触も嫌になるほど鮮明で、そのくせ寝起きの体はだるくて自分のものではないみたいだ。

 ぼんやりと痛む頭を押さえながら階下に降りると、エディスがいつ戻ってきたのかと驚いて歩み寄ってきた。

「帰りが遅いから心配してたんだよ。戻ってたなら良かったけど、一言くらい……」

 エディスは言葉の途中で不意に表情を引き締め、フィラの頬に手を伸ばす。

「その傷、どうしたんだい?」

「え……?」

 慌てて頬に手をやると、かすかに引き攣れたような傷が出来ていた。

「あ……えっと、たぶん、寝てるときに自分で引っ掻いちゃったのかも……」

 とっさに嘘をついてしまう。本当は礼拝堂で黒衣の女性の爪につけられた傷だとわかっているのに。

「消毒しておいた方が良いね。それに……熱もあるんじゃないかい?」

 エディスは言いながらフィラの額に手を当て、やっぱりね、と小さく呟いた。

「今日は店の手伝いは良いから、上で休んでな。後で夕食を持っていくからね」

「……すみません」

 無理に手伝おうとしても、今日はきっと足手まといにしかなれない。フィラは気落ちしながらエディスに頭を下げた。

「体調が悪い時なんて誰にだってあるさ。無理は禁物。持ちつ持たれつ。そういうことで良いじゃないか。あたしが風邪引いたりしたときには頼むよ。ってことで、さ、休んだ休んだ」

 半分追い立てられるように屋根裏に戻されたフィラは、混乱と緊張が少し緩んできたのを感じながら、さっきまでよりは安らかな眠りの中に戻っていった。

 まどろみながら夢みたいだと思って、泣きたいような気持ちになる。今はまだ、この屋根裏部屋と踊る小豚亭の生活が自分の現実なのだと感じていたいのに、信じていた現実が段々遠くなっていくのを感じる。けれど、ジュリアンに対する感情も黒い爪の女性が向けてくる憎悪も、強すぎて今はまだ受け入れられそうにない。

 時間が欲しかった。許されるならば、受け入れられる心の準備が出来るまで。できるだけたくさんの、時間が。

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