File-2 赤い手の竜

 礼拝堂の扉を後ろ手に閉め、そのまま扉に寄り掛かってずるずると座り込んだ。摩擦でめくれ上がった襟の端が頬に当たって不快だったが、払い除ける元気も出ない。俯いて、呆然と自分のつま先を見つめる。震える両手を持ち上げて、自分の肩を抱いた。

 歯の根が合わずに不快な音を立てる。歯を食いしばって唾を飲み込み、震える呼吸を無理矢理抑えつける。

 何も知らなかったのだと思う。

 赤黒く染まった団服。草と獣の臭いに混じった、鉄にしては生臭い独特の臭気。

 自分の世界に戻ると言っていた彼の、凄絶な姿。

 ユリン研究所跡地で竜と話した夜に思い出しかけた過去よりも、それはずっと生々しくて鮮烈な死の姿だった。そんな世界があることは知っていただろう。でもそれが現実にどんな姿をしているかなんて、きっと今も昔も知らなかった。

 怖いよりも、どうしてだろうか、胸が苦しくて泣きたくなる。俯いて胸を押さえ、痛む目を瞬かせた。

 どうしたら良いのかわからない。どうしたいのかもわからない。何も言えることなどあるはずがないのに、どんな顔で会えばいいのかもわからないのに、それでも戻って何か言わなければと思う。

 ――でも、何を……?

 言うべきことが何なのかわからない。自分は何を言いたいのだろう。何を彼に伝えたいと思っているのだろう。何かを自分の中から取り出さなければならないのに、覗きこんでも自分の中は空っぽで何も出てこない。

 何もわからない。

 膝を抱えて瞳を閉じた。自分の中に広がる空っぽの闇の中から、それでも何か伝えるべきものを探し出そうとするように。


「あれ? ……嬢ちゃん?」

 どれくらいそうしてうずくまっていただろう。ふいに聞こえてきた声に、フィラはゆっくりと顔を上げた。

「来てたのか? リサの奴どうしたんだ? ってか、ジュリアンには会ってないよな?」

 妙に慌てふためいた調子で駆け寄ってきたのはランティスだ。フィラの近くまで来て顔を覗きこんだランティスは、ぎょっとして身を引く。

「ど、どうした!? 腹でも痛いのか!?」

 おろおろと両手を動かすランティスに、フィラは黙って首を横に振った。泣き出しそうな顔をしている自覚はあったけれど、ジュリアンと同じ聖騎士団の一員であるランティスにこんな風に心配される資格は、何もかも忘れて気楽に生きている自分にはないような気がする。

「……団長なら、礼拝堂に。一人になりたいって、仰ってました」

 かすれた声で呟くと、ランティスの表情が厳しく引き締まった。

「そっか……じゃあ、会ったんだな」

「はい」

「そりゃなんつーか、ええと」

 ランティスは気まずそうに視線を逸らし、大きな手でがしがしと頭を掻き、それから扉の向こうに視線を据えて両腕を組んだ。膝を抱えたまま立ち上がれないフィラは、その足下をじっと見つめる。ランティスは黙ったまま動かない。

「……ど、どうだった?」

 長い沈黙の後で、ためらいがちに投げられた言葉に、フィラは数回瞬きをした。少し考え込んでから、ジュリアンのことを訊かれているのだと気付く。しかし気付いても何と答えればいいかはわからなくて、フィラは少し身じろぎしただけで何も言えなかった。

「そうだよな、答えられないよな」

 ランティスはそう呟くと、盛大なため息をつく。

「……入りにくいな。無理矢理にでも引きずり出して怪我の治療受けさせるってのが、今の俺の任務なんだけどよ」

 俯いたまま、膝を抱く腕に力を込めた。

 脳裏に過ぎるのは、怪我はないということにしておいてくれと言ったジュリアンの頑なな横顔だ。誰にも触れられたくないと言わんばかりの、張り詰めた雰囲気。本人があの調子では、確かにランティスも呼んで来づらいだろう。

「私が呼んで来ましょうか?」

 顔を上げて言うと、ランティスは視線だけで何故、と問いかけてきた。安堵しているようで不安そうにも見える、複雑な表情でこちらを見下ろしている。

「私、しょっちゅう余計なこと言ってしまっているから。そういうこと気にしても、今さら、かなって」

 無理矢理微笑みながら言った言葉は、ランティスよりもむしろ自分自身に向けたものだ。

「嬢ちゃんは強いな」

「え?」

 苦笑混じりの台詞に顔を上げると、ランティスは軽く肩をすくめて首を横に振った。

「会ったんだろ?」

「え、ええ」

「酷い格好だっただろ」

 フィラはためらいがちに頷く。

「今日のことは、見たり聞いたりしなかったことにしてくれるか?」

「何が……起こったんですか?」

「言えない」

 答えてもらえるのではないかという淡い期待は、一瞬で粉砕された。

「そう……ですよね。すみません」

「いや、謝らんでくれ。どっちかってと、俺は言ってしまいたい」

 苦しそうなランティスの声を聞きながら、ゆっくりと立ち上がる。こわばった両膝が、少しだけ痛かった。

「行ってきます」

 真正面のランティスに微笑みながら後ろ手に扉を開き、そのまま礼拝堂の中に滑り込む。冷たく澄んだ水のような空気に全身を包まれて、フィラは大きく息を吸い込んだ。

 信者席の中央を貫いて、主祭壇まで真っ直ぐに通路が延びている。その通路が終わる場所――いつかフィアが聖騎士の誓いを立てたその場所に、ジュリアンは佇んでいた。主祭壇にもステンドグラスから差し込む光にも背を向けて、ぼんやりと己の掌を見つめている。赤黒く染まった、血塗れの手袋を。茫洋とした瞳には、それでも激しい憎悪の光が垣間見える。

 痛いような焦燥に背中を押されて、フィラはジュリアンに駆け寄った。その気配に気付かないのか、ジュリアンは掌を見つめたまま微動だにしない。背筋が寒くなるほど静かで激しい侮蔑と嫌悪に満ちた視線は、きっと彼の敵として立ち塞がる者にすら向けられない類のものだ。その苛烈な感情を、ジュリアンは今、彼自身に向けている。

 言葉を探している余裕はなかった。空っぽだと思っていた胸の内からあふれ出たのは、言葉にならない感情の奔流だった。衝動のままに、フィラは両手を伸ばす。

 ただ、その視線を遮るためだけに。


 司令官の義務として死者の冥福を祈り終え、礼拝堂を出ようと主祭壇に背を向けた。一歩踏み出しかけたところで、ふと右手に鈍い痛みを覚える。のろのろとした動作で持ち上げて、掌を眺めた。赤く染まった手袋の下で、鈍い痛みがゆっくりと広がっていく。己の身体が己でなくなっていくような感覚。

 竜化症が進んでいる。

 止めなければならないと頭では理解しているのに、ジュリアンはただぼんやりと掌を見下ろしたまま動けなかった。

 このまま竜化症が進めば、最終的には何の痕跡も残さずにこの世から消えてしまえるのだと、ジュリアンは知っている。自分の意志も魔力も記憶も、すべて世界律に溶けて消える。

 到底現実的ではないとわかっているのに、今すぐこの感覚が全身に広がってしまえばと思わずにいられない。

 そして、そんなことを思ってしまう自分自身を許せないとも思う。

 諦めるなど、逃げ出すなど許されるはずがない。何度も繰り返した必ずやり遂げるという言葉。カイやリサと、フェイルやランティスと、もう名前も思い出せない誰かと交わした約束。天魔に包囲されたキャンプで、明日のことなど誰にも約束できないような状況で、怯える兵士たちに語って聞かせた希望。たった一人の妹に誓った未来。

 このまま諦めれば、そのすべてが嘘になってしまう。まだスタート地点にすら立てていない自分を、それでも信じてついてきた皆を裏切ることになってしまう。

 生き続ける理由など、それだけで充分なはずだ。

 ――そうでなければならないのに。

 それなのに、竜化症の進行を止めることも、治療を受けるために礼拝堂を出て行くこともできない。

 礼拝堂の扉が静かに開いたときも、ジュリアンは右手を見下ろしたまま立ちすくんでいた。駆け寄ってくるフィラの気配にも、反応する気力が湧いてこない。

 気がついた時には、フィラの両手がジュリアンの右手を包み込んでいた。赤黒く染まった手袋が、白い手に覆い隠されて視界から消える。

 なぜ彼女が自分の手を握っているのか、全く理解できなかった。ゆっくりと顔を上げ、呆然とフィラの瞳を見下ろす。褐色の深い色の瞳が、どこか切羽詰まった気配を湛えながらじっとこちらを見上げている。フィラの唇が何か言いたげに開いて、ためらうようにまた閉ざされた。握りしめられた右手から、微かな震えが伝わってくる。

 思わず目を細める。離れていきそうになったフィラの手を、静かに握り返して引き寄せた。褐色の柔らかな髪がゆっくりと左肩に流れ込んで、乾いた干し草の匂いとリンゴを思わせる甘い香りが微かに広がった。その肩に額を押しつけて瞳を閉じる。フィラは硬直したように動かない。日だまりのような心地良い日常の匂いに、乾いてこびりついた戦場の空気が溶けて消えていくような錯覚を覚えた。

 ユリンの澄み渡った青い空。明るく穏やかな日差し。咲き乱れる花の香り。虫の羽音、鳥の鳴き声。花屋の軒先、酒場の喧噪。温かなミルクとランプの明かり。外の世界を思い出すこともなく、穏やかに日常を紡いでいく人々。

 そこには求めるすべてのものがある。その空気を、フィラは纏っている。


 気がつけば、ステンドグラスから差し込む光は低く傾き、ほのかなオレンジ色に染まっていた。フィラは抱き寄せたときと同じ姿勢で、僅かに体を硬くして立ち尽くしたままだ。

 ジュリアンは低く謝罪の言葉を口にしながら彼女を腕の中から解放した。ジュリアンが一歩下がる動作に合わせて、フィラもためらいがちにジュリアンの右手を放し、ほっと息をつく。

「ランティス、困っていただろう」

「はい。治療……受けさせなくちゃって」

 フィラも控えめに一歩下がり、俯いたまま頷いた。

「それじゃ、フィアも困っているな」

 ため息をつきながら、ふと鉄錆の臭気を感じて、ジュリアンは眉根を寄せる。

「すまない。血の臭い、移ってしまったな」

「い、いえ。そんなこと……気にしないでください」

 床の上に視線を泳がせて、フィラは弱々しく頭を振った。

「……本当に、すまない。今日のことは忘れてくれ」

 低く呟いて踵を返す。ひどく長く感じられる距離を歩いてから、扉に手をかける直前にちらりと振り向いた。長く伸びた影を視線で辿ってフィラの姿に辿り着く。

 真っ直ぐジュリアンを見つめているフィラの表情は、ステンドグラスが投げかける逆光の中に沈んで見えなかった。

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