File-4 フィアのクローゼット

 翌朝には熱はもう下がっていたが、早朝のピアノ練習はどうしても行く気になれずに休んでしまった。午後はせめて表面だけでもいつも通りに過ごしたくて、バッグに楽譜を詰めて城へ向かう。エディスやエルマーにこれ以上心配をかけたくなかった。

 それでも裏木戸の前まで来たところで、フィラは歩みを止めてしまった。薄く曇った空の向こうから、太陽がむっとするような熱気を送ってくる。城壁が落とす影にそっと身を寄せ、門柱の脇の岩に腰掛けると、東に向かう道の途中に逃げ水が踊っているのが見えた。

 礼拝堂へ行くのが怖かった。きっとあそこの空気は昨日と何も変わらないまま、静謐な緊張感に満たされているだろう。あの空気の中で、いつものようにピアノの練習をするなんて、とても耐えられそうにない。

 フィラは長く深いため息をつくと、バッグから楽譜を取り出した。

 練習する予定だった箇所を開き目で音符を辿り始めるが、いつもなら頭の中で容易く旋律に変わっていくそれがただ意味のない模様の連続にしか見えない。

 普段の倍以上の時間をかけて三ページ目に突入したところで、フィラはまた大きなため息をついて空を見上げた。やっぱり今日は駄目だと思って目を閉じた瞬間、乾いた木と木が擦れ合う微かな物音が耳に飛び込んでくる。反射的に楽譜を閉じて振り向くと、妙に緊張した面持ちのフィアと視線が合った。

「今日は……こちらにいらしたんですね」

 どこかぎこちなさを感じさせる低い声で、フィアが呟く。

「う、うん。フィアは……もしかして、私を探してた?」

「はい」

 フィアは生真面目に頷くと、素早く周囲の様子を窺いながらフィラの側まで歩み寄った。

「どうかした?」

 首を傾げるフィラに、フィアは一瞬ためらいがちに目を伏せ、しかしすぐに瞳を上げて真っ直ぐフィラを見つめた。

「あなたに、泊まりに来ていただきたいのです。今夜、私の部屋に」

 たった今悲壮な決意を固めた、というような表情でフィアは言う。

「え、良いの?」

「駄目です」

「は、はい?」

 フィアの真意がさっぱりわからない。もしかして冗談を言っているのだろうかと、フィラは目を瞬かせる。

「外部の方をお招きすることは軍規で禁じられています。しかし……そうしていただく必要があるのです。見つかれば懲罰は免れませんが、それでもお願いしたいのです。泊まりに来て……いただけますか?」

 恐ろしいほど真剣なフィアの様子に、フィラはどう返事をしたものかと迷った。これほど必死になって訴えてくるからには何かそれなりの理由があるのだろう。出来ることならば叶えてあげたいと思う。しかし、軍規を破らせるとわかっていて承諾するのもためらわれる。

「大丈夫ですよ」

 眉根を寄せるフィラに、フィアは安心させるように穏やかな笑顔を向けた。

「バレなければ、問題ありません」

「ば……バレなければって……」

「ええ、そうです。誰にも知られさえしなければ良い」

 鼻白むフィラに、フィアは改めて真剣な表情を向ける。

「お願いします、フィラ。私を助けると思って」

「え、でも、禁止されてるんだったら見つかったときマズイんじゃ……」

「それを押してでも、来ていただかなくては困るんです。もちろん見つからないように最大限配慮いたしますし、見つかった場合でも全ての責任は私が負います。あなたに被害が及ぶことはありません。それでもご迷惑だということは……わかっているのですが……」

 小さくため息をついたフィアは、いつもの落ち着き払った雰囲気とは違う、すがるような表情でフィラを見つめた。

「やはり……駄目、でしょうか」

 駄目、とはとても言い出せない雰囲気だった。


 結局、夕食も入浴も済ませた後で、裏木戸の前で必要最低限の着替えだけを持ってフィアを待つことになった。エディスとエルマーには正直に、聖騎士たちには内緒でフィアの部屋に泊まることになったと説明し、ティナにも同じ話をした。

「気をつけてよ、フィラ。いくら妹だからって、フィアのこと信用しすぎたら痛い目に遭うかもしれないんだから」

 踊る小豚亭を出ようとするフィラに、ティナはものすごく不本意そうな調子でそう言った。

「痛い目?」

「だってさ、たぶんフィアは、フィラよりも聖騎士の任務を優先する種類の人間だよ。それが軍規を破ってまで泊まりに来いって、絶対何か裏がある。しかも僕はついて来ちゃ駄目ってさ」

「裏はね、私も、あると思う」

 踊る小豚亭の勝手口の前で、フィラは微笑みながらティナの頭を撫でた。

「でも、あると思って良いよって言ったんだから大丈夫だよ」

「予想以上にヤバイ裏だったらどうするつもりなの」

「その時は……その時?」

 軽く笑って小首を傾げたフィラに、ティナはこれ見よがしに大きなため息をついた。

「全く。後で困ったって知らないよ。せいぜい気をつけて泊まってくるんだね」

「うん。ありがと」

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 最後にもう一度ティナの頭を撫でて、フィラは待ち合わせの場所へ向かった。


 裏木戸についたとき、フィアはすでに門柱の脇の岩に腰掛けていた。いつもと同じ聖騎士団の団服が、夕闇の中に白く浮かび上がっている。

「本当に……来てくださったんですね」

 フィアは意外そうに目を見開いてから立ち上がり、フィラを迎える。

「来ないと思ってた?」

「いえ……少し、不安だっただけです。来てくださってありがとうございます。とても、嬉しく思います」

 少し視線を逸らし、どこか苦しそうに微笑みながらフィアは呟く。

「では、部屋までご案内いたします。誰にも見られないように行かなくてはならないので少し道が悪いですが、ご容赦ください」

 フィアはフィラが頷くのを確認してから、用心深く裏門の木戸に手をかけた。さりげなく、しかし油断無く周囲の気配を窺いつつ、フィアはやや緊張した面持ちで歩き出す。二人は足音を忍ばせながら、荒れ果てた庭を通り抜け、礼拝堂へ続くアーチの前で折れて半分雑草に埋もれたような裏口から城内へ入った。金具の錆びた樽や腐りかけた薪や毛布をかぶせられた中身のわからない荷物などが壁沿いに積み上げられた狭い階段を上り、これまた狭く殺風景な廊下に出る。二人がすれ違うのにも肩が触れ合ってしまいそうなほど狭い廊下の左側には、さほど間を空けずに重そうな木の扉が並んでいた。明かりは右側の小さな明かり取りの窓から差し込んでくる夕日の光だけで、どうにか歩くのには支障ない程度の明るさだ。そんな暗がりに時折思い出したように古ぼけた木桶や箒が置いてあったりするものだから、フィラは転ばないようについていくだけで精一杯だった。

「こちらです」

 フィアは言いながら、廊下の一番奥、隣の棟に続く回廊の手前にある扉に手をかける。

「ここが私の部屋。ご招待するのは初めてですね」

 柔らかな印象の言葉と裏腹に、フィアの表情は硬く強張っていた。

「どうぞ」

 押し開けられた扉の向こうには、書斎風のこぢんまりとした部屋があった。正面には今入ってきた扉よりもしっかりとした作りのドアがある。こちらは勝手口で、あちらが本来の出入り口なのだろう。壁の片面は書棚で埋まり、もう一方の側面にはクローゼットが二つと簡素なベッド。部屋の中央には折りたたみ式の机と椅子があり、その前には小さな丸椅子が置かれていた。どうにも私室と言うより診察室に近い雰囲気だ。

「お、お邪魔します」

 フィアにつられて緊張しながら、フィラは恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れた。書棚に並んだ本がどれも難しそうだ。一見しただけで五カ国語以上は混じっているようだが、フィラにもわかる言語のタイトルを読んだだけで、ほとんどが医学書であることがわかる。

「お座りください、と言いたいところなんですが、すみません」

 フィアは扉を閉めながら中に入ると、丸椅子を取り上げて奥のクローゼットの前まで歩いていった。

「もうすぐ団長が来るんです。なので、隠れててくださいね」

「え?」

 フィラは思い切り引きつった顔と声で、フィアが言葉と共に開け放ったクローゼットを凝視した。

「これから、ここで行われる会話を聞いていて欲しいんです」

 見た目よりも広いクローゼットの中に下がっている埃よけのカーテンを引き開け、フィアはそこに丸椅子を置く。

「あなたならば物音を立てないように気をつけていれば大丈夫です」

「どういう意味……?」

「お気づきではありませんか? あなたの気配は読み取りにくいんです。魔力がないことはもちろんですが、物音もあまり立てない方でしょう。もちろん、プロの殺し屋などとは比ぶべくもありませんが……耳が良いから自分で立てる音にも敏感なのかもしれませんね」

「で、でも……って言うか、そういう問題じゃ」

「良いから、お願いします」

 ためらうフィラの腕を、フィアは強引に引っ張った。

「だけど盗み聞きは……ちょっと、フィア!」

「早く!」

 苛立ったような口調に思わず反論を忘れたフィラは、その瞬間にフィアの手が震えているのに気付いてしまう。

「そこに座っていてください」

 フィアは呆然とするフィラをクローゼットに押し込むと、さっさと扉を閉めてしまった。

「フィア!」

 内側から開けようとするが、軽そうな見た目に反して異常に頑丈なクローゼットの扉はぴくりとも動かない。

「……なんで? ティナが言ってた痛い目って……これ?」

 フィラは混乱しながら、くずおれるように丸椅子に腰掛けて頭を抱えた。さっぱりわけがわからなかった。

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