CHANCE

あやめ

第1話

ああ、天井が、高いな。

四肢を無造作に投げ出して、莉絵はぼんやりとそんなことを思った。視界に入るクリーム色の天井は、全てを知りながら黙って見つめているようで、落ち着かなく、莉絵は片腕で顔を覆った。

「なんでこんな目に合わなきゃいけないのよう……」

つぶやきだけが部屋に響く。身じろぐ。広いベッドは莉絵が両腕を広げてもなお余裕があり、手は虚しくシーツの上を滑っただけだった。無駄に広いこの部屋も今は苛立ちのたねでしかない。ささくれた心を自覚した途端、堰を切ったように理不尽な仕打ちに対する怒りががむくむくと湧き上がってきた。

「ああ、もう!」

勢いをつけてベッドから半身を起こす。丁寧に身につけたバスローブが乱れたが、そんなことはもはや気にならない。

大きなダブルベッド。整えられたシーツ。穏やかな明かり。赤坂の洒落たホテルの一室に、莉絵は一人取り残されていた。




「二人で、抜けませんか」

春の大型連休を翌日に控えた夜の、居酒屋で囁かれた一言が全ての発端だった。久々のまとまった休みに社内も街もどこか浮ついていて、夜風は暖かく穏やかだった。残業もそこそこに、莉絵は誘われるまま、友人の亜由美が仕切る飲み会に参加していた。

亜由美の勤める会社と莉絵の会社は同じ赤坂のオフィス街にあり、その中でも目と鼻の先ほどの近さだ。二社は企画を提供し発信する側と、それを制作する側とにそれぞれ仕事内容が異なっていて、ちょうどタッグを組むのに最適な関係だった。たびたび仕事を共にし、会社ぐるみの付き合いが盛んに行われていた。そうなると、自然と社員同士の付き合いも多くなる。そのため、期せずして、莉絵は高校時代から同じ学校の亜由美と、社会人になってからも毎日のようにどこかで顔を合わせる羽目になっていた。

今日も昼食を取ろうと出た先で亜由美とばったり会った。亜由美は莉絵を見つけた瞬間、ただでさえ丸い大きな目をさらに開いて駆け寄ってきた。その時点で、ああ……と思わず声を漏らし、反射的に目を瞑った。逃げ出したい衝動を堪える。亜由美は、何か頼みごとをするときの、または、彼女ならではの個性的な発想が発表されるときの、友人ならすぐに危険を察知する表情をしていた。ろくなことにならないと経験が危険信号を鳴らす。

「ねえ、莉絵、りーえ!」

目を開けると、旧友はこんなに近づかなくてもいいだろうというくらい目の前にいて、思わず半歩後ずさる。春を凝縮したかのような格好だった。綺麗に巻かれて肩で揺れる茶髪。ふんわりブラウス。淡い黄緑のフレアスカート。今日もパステルカラーを纏って、全身で女の子をしている。いつでも臨戦態勢な亜由美につくづく感心していると、走った後の彼女の周りにまだ残っている風が、デジャヴに近い違和感を運んできた。

「……また?」

「え?」

「また、新しい男?」

「え、ちょ、なんで?!」

「……匂い、変わったから。亜由美、わかりやすすぎ」

大げさにため息をつく。亜由美はよく纏う匂いを変える。いつからそうなのかはわからない。だが、莉絵が覚えているだけでも、その回数は両手の指では数え切れないほどだ。匂いの変わり目が男の切れ目。いつかそう揶揄したとき、亜由美は目尻を下げて首を傾げ困ったように笑った。今度もまた、毎回指摘するときと同じく新鮮に驚いている。本当に無意識なのかもしれない。

莉絵は普段香水をつけない。だから、香水をたびたび変えることが普通なのか、よくわからない。だが、亜由美のようにころころと変える人もいれば、ずっと同じ香水を使い続ける人もいて、亜由美の匂いが変わるたび記憶の中のその匂いが思い出されて、胸の奥が疼く。今も同じ香りをあのひとは纏っているのだろうか。数日前舞い込んだ約束を思い出す。明日。午後五時。品川で、あのひとと、会う。考え始めると、影がちらついて疼きが止まらなくなった。今すぐあの懐かしい香りをつけた人にたまらなく会いたいような、会うのがとてつもなく怖いような、二つの相反する気持ちがぐるぐると回る。そして、胸の内がそれらにびりびりと引き裂かれそうになる。

「これ?買い物に行ったときに勧められてさあ。試しに嗅いだらすごく惹かれたんだよね。もう、今の気持ちにぴったりだって思って。買っちゃった。でも残念ながら新しいのはまだ……」

「まだなんだ。でも、その様子じゃこの前話してたプロデューサーの彼とは別れたってことね」

「……彼のことはもういいの!なんか、思ってたのと違ったっていうか。こっちから願い下げ!それに、この匂いにしてからいいこと続きだし、もうすぐ次、いける気がするんだ。だから、ね!」

わざとらしいくらいの上目遣いで見上げられる。確かにこの、友人に向ける瞳でさえ輝きが普段の二割り増しだ。何が違って、違わないのか、莉絵にその感覚はわからないが、本能に忠実な彼女が今絶好調なのは見て取れた。あながち、いけるというのはただの気休めでもないのかもしれない。

「……だから、なによ」

「今日の夜、空いてるでしょう?ちょっと付き合ってほしいとこがあるんだ。久々に飲みに行こう」

「や、話繋がってないから。それに空いてるなんて言ってないし…明日予定入ってるし、早く帰ろうと思って」

慌てる。耳から落ちたままにしていた髪の毛が急に気になって、かけ直す。二日酔いになるのだけはごめんだ。いつも亜由美と飲みに行くと、酒豪の彼女に乗せられるまま、普段ならありえない酒量を摂取することになる。だから、そうなる確率が高いのだ。ただでさえ会う約束をしてから落ち着かない。明日はいつもよりもしっかりした自分でいたかった。

「だめ。どうしても来て欲しいの。残業長くしないでよ、莉絵の会社の前で待ってるから」

「ちょっと、なに勝手に」

「わかりやすいのは、莉絵のほうだよ。まさか、まだそんな……いや、なんでもない。まあ、とにかく、今夜はパーッといこ!じゃあ、あとで」

まくし立てるだけまくし立てて、こちらが答える隙も与えず、来たときと同じ素早さで亜由美は去っていった。ちらと見せた戸惑いの表情と煮え切らない言葉が気にかかったが、それよりも残り少ない昼休みの時間を優先したい気持ちが勝った。強引な亜由美から逃げ切れた試しなどない。どうせ飲みに行くことは決定事項なのだろう。それなら後で聞けばいい。

今日はそれでもいいかもしれない。定食を注文しながら、さっきと逆のことを思い、莉絵はひとりごちた。少しだけ飲んで、とりとめのない話をして、溜まった憂さを晴らす。それでこのぶり返した熱が少しでも冷ませるのなら、いい時間になるだろう。亜由美は話し出すと止まらなくなるが、内容は顔に似合わずぴりっと辛味が効いていて面白い。なんだかんだ言って莉絵はこの友人と話をするのが好きだった。ほのかなヴァニラの香りがまだ辺りに漂う。今回はちょっと、甘すぎるんじゃないの。春を背負ったような見かけにはともかく、あんたにはあまり似合ってないよ。そう皮肉をつぶやきながらも、莉絵は先ほどより確実に軽い足取りで席に向かった。



オフィス街の近くにある居酒屋の一角は喧騒と熱気に満ちていた。莉絵や亜由美を含めて、男女がそれぞれ十人近くはいるだろうか。響くグラスの音と、絶えないおしゃべり。莉絵は右向かいの奥の席で談笑の中心になっている亜由美を睨む。莉絵の視線に気づいているだろうに、こちらを一度も見ようとしない。亜由美は素知らぬ振りを決め込むつもりのようだ。

話が違うじゃないの。三十分前、そう詰め寄ったとき、亜由美は

「二人で飲むなんて言ってなかったでしょ?」

と悪びれもせずにけらけらと笑っていた。

「言ったじゃん。次、作るつもりだから。莉絵もさ、いつもそんなクールに構えてるから男が寄り付かないんだよ。今日はいっぱい飲んではっちゃけちゃいなよ。せっかくいろんなとこから選りすぐりの、呼んできたんだからさ」

余計なお世話だ。頭数合わせなら先に言って欲しい。何度目かわからないため息をつく。隣には先ほど紹介された男が座っている。同じオフィス街にある、大手の商社勤めだと言っていた。他にも紹介のときは様々な会社の様々な部署の人の名前が飛び交っていた。人間関係が広い方だとは思っていたが、亜由美の伝手と行動力に改めて驚いた。

さりげなく男の顔を覗く。紹介のあと、

「ね、なかなかの掘り出しものでしょ」

と耳元で囁かれた通り、確かに端正な顔立ちをしていた。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。涼やかな目元は、理知的にも、色香が漂っているようにも見えた。

男が視線に気づいてこちらを向いた。端の、中心から切り離された席で黙りこくっているわけにもいかない。友達として盛り上げなければ、セッティングした亜由美の顔に泥を塗ってしまう。いや、それよりも楽しみに来ただろう男に、気まずい思いをさせるのが申し訳なかった。名前、なんて言ったっけ、確か……。声をかけようとしたとき、かぶせるように男が口を開いた。

「須藤さん、でしたよね。あの、これお嫌いでしたか?新しいもの、注文しましょうか」

「あ、はい。いや、ちょっと考えごとをしていて……」

そう言いながら、男が手にしたボトルを受け取り、グラスに注いだ。少し飲んで、笑顔を貼り付ける。

「……大沢さんも、いかがですか?」

「いただきます。よかった。先ほどから硬い表情をされていたので、よほど俺の隣が嫌なのかと思いました」

大沢はほっと息をついて笑った。整いすぎて、険が強くも感じられる顔立ちが、笑うとふにゃっと崩れる。細められた目は猫のようだ。ちょっと、可愛いかも。なんだか微笑ましくなって、莉絵もつられて笑った。今度は自然に笑えた気がした。


午後九時。合コンのような飲み会が盛り上がり、誰がどこの会社の人で、どういう繋がりなのかもあやふやになるくらい酔いが回ってきた頃だった。

「二人で抜けませんか」

恋愛ドラマでよく使われるようなベタな台詞を囁いて、隣の男は微笑んだ。先ほどまでの物腰の柔らかさから一変して、艶美ささえ感じさせる笑顔だった。グラスを持った手が止まる。暗めの照明は彼の顔に陰影を落とし、不敵な表情を一層艶やかに見せていた。雰囲気に呑まれかけて、慌てて言われた言葉をゆっくり咀嚼する。二人でって……。酒の力を借りてだいぶ打ち解けて話すようになっていたが、今日初めてあった人だ。彼の名前と勤めている会社、それだけしか知らない。年齢さえも聞いていないことに気づく。戸惑うのは当然だった。

二人で抜けてどうなるのか、その後のことが想像できないほど初心でも、鈍感でもない。莉絵は彼の顔をまじまじと見つめた。ふわふわする頭から理性を呼び起こして見ても、彼の微笑みは十分に美しく軽やかで、それでいて冗談を言っているようには見えなかった。一瞬店内に流れるアップテンポな曲が途絶えた気がした。何秒見続けただろう。強い何かに引き寄せられたまま目をそらせなかった。

「行きましょう」

優しく微笑みながら、抗えないような口調で誘い、莉絵の手を取る。

「……」

突然触れた手に一瞬体を強張らせるも、なぜか拒否の言葉は口から出てこなかった。

「今なら二人で抜けても気に留める人なんていませんよ。それに、行きたいって顔をしてる」

格好いい人って自信満々な発言でさえ様になるんだな。そんなことを馬鹿みたいに思う。だが、何を考えているんだと自分に心の中で呆れながらも、目がそらせなかった。瞳に囚われたまま、返事をする代わりに、莉絵は彼の指を握り返していた。

そのわずかな動きを彼は逃さなかった。強い力で引かれて、次の瞬間には、莉絵は彼の腕の中にいた。


男の背に隠れるようにして店から去るとき、相変わらず二、三人に囲まれてきゃっきゃっと楽しげに談笑する亜由美と目があった。亜由美は大沢と莉絵を交互に見て、なるほどという顔をした。「がんばって」とその口が動く。嬉しそうな笑いを浮かべたまま大きなウィンクを返されて、莉絵は片眉をあげふんと小さく鼻を鳴らした。亜由美に乗せられる形になったことが気にくわない。だが気分は思ったより悪くなかった。むしろ高揚して、昼に感じた熱が冷めるどころか、いよいよ収まりがつかなくなった感じだった。隣にいるのは今日会ったばかりの男で、あのひととは似ても似つかない。だが、彼の腕の中で身じろいだとき、ふわっと鼻孔をくすぐった香りはあのひとのものと同じ気がした。



彼に連れられてホテルの上にあるバーで飲み直した。喉をするすると流れていくアルコールが心地よく、二杯三杯と進む。酔いすぎないようにしなければと決心していたことも、明日約束があることも、頭の片隅では覚えているのに、歯止めにならなかった。

飲みながら、問われるままいろいろなことを話した。好きな酒の銘柄、休日によくすること、そんなとりとめもないことを。莉絵に問いながら大沢は自分のことについても話した。神奈川に実家があり、姉と妹が一人ずついて、その甥や姪になぜか気に入られてしまい集まるたびに遊びに付き合わされて困っていることとか、子供の頃UFOを本気で信じていて、部屋の窓辺に手作りの通信機をぶら下げて宇宙人からメッセージが来るのを待っていたこととか、荒んでいた中学時代、派手な喧嘩をした日、気が付いたら近くの水族館の水槽の前にたどり着いていて、静かに泳ぐ魚たちを眺めていたらなぜか泣けてしまったこととか。

中でも一番驚いたのは、大沢は二十六歳で、莉絵よりも一歳年下だったことだ。

「だから、敬語なんか使われるとこっちがどうたらいいのかわからないんで……。普通に話してください」

「わかりました……わかった」

「どうしたの、変な顔して」

「いや、全然そうは見えないから、驚いて。本当に?」

「本当本当。もしかして、年下は嫌ですか、莉絵さん」

笑いながらそう言う顔はやはり年下に見えない。猫のようだとはじめ思った笑顔はときどき現れるものの、今はすっかり影を潜めていた。くすっと微笑む顔は大人の男のものだった。てっきり年上だと思っていた。店のチョイスやエスコートの仕方がスマートでこういうことに慣れている感じがしたし、垣間見せる表情には色気さえ漂っていたのだ。

大沢の話し方は穏やかで、低い声は莉絵を安心させた。お互いの口調は次第に砕けたものになり、呼び方がいつのまにか「須藤さん」から「莉絵さん」に変わっていたが、それも自然に思えるほどで、全く気にならなかった。むしろ彼の声で「莉絵さん」と呼ばれることは心地よかった。

そして、当然のように共通の友達である亜由美が話題にのぼった。

「亜由美に誘われてきたんでしょ、亜由美ってS社にもよく行き来するの?」

「そうですね。井筒さんは本当になんていうか……」

大沢はなんといったものかと迷っているようだった。困ったように笑う顔はまた猫のような柔らかいものに戻っていて、亜由美の強引な性格に大沢も翻弄されていることを物語っていた。莉絵は声を出して笑った。

全てが心地よかった。仕事をしているときとはもちろん、友達と話すときとも、そして……あのひとといるときとも違う、新鮮な時間だった。もしかしたら、今この時間だけの関係だと無意識に割り切っているからこそ、気兼ねなく話せているのかもしれなかった。

「あはは。亜由美の話は酷だったか。あの子、本当に変わらないね。実は高校からずっと同じ学校なんだけど……」

忘れようとしていた学生時代の話まで、するっと口をついて出た。亜由美の武勇伝と化した恋愛歴やそれに振り回されたことを話す。大沢は大げさに驚いて見せながら、よく笑って聞いてくれた。

高校時代の話をするうち、どうしてもそこから切り離せない、あのひとのことがちらつきはじめた。そのたび舌が重くなって口ごもる。だが、隣の彼はそんな莉絵の様子について何も触れず、ただ相槌を打ちながら柔らかい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

「ねえ……」

あのひとに対する思い、あのひととの関係を、今まで誰にも話したことはなかった。話せないのだ。だって自分でもわからない。こんなにも長い間、それらにふさわしい名前をつけることすらできていないのだ。でも……。それでも。強い気持ちに揺さぶられる。今、話したいと思った。大沢なら余計な口を挟まずに静かに聞いてくれる気がした。アルコールに混じってほのかな甘い香りがグラスからたち上る。底に残る酒を一口あおって、莉絵は大沢の目を見つめて口を開いた。

「大沢さんは、忘れられない思い出、ある?……」


ああ、私はずっと話したかったんだ。聞いて欲しかったんだ。言葉を吐き出していくたび軽くなる心に、莉絵はそのことを実感した。ずっと心の奥で緩むことなく張り詰めていた力がすうっと抜けていく感覚。そしてその中に温かなものが入り込んでいく感覚。聞こえるのはジャズピアノの音だけ。静かな時間と微笑み。大沢はただ話を聞いていただけだ。だが、莉絵はいつの間にか彼と今夜初めて会ったということを忘れていた。



琥珀色のとろとろとした液体の中で溺れている。落ちていることに気が付いているのに、それが全く嫌じゃなくて、体の力はどんどん抜けていく。泡が湧くような、くぐもった音がどこかで聞こえた気がして、耳を澄ます。

『生まれながらの貴族ってこんなひとかもしれないって』

『それなのにときどき見せるいたずらっ子のような表情が印象的で』

『私に広い世界を、感じさせてくれたんだ』

『年に似合わないような香水をつけているのに、それが似合っていて』

泡が弾ける。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。ああ、私だ。断片的に聞こえるのは、自分の声だった。

『莉絵さんは……その人のことがすごく好きなんですね』

大きな泡が目の前で弾けて、低い声が届く。これは……大沢さん?

『それは、どうだろう……』

小さな泡がゆっくり弾ける。答えは迷っていたが、意外にも落ち着いた声だった。好き、なんて、ずっと考えることさえ怖くて避けていた言葉だったのに。

『まだ、忘れられないんですね』

心なしか性急な口調だった。新しい、大きな泡が近づく。

『俺じゃ、だめですか……』

泡は弾けず、莉絵を包み込んだ。思わず息を吸い込む。液体が鼻から、口から、体の中に侵入する。だめ。溺れる。足掻こうとして、手足を動かすも、ますます液体は質量を増していく。アルコールの匂いが濃くなる。そして、またあのひとの香水の匂いが混じって、強く、体の奥を刺激する。深くまで入り込んだ液体は、莉絵を溶かし、足掻こうとする力を抜いていった。莉絵は動くのをやめた。泡がクッションになって莉絵を抱きかかえる。そしてゆらゆらと下へ、下へと向かう。どんどん落ちていく体を、自分では止められなかった。



気がついたとき、莉絵はホテルの部屋にいて、バスローブを身にまとっていた。ベッドサイドのランプと窓の外の街のネオンだけが光っていて、部屋は薄暗かった。いつの間に、シャワーを浴びたらしい。体はほかほかと温まっていて、肌はほんのり赤く色づき、石鹸の匂いがした。どうして、ここにいるんだろう……。頭が重い。完全に酔って記憶が飛んでいた。まだ少し、意識がぼうっとしている。

水音だろうか。ぱらぱらと小気味好い音が莉絵のいる部屋の外から聞こえてきた。そうだ、確か大沢と飲んでいて……。では、大沢がシャワーを浴びているのか。もう一度自分の体に目を落とす。バスローブの前を開けて中を見る。ほっとする。酔っていても下着はちゃんとつけていた。元通りに整えて、そんな心配をしたことに呆れた。この状況に、不思議と落ち着いている自分がいる。

途切れ途切れの記憶をかき集めながら考える。

『俺じゃだめですか』

と聞かれた、そのあと。自分はなんと答えたのだろう。誘ってきたのは確かに大沢だが、彼はきっと無理にこういうことはしない。最終的にここまで持ち込んだのは自分である可能性が高かった。

どうしたものか。頭を巡らしかけて、まあいいかとやめる。今日何度こう思っただろう。ひたすら流れ流されてここまで来ている。徐々にはっきりと聞こえてきた水音に耳を傾け、いや、流されているのではなく流されたかったのかもしれない、と思う。

思えばあのひとを心の中にずっと住まわせていた十年間、本当に恋愛と呼べるものをしたことは一度もなかった。あのひとと過ごした高校時代はもちろん、大学時代も社会人になってからも、ただの一度も。何度もそういう機会はあったし受け入れたこともあったけれど、心はいつも平静で、冷たくひえたまま、求められ、受け入れても体が熱くなることはなかった。でも、今は火照りを感じる。体の奥が熱を持ってより強い熱を求めている。

求めているものが本当は大沢ではないことには気づいていた。誘われて、ついていったときからずっと。本心を覗こうとしなかっただけで。大沢の瞳に惹かれた。一緒にいることが心地よかった。それは確かだ。だが、心では明日会うひとのことをどこかでずっと考えていて、奥底で炎がじりじりと燃え続けていた。熱の発生源はあのひとだった。本当に求めているのは、あのひとなのだ。

『俺じゃだめですか』

真剣な声だった。大沢の気持ちを考えると、ためらいそうになる。でも、熱を持った体は、あのひとじゃなくてもいい、熱が欲しいと訴えていて、莉絵の心はそれに抗えない。どうせ彼が莉絵を求めるのだっていっときの熱のせい、そうに決まっている。一晩の、このときが過ぎれば下火になる一方の熱だ。今までもそうだった。莉絵のことを求めた男たちは、彼女の心がどこか遠くにあることに気づいて、次第に離れていった。だから、今夜一晩だけ。熱をさらけ出して、求めて、燃え上がらせて、そして鎮める。そのための相手ならきっと、お互いふさわしい。

心が求めていなくても、体は求めてしまうことを、莉絵は知った。


シャワーの音が止まった。心を決めて立ち上がり、ソファの上のバッグを手にする。奥を探り、小さなピンク色のガラス瓶を取りだした。長い間肌身離さず持ってはいたが、滅多に取り出すことはないものだった。ガラスの奥を覗くたび、いつも、ちり、と胸に焼かれるような痛みが走るからだ。あのひとにもらったものだった。



十年前の春。あのひとの、卒業式の日。式のあと大急ぎで走って会いに行った。やっと見つけたあのひとは、校舎裏の一本桜の下にいて、降る花びらを静かに眺めていた。名前を叫ぶ。あのひとが振り返って、笑った。言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出なくて、莉絵はただ涙を滲ませて立ち尽くしていた。制服のスカートが風ではためく。短い髪が、目に、耳に、かかる。それを乱暴に払いながら、じっとそのひとを見つめた。

あのひとが、ふ、と笑う。しようがないなという顔をして、手に持った卒業証書を鞄の中にしまった。そして、そこから小さなピンク色のガラス瓶を取り出し、莉絵の手に乗せた。

『チャンスを、分けてあげる』

そう言って微笑んだ顔は今までで一番綺麗だった。

チャンス。手の中から、ふわり、と香りが立ち上る。中に入っているのは、あのひとがいつもつけていた香水だった。シャネルの、「チャンス・オー・タンドゥル」。爽やかで甘い、花の香り。

『亡くなった母が、そう言って、くれたの。だからあなたにもあげる』

そして、莉絵に渡したものより一回り大きな、丸いピンクの香水瓶を取り出した。

『ね、おそろい』

桜の花がはらはらと散って二人の間を彩る。二つのガラス瓶の色と同じ。一面ピンク色の世界で、莉絵はぽろぽろと涙をこぼしながら、やっと笑うことができた。



もらった嬉しさから試しに何度も開けて匂いを嗅いでみたり、眠れない夜、あのひとを思い出してつけてみたりしていると、香水は瞬く間になくなった。だが、莉絵は小瓶の中身を絶やすことはしなかった。なくなるたびお金を貯めて同じ香水を買いに行った。そしてわざわざ小瓶に移し替えて、それをおまもり代わりのようにいつも持っている。

蓋を開けて、瓶を傾ける。小さな口から甘い液体が垂れる。一滴、二滴。瓶を元に戻す。ほんの少しでいい。私だけが感じる程度で。首筋と、手首。二箇所に念入りに塗り込む。自分の体からほのかに香るあのひとの匂い。吸い込んで、ますます身体が熱くなるのを感じた。シャワーの音が止まった。莉絵は小瓶をバッグにしまい、たいして乱れてもいないバスローブを整えた。


浴室から出た大沢はベッドに腰掛ける莉絵を一瞥して、ミニバーからミネラルウォーターを取り出した。

「酔い、冷めたみたいですね。莉絵さんも飲む?」

「いや……私は大丈夫」

「そう」

ミネラルウォーターが彼のなかに入っていく。上下する喉元を莉絵はぼんやりと見つめた。

「何を見てるの」

声が耳元で聞こえて、はっとしたときには、大沢の顔が目の前にあった。

「……待ちくたびれたって顔、してますよ。そんな顔されると……自惚れそうです。わかっててやってるんですか?」

「……」

返事をする代わりに、彼の目をじっと見つめた。

「……いいんですね?」

掠れて、熱を伴った声で問われる。一応の確認はあったが、何を答えてもこの後は変わらないと思われた。それくらい、大沢は切羽詰まっているようだった。莉絵は微笑んだ。甘く、余裕たっぷりに。あのひとの微笑みを思い出して、それに近づけるように。

「あ」

視界が半転する。明かりが消える。それと同時に、額に温かいものを感じた。ずっと、この温かさを待ち望んでいた。だが、あまりに久々な感覚に体が強張る。

「力、抜いてください」

大沢は莉絵の反応を捉えて、あやすように吐息混じりの声をかける。そして、もう一つキスを額に落として莉絵の表情を伺った。暗い中、大沢に見えているかもわからないのに、また莉絵は先ほどのように微笑んでこくりと頷いた。両手で彼の背を引き寄せる。より一層二人の間が狭くなる。大沢は莉絵の頭の後ろに手を回し、その唇に自身の唇を押し付けた。

自分でつけた、ほんのわずかな花の香りが、広がった。力がどんどん抜けていく。それに合わせて身体は熱くなる。焼かれて、溶けてしまいそうだ。キスを返しながら、強く、大沢を掻き抱いた。深くなりかけたキスが止まる。唇から離れて頬を軽くつつかれる。大沢は莉絵の短い髪を梳きながら両頬に交互にキスを落とした。そして、耳、うなじ、首筋。優しい、軽いキスが徐々に下へ降りていく。そろそろ声が我慢できなくなりそうだった。花の香りがまたする。花束の中にいるような、強い香りだった。熱い。熱い。あのひとの香り。足りない。もっと、欲しい。先ほどの深いキスを望んで動こうとした。そのとき、莉絵の首筋に顔を埋めていた大沢の動きが止まった。


「……ごめん」

瞬時には何を言われたのかわからなかった。

「……え?」

……なんて、言ったの。あまりに場面にふさわしくない、沈んだ口調と言葉だった。とっさに反応できないでいると、ふいに体にかかっていた重みが取り除かれた。カチッと固い音がして明かりがついた。そろそろと目を開ける。まぶしい。暗闇に慣れた目には刺すようなまぶしさに感じられ、莉絵はくらくらと額に手をやった。

見上げると、大沢は体を離してベッドサイドに座り、悲しみとも怒りともつかない表情でこちらを見ていた。突然のことに驚いたまま声を出さずに見つめていると、彼は切れ長の目を伏せて、もう一度

「ごめん」

と言った。そして、もう莉絵を見ようとせずにベットから立ち上がった。離れていく彼の腕を掴もうと手をそろそろと伸ばしかけて、引っ込める。触れたら弾かれそうだった。彼は全身から拒絶の気配を出していた。視線を落とす。白いシーツは短い間にひどく乱れていた。彼の手がついたところは皺が寄って、くしゃくしゃに丸められた紙のようだった。

「……大沢さん?」

衣服を整える彼の背に、そっと声をかける。掠れて、弱々しかった。これが自分の声かと驚く。

「……」

返事がなくて、聞こえなかったのだろうか、ともう一度口を開きかけた。

「あの」

「やめろ!……お願いだから。やめてください。そんな声で、呼ばないでください」

こちらに背を向けたまま、彼は絞り出すように言った。飲み会で莉絵を誘い、ホテルに連れ出したスマートで妖艶な彼でも、飲みながら穏やかに莉絵の話に相槌を打ってくれた優しく紳士的な彼でもなかった。されていることも、言われている言葉も感情的で、もっと言えば彼の身勝手なものなのに、なぜだか、泣きたくなるくらい悲しかった。

「莉絵さん」

やめてよ。こんなこと、勝手に始めたのはそっちじゃない。なんでこっちが悲しくなるような、泣きそうな声で名前を呼ぶの。背を向けられていて、大沢の表情を伺うことはできなかったが、声は震えていて泣いているようだった。

「今のあなたを、俺は抱けない」

「……」

「今日のことは忘れてください」

そう言って、背広と鞄を抱えて歩き出す。

「……待って!」

ここで行かせてしまってはいけない気がした。

「そんな言葉一つで終わらせるつもりなの」

努めて冷静な声を出す。

「さっきから黙って聞いてたら……なんなの、勝手に終わらせないで。こんな仕打ち、あんまりだと思わない。……私のことを馬鹿にしているの?中途半端に放り投げてもいいとはじめから思っていたの?それならどうして、こんなこと、始めたの」

大沢は傷ついている。だから、彼に限ってそんなことはないとわかっている。それなのに口調はどんどん激しく、冷たくなっていった。

「それとも、あなたは土壇場で怖気づくような、その程度の男なの」

全く的外れな、ひどいことを言っていると思う。それでも、どんなひどいことを口にしてでも彼を引き留めたかった。彼にどうしても理由を問わなければいけない気がした。

「答えてよ」

沈黙が降りる。こちらに向けられた背からは何も感じ取れない。外してサイドテーブルに置いたままの腕時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。投げかけた問いが宙に浮き、時間が過ぎる。答えてもらうまで、ずっと待つつもりだった。

「……か」

「え?」

小さい声で彼が何かを言った。聞き取ろうとして体を起こす。彼がゆっくりとこちらを振り向いた。

「気づかないと思ったんですか」

声はもう震えていなかった。向けられたのは、先ほどの悲しみを滲ませた視線ではなく、諦めがこもったものだった。

「あなたは、俺が気付かないと思ったんですか。俺を馬鹿にしているのはあなたじゃないですか……」

「そんなこと……」

「ごまかさないでください。どうして……どうして微笑みながら俺を、自分の心を騙すんですか」

心臓が早鐘を打つ。何を言おうとしているの。もしかして……。自分が言わせているはずなのに、耳を塞ぎたくなった。聞きたくない。自分の心の浅ましさが、暴かれる恐怖。嘘をつく。違う。ごまかしてなんか、いない。

「今だってそうだ。本当に引き止めたいのは俺じゃないんでしょう。……莉絵さん、俺が出るまで香水なんてつけていませんでしたよね」

息を飲んだ。気づかれていた。気づかれないなんて、どうして高を括っていたのだろう。いや、気づかれることなんてわかっていた。それでもいい。そう思って、抱かれるとき、あのひとの香りに包まれたいと願ったのだ。

「あなたは、俺じゃだめかと聞いたとき、迷いながらもだめじゃないと言った。俺に出会ったのはチャンスかもしれないと言った。あの人はチャンスを残してくれたから、今がそうなのかもしれないって。……だけどあなたは……あなたは、本当にチャンスを望んでいるんですか?」

頬を引っぱたかれた気がした。強い、痛みが走った。傷つけた。深く。彼が本気であると気づいていて、無視した。二人の間に思い出を持ち込んで、全てを壊した。チャンスを壊したのは私だ。

「……」

もう何も言えなかった。うつむく。彼を引きとめようとしたのだって、自分の身勝手な欲望が満たされないことに対する焦りだったのかもしれなかった。大沢に抱かれながらあのひとのことを思った。身体では彼を求めながら、心で呼んだのはあのひとの名前だった。

「須藤さんのこと、本気でした。だから……こんなことしといて、未練たらたらだなんて最低だと思うし……忘れてくださいと格好つけた手前、引き下がるべきなんでしょうけど」

声のトーンが落ちた。口調が迷っているものに変わる。

「これ、最初に渡したものとは違う、個人的な連絡先が載っているものです。……馬鹿みたいですよね。あなたは俺のことなんてすぐ忘れるでしょうし。そうでなくても、あなたの言うあの人には勝てない。でも、もし……もし、あなたが本当にチャンスを望んだとき、そのときに俺のことを思い出してくれるなら」

そう言って、大沢は新しい名刺をテーブルに置いた。ためいきに近い笑いだった。目尻が下がる。固まって何も言えないまま、莉絵はやはり猫みたいだ、と思った。彼の髪はまだしっとりと濡れていて……雨に降られた捨て猫、みたいだ。

「あなたが自分でチャンスを掴むの、見たいんです。そして、それが、いつか掴むものが俺であればいいなんて、勝手なことを思うんです」

「……」

「……じゃあ……また」

今度こそ、振り返らず彼は歩き始めた。金縛りにあったように動けなかったのが一気に解放されて、体ががくがくと震え出す。そろそろと後ずさって、力なくベッドに腰を下ろした。何も考えられなかった。目を閉じて息を吐く。遠くでドアの閉まる音が聞こえた。


どれくらいそのままでいただろうか。目を閉じ、ベッドに横たわる。先ほどまで心の中は様々な感情がぐるぐるとひしめきあい、荒れていた。悪いのは自分だとわかっているのに、それでも女一人をホテルに置き去りにする大沢に苛立ったり。そしてまた、八つ当たりをする自分に落ち込んだり。

「……疲れた」

ひとりごとが寂しく部屋に響く。莉絵は寝返りを打った。ベッドサイドに手を伸ばす。腕時計を手に取って見ると、針はすでに午前一時近くを指していた。

眠い。そして、熱が冷め切って、寒かった。

明日の約束は何時だっただろうと回らない頭で考えて、確か午後だった、と安心する。とりあえず今は眠りたかった。柔らかい枕と毛布を引き寄せて、一人で寝るには広すぎるベッドの端に落ち着く。程なく、莉絵は意識を手放した。




ヴーー。ヴーー。

かすかな振動音が聞こえる。

ヴーー。ヴーー。ヴーー。

止まらない。だんだん強くなる。眉を寄せる。眠い。まだ意識が半分夢から覚め切れていないまま、手を伸ばして音を止めようとする。だが、伸ばした先には何もなく、さらに手を右に左にと動かしても目的物はなかった。

「うるさい……」

莉絵はまぶたをあげ、起き上がった。髪をかきあげながらサイドテーブルに目をやる。乗っていたのは昨日の夜から置いたままの腕時計だけだった。時刻は、午前八時三十分。

ヴーー。ヴーー。ヴーー。

まだ鳴り続ける音の発信源を探す。どうやらソファのある方から聞こえるらしい。そうだった、携帯は昨日からずっとバッグの中に入れたままだった。誰、休みのはずなのに、こんな時間から。寝起きの苛立ちを引きずったまま、誰からなのかも確認せずに電話に出る。

「はい、須藤です」

『おはようございまあす。莉絵さん、お目覚めですかぁ?』

「……亜由美?」

機嫌の良さそうな高い声が、寝起きの頭にキンキンと響く。

『あれ、声疲れてるみたい。ごめんごめん、寝起きだった?……ね、ぶっちゃけて聞くけどさ、どうだったの。崇くんとは』

「崇……?ああ」

そう言えば大沢の下の名前は崇だったっけ、と思い出す。朝早くからの電話に、よほどの急用なのかと身構えていた莉絵は、ふう、と力を抜いた。呆れた。この友人はただ自分の好奇心を満たしたいだけらしい。

『昨日抜けたときからずっと気になってたんだよ。上手くいったんでしょう?』

「上手くいってたら、こんな時間から電話に出ないわよ……」

『それもそうか。……え、うそ。どうして?何があったの。だって、すごいいい雰囲気だったじゃない。まさか二人で抜け出して、飲み直しただけなんて言わないでしょうね?』

「……飲み直しただけ、ではないけど」

何があったかなんて、そんなこと、言えない。突き詰めて話せばあのひとのことに行き着いて、そして、亜由美はあのひとのことを知っている。あのひとと莉絵、二人の昔からの知り合いである彼女に、認めてしまった気持ちを話せるほどの勇気はまだなかった。沈黙が降りる。

『……あのさぁ、違ってたらごめん。昨日、今日は予定があるって言ってたよね。それってもしかして、祥子さん?』

携帯を落としそうになった。久々に音で聞く、あのひとの名前だった。

「……」

『そうなんだね。もしかして、そのことでなんかあったんじゃないの』

「どうして、そのこと。……あ。まさか、大沢さんが」

『崇くんは関係ないよ。莉絵さ、やっぱりわかりやすいよ。自分じゃ気づいてないんだね。祥子さんの話になると、必ず髪を耳にかけるくせ、出るの』

思わず耳に手をやった。髪が耳から落ちていたが、今は全く気にならなかった。

『高校時代、よくそうしてた。普段は髪しょっちゅう触ったりしないから、結構目立ってて。まあ、目立ってたと言っても他の人が気付くほどではなかったと思うけど。私、自分で言うのもなんだけど、そういうのに目ざといからさ。だから昨日、久々にその仕草見て、あれって思ったんだよね。でもまさか、本当に……』

早口に一気に言ったあと、亜由美は口を閉ざした。仕草にまで表れているとは思わなかったし、それに気づかれているとも思わなかった。すると、十年間誰にも話さず、上手く隠したつもりだったのは自分だけで、相当あからさまだったということだろうか。行動だけでなく、莉絵の気持ちも。

少なくとも亜由美は気付いている。だから、先を言わないのだ。

祥子は女性で、莉絵だってもちろん女だ。そもそも、亜由美と莉絵の母校は女子校だった。

『なんて言おうか迷ってるの?……いいよ取り繕わなくても。……わかるから』

反射的に眉が寄る。亜由美は軽い気持ちでこの話に触れたわけではない。それはわかっているのに、どうしても「わかる」と言い切られると反発したくなってしまう。わかる、だなんて、私は今でもよくわからないのに。強く両目を瞑り、叫んだ。

「嘘。亜由美に、そんな簡単に、わかるわけない……!」

『わかるよ。単純な気持ちじゃないことはわかってる。莉絵がずっと悩んでいたことも。……でもさ、それって、このままずっと悩んでいなきゃいけないの?高校生のときのまま、祥子さんからずっと歩き出せないままで、いいの?』

歩き出せていない。確かにそうだ。莉絵はずっと、あの卒業式の日のまま立ち止まっていた。

『莉絵が祥子さんに出会ってからずっと、誰と付き合っても続いたことないの、知ってる。まだ祥子さんのことが忘れられないんでしょう。でも、もう十年だよ。大人になってる。崇くんみたいな人だっている。きっと、崇くんは莉絵と歩き出したいと思ってる。なのに、どうして進もうとしないの』

そんなの、自分でもわからないから困ってる。祥子がどうしてそんなに忘れられないのか、わからないのだ。彼女は莉絵の心の奥の大切な場所にいて、それはちょっとやそっとでは動かせないのだ。チャンスを分けてあげると言った人は、莉絵が新しいチャンスを手に入れることを望んだはずなのに、彼女自身がそこに立ちふさがっていることには気づかないまま、去ってしまった。

『ねえ、今日、会うんだよね』

「……うん」

『どこに、何時』

「え?どうして」

『行くよ、私』

「は……。ちょっと、なに言って」

『祥子さんに会って、ますます自分を見失っていく莉絵を見るのは嫌だよ。莉絵が冷静に今の自分と祥子さんに向き合えないのなら、私も行く』

「……つけるつもり」

『え?』

「亜由美に言われなくても、区切りをつけるつもりだったよ」



昨日の夜、何度も夢を見た。初めて祥子に出会ったときの夢。中学生のときの失恋を引きずって、高校に入ってからもずっと自分の殻に閉じこもっていた莉絵に、広い空を見せてくれたときの夢。放課後の教室で、自分のことを滅多に話さない彼女がぽつりぽつりと家族のことを話してくれたときの夢。帰り道、付き合っている人がいると打ち明けた祥子に、うらやましい、これからは話全部聞かせてくださいねと喜んで見せたものの、別れて一人になると泣いてしまい、はじめて祥子さんに対して友情以上の思いを抱いていると気づいたときの夢。

どれも思い出すたびに胸が締めつけられて、莉絵は夜、何度も起きた。そして、そのたび自分の体に残る香りに苛まされて、はらはらと涙を流した。


大沢が部屋を去っていくときの夢も見た。繰り返し、あのときの声が聞こえてきた。

『どうして……自分の心を騙すんですか』

『あなたは……だめじゃないと言った』

『俺に出会えたのはチャンスかもしれないと言った』

辛そうな声だった。傷ついた声だった。言えば自分も莉絵も傷つくとわかっていて、黙って去ろうとしたのに、言わなければならなかった。莉絵が言わせてしまった。大沢のどの言葉も、莉絵の心に深く刺さった。

『あなたは本当に、チャンスを望んでいるんですか』

望んでいる。ずっと望んでいた。それなのに、望んでいることを自分で認めようとしなかった。新しいチャンスに、あのひとはいない。祥子とのチャンスじゃない。だから、ずっと少女時代の思い出にすがっていた。今も、まだ手放せない。

でも、もう大沢に傷ついた声でそんなことを言わせたくなかった。二度と、そんなことは言わせないから。だから、許してほしいと願った。

『あなたが自分でチャンスを掴むの、見たいんです』

そして、身勝手すぎる願いだと十分承知しながら、こう言ってくれた彼に、待って欲しいと思った。



『わかった。なんか、出る幕じゃないみたいだね。今の莉絵なら大丈夫な気がする。……うん大丈夫。……じゃあ、朝からごめん、切るね』

莉絵の口調から決意を感じ取ったのか、亜由美は穏やかにそう言った。

「ありがとう」

電話を切って、携帯をバッグにしまう。そのときに、こと、と中に入っていた何かを倒してしまい、直そうとして気づく。あの小瓶だった。取り出してカーテンが開いたままの窓に向けると、光を受けて輝いた。底でほんの少しの透明な液体が揺れて、跳ねる。ピンク色は相変わらず桜を思わせる可憐さだったが、ガラスはところどころ欠けて傷が付いていた。きらきらと光っていたのは、傷跡にあたる日の光の反射だった。




「……っと」

がくん、と体勢を崩しかけて思わず声が出た。慌てて口を押さえて吊り革を握り直し、しっかりと床を踏みしめる。揺れる車両。莉絵は品川に向かう電車に乗っていた。

先ほどからずっと、一通のメールを開いて考え込んでいる。なんてことない、普通のメールだった。いや、普通のメールにしては素っ気ないかもしれない。

『四日 五時 品川駅改札』

単語だけが三つ、並んでいる。祥子からのメールはいつもこんな、必要最低限のものだった。



『メールって、なんか苦手で』

そう言ったあのひとを思い出す。彼女はいたずらがばれた子供のような顔をして、ちろりと舌を出した。そんな表情でさえ彼女には似合っていて、莉絵はそれならしようがないかと納得しかけてしまいそうになった。反論しようと思っていたのに、いざ口を突いて出たのは全く反論とはほど遠い力の抜けた声だった。

『だからって、これは……。こんなメールを送られたら、嫌われてるのかなとか、雑だなと思う人、絶対いますよ』

眉を寄せる莉絵にちょっと驚いた顔をして、ふふ、と彼女は笑った。

『莉絵さえそう思わないのなら、構わないわ。だって、私がメールを送るのは莉絵だけだもの』

花の香りがする。つぼみがほころぶような可愛らしい笑顔だった。

祥子は、ずるい。そんなことを言われたら、どうしたって嬉しくなる。わかってやっているのか、それとも無自覚なのか。翻弄されるたび、その真意をはかりかねて一人考え込んでしまう。でも、ほがらかに笑う彼女は、莉絵がうじうじと悩んでいることになんか微塵も気づいていない様子で、それを見るたびどうでもいいか、と考えるのをやめる。莉絵を悩ませるのも、嬉しくさせるのも、全部祥子だった。喜び、哀しみ。満ちる、足りない。あの頃、莉絵の中心には必ず祥子がいて、気持ちを揺さぶるのはいつも彼女だった。


それから、莉絵は祥子から送られてくるメールを毎回保存するようになった。高校時代から保存しているのにフォルダは全く埋まらず、数えられるほどしかない。何度繰り返し読んでも単語が幾つかあるだけで、書いてあること以上のものは読み取れない。それでも、たまに届くメールが待ち遠しくて、着信音が鳴るたび心を躍らせた。

だが、そんなメールのやりとりは祥子と同じ学舎にいた頃だけだった。一つ上の学年の祥子は、莉絵より早く女子校を卒業した。二人が通う一貫校には初等部、中等部、高等部に続いて付属大学があり、望めばそのまま進学することが可能だった。祥子は付属大に進学したが、その選択をする生徒は少なかった。

高等部は大学進学に重点を入れた受験校で、半数以上の生徒がカリキュラムに沿って受験に必要な教科を学び、他大学受験を希望する。莉絵もその一人だった。こじんまりとした森に囲まれ、緑の蔦に絡まった校舎や、その穏やかな雰囲気に惹かれ高校から入ったものの、家政部や文学部などしかない、規模の小さな女子大に進学することは考えていなかった。莉絵にとって女子校での生活は、傷ついた羽を一時的に休めるための猶予期間でしかなかった。

だが、祥子と出会ってから、それは思いがけずも傷を癒すだけでなく、光をもたらすものとなった。輝いた時間の分、祥子と離れることは辛かった。祥子が卒業した後の一人きりの放課後の教室は静かで、空っぽで、莉絵にはあまりにも広かった。幾度となく彼女と過ごした時間を思い出した。ずっと祥子と一緒にいたい。そう考え、内部進学を真剣に迷った時期もある。しかし、莉絵はわかっていた。「チャンス」を分けてくれた彼女は、それを望んでないことを。



『ここの大学でやりたいことなんて、決まってないの。どの学部も教養教養……そればっかり。まるで時代遅れの花嫁修業のようだわ。でもね、それでもいいの。実際、どうしてもやりたいことがあるわけではないもの。だから、お父さまがそうなさいとおっしゃる通り、このまま進学するわ。そしてきっと、卒業したらすぐにお見合い話がくる。お父さまは私は家庭に入る方が向いていると、常々おっしゃるもの』

莉絵が二年、祥子が三年の秋。校舎の森の紅葉が色付く頃だった。彼女の、腰まで届くかと思われるふわふわの栗色の髪の毛が、そよ風に吹かれて揺れる。長い睫毛を伏せて、祥子は静かにそう言った。


祥子は初等部からこの学園に通っている。高校は名の知れた進学校とはいえ、初等部から通っているのは裕福な家庭の子女が多かった。だからこそ、彼女たちの醸し出す華やかで落ち着いた空気が校舎を包み込み、受験校らしからぬ穏やかな校風を作っていたのかもしれなかった。

祥子の家は中でも飛び抜けていた。同級生から祥子さんはどこどこの令嬢だ、母親は有名女優の誰それだという噂を何度も聞いた。そして、その噂はのちのち祥子から聞くことになる彼女の生い立ちと、多少誇大されていたものの、大体が合っていた。だが、はっきりと事実を知るまでも、莉絵は華々しい、現実にはあり得ないような話を聞いても、なるほどと思いこそすれ、それに対して特に驚くことはなかった。祥子はなかなか自分から家庭環境を匂わせることはしなかったが、ふとした仕草、口調が育ちの良さを表していたからだ。そして、それは祥子の雰囲気によく溶け込んでいて、普段の街での生活では浮くような話し方も、時が止まっているかのような校舎で聞けば耳に心地よかった。

祥子は小さい頃に母親を亡くし、企業を経営する父親は体の弱い彼女を女子だけの学園に入れ、それこそ目に入れても痛くないほどに溺愛していた。この安全な小さな森から手放すことなど、露ほども考えていなかっただろう。


『でも、あなたは違うわ、莉絵。あなたは広い世界が似合っている。ときどき、あなたを見ていると、ここから……この森から羽ばたいてどこかに行ってしまいそうな気がするの。そんな、強い目をしているのよ、自分で気づいてる?ちょっと野生的で、どきっとするわ。そんなときは私、あなたを同じ鳥かごの中に閉じ込めてしまいたいなんてこと、ちらと考えたりするの。でも、やっぱり、ここにいるあなたは想像できないのよ。どうしたって行ってしまう気がするの。ううん、そうじゃないわね。私が……私が、莉絵には違うところへ羽ばたいてほしいと思ってるの。ねえ……そう思うのは自分勝手かしら』

そう言って彼女は空を仰ぎ見た。「それでも、いいの」と自分の将来について話したときよりも、明るい口調だった。

祥子の言葉は莉絵をはっとさせた。広い空へ行けるのに、留まってどうするのだろう。



そのときのことを思い出して、莉絵は当初の予定通り大学受験をすることをもう迷わなかった。そうして時間は過ぎた。卒業式を迎え、花の香りとチャンスの予感を残して、祥子は去っていった。

莉絵は三年に進級した。受験に向けて授業の進みは速くなり、課題も増えて、生活は目まぐるしいものに変わった。祥子のことはずっと心の中にあったももの、大学は高等部とは離れていて、県をまたぐ場所にあり、簡単に行き来ができる距離ではなかった。受験が終わったら、落ち着く。そのときに会いに行こうと決めて、莉絵は祥子と放課後よく残っていた美術室に行くこともやめ、ひたすら勉強に励んだ。


祥子からは一度だけ連絡が来た。本文はなく、写真が添付されたメールだった。開いて、祥子さんらしい、と思わず微笑んだ。窓辺に花瓶に挿したかすみ草が飾ってあり、空の奥には羽を広げた鳥影が写り込んでいた。

祥子は女子大の芸術学部に入り、写真を専攻していた。高校時代、共に入っていた美術部で、絵も描かずにいつも指でフレームを作り窓の外に向け、

『このままで十分美しいと思わない?この景色を、絵の具で塗って作り直すなんて、私にはできないわ』

そう言って空を見上げていた彼女には、ぴったりだと思った。


次の春、莉絵は志望校に合格した。だが、その後、思っていたよりも余裕はなかった。入学準備に追われたり、入ってからも目新しいことばかりで慣れるのに時間がかかった。祥子に会うと決めていたことはどんどん先延ばしになっていった。

大学のある東京の真ん中では目まぐるしく日々が過ぎていく。三年間、ゆったりとした時間の流れの中にいた莉絵にとって、最初はついていくのに苦労したものの、慣れてしまえばとても刺激的だった。いろいろなことに追われ、追いかけながら都会の街を走っていると、次第に密やかな高校時代のことは夢だったのではないかと思ってしまうときさえあった。祥子は正しかった。莉絵は新しい羽を手に入れ、森の外でかつての巣を忘れ、羽ばたいていた。今の莉絵が住む世界はどこまでも広く、日々感じること、学ぶことはどれも新鮮だった。


そうやって連絡は途絶えていった。再び祥子の名前を聞いたのは大学二年生の秋だった。風の便りで、祥子が卒業を待たずして高校時代から付き合っていた人と、駆け落ち同然に家を出て退学したことを聞いた。とっさには信じられなくて、あり得ないと笑い飛ばそうとした。だって、祥子は自分がすべきこと、いや、すべきとされていることをわかっていたはずだ。そして、それを決まったことだと受け入れていたはずだ。

だが、思い出す。祥子が自分の将来は決まっていると言いながら、高校時代、莉絵が顔を見たこともない彼に思いを寄せていたことを。幸せそうに彼の話をする横顔は、その恋が本気であることを物語っていた。莉絵が何度も密かに涙を流すくらい、祥子はその人のことしか見ていなかった。胸騒ぎがした。いてもたってもいられなくなり、講義を放り出して電車に乗りこんだ。鎌倉の海を臨む丘に建つ、女子大のキャンパスに向かった。


噂は本当だった。事務に問い合わせると、すでに退学届けが受理されたことを告げられた。そして、それから一度も大学に姿を現していないことも。何も考えられなかった。莉絵はしばらく大学の校舎の前で突っ立ったまま、祥子の面影を追いかけた。

見上げると、空は赤く染まっていた。名前も知らない鳥が列を作って飛んでいる。莉絵はふと、三年前の同じ秋の日のことを思い出した。揺れる巻き毛と、鈴のような声。

本当にやりたいことなんてない、だから、敷かれた道をそのまま受け入れることが自分にはふさわしい、そう伏せた睫毛で陰影を作りながら、息を吐くように言った祥子。自分と違って莉絵には広い空が似合う、そんな莉絵が見たいと、空を見上げて笑った祥子。チャンスを分けてあげる、そう言ってこの上なく美しく微笑み、別れを告げた祥子。莉絵は声をあげて泣き出したくなった。

嘘。祥子さんの嘘つき。見るだけじゃ、満足できなかったんでしょう。

莉絵に羽ばたいてほしいと励ましながら、本当に飛び立ちたかったのは、彼女自身だった。諦めたふりをして、これが正しいのだと心に信じ込ませて、本当は願っていた。広い空で飛ぶことを、羽ばたけるだけの大きな羽を、……チャンスを。莉絵はポケットに手を入れ、小瓶をぎゅっと握りしめた。

木々の葉の奥で赤く燃えている空を睨みつける。女子大のキャンパスも、高等部のものよりは広いものの、やはり同じような森に囲まれていた。もしかしたら初等部や中等部も同じだったのかもしれない。祥子はずっと窮屈だったのだ。木々の隙間からほんのわずかに覗く空しか見えない、小さな森の中に閉じ込められていることが。

「チャンスが、見つかったんですね。掴んで、あなたは行ってしまったんですね」

瓶の蓋を開けていないのに、あたり一面に花の香りが広がった。ひんやりとした空気とともにそれを吸い込みながら、莉絵は静かに涙を流した。


それから、莉絵は大学を卒業し希望通り今の会社に就職した。何年もの間、メールは一通も届かなかったし、莉絵から送ることもしなかった。大空の彼方へ去っていった鳥が戻ってくることはない。そうわかっていたからだ。だが、携帯の機種を変えても、そのたび店員に勧められても、頑なにメールアドレスを変えることだけはしなかった。最後の糸だったのかもしれない。祥子と莉絵をつなぐ、最後の。いつか再びメールの音が鳴ることを信じ続けることが、中途半端に切れた祥子との関係をつなぎとめていた。そうやって必死につなぎとめて、動けないでいたのだ。祥子への思いはずっと変わることなく、キラキラとした砂となって心の底に積もり、かすかに光っていた。



それが、どうして、今。もう一度手の中の文面をじっと見る。もちろん、どんなに目を凝らしても、説明が浮かび上がってくることはなかった。

数日前、懐かしいメールの着信音が聞こえたとき、莉絵はびくっと震えて、じっと携帯を見つめ、確かめることが怖くて何分も開くことができなかった。このときを待っていたはずなのに起きたことが信じられなかった。送られた先を何度も何度も確認した。間違いではなかった。そらでもいえる、彼女のメールアドレスだった。だが、今でもこのメールの通り向かった先に、彼女がいることを想像できない。

どうして。祥子さん、どうして。胸の内でここ数日ずっと問いかけていた。でも、答えはいつまでも出なくて、今も問いを抱えたまま、莉絵は品川に向かっている。

「まもなく品川〜、品川〜……」

アナウンスが鳴った。車体の速度が落ちる。わからないことだらけだ。だけど。心は決まっていた。莉絵はチャンスを掴むためにきた。新しいチャンスを。シューッと音がして、駅に止まる。ドアが開く。ホームに降り立つ。人混みの中、莉絵は迷わず出口に向かって歩き出した。




「……変わらないね」

長い沈黙のあと、あのひとは小さな声でそう言った。ひとりごとに近い言い方だった。

「久しぶり、莉絵」

あなたは、変わった。彼女のピンク色のルージュが引かれた唇が動くのを見つめながら、莉絵は心の中でそうつぶやいた。



JR品川駅の改札を出てすぐのところにある、トライアングルクロック。莉絵が到着したとき、有名な待ち合わせ場所であるその時計台のもとに、すでに祥子はいた。そこだけ違う空気に包まれていた。一目でわかった。何年も会っていなかったのに、そして彼女の纏う雰囲気はがらりと変わっていたのに、改札を抜けてすぐその姿が目に飛び込んできた。人混みを押しのけ、駆け寄った。祥子が莉絵に気づき、顔を上げて目を少し開いた。対面する。どくん、と心臓が跳ねた。どくん、どくん……。何かが、違う。なんだろう。雰囲気、格好。確かにそれらも変わっていた。だが、そうではなくて……。

祥子の顔を見つめる。お互いの顔はほぼ真正面にあった。あれ、差、これしかなかったっけ。思い出の中の祥子はいつも少し莉絵を見上げていたはずだ。そう思い当たって足元を見る。祥子はヒールのあるベージュ色のパンプスを履いていた。違和感は身長差だったのだろうか。納得しようとしたが、いや違うと直感が告げていた。それが何か、必死に探していると、涼やかな声がふってきた。

「久しぶり、莉絵」

「……」

お久しぶりです、祥子さん。駆け寄ってすぐ言おうと用意していた言葉は、先に声をかけられても口から出てこなかった。違和感に戸惑っていたせいだけではない、まだ頭がついていけてなかった。祥子の声だ。いろいろと心の中で決めてここに立っているはずなのに、そんなことは会ってすぐ吹っ飛んでしまった。久々に見る姿に、心臓は早鐘を打った。祥子さんだ。本当に、祥子さんだ。

「さっそくで悪いけど、いろいろと話すことがあるし、ここにいるのもなんだから……移動しようか」

早口にそう言って、祥子は返事を待たずに歩き出す。カツコツとヒールが小気味良い音を立てる。肩で切りそろえられた栗色の髪が、歩くたび軽やかに跳ねて、艶やかに光っていた。目の前の少しずつ離れていく背中を追いながら、やはり祥子さんは変わった、と莉絵は思った。


新幹線乗り場の上は吹き抜けで、一階半ほどの高さの階段を上った先にあるスターバックスの、張り出しのテーブル席からは駅の中を歩く人の流れがよく見えた。先ほどからずっと祥子は横を向いて視線を落とし、それを見つめていた。莉絵はホットラテを一口すすって、その横顔を見つめる。

会わなくなって、十年。当たり前だが、目の前にいるのは十八歳の少女ではなかった。憂いを帯びた横顔は、ぐっと大人びた、女性の顔つきだった。そして、短くなった髪もそうだが、全体的にシャープな印象を受ける。白いカットソーに水色のカーディガンを羽織り、ジーンズを履いている。格好も、口調も、動作も、花のようにふわふわとしていたあの頃のものではなかった。

祥子は目を伏せた。長い睫毛は相変わらず、目元に綺麗な影を落としていた。何か迷っているようだった。

深呼吸をする。莉絵は意を決して沈黙を破った。

「祥子さん……あの、お久しぶりです」

祥子がゆっくりとこちらを向く。そして、花がほころぶように笑った。ほっとする。笑顔はあの頃と変わっていなかった。

「ふふ、久しぶり。……莉絵、もしかして緊張してる?」

「はい。あの……」

「なあに」

「どうして、その、今日……」

ぽつぽつと単語だけを絞り出す。変わらない笑顔と声に安心したものの、十年のブランクは大きかった。口から出た言葉はたどたどしく、声は小さく掠れていた。

「うん……。そうよね。突然、本当に突然で、説明すらしていなくて。ごめんなさい。何から言おうか迷っていたんだけど……単刀直入に言うことにするわ」

迷っていた表情が、不意に揺るぎないものに変わった。祥子は真面目な顔つきでまっすぐ莉絵を見つめた。きらり、とその瞳に光が瞬いた。

「私、これからフランスへ飛ぶの。夜の便で。……そしてしばらく、いいえ、多分もうここへは戻ってこないわ」

ひゅっ、と自分の喉の奥で息を飲む音がした。言われた言葉に驚いただけじゃない。さらに強い光を放つ瞳に吸い込まれそうだった。

「だから……最後に、莉絵に会いたかったの」

祥子は晴れやかな顔で笑った。

一瞬、時が止まった。莉絵の中から二人で過ごした過去が溢れ出す。花びらの中で微笑んだ祥子と、目の前の祥子が重なる。だが、目の前の彼女は、思い出の中のあの卒業式の日よりも、何倍も、何倍も綺麗だった。


「最後に会ったのは、そう、私の卒業式だったね。それからずっと連絡すら取っていなくて。それで今さらこんなこと……ごめんなさい、あなたを混乱させたいわけじゃないの。でも、お願い、どうしても聞いてほしいのよ。莉絵に、全部。

卒業したあと、私は大学で写真を始めて……ああ、それは知っているわね、初めて納得のいく写真が撮れたとき、あなたに送ったもの」

かすみ草と、空と、奥に見える鳥影。鮮明に思い描ける。莉絵はうなずく。

「あの一枚がきっかけだったのかもしれない。それからどんどん私は写真を撮ることにのめり込んでいったの。夢中だったわ。夢中でレンズの奥を覗き込んでいた。学ぶことも多かった。よく授業を抜け出してあなたに怒られた私からは考えられないくらい、勉強したのよ。でも、それが苦じゃなくて、とても楽しかった。そうしていると時間はあっという間に過ぎるものね。

莉絵、あなたのことを忘れたわけではないし、高校時代の幸せな時間はずっと心の中にあって、なかなか思うような写真が撮れないときや落ち込んだとき、私を慰めてくれた。でも、連絡を取ったり会いに行ったりしようとは思わなかった。

今まで感じたこともない情熱が、私を前へ前へ突き動かしていたのね。後ろを振り向く気が起きなかった……いいえ、振り向いてはいけないと思っていたの。……でも、あまりにも不精だったわね、ごめんなさい」

申し訳なさそうにそう言いながら、祥子の顔はほのかに色付いていて、情熱のほてりが残っているようだった。新しい環境の中で、祥子は初めて自分の羽を見つけたのだ。それがよくわかった。莉絵は大学時代、目にも止まらぬ勢いで流れていった日々を思い出し、その言葉に強く共感した。

「いえ……私も同じでした。何もかもが新鮮で。何度も会いに行こうと思ったんですけど、忙しさにかまけて、ずっと先送りにしてしまって。だから、気にしないでください」

言葉がすっと出た。徐々に強張っていた体が緩んでいく感覚がした。今の祥子と、彼女に向き合う自分を、気持ちが受け入れ始めていた。学生時代に戻ったように、二人の間に流れる空気は自然だった。

莉絵の言葉に微笑んで、祥子は続けた。

「ありがとう。……そして、あっという間に時間は過ぎて、私は大学二年生になった。莉絵、あなたは大学に合格したのよね。何年も遅くなったけれど……おめでとう。今のあなたを見てすぐにわかったわ、きっとかけがえのない時間を過ごせたのね」

頷きながらありがとうございます、と言った声は震えていた。心の底から嬉しかった。祥子にそう言ってもらえることが。おめでとう。合格したとき、多くの人に祝ってもらった。でも、今の祥子の言葉ほど莉絵を嬉しくさせるものはなかった。熱くなる目頭に、ずっとこの言葉を待っていたのだ、と思った。もう一度、今度ははっきりとありがとうございます、と言った。

「いいえ。……そして、そう。やはりこれもあなたは知っているわね。のちにあなたが大学へ問い合わせに行ったことを聞いたわ。あなたにも、周りの人にも、……父にも、たくさん心配をかけた」

忘れることのできない、秋の日。紅葉が散るキャンパスで、一人空を見上げた。退学。駆け落ち。心無い噂はスキャンダラスな言葉で彩られていた。その頃もどこかで信じきれなかった衝撃的な出来事が、祥子の話を聞くうちに、ますますわからなくなった。やっとやりたいことを見つけたのに、どうして。

祥子は視線を巡らし、息をついた。昔のことを思い出し、少しためらっているようだった。

「……幼かったのね。今思えば、そんなことするべきじゃなかった。でも、あの頃の私にはああするしか道はないように思えたのよ。……一生に一度の恋だと思った。全てをなげうっても、失いたくないと思ったの。はじめて恋をした初心な娘にありがちなことだったわ。彼と私、二人だけが全て……そんな感覚に陥っていた。舞い上がっていて、そう、高校時代、あなたにもよく話を聞いてもらったわ……ごめんなさい」

当時のことを振り返る祥子の表情は穏やかだった。その落ち着いた口調は、恋の行く末を予感させた。

一方、莉絵は落ち着かなかった。祥子はどういう意図で謝ったのだろう。迷惑をかけた、それだけではない、違う意味が込められているように感じられて胸がざわめいた。

「でも、燃え上がってはいても、わかってたの。彼とは一緒になれない、いいえ、ならないって。いっときの恋。学生時代の、思い出にするはずだった。だけど、予想していたより、早かったのね。心の準備ができないまま……あれは夏だった。

お父さま、父が縁談を持ってきたの。もちろん、結婚は卒業を待ってからと決めていたけれど、先方が婚約だけでも、と乗り気で。そのときになって、結婚できない、と思ったの。付き合っている彼への気持ちが大きくなっていて、簡単に割り切れなかったから……でも、それだけじゃなかった。

結婚したら家庭に入る。それが嫌だった。……カメラを手放したくなかった。もっと、行ったこともないような場所で、見たこともないような景色を見て……たくさんの写真を撮りたかった。その頃には、漠然とだけど、写真家になりたいと考えていたの」

付き合っていた彼のことを話すときよりも、力強い口調で祥子はそう言った。

「彼に婚約のことを話したわ。そして、写真家になりたいということも。全部、最後の方には泣きながら、話したの。そうしたら、今までどんなことがあっても……きっと彼もわかっていたのね、私と一緒になることはないって……将来の話をしたことのなかった彼が、私を抱きしめて言ったの。手放してはだめだ、と」

『カメラを持つようになって、君は変わった。前よりずっと輝いて、眩しいくらいだ。君が見つけたチャンスを手放させるようなことは、させたくない。カメラさえあればどこでも写真は取れる。でも、君が自由じゃなくてはだめだ。だから、行こう』

祥子の恋人はそう言ったという。

彼の立場ならきっと、同じことをした。そう莉絵は思った。輝き、チャンスを掴もうとする彼女を本当に愛するなら、森から連れ出すはずだ。

チャンス。その言葉を、心の中で繰り返しつぶやく。何か引っかかるものを感じた。

「君を手放したくない、じゃなくて、私が、手放してはだめだと言ったの。その一言で、全てを彼に委ねようと思えた。彼の言葉は、真剣に私のことを思っていることが痛いほど伝わるものだった。彼にも全てを捨てさせてしまう……そうとわかっていたけれど、その手を掴んだの」

そこで彼女は息をついた。しばしの沈黙が降りる。莉絵はカップを口に運んだ。すでにぬるくなったラテは苦味を舌に残し、喉の奥別の落ちていった。


全てを捨てて自由になったものの、自力で生きていくことは簡単ではなかった。日々の生活を維持することに精一杯で、慣れない仕事、環境に疲れ、カメラを構える時間はどんどん減っていった。そんな余裕のない毎日は、二人の間に溝を産み、それは埋まることなく次第に深くなっていった。

そう続いた祥子の話に、予想していたものの、莉絵は切ない気持ちで耳を傾けた。


「一年……ちょうど一年ほど過ぎた頃だったわ。二人で住んでいたアパートの外の銀杏並木が綺麗だった。その下、遠ざかる背中……あの光景は忘れられないわ。彼は去っていったの」

夏の情熱は、世間の厳しい風に吹かれ、秋になる頃にはすっかり冷めていた。若い二人が過ごした一年間を、莉絵は静かに思い描いた。

「そして、そのあと……。私を探し出した父からはたびたび連絡が来たけれど、結局一度も戻らなかったわ。無理強いをしてすまなかったと何度も謝る父に罪悪感を抱いたけれど……一度捨てたものを、素知らぬ顔でまた手に収めることはできなかった。

それに、彼と別れて、久々にカメラを手に取ったとき、忘れかけていた熱を感じたの。底で消えずに燻る熱があることに気づいて……一人になって初めて泣いたわ。それからずっと、カメラを片手に、かじりつくように生きてきた。

最近やっと余裕を持てるようになって。大学時代の講師に連絡を取って勉強しなおすことにしたの」

祥子の表情は本当に晴れやかだった。莉絵は目を細めた。

強く、なった。もともと芯の強いひとだったけれど、学生時代とは比べ物にならないくらい、強くなった。

「講師の先生は、私のことをまだ覚えていて、知り合いの写真家を紹介してくれたの。その人はフランスを拠点に活動しているのだけど、私の撮るものを気に入ってくれて……良ければ勉強においでと言ってくれた。……だから、私、行くわ」

莉絵は泣きたくなった。目の前にいる祥子の、全てが美しかった。この一瞬が愛おしくてたまらなかった。きっともうこの光景を見ることはできない。ぽろりと涙がこぼれ落ち、ラテの中に沈んでいった。

祥子は一度羽を失った。だが、地に落ちても、羽ばたくことができなくなっても、そこで歩くことを選ばなかった。したたかに、根気強く、時間をかけて傷を癒し、より大きく強靭なものに再生させた。今度こそ、力強く空へ羽ばたくことだろう。莉絵の手の届かないところへ。自由に、何ものにもとらわれることなく。

「チャンスを、今度こそ、掴んだんですね」

声が震える。祥子は微笑んだ。涙の膜を通して見る彼女は、光の中で揺らめいていた。

「ええ。……だからもう、これは必要ないの。最後に、これをあなたに渡したかった」

これから旅立つというのに、祥子は小さなバッグ一つしか持っていなかった。彼女はその中から、丸いものを取り出した。

チャンス・オー・タンドゥル。あの香水だった。

莉絵は最初から感じていた違和感の正体をようやく捉えた。いつも彼女とともにあった、花の香りがしないのだ。祥子は香水をつけていなかった。

「十年前にあげたものと同じ香水よ。でも、違う。あれは、あなたと私をつなぎとめるものだった。私にとってはそうだったの。……知っていたの。でも、向き合うことが怖くて、それなのに手放したくなかった。あなたを」

涙が止まる。祥子が何を言おうとしているのか、瞬時には理解できなかった。目元を指で拭い、彼女を見つめる。祥子は、莉絵とは逆に目尻を下げ、泣き出しそうな表情をしていた。

向き合うことが怖い。その言葉は全てを知っていることを意味していた。全て……祥子は莉絵が持て余している感情に気づいていたのだ。莉絵が自分に、先輩や友人に対するものから逸脱した感情を抱いていることに。

手放したくない。これはどういうことだろう。莉絵の感情に気づきながら、どうして。

「香りは、いつまでも記憶に残る。よくそう言うわね。私は、そうなればいいと願って……あなたの記憶に消えない香りが残ればいいと願って、そうした。ずるいわ。いけないことだとわかっていたのに、どうしてかしら……なぜそうしたのか、自分でもわからないの。でも、忘れてほしくなかった。あなたにずっと私を見ていて欲しかったんだと思う。私のことを見つめる、あなたの瞳が好きだった。あなたの瞳の奥……あの頃の私には、そこに大空が広がっているように感じられたの」

初めて耳にする、思いがけない祥子の気持ちだった。

おそるおそる、差し出された香水瓶に手を伸ばす。桜色のガラスが光を放った。


一瞬、その中に花びらが舞ったように見えた。そして、卒業式の日の二人がいた。長い栗色の髪。制服。柔らかく笑う祥子。強く風が吹いて、一斉に花びらが枝から離れる。二人だけを残して、全てを埋め尽くす。一面、花吹雪だった。


手に取ったとたん、その光景は跡形もなく消えた。ただ香水瓶の中で、水面が静かに揺れていた。

「私はもうチャンスを掴んだわ。だから、もう必要ないの。でも、あなたを私に縛り付けて、チャンスを奪ったままでは行けない。だから、これは全部あなたのもの。……もうあげるなんて言わないわ。分けてあげるといいながら、私はあなたが私のいない場所でチャンスを掴むことを、心では望んでいなかったんだもの。これは……あなたの、ものよ。

ありったけのチャンス。全部あなたのものよ」




もうすぐ、空港行きの電車が到着する。二人は改札の前で向かい合って立っていた。祥子はこれから飛行機に乗ってフランスへ飛ぶ。チャンスを追いかけて。

別れのときが近づく。もうこうして向かい合うことは叶わなくなる。だけど、二人とも何かを言おうとはしなかった。十年ぶりに過ごした時間はほんの、二時間足らずだった。だが、これ以上ないほど濃密なものだった。お互い全てをさらけ出し、全てを受け入れた。もう、何も言葉で伝えることはなかった。アナウンス、足音、話し声。途切れることのない喧騒に満たされた構内で、二人の間には穏やかな沈黙が流れていた。

祥子の表情はもう晴れやかなものに戻っていた。一瞬だけ垣間見せた泣きそうな表情は、すっかりなりを潜めていた。きっと自分も同じ表情をしていることだろう。莉絵はそう思った。


『まもなく、一番線に十五分発、羽田空港行き電車が到着します』

「……じゃあ、行くわね」

「はい。祥子さん……お元気で」

笑顔で言うことができた。泣きたいと思う気持ちは、全くなかった。祥子が飛び立つのを心の底から祝福する思いだけがあった。

祥子も微笑んで、それから一歩踏み出した。そのとき、揺れる髪に合わせて、花の香りがあたりに広がった気がした。香水はつけていなかったはずなのに、と驚いていると、ふいに目の前に祥子の顔が近づいて……そして、次の瞬間、頬に温かいものを感じた。

「別れのキスよ。……してちょうだい」

耳元で囁やかれた。とっさに動けないでいると、祥子は一歩戻って、いたずらっ子のような表情で笑った。つられて莉絵も笑った。

「わかりました」

莉絵は祥子を引き寄せ、同じように頬にキスを落とした。


さようなら。祥子さん。……あなたのことが、ずっと好きでした。


心の中でそう告げて、ゆっくり唇を離した。祥子は満足そうに、彼女らしく花のように微笑んだ。その表情は、ええ、知っている、そう答えたように感じられた。

祥子はくるりと莉絵に背を向けた。さよならを言うことも、手を振ることも、もう一度振り返ることもしなかった。改札の中に身を滑り込ませ、足早に歩き出した。彼女の後ろ姿はあっという間に人混みに紛れて、見えなくなった。



しばらくその場に立ちつくしていた莉絵は、ふと上を見上げた。午後七時半。吹き抜けの、天井のガラス窓の外は濃い闇色だった。

高い、と思った。高くて、そして、その先は広い。あの深い色を宿した空の向こうには、何があっても不思議ではない気がした。新しいチャンスがきっと見つかると信じられた。

チャンス。香水瓶を取り出そうとして、バッグの中を探る。すると、かすかにくしゃっという音がした。書類でも潰したかと気になって、取り出す。出てきたのは、丸められた小さな紙だった。あ、と思わず苦笑いをする。

『大沢 崇』

広げた名刺には思った通り、その名前があった。その下に印刷された十一桁の数字をじっと見つめる。莉絵は携帯を開いた。一度目をぐるりと廻らせ、迷って、それから確かな指付きでその番号を打ち込んだ。

発信音を聞きながらもう一度見上げた天井の向こうには、星が瞬いていた。

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CHANCE あやめ @sachika68

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