【東恐の空】
スズナがみんなを救ったのだろうか。兄の体を元に戻す寸前に、あるいは戻ったあとに。
そういえば彼女の姿だけがない。
あたりまえだ。手弱女となって兄の中に戻ったのだから。
もしこの世界にスズシロスズナの存在が許されれば、それは同時に益荒男を異常変異させたツムリケンイチ……シリコダマギンガの復活をもまた認めることになってしまうのだ。
(スズナちゃんがこの世にいないことがすなわち平和につながるだなんて……)
そんなふうに思うとツムリはやりきれない気持ちになった。
(あの時……、僕がブラックホールに吸い込まれようとしていたあの時、僕は兄さんに対して憎しみと、それから強い殺意すら抱いてしまった……)そんな自分に今さらながらツムリは自分のことがそら恐ろしくなった。今だから冷静に思い返せるが、そんなヘイトの感情からすぐに抜け出せたのは、ほかでもない脳裏にスズナの姿が浮かんだからだった。
(スズナちゃんが僕をダークサイドに墜ちるのを止めてくれたんだ。だからいろんな意味で、僕はスズナちゃんに救われたんだ……)
もう二度とあのスズシロスズナに会うことはできないんだろうか。そんなことを思うとツムリは苦しくてたまらなくなった。ほとんど生きがいすら失ってしまったかのようだ。
「う……ん……」
寝返りをうち、蜜の布団の上で兄のケンイチが目を覚ました。
「兄さん……」
兄ケンイチの中に今、スズナちゃんの原形質があるのか……。
そんなこと考えると不思議な気持ちになる。
「ケンジ……」
ぽかんとした顔で、兄ケンイチはツムリの顔を見た。いかにも寝起き、といった様子だ。
兄弟はそれぞれが蜜のかたまりの上に乗っかっていて、しかも兄は全裸なので、ツムリにはそれがなんだか奇妙なシチュエーションに思えた。
兄ケンイチはツムリと同じように色白でほっそりしていて、それから変になまめかしくて、きっと遠目には女の子にしか見えないだろう。やっぱりツムリには兄の姿が恥ずかしくて直視できない。
「……僕はどうして裸なんだい。ここはどこなんだい」
すっとぼけた様子で兄が弟に聞いてきた。おっとりとした口調が元に戻っている。やはりシリコダマギンガだった時の記憶がないんだろうか。おぞましい記憶はスズナちゃんの癒しの蜜で消し去られたんだろうか。
「ここは空の上だよ。兄さん、何も覚えてないの?」ツムリが答える。
「……夢、見てたよ」兄は思い出すようにいった。
「夢?」
「疣痔になった夢」
「……」
「そういえば変にお尻が痛いよ。なんでだろう」
「……」
ツムリは何もいい返せなかった。兄のどこか天然でマイペースな感じは弟の知っているかつてのツムリケンイチそのものだ。
「兄さん……よかった。すっかり元に戻ったんだね」
「で、どうして僕ら、空に浮かんでるんだい?」
「大丈夫だよ兄さん、今ゆっくり降りているところだから」
「ああ、そういやそうみたいだね」キョロキョロと下界を見下ろしながらケンイチはいった。「それにしても、僕はどうして裸?」
「兄さん、地上に降りるまでそのままでいてもらうしかないかも」
「なんだかまわりは蜜だらけだねえ」
「……そうだねえ」
見ていると、兄はこの状況をのんびり楽しんでいるようにさえ見える。
ギンガだった時の記憶を失っているにしてはこの異様な状況を疑問もなくそのまま受け入れている。でもそれこそがいつもの兄の姿なのだった。いやそれどころか癒しの蜜のおかげで心の奥に抱えていた高校時代の黒歴史、その闇の部分まで消え去ったに違いない。今はちょうどいい感じで、益荒男と手弱女が兄の中でブレンドされているようだ。
きっと人は性別にかかわらず、誰しもが心の中に益荒男と手弱女を各人が各自のバランスで同居させているのだろう。体と心の中の「益荒男」と「手弱女」の配合具合によって個人の特性は七色のバリエーションを持つことになる。それが個性としてのLGBTをも形成するということか。兄の悲劇は手弱女から益荒男への振幅が極端なまでに大きすぎたところにあったのだ。手弱女のスズナちゃんのおかげで、もう兄は苦悩に引き裂かれることはないだろう。地上に降り立てば、穏やかな心持ちで思うぞんぶん女装をたのしむことができるに違いない。東京の街は再生され、平和な時がまたやってくるはずだ。学園抗争も終わったのだから。
終わった……?
本当にこれですべてが終わったんだろうか。
ツムリの心に急に暗い影がさした。
確かにシリコダマギンガによる恐怖の支配は終わったんだろう。
しかしそれは新たな混乱を呼び込むことにつながりはしないだろうか。圧倒的な支配者がいなくなったのだから。
現にミタラシオサムもコテマリアザミもギンガに代わって三多魔エリアを征服する意欲満々だったではないか。東恐の街や人々もスズナの癒しの蜜のおかげで元通りに復活しはじめている。マリマリアの歌声で溶け落ちてしまった学園牧の連中だってよみがえるだろう。そう、あのモミノコヂョーだって。
ヘタすると学園抗争がまた一からはじまるかもしれない……。
「ケンジ、何を暗い顔してるんだい?」
不意に兄がほほえみながら問いかけてきた。
手弱女の成分をたっぷり含んだ今の兄の表情は、弟ツムリにとっての救いとなった。
「ううん、なんでもないよ」
ツムリもほほえみを作って返しながら答えた。
そうだ、あれだけ全宇宙にとっての脅威だった兄さんだって、こうして元の平和を愛するやさしい人間に戻ったじゃないか。僕らは危機を乗り越えたじゃないか。たとえまた新たな学園抗争が最初からはじまろうと、必ず乗り越えていけるに違いない。ましてや東恐の復活はスズナちゃんの癒しの蜜で成されるんだ。そこにはスズナちゃんの強い祈りもこめられているはずだよ。
現に今、蜜に抱かれながら自分のまわりに浮かんでいる仲間たち、セリ、オサム、アザミ、熊、ヒロシを見てみればいい。まるでみんな赤ん坊のような無垢な寝顔をしているじゃないか。
彼らの邪気のない表情を見て、ツムリは安心した。みんな変わるよ、いいほうに。
ふと視線を上げ、目をやると、地平線にはまだ上半分が折れてなくなったスカイハイツリーの残骸がそのままの状態で残っていた。
(スズナちゃん、ありがとう……)
もうスズシロスズナはここにはいない。東恐を、地球を兄の体を通して見守っている。改めて感謝の気持ちをこめて、ツムリはゆっくりと目を閉じた。
東恐は変わる。人々の心もきっと変わる。きっと今度は完全な平和が来る……。もっと人間の中にある良心を、手弱女を信頼しよう。
その時、ツムリの見ていないところで、何かのちいさなかたまりが一足先に地上に落下していった。
シリコダマギンガの疣痔が破裂した時に中から飛び出てきたヘモロイド小惑星の隕石のかけらだった。
隕石は決して粉々に砕け散ったわけではなかった。
蜜に覆われ、復活しつつある新しい東恐の街のどこかに、そのかけらは点となりまぎれこみ、やがて、消えていった。
(終)
塩鮭の戦士 北口踏切 @983_224
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