第7章

【蜜】


 気がつくと、ツムリは宙をただよっていた。 


 ふわふわ揺れながら、ゆっくりと下降を続けている。

 まるで、まだ夢の中にいるみたいだ。


(ここはもうブラックホールなのかな……いや、どうやらそうじゃないみたいだぞ)


 ツムリは周囲をキョロキョロと見回す。

 いい天気だった。

 夜はすっかり明けており、澄み切った青空にツムリは包まれていた。


(兄さんのパワーは……消えたんだ……)


 ここがブラックホールじゃないってことは、つまりそういうことだ。

 ギリギリで……助かったんだ。

 間一髪のところで疣痔をつぶしたんだ。

 その効果はやはりあったんだ。


(兄さんは?)


 反射的にツムリは兄ケンイチの姿を探している。

 ふと体まわりを調べてみると、ツムリは自分が大量の蜜に包まれているのに気がついた。宙に浮かんでいるのはこれのおかげのようだ。空中から急速に落下するのを蜜のかたまりが防いでくれているようだ。


 空をよく見ると、グミのような蜜のかたまりがほかにもたくさん、ツムリと同じように浮遊しながら、ゆっくりと地上に降り注いでいるところだった。

 ひとつひとつのかたまりは、太陽の光をいっぱいに浴びて、それぞれが琥珀色にキラキラと輝いている。


「あっ、兄さん!」


 その中のひとつに兄ケンイチが包まれていた。

 ケンイチはすっかり元の大きさに戻っている。

 しかも、あの筋骨隆々としたマッチョではなく、女性的な細さと白い肌を持った、以前の姿そのものだった。

 ツムリはまるで女性の裸を見たみたいにドキッとした。


(兄さんが帰ってきた……)


 どうやらこれではっきりしたようだ。疣痔と化したヘモロイド小惑星の隕石のかけらは、破裂とともに雲散霧消して大気上に塵となって消え去ったのだ。

 

 兄はスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。

 目がさめても、あんなことがあったなんて覚えていないんじゃないかな……ツムリにはそう思えてしかたがない。記憶に残すにはあまりにもおぞましい出来事でありすぎたしなあ。


 それにしても、この蜜はいったいなんだろう。

 どうして蜜に包まれているんだろう。


(……やっぱりスズナちゃんなんだろうか?)


 兄が元の姿に戻っているということは、手弱女が益荒男を沈めたのに違いない。だからやっぱりスズナちゃんなんだ。これはスズナちゃんの置き土産なんだ。


 宙であおむけだったツムリは、体を半回転させ地上を見た。

 すでに大量の蜜が東京の大地を覆い、もとの街が再生されようとしていた。

 芽をふくように家々が生え、茎を伸ばすようにビル群が伸び、蔦が這うように道路や線路が広がった。あちらこちらで花が咲くように車や人々が立ち現れた。


 ツムリはちょうどネオ国立競技場の真上にさしかかっていた。

 開いたままのドームからかいま見えるグラウンドにも、まるでコーティングされているかのように蜜が広がっている。

 そこにはおびただしい数の女子高生が折り重なるように倒れており、全員が蜜まみれになっていた。さまざまな学校の制服姿が混じっているので、きっとシリコダマギンガ……ツムリケンイチが拉致していた三多魔エリア各学園の女の子たちに違いなかった。


 やがて彼女たちは目をさまし、蜜だらけの体を起こした。みな怪訝そうに周囲を見回している。


「無事でよかった……」ツムリはホッとした。「事件はこれで解決したんだ。東恐異能戦争はすべて終わったんだ」


 そう、ラスボスのシリコダマギンガを無力にしたおかげで。

 でも、犠牲になった連中のことを思い出すとツムリは心が痛んだ。戦いの代償はあまりにも大きかった。ずっと一緒にやってきた仲間たち。セリやオサムやアザミたち。いや向こうは仲間とは思っていなかったかもしれないが、行動をともにしているあいだに連帯感が生まれたのは確かだったはずだ、とツムリは思う。なのにみんな地球から放り出されてしまった。宇宙のどこかで無事でいるんだろうか。いや絶対にそうであってほしい。


 心からそう願い、ふたたび周囲の青空をぐるりと見渡したツムリは、この時一瞬自分の目を疑った。まるでツムリの願いが通じたかのように、浮遊する蜜のかたまりに包まれた、セリ、オサム、アザミ、熊、ヒロシの面々が、自分たちツムリ兄弟と一緒に空をゆっくり降下しているのが目に入ってきたからだ。


「みんな……助かったんだ」


 まるで誰かがツムリの願いをかなえる魔法でもかけたんじゃないかと思えたくらいだった。

 でも誰がそんな魔法をかける?


「スズナちゃん……?」


 そんなことをする者がいるとすれば、それはスズナしかいない。



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