Episode3: 恋人の星

 大陸から少し離れたところに、小さな小さな島がある。


 その島には、とても不思議な風習があった。

 島の人間が死ぬと、星が流れる。流れた星は地上へと落ちて、家族のもとに届けられるのだそうだ。空に瞬く星の輝きは人のいのちそのもの。だから島民は星を本人と同じように大切にするのだと言う。

 でもあたしにはそんな風習はどうでもよかった。あたしがわざわざこの島にやって来たのは、研究のため。島にしかないと言われている植物を観察するためだった。閉鎖的とまではいかないものの、どこかよそ者を寄せ付けない雰囲気のあるこの島には研究者たちもなかなかやってこようとしない。島固有の動植物が何種類もあるということまでは知られているのにも関わらず、だ。

 女性が高等教育を受けることに批判が無くなってきているものの、女の身で研究者になると周囲からの風当たりも強い。女に何ができる、女などに負けるものか、そういった目をした男たちの中でどう成果を残すかということだけが重要だった。

 だからあたしは、そんな研究者たちを蹴散らすため、研究の一環として、未開の地であるこの島に来た。大陸から離れた遠くの海の上に迷子のようにぽつんと存在する島は、最寄りの港から丸一日船に乗らなければ辿りつけない。それも定期便があるわけではないので、自分で交渉して船を手配しなくてはならないのだ。

「男だからって何よ。結果を出せなきゃ意味ないじゃないの。あのジジィども!」

 ずんずんと森の中に進みながら溢れる文句を吐き出す。どうせ誰も聞いていないのだから、遠慮なんてしない。いつも愚痴をため込んでばかりじゃ身体に悪い。

 ここは島にある広い森だ。島の中心には高い塔があり、その塔を囲むように森がある。島民は巫女の森と呼んであまり立ちいらないらしい。

「ここには大陸にはない珍しい植物がいっぱいあるのよ。来ないでどうするの。それでも学者なのあいつら!」

 港町のおじさんにはあまり奥へ入らない方がいいと言われた。滅多に人が入らないから、道らしい道もないのだと。むしろあたしにはその方が好都合だった。森の中は昼間だというのに薄暗い。とにかく日が暮れる前にできるだけ多くの植物を観察してしまわないといけない。

 スケッチや採取を始めれば、すぐに時間は過ぎていった。木々の合間から見える太陽の位置がみるみるうちに変わっていって、東の空には星が輝き始めている。

「うそ、もうこんな時間? 星屑(ほしくず)草(そう)を探さなくちゃ」

 星屑草は、この島の固有種とされている。夜になるとまるで地上に落ちた星のように、きらきらと輝くらしい。特徴からいって、暗くなればすぐにでも見つかるだろうと思っていた。

 鞄の中にスケッチブックと、採取した植物を詰め込む。来た時には軽かった鞄は既にぱんぱんに膨れていた。

 小さなランプを片手に、森の中を歩き回る。けれど予想に反して目的のものは一向に見つからない。どうして、と気持ちばかりが焦る。

 甘くみていたのかもしれない。まだきちんと研究もされていない、話にしか聞かないような幻の植物を見つけられると浮かれて。そしてさらに愚かなことに、帰り道を見失いかけている。昼間のうちはきちんとした目印をつけておいたのに、夜になって星屑草を探すあまり忘れがちになっていた。周囲は闇が支配している。ぼんやりと頼りないランプの灯りだけで、森を抜けられるだろうか。すぐ隣には小さな泉がある。心地よいはずの水音が、不気味さを増すように感じた。

 不安ばかりが大きくなって、泣きそうになっていた時だ。遠くにきらりと光る何かを見た。

「あっ!」

 星屑草だろうか。そう思って駆けだす。

 光はとても小さい。あたしの持っているランプと同じくらいの大きさだ。光が近づいてくるにつれ、私はそれが星屑草ではないと分かった。

「あんたがサディルさん?」

 お互いのランプが寄り添って、周囲がわずかに明るくなる。体格のいい青年が姿を現して、あたしは少しだけ動揺した。

「そうだけど、あなたは……」

「ああ、よかった、見つかって。宿の主人が夜になってもあんたが森から帰ってこないって心配していたんだ。ついて来て」

 ほっとしたように笑う顔は、からっとしたお日さまに似ている。悪い人じゃないというのはすぐに分かった。

「あなた、港町の人?」

「そう。俺はカストル。猟師をしている」

 ああ、だからこの人が私を探しにきたのね、と勝手に納得した。彼の背中は、暗い森の中でも見失わないくらい大きい。

「あんた学者さんなんだって? いくら勉強熱心だとしても、夜まで森にいるなんて危ないよ。慣れてない人間がたった一人で」

「……だって、あたしの目的は星屑草なんだもの。夜にならないと観察できないわ」

 最初は案内人を雇おうかと思った。けれどこの島に到着するまでに貯金をだいぶ使ってしまっているし、滞在費もかかる。節約できそうなところは節約したかったのだ。

「星屑草? あれは水辺には生えないし、新月の夜にしか光らないぞ。今日はほら、半月だ」

 彼は空を指差して言う。藍色の空には半分だけの月が浮かんでいた。しかし問題はそこではなく。

「……新月の、夜だけ?」

 初耳だった。

 もちろん大陸でも研究が進んでいない、半ば噂話程度にしか思われていない植物のことなのだから、知り得ない情報もあるだろう。私はがっくりと肩を落とした。勇んでやってきただけ、出鼻をくじかれた気分だった。

「そう。月が見えない、暗い夜だけ。生えている場所もわりと入り組んだ森の奥にあるし、素人じゃ見つけられないよ」

「ちょ、ちょっと待って。この間が新月だったから、次の新月まではあと三週間近くあるってこと……?」

 一週間程度は滞在できるように見積もって来たものの、さすがに滞在期間が三倍に伸びるのはきつい。とっさに金勘定をして、あたしは青ざめた。そんな私の表情で、考えていることがわかったのだろう。彼は微笑みながら口を開いた。

「……宿の主人もいい人だし、俺が口利いてやろうか。わざわざ遠いところから海を越えてきたんだ、残念な思いをして帰すわけにはいかないよ」

「本当? それじゃあ……その、お願いできるかしら?」

 天の助けのような言葉に、私はすがりつく以外になかった。彼の口利きで宿泊代が格安になり、その代わりにあたしは研究の合間に宿の主人の手伝いをした。島の人々とのふれあいの中で得るものも多かった。

 星屑草に限らず、森に詳しいカストルと一緒に行動することも多く、あたしと彼は自然と親しくなっていった。

 滞在期間を終えて大陸へ帰ったあとも、あたしは再びあの島へ行くために費用を貯め、年に何度か訪ねるようになった。魅惑的な植物も多いし、カストルに会いたいという下心も少なからずあったのかもしれない。彼は、研究者であるあたしをバカにしなかった。すごいね、と褒めることもなく、ごく当たり前の職業として認めていた。それが、とても居心地よかったのだ。いつからか、彼もあたしがやってくるのを待っていてくれるようになって、すごく嬉しかった。


 やさしくて、力持ちで、義理堅くて。そんな彼のお嫁さんに、あたしはなるはずだった。






 結婚の報告は手紙で済ませてしまったから、せめて式までのわずかな時間くらいは実家に帰るといいよ。島からも遠い、結婚したあとは頻繁に帰ることができる距離じゃないんだから。

 カストルはそう言ってあたしを諭した。式までのわずかな時間だからこそ、あなたといたいのに。そんな甘いことを言えるほど素直でもなくて、あたしは静かに頷いた。カストル自身、あたしの家族に直接あいさつへ行けなかったことに対して感じることもあるのかもしれない。研究ばかりのあたしが結婚、と家族は大賛成していた。両親もあたしが結婚できるとは、露ほども思っていなかったのだ。家に帰ると、結婚しても研究を続けるなんて、あんたは本当に物好きだよね、なんて言われた。こんな素敵な島にいるのに、研究をやめるなんてできない。カストルは私のそういう性格をよく知っていて、「いいんじゃない、おまえらしくて」と笑っていた。

 結果的に、あたしはカストルのそばを離れたことを悔やんだ。

 帰らなければよかった。そんなことを本気で思った。帰らなければ、彼のそばにいれば、あの島から出なければ――あたしは彼の死に顔を、この目で見ることができたのに。

 実家でカストルが仕事中の事故で亡くなったという知らせを聞いて、慌てて島へと向かった。知らせがあたしのもとに届くまでにどれだけの時間がかかったんだろう。実家から港に行くまでに二日、船が見つからずに足止めされて一日、船で島に向かうまでに一日、駆けつけるだけで、四日が経っていた。彼の死からはおそらく一週間以上の時間が過ぎている。

「カストル!」

 彼の名を呼んでも、家の主はいない。カストルの母と父が、この世の終わりのような顔をして立っていた。

「サディルさん、あの子はもう……」

 どれだけ泣いたんだろうか、真っ赤になった目であたしを見ながら、義母が呟く。

「あなたを待っていようと思ったんだが、そうもいかなくてね、葬儀は済ませてしまったよ」

 義父が申し訳なさそうに言うので、あたしは「いえ」と言葉を濁すしかない。一週間以上も遺体を放置しているわけにはいかない。頭ではきちんと理解できた。

「星が……! カストルの星が見つからないの!」

 義母が突然あたしにすがりついて叫んだ。星? とあたしは動かない頭で考える。

「普通なら最悪でも三日で見つかるでしょうに、星拾い人たちがあんなに探しているのに見つからないなんて、こんなこと……!」

「やめなさい、サディルさんに言ってもしかたないだろう」

 島外からやってきたあたしには、馴染みのない習慣。亡くなった人の星を大事にする、という程度にしか理解のなかったそれを、今まざまざと思い出した。

「このまま見つからなかったら、どうすれば……!」

 義母の痛々しい叫び声が、どこか遠くに聞こえた。彼は死んでしまって、葬儀も終わって、あたしは彼の死が現実のことだと受け止めるすべがない。星? そんなものが見つかったところでどうなるの。彼がいないという事実に変わりはないでしょう?

「私たちはひとまず家に戻るよ。ここは、君と息子の家だからね」

「あ、はい……」

 泣き崩れる義母を宥め、ひきずるようにして義父が連れて行く。式のあとにはカストルと一緒に暮らし始めるはずだった家にひとり残されて、あたしはただぼんやりと立ちすくんだ。すべてが悪い夢で、こうして待っていれば彼は仕事から帰ってくるんじゃないだろうか、なんて思う。

 けれどあたしは、いつまでもこの悪い夢から覚めなかった。



 夕日の赤い色が、窓から差し込んで部屋の中を染めていく。暗くなっていく室内を眺めながら、カストルのお墓はどこだろう、と思った。お墓を見たら、あたしは彼の死を納得できるのかしら。

 沈んでいく太陽を背に、あたしは彼の実家へ向かった。いつもならにぎわっている港町も、今日はどこか物悲しい。立ち並ぶ家々からは晩御飯の香りが漂ってきた。カストルが死んでしまっても、他の人々の日常は当たり前に過ぎていく。

 なんとも言えない気持ちのまま、あたしは何度も来たことのある一軒の家の前までやって来た。あんなに傷ついている義父と義母に、カストルのお墓はどこですか、なんて――どんな風に切り出せばいいだろうか、と考えながら玄関に向かう。すると、家の中から何かが割れる音がした。

「星が見つからないっていうのに、カストルは死んだっていうのに、あの娘は涙ひとつ見せやしない! あれが嫁になっていたと思うとおそろしいよ!」

 やめないか、と諌める声がするけれど、それ以上に大きな義母の声が頭の中で響いていた。何度も何度も繰り返されて、義母の声はあたしの思考を奪っていく。

「あの娘があんなだから、カストルの星は帰ってこないんだ……!」

 ――全身から体温が消えていく気がした。

 あたしの足はゆっくりと来た道を戻り、日が完全に沈んだ時には家に帰っていた。灯りもつけない室内は夜の闇に飲み込まれている。

 彼の星が見つからないのは、あたしのせい? そんな馬鹿げた話があるだろうか。涙も流さないから、悲しんでいないとでもいうの? 泣いて叫んでいれば満足なの? けれど感情を溢れさせたら、あたしは何を言うかわからない。どうして待っていてくれなかったの、どうしてきちんとお別れさせてくれなかったの、そう言って義父と義母を詰ってしまうだろう。あたしにはこの島の文化なんてわからない。星なんて帰ってきたところでなんの感動もない。あたしにとって大事なのは、彼だけよ。生身の、明るく笑って、あたしのことを抱きしめてくれる、彼だけよ。

「お墓、今日はもう行けないな……」

 いや、もう自分からあの家に立ち寄る勇気はなくなってしまった。カストルを失った悲しみがあの言葉を生んだのだとしても。

「カストル……」

 こんなに辛くても泣けないあたしは、ひどい女かしら。

 月のない夜に、明かりも灯さないままの室内は暗い。今日は新月だったんだ、と気づくと、星屑草が見たくなった。彼と出会ったきっかけ。きっと変わらず美しいのだろう。

 小さなランプを用意し、ストールを羽織るとあたしは家を出た。もう何度も通った森。彼とのデートは決まって森の中だった。あたしが夢中になってスケッチしていても、カストルは傍らで微笑んだまま待っていてくれた。

 森に入ると、遠くにちらちらと小さなランプの灯りが見えた。夜にこんなに多くの人が森にいるということは――星拾い人だろう。以前にも何度か同じようなことがあった。

「まったく、シャートはわがままなんだから……」

 若い青年の、呆れたような声が近くで聞こえた。

「ナシラもアルコルも過保護すぎるのよ! だって人手は多いほうがいいじゃない」

 そしてそれに応える少女の明るい声。暗い夜の森の中で、三つのランプがはち合わせる。

「あら」

 藍色のマントに身を包んだ華奢な少女は、あたしを見るなり目を丸くした。少女のうしろにはひょろりとした青年がいる。

「……あなたたち、星拾い人?」

 若すぎる二人に疑問を抱きながら問うと、青年が「そんなところだよ」と答える。見習いかなにかなのだろうか。

 星拾い人が探す星――それは、たぶん、きっと。

「カストルの星を、探しているの?」

 あの港町で最近亡くなったのはカストルだけだ。他の村や町がどうなのかは知りようもないが、この島で数日のうちに何人も亡くなることは珍しいことのように思える。

「ええ、そうなの。なかなか見つからないから、今たくさんの星拾い人が探しているの」

「……彼の星は、このあたりに落ちたの?」

「そのはずだけど、落ちたあとに転がったりして場所が変わっているのかもしれないわ」

 慣れた口調で少女は説明する。

「転がったなら転がったで、巫女様にはその場所が分からないの?」

 皮肉を込めてそう問うと、少女は困ったように笑う。まるで自分を嘲るように。

「分かれば、いいんだけどね。星の声は、とてもかすかだから」

「島民が考えているほど星詠みの巫女は万能じゃない。神様じゃないんだから当たり前だろ」

 今にもごめんね、と謝罪してきそうな少女の言葉を遮るようにして、青年があたしを睨みつけた。何よ、ちょっと意地悪しただけじゃない。何もその子のことを悪く言っているわけじゃないんだから。

「あなたは? こんなところで何をしているの? カストルさんのことを知っているってことは、お知り合い?」

 無邪気な問いが、あたしの胸に刺さった。意地悪という名の八つ当たりをした罰だろうか。少女の純粋な青の瞳は、まっすぐにあたしを見つめている。

「……婚約者、だったわ。あの人のお嫁さんになるはずだったの」

 喉に何かが詰まっているような気がした。上手く言葉になっていただろうか。少女と青年の表情が固まったのを見ると、ちゃんと伝わっていたらしい。

「じゃあカストルさんは、あなたのところに帰りたがっているんだね」

 少女は淡く笑い、青年を見上げると「がんばって探さなくちゃね」とやる気を見せる。

「あたしのところに、なんて……そんなこと分かるわけないわ。だって彼はもう死んでしまったんだもの。もし、星が意志をもって帰る場所を選ぶというなら、あたしのもとじゃなくて、ご両親のところかもしれないし……」

 どうしてあたしはこんな言い訳のようなことを話しているんだろう。まるでカストルの星が私のもとに届かなかった時、そうやって自分に言い聞かせられるように理由をつくっているみたいだ。

「……あなた、サディルさんだよね?」

 少女の青い瞳があたしの心を見透かすようにじぃっと見てくる。

「そ、そうだけど?」

「なら、大丈夫。カストルさんは必ずあなたのところに帰るよ」

 にこっと晴れた日の太陽のように笑って、少女は断言した。どうしてそんなこと言い切れるのよ、と言い返そうとした時にはすばやく身を翻し、夜の森の中へ消えていった。無口な青年の姿もない。少し遠くで揺れるランプの灯りが、彼らがまた仕事へ戻ったことを告げていた。




 ――あたしはどうして森に来たんだっけ。そう、星屑草を見に来たのよ。ならどうしてあたしは星屑草の群生地でもない場所の、地面に目を凝らしているのかしら。落ちた星は淡く光を放つというけれど、それはどれくらいの光かしら? 日々その光は小さくなっていくというけれど、それはどのくらいで消えてしまうのかしら? もしかしてもう手遅れなの? ねぇ、カストル。


 あたしは、あなたの星にも会えないのかしら。


 気がつけば闇雲に森の中を探しまわっていた。ランプの灯りがあるところには星拾い人がいる。あの少女たちと同じ仕事をする人たちが、カストルの星を探してくれている。ならあたしはその灯りがないところを探せばいい。

 あちこち森の中を移動して、地面を這うようにして星を探したけれど見つからない。本業の星拾い人が探して見つからないんだもの、素人のあたしが探して見つかるわけがない。当たり前だ。

 何度も言い聞かせるのに、あたしは探すことをやめようとしない。カストル、カストル、カストル。あなたに会いたい。会いたいの。もう一度愛しているって言いたいの。手は泥で汚れ、葉で傷が出来ていた。でもそんなもの気にならない。スカートがどんなに汚れてもいい。小さな傷くらいどうでもいい。あたしはどこかおかしくなっているのかもしれない。

 涙は不思議と湧いてこなかった。ランプを持ち上げて、あたしはまた移動する。どこに行こうか。周囲には小さな光がゆらゆらと揺れていた。

 もし落ちてくる星に意志があるとして、カストルはどこへ落ちるだろう? 森の中の、どんなところに?

 自分に問いかけてみると、答えは一つしかない。それは、あたしが一番よく知っている気がした。

 スカートをたくし上げて、疲れた足を無理やり動かして、走って走って走った。森の中はもとから走りにくいし、夜ともなればなおさらだ。でも速さを緩めることはしたくなかった。

 星屑草の群生地を走り抜ける。月のない夜に地上を照らす草は幻想的で美しい。けれど今だけは、その草を踏みつぶしてでも進んでいく。

 あたしがもし星になって、地上に落ちていくとしたら、そしたら――。あなたと出会ったあの場所に落ちるわ。もう一度あなたに出会うために。

 水音が近くなる。森の中の、小さな泉。動物たちの憩いの場。今はもう水音を不気味に感じることもない。ただいとおしさだけが増していく。

「……カストル」

 出会った場所には、光を放つようなものはなかった。暗い森だけがそこにあって、泉には淡く月が映し出されている。ここだと思ったのに、違ったんだろうか。力を無くしてそのまま座り込む。見上げる夜空は木々の葉に隠されてよく見えない。遥か遠くに、かすかに星が見えるだけ。

「あの時は、あなたがあたしを見つけてくれたのに」

 ごめんね、見つけてあげられなくて。情けなさと悔しさと、そして悲しさがぐるぐると渦を巻いている。もう彼の星がどこにあるのか、見当もつかない。

 水面の月がゆらゆらと揺れていた。星もよく見えないのに、上手い具合に月が映し出されている――。


「…………月、が?」


 どうして、月が?

 今夜は新月だ。月のない夜に、まして木々に遮られた森の泉に、どうして月が映し出されているの?

 はっとして泉を見つめると、それは水面に映し出されたものではなく、泉の底で何かが光っているのだと分かる。丸くて光るものが、水底にあるのだ。

 ……光っているものなんて、今はひとつしか心当たりがない。考えるよりも早くあたしは泉に飛び込んでいた。水が腰くらいまでしかないが、水底にあるそれを取るためにあたしは迷わず潜った。暗い水の中で、やわらかく光を放つ。近づけば近づくほど、確信できた。これは、あたしのいとしい人。

 触れるとそれは、水の中でもぬくもりを宿していることがわかる。大切に、慎重に、両手で包み込んで、水面から顔を出した。暗い森の中で、手のひらの星は輝いている。


「カストル」


 名前を呼ぶと、星は応えるように光った。濡れた髪から水が滴り落ちる。頬をあたたかい何かが流れて、ぽちゃんと泉に落ちた。



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