父ちゃんと母ちゃん
@abaregawa
第1話 奉公
戦後まもなく九歳の久夫少年は奈良県の郡山で西田というパン屋に奉公した。
毎朝、三時に目を覚まし、郡山の朝は夏でも寒かったが、冬は極寒で冷えた指ははこすれども、息を吹きかけても温かくならなかった。
まだ真っ暗な敷地にある井戸へ行き、ポンプで勢いよく水を出すと工場の水がめが一杯になるまで何度もバケツで運んだ。
それが、この少年の仕事の始まりだった。
少年は、朝早くから夜遅くまで働いた。
まだ九歳の子供だったが、容赦なく一人前に使われた。
お給金は一年ごとに親に先に支払れていた。
少年は、自分が、親や兄弟の為に働ける事が誇りだった。
その当時、パンに付けるマーガリンが出回り始めた頃だったのだが、パン屋の主人がパンを買ってくれてる人に試供品でマーガリン入りのパンを配った。
少年は金をもっている人にパンを配るより、貧しそうな人に、山盛ってパンを配った。
パンを貰った人たちは少年に感謝した。
約二年の奉公だったが、少年は毎日が幸せで充実していた。
このまま、ここで過ごしたいと心から思っていた。
しかし、そんな思いは無残にも、かき消されるのであった。
夏祭りも終わり秋が近づき始めた時のことだった。
徳島から少年の実家の長兄が郡山のパン屋に来た。
久しぶりに会いに来てくれたとばかり、思っていた。
長男はパン屋の旦那さんに挨拶すると、少年を呼び出した。
兄は迎えに来たという。
久しぶりに徳島に帰れる。
少年は故郷にいる親や兄弟に会える事が嬉しかった。
一つ年上の旦那さんの息子と奥さんが駆けつけて来てくれた。
ボンが
「久夫、徳島に帰るんか?」
と言うと、
「ぼん、今まで大事にしてくれて、ありがとうございました。旦那さんや奥さんやボンの恩は絶対忘れません。」
と返した。
「わしが徳島に行ったら、アユの取り方教えろや。」
そう言うと、
奥さんの陰に隠れて声を詰まらせ泣いていた。
奥さんが、
「久夫ちゃん、今までありがとう。よう働いてくれたね。また、ボンに会いに来てやってな。」
と言うと、和紙に包んだお金をくれた。
感謝の言葉を何度も何回も頭を下げて少年は伝えた。
思い返すと、ここに来た当初は奥さんにあまり話しかけて貰えなかった。
丁稚奉公と久しくするのは、あまり例がなかったからだ。
久夫少年がここに来て一年が過ぎた時、売り上げの一部が紛失するという、事件が発生した。
大した額ではなかったそうだったが、会社の中に泥棒がいることに、奥さんがヒステリックにわめき出した。
勿論、誰が目撃した訳でもないが、疑いを掛けられる時はいつも弱者だ。
久夫少年が犯人にされるのに時間を要しなかった。
しかも少年は反論しなかった。
いや、出来なかったのである。
大人の奥さんが涙を流しながら声を荒げていた事にビックリしたからだ。
下働きの先輩たちは挙って少年に汚い言葉を浴びせた。
まだ、それらの輩はましだった。
優しい先輩の素振りだけして誰も見ていないところで、少年の背中や腕を捻くったり棒で強く突いたりした。
本当の根性悪だ。
偶然、奥さんがその行為を目にしたが、少年は卑屈にならなかった。
それどころか、大人と子供くらい差がある先輩達に機嫌を取りに行く姿を目にしたのだった。
盗まれたと騒がれたお金の詳細は、ご主人の置き忘れで、お金は茶封筒に入れられ、帳簿の間に挟んであった。
主人はそのことを従業員に告げると、久夫少年に疑いを掛けた自分を恥じた。
瞼にいっぱいの涙を溜めていた少年は、ずっと俯いていた。
まだあどけない子供である。
奥さんは自分の家の子供と少年を比較した時、あまりにも可哀想な扱いだったと気が付き、その時から、『坂本』から『久夫ちゃん』と名前で呼ぶようになった。
そんな奥さんの優しい変化を久夫少年は肌で感じていた。
いつしか、奥さんが喜ぶ事を探すまでになっていた。
この会社の優しい思い出は久夫少年の心に深く残る。
別れの時、奥さんは久夫少年が見えなくなるまで手を振り見送った。
「久夫、貰うたもん出せえ。お前がお金を持っとったら盗んだお金と思われるけんな。」
そう言うと和紙に包まれたお金だけ取ると、お金を包んでいた紙をポイっと捨てた。
急いで少年は奥さんから頂いたお金を包んでいた和紙を拾うと大事そうに畳みポケットに入れた。
「ひろしのあんにゃ、母やん元気なん?」
たわいもない質問をするが兄は返事をしなかった。
「ひろしのあんにゃ、わし帰っても行けるんかいな?
わし帰ったらパン屋しようか?
わし何でも出来るんぞい。」
ひろしは頷いたが、顔の表情は出さなかった。
長男だったひろしは妻と子を捨て、若い女のところに行ってしまった父親の代わりに残された九人の子供たちを養った。
兄、ひろしは足が不自由だった。
身体が大きなひろしは十八歳だったが、まだ十一歳の小さな弟の足の速さについて行けなかった。
駅に向かう道すがら何度も休憩を取った。
長男は足を擦りながら始めて口を開いた。
「久夫、お前は柿島には帰れん。今から、尼崎の飯場に連れていくけん、頑張って働けよ。」
飯場(はんば)とは土木作業員の宿舎である。
「ひろしのあんにゃ、ほれだったらわし西田のパン屋がええ。仕事も覚えたし、やっと慣れたのに。旦那さんも奥さんも大事にしてくれるし。」
長男は少し強面で久夫少年に言った。
「お前はあんがぁか、あんな安い銭で働いてどうするんな。今から行く飯場は高い銭で使うてくれるんぞい。ほなけん、久夫はいらんツベくそ言わんと黙っと付いて来い。」
と、吐いて捨てたように久夫に言った。
駅に着くともう汽車は来ていた。
久夫少年は慌てて汽車に飛び乗った。
長男は不自由だった足で、びっこを引きながら汽車に走り寄った。
しかし、汽車が動き出すとひろしの姿が見えなくなってしまった。
急いで満員の人を掻き分け、兄を探した。
兄は汽車に乗れなかった、逸れてしまったのだと分かるとハラハラしながら久夫は次の駅で飛び降りた。
次の汽車が到着する間、身体がブルブルと震えた。
手も悴んだようで冷たくなって力が入らない。
次の汽車を待つ時間がすごく長いように感じた。
それから数十分が経ち、やっとの思いで汽車が到着した。
急いで中を見渡したが兄の姿が見えなかった。
少年は瞼に涙を浮かべ、次の汽車の到着を待った。
でも、兄を姿を確認する事が出来なかった。
三度目の汽車がこの駅に到着すのに、一時間以上かかった。
少年はまだ子供。
親が恋しい十一歳の少年。
「母やん、母やん、」
嗚咽と共に声を上げ泣き出してしまった。
『どうしよう。このままでは、あかん。
取り敢えず、尼崎っていう駅まで行かな。』
そう決めて汽車に乗った。
知らない人に何度も尼崎駅を聞きながらやっとの思いでたどり着いた。
しかし、そこに長男ひろしの姿はなかった。
仕方がないので駅を降り、土手沿いを歩いた。
あふれ出た涙で頬がかゆくなった。
「腹減ったなぁ。」
久夫少年は土手に腰を掛けた。
沢山の藪蚊が久夫少年の躰に吸い寄って来たが薄れゆく意識の中で、パン屋の奥さんから貰った和紙を思い出した。
奥さんは和紙に文字を書いていた。
久夫少年が読めるように全部、片仮名で書かれていた。
『ヒサオチャンゲンキデネ。イママデアリガトウ。ヒサオチャンニアエテ、ボンモオバチャンモタノシカッタデス。マタ、アイニキテネ。アリガトウ。』
読むのに時間を要したが、奥さんのこの心遣いに久夫は涙した。
ハッと、いつも起きる時間に目を覚ました。
辺りはまだ、真っ暗だ。
『これからどうしよう。』
行く当てもない。
不安な気持ちで眠りに就いた。
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