第171話 葬送狂想曲

1950年1月2日午前8時23分(モスクワ標準時)

 

 その日はソヴィエト連邦にとって最悪の日であった。

 この日の未明、日本軍は弾道ロケット攻撃によって、ロシア軍の戦車工場のいくつかを壊滅に追い込んでいた。ソ連の防空システムは弾道弾を迎撃したが、音速で飛来する弾道弾を撃破することは出来なかった。

 無論、弾頭は通常弾頭であり反応弾ではなかったが、ソ連はそこを喜べる状況ではなかった。

  弾道ロケット攻撃の嚆矢こうしとなったのは、ソ連の反応弾開発計画『冥界の神プルートゥ』の中心であった秘密都市(西側では『NT-1』の暗号名で呼ばれていた)への飽和攻撃であった。この攻撃によりソ連はユーリ・ハリントンをはじめとした開発スタッフや研究データを喪失、計画を事実上の継続不能にまで追い込んでいた。

日本軍の弾道ロケット攻撃は散発的ではあったが、ソ連の戦争継続能力を的確に奪う損害を与え続けていた。

 ソ連は弾道ロケット迎撃システムの開発に着手していたが、未だに音速で飛来する弾道弾を撃ち落とすという技術的困難を解決出来ずにいた。


  ニキータ・フルシチョフがロケット攻撃の損害に関する報告を聞いたのは、この日クレムリンに登庁してすぐのことであった。

  彼はソビエト共産党中央委員会書記局に所属する、スターリンの側近の一人であった。

 あの大粛正を生き残っただけあり、政治的な嗅覚においてはソ連で一番優れた男と言えた。

 眼鏡の位置が気に入らないのか、指でつるをつかみながら上げ下げしているフルシチョフに、党職員が恐る恐る報告を続ける。 

「戦車工場はアメリカ軍の戦略爆撃を避けるために、新たな秘密都市に分散されたばかりであったはずだが?」

 昨日の徹夜がこたえているのか目をしばたたかせつつも、視線そのものは机の上の機密のスタンプが押された資料に注がれている。 

「はあ、そのはずなのですが。反革命分子による情報の漏えいが疑われ…」

「いや、それはないな。日本軍は軌道上の衛星から地上の様子を撮影する技術を持つという。その偵察写真をもとに、攻撃を行っているのだろうよ」

 いつの間にか入室していた男の顔を見て、党職員が背筋を伸ばして緊張した顔を見せる。ラブレンチー・ベリヤ、ソ連邦を恐怖で支配する秘密警察、内務人民委員部NKVD長官の顔を見れば、このクレムリンの中で働く誰もが緊張せざるを得ないというものだった。

「つまり、彼らがその気になればこのクレムリンを反応兵器で焼き払うことも可能という事かね」

フルシチョフの問いに、ベリヤはにこやかに答えた。

「まあ、そういうことになるだろうね。彼らの技術ならば反応弾頭を搭載することも可能だろう。それをしないのは、彼らが交渉するべき政府をつぶすことを恐れている、我々はそう考えている」

「つまり、我々の命は彼らの胸先三寸という訳か」

「あくまで推測ですがね」

「ところで、我らが敬愛すべき党書記長閣下はまだお休みかな」

 フルシチョフはベリヤに向けて、彼にしては珍しく持って回った言い方をしてみせる。

「それについては専門家の召集を待っているところでね」

ベリヤは意味ありげな笑みを浮かべたまま、空いていた椅子に腰かける。

「お待たせしました、ベリヤ長官」

 そう言って入室してきたのは、数人の白衣姿の医師らしき男たちだった。

「これは、同志フルシチョフ」

 医師団の中で一番の年かさの禿頭の男が、予定外の人物がいるといった顔で驚いている。

「いいのだよ、ウラジミール君。君は予定通りの報告をしたまえ」

「は、同志ベリヤ。それでは、同志書記長閣下の健康状態に関する報告をさせていただきます。同志スターリン書記長閣下の血圧は110-200。さらに、右半身麻痺の症状が見られております。同志閣下には高血圧症の既往症がありまして…おそらくは脳卒中の症状かと思われます」

「どういうことだ、私はそんなことは聞いていないぞ」

「はあ、同志ベリヤに固く口外を禁じられましたので…」

「国家指導者の健康状態に関する情報は機密事項ですからな」

 臆面も無く言ってのけるベリヤに、フルシチョフは内心の怒りを禁じ得なかった。

-もしやこの男、一服盛ったのではあるまいな。

 一瞬そんな考えが浮かんだが、確証もないのにうかつな事は言えないと内心へその疑惑をしまい込む。

「たしかに、ここ数日は戦争指導に関して、過度なストレスがかかっていたものとは思うが…」

 ここ数日は、日英米連合軍との戦争指導のため連日の会議が続いていた。

 パ・ド・カレー上陸作戦を阻止できなかったソ連赤軍は、西ヨーロッパ各地で敗走を続けていたからだ。会議では反撃の糸口をつかむための大戦略を練るため喧々諤々の議論が交わされ、つい長時間になりがちであった。

 最後にフルシチョフがスターリンと出会ったのは、夕食を兼ねた徹夜での会議の席上だった。

 明け方に終わったその会議のあと、書記長は寝室へ行き睡眠に入ったと思ったが。

「最初に同志書記長の病状を確認したのは誰かね」

「家政婦が、昨日の午後に。同志書記長はけっして起こしてはならないと厳命されておられましたので、発見が遅れたとか」

ウラジミールという医師はためらいがちにこたえる。

 「それにしても、なぜ昨日発見しておきながら…」

フルシチョフはなおも問い詰めようとしたが、おびえている医師の表情にすべてが面倒になった。

 おそらく、この男は何も知るまいという直感があった。

 それに、スターリンという男の性格を考えれば、無理からぬ事とも言える。

 あの男は毎夜同じような間取りの頑丈なつくりの寝室を複数用意させ、毎夜ごとに違う寝室を使っていた。また、その寝室は一度扉を施錠してしまえばスターリン以外は、警備責任者の持つマスターキーでしか開けることができない。

 怒りを買えばシベリア送りという事もあり得るだけに、たとえ重篤な病気であろうとおいそれと声をかけるのをためらうであろうことは想像できる。

 よほど時間が経たねば、声をかけにいくことすらしようとしないに違いない。

 猜疑心が強く自分以外の人間を信用しない孤独な独裁者、スターリンの習慣が招いた事態であった。

「…つまり、同志書記長閣下は昏睡状態であり、国家指導に支障を来す状態であると、そういうことなのだな」

 フルシチョフは数分間の沈黙を破り、ウラジミールに質問する。

 この場の誰もが承知していながら、言い出せなかった一言であった。

「は、確かにその通りであります。現在様々な治療を試みてはおりますが、非常に危険な状態であるのは間違いありません」

言いにくそうなウラジミールに代わって、若い男性医師がこたえる。

「分かった。君たちの報告は非常に有意義だった。それでは、閣下の治療に戻りたまえ」

 ベリヤはパンと手を叩くと、医師団に退出を促す。

 医師たちは誰もが安堵のため息を漏らすと、二人の党官僚ノーメンクラツーラに敬礼をして、部屋を走るように去って行く。

「まごうことなき、国家緊急事態だな。緊急の会議が必要だと思うがどのように思うかね、同志ベリヤ」

 -この古狐め、いずれ貴様の息の根を止めてやる。

 そんなことを思いながら、フルシチョフはベリヤにたずねる。

「まことに同感であります。同志フルシチョフ。同志書記長の回復を信じたいところではありますが、最悪の事態には備えねばなりませんな」

言葉とは裏腹に、回復なぞ微塵も信じていない顔でベリヤはこたえる。

 フルシチョフは内心のすべてを押し隠す笑顔を浮かべ、ベリヤと緊急の会議についての打ち合わせを始める。

-これでスターリンのはじめたこのくだらない戦争も手打ちだ。ソヴィエトを生き残らせるためなら、どんな妥協でもしてやるさ。 

 フルシチョフの見解によれば、この戦争はスターリンの猜疑心と臆病さが生み出した産物であった。米英と日本が手を組めば、東西から挟み撃ちになりかねない、そう危惧したからこその先制攻撃なのだと思っている。 

 元々、フルシチョフ自身はこの資本主義世界との戦争には否定的であった。短期間のうちに拡張されすぎた領土や衛星国を安定化させることに力を注ぎ、反応兵器が完成するのを待つべきだというのが持論だった。

 共産主義者たるもの、敵の力をこそ利用するべきで、資本主義国同志を戦わせるべきなのだ。そして、それは数年前の日米戦争までうまくいきかけていた。。

「砕氷船のテーゼ」こそ至高。自らが矢面に立つことなど、愚の骨頂だ。

 そうフルシチョフは心中で吐き捨てつつ、すでにスターリンを政治的死者とみなしていた。

 その遺志など考慮する価値を感じていなかった。

 唯物論者たるものかくあるべし、という風景ではあった。


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